「復讐権」という新たな権利を導入することで死刑制度を正当化しようとする人がいます。なかには「復讐権」は人間の自然権とすら主張する人も…
もちろん、誰でも独自の意見を持つことは非難されるべきことではありません。ただ、自分が何を主張しているかについて可能な限り論理的かつ明確に自覚している必要があるでしょう。しかし、「復讐権」云々という人びとの多くは残念ながら自らの主張を明確にしようとはしません。そこで、彼・彼女らの主張が実際は何を意味しているのかを代って検討し、その非論理性と迷妄さを明らかにしていこうと思います。
まず検討の出発点として、市民の権利が必ず持つ次の二つの性質を確認しておきましょう。
一つは、権利を実際に行使するかどうかは、権利の主体である市民の自由に任せられるということです。
例えば、沈没する タイタニック号で救命ボートの席を子供や女性に譲った市民は、人間の最も基本的な自然権である生存権の行使を自らの意思で放棄したのです。
二つは、政府や他の市民が権利の主体者に権利の行使や放棄を強制することはできないし、その意思によらず権利行使を代行することも許されないということです。
例えば、配偶者の不倫は離婚を求める権利の原因となりますが、離婚を必ず強制されるならそれは権利といえるでしょうか。
さて、仮に「復讐権」が市民の権利であり自然権ならなおさら、その行使についても市民の権利についての以上の二つの性質は貫かれなければなりません。
死刑制度か刑事裁判制度か
まず、「復讐権」が刑事裁判制度全体の根拠として主張されているのか、死刑制度の根拠として主張されているのか、検討しましょう。
前者とするならば、刑事裁判制度の発動は被害者の復讐権行使の意思に左右されることになります。被害者のいない犯罪例えば薬物犯罪や賭博罪などを処罰することは不可能になるでしょう。また、同じ犯罪を行っても被害者の恣意によって処罰されたりされなかったりすることは、法の前の平等原則を否定し、刑事裁判制度への信頼を破壊するものとなるのではないでしょうか。
しかし、復讐権が死刑制度のみの根拠とすれば、同じ肉親の命を奪われた被害者でも、死刑になる場合のみに復讐権が認められ、それ以外の場合にはまったく認められないという著しい不平等を生み出すことになります。さらに、複数の殺人の場合に限定されている現在の最高裁基準を前提にするなら、たまたま別に殺された市民がいたかどうかという偶然で、被害者の被害も加害者の加害の意志も変わらないのに復讐権が認められたり認められなかったりという不合理が生じてしまいます。
いずれの場合も、「復讐権」を持ち出すことは現在の刑事裁判を偶然と恣意にゆだねることになるのです。
誰のどのような復讐権か
次に検討しなければならないのは、権利の主体は誰で、どのような被害に対する復讐権なのかということです。二つの権利が考えられるでしょう。
一つは、殺された市民自身の自らの命を奪われたことについての復讐権です。
もう一つは、肉親を殺された市民の復讐権です。
後者の場合、例えば光市事件で復讐を叫ぶ男性は自分が殺されたのではなく妻と子供が殺されたのですから、「目には目を」の原則に従えば彼の復讐の内容は加害者を殺すことではなく加害者の妻と子供を殺すことでなければなりません。しかし、そんなことが許されるでしょうか。
結局、問題にできるのは殺された被害者の復讐権だけなのです。
死んだ者が権利を行使できるか
すでに冒頭で述べたように権利を行使するかどうかは権利を持つ者の自由ですから、その行使には権利者の行使の意志表示が必要です。しかしすでに死亡した本人が意思表示を行うことやそれを第三者が確認することはほとんど不可能でしょう。
この意思表示の問題はすでに死亡者の慰謝料求権の問題の中で検討されてきました。請求権も権利ですから死亡者が慰謝料を請求する意思の表示を必要とするからです。そこで当初は被害者が死亡時に「残念無念」と叫んだことを慰謝料請求の意思表示とみなす(昭和2年5月30日大審院判決)などの便法が考えられてきました。現在の最高裁の多数意見は特別の条件のない限り「請求する意思を表明…を必要とするものではない」というものですが、意思表示が必要という少数意見も併記されています。(昭和42年11月1日最高裁大法廷判決)
意思表示は必要ないとする多数意見もその根拠を「請求権そのものは、単純な金銭債権」という点においていますから、原告側により厳格な立証義務を課している刑事手続きで、より直接的な「復讐権」の行使を問題にする場合、この多数権を根拠に意思表示が必要ないとすることは困難でしょう。当然明確な意思表示が必要になります。
しかしそうなると、死亡前に「復讐を!」を被害者が叫べば死刑、即死か近くにその言葉を聞く者がいなければ死刑は許されないといった矛盾と不合理が横行することになります。
「復讐権」は相続できない
では、死亡した者の親族が「復讐権」を相続して、代わりに意思表示することは可能でしょうか。
ある人が何らかの被害を受けたことより生じる請求権(何かを要求することのできる権利)は一身専属である(その人のみに属する)ことを否定する法学者はいません。相続人が損害賠償を請求することができるのは、被害者の意思表示によって慰謝料請求権が貸した金と同じ単純な金銭債権である損害賠償請求権になるからなので、慰謝料請求権そのものが相続されるわけではありません。
当然、復讐権も一身専属で相続の対象とはなりません。復讐権は「自然権」というのだからなおさらです。つまり、死亡した者の親族などが「復讐権」を行使することはできないのです。
「復讐」は誰が決めるのか
そうした恣意と偶然、法律的矛盾をいっさい無視して親族の復讐権行使を認めるとしても、では例えば親族間の殺人の場合で殺人者の方が被害者より親族のウケが良かった場合どうなるでしょう。放蕩息子は殺され損になるのでしょうか。また、相続人間で意見が分かれた場合、多数決、3分の2、それとも全員一致で行使の有無を決めるのでしょうか。基準は頭数なのか、相続割合なのか、どちらでしょう。そうしたことは何一つ明確にされていません。被告人の命を奪う死刑制度がそんな曖昧なまま実行されていいのでしょうか。
このように一見もっともらしい「復讐権」も一歩踏み込んで検討すれば恣意と偶然にまかせた矛盾と誤謬でしかありません。自分が気に入らない者をともかく殺したいという歪んだ感情を、もっともらしい言葉をまぶしただけで叫んでいることの必然的結果でしょう。しかもそれを自ら行うのではなく、政治権力という強者の陰に隠れ政治権力に代ってしてもらおうという卑劣な心情がますます矛盾を拡大してしまうのです。
自分の愛する者を殺された市民が復讐したいと考えるのは当然です。だから復讐すればいい。慰謝料という金銭的復讐だけでは満足できなければ、それの改革を訴えるべきです。政治権力の衣の裾に隠れて代わりに復讐してくれることを哀願することはけっして解決にはなりません。