自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

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 朝鮮民主主義人民共和国が人工衛星の打ち上げ映像を発表した後も、その事実を無視し、排外主義と憎悪をあおる日本のマスコミの報道が続いています。
 特徴的なことは、主要なマスコミのすべてがこの打ち上げを「ミサイル発射」と表現し、あたかも日本と日本の市民に危険が及ぶ軍事行動だったかのような印象を振りまいていることです。インターネット上で具体的に見てみましょう。
朝日コム「ミサイル打ち上げ映像、北朝鮮が公開写真付き記事(20:43)」
YOMIURI ONLINE[ミサイル発射の瞬間…北朝鮮が映像公開写真付き (21:34)]
毎日JP「北朝鮮ミサイル:技術かなり成熟(21時57分)」
NIKKEI NET[北朝鮮ミサイル、打ち上げ時の映像公開(19:56)」
ーいずれも4月7日付
 こうしたマスコミの中に、日本のH2による人工衛星打ち上げを「ミサイル発射」と表現したものがあったでしょうか。
 例えば、YOMIURI ONLINEのニュースクリップでは、「H2ロケット」と表現しています。同じ人工衛星打ち上げのためでも、日本のものは「ロケット」朝鮮民主主義人民共和国のものは「ミサイル」と繰り返す。こうしたやり方は、あらかじめ先入観のついた用語、価値判断の含まれる用語を繰り返すことで市民を思考停止に陥れ、密かに特定の価値観を注入しようというペテン師や煽動政治家の手口です。
 事実をもとに自らの主張や意見の正しさを、市民の理性に訴えて納得させようというジャーナリズム精神はすでに失われてしまったようです。私たちは、偏った言葉を操って私たちに非理性的な憎悪と偏見を注ぎ込もうとするこうしたイエロー・ジャーナリズムに対する警戒心を強めていく必要があるでしょう。

 朝鮮民主主義人民共和国は本日(4月5日)午前11時半頃、人工衛星を打ち上げました。
 日本政府と自衛隊は、日本を含め多くの国でも日常的に行っている人工衛星打ち上げをことさら「ミサイル発射」と軍事行動のように描き上げ、「撃墜する」などと騒ぎ立てて、マスコミを動員して国内の戦時動員体制作りに利用しました。
 当然、人工衛星打ち上げで日本にいささかの被害が生じるわけではありませんし、事故と偶然が重なっても日本国内に被害が生じる可能性がほとんどないことは最初から明らかでした。仮に何らかの落下物があったとしてもそれを「撃墜」などすれば被害を拡大することも明白です。
 ところがマスコミはそうしたあたりまえの事実を確認しようともせず、政府と自衛隊の危機キャンペーンにのっかって一方的ででたらめな「危険」報道を展開し世論操作に励んだのです。
 残ったのは、政府が危機をあおれば自衛隊が市民の生活領域に踏み込み、市民の目の前で軍事基地=ミサイル発射台を設置しようと反対の声が上がらないという事実であり、マスコミは政府の一方的な「情報」を検証もせず垂れ流すだけの広報機関に成り下がったという事実です。そうした日本の戦争に向けた既成事実が作られてしまったということをしっかり自覚しておく必要があります。次のステップは基地建設のための強制的土地収用・強制疎開であり、大本営発表の復活でしょう。
 政府・マスコミの危機キャンペーン、パニック政治に抵抗する理性的な批判を市民がこれまで以上に積み重ねていくことが必要なようです。

 「復讐権」という新たな権利を導入することで死刑制度を正当化しようとする人がいます。なかには「復讐権」は人間の自然権とすら主張する人も…
 もちろん、誰でも独自の意見を持つことは非難されるべきことではありません。ただ、自分が何を主張しているかについて可能な限り論理的かつ明確に自覚している必要があるでしょう。しかし、「復讐権」云々という人びとの多くは残念ながら自らの主張を明確にしようとはしません。そこで、彼・彼女らの主張が実際は何を意味しているのかを代って検討し、その非論理性と迷妄さを明らかにしていこうと思います。
 まず検討の出発点として、市民の権利が必ず持つ次の二つの性質を確認しておきましょう。
 一つは、権利を実際に行使するかどうかは、権利の主体である市民の自由に任せられるということです。
 例えば、沈没する タイタニック号で救命ボートの席を子供や女性に譲った市民は、人間の最も基本的な自然権である生存権の行使を自らの意思で放棄したのです。
 二つは、政府や他の市民が権利の主体者に権利の行使や放棄を強制することはできないし、その意思によらず権利行使を代行することも許されないということです。
 例えば、配偶者の不倫は離婚を求める権利の原因となりますが、離婚を必ず強制されるならそれは権利といえるでしょうか。
 さて、仮に「復讐権」が市民の権利であり自然権ならなおさら、その行使についても市民の権利についての以上の二つの性質は貫かれなければなりません。

死刑制度か刑事裁判制度か

 まず、「復讐権」が刑事裁判制度全体の根拠として主張されているのか、死刑制度の根拠として主張されているのか、検討しましょう。
 前者とするならば、刑事裁判制度の発動は被害者の復讐権行使の意思に左右されることになります。被害者のいない犯罪例えば薬物犯罪や賭博罪などを処罰することは不可能になるでしょう。また、同じ犯罪を行っても被害者の恣意によって処罰されたりされなかったりすることは、法の前の平等原則を否定し、刑事裁判制度への信頼を破壊するものとなるのではないでしょうか。
 しかし、復讐権が死刑制度のみの根拠とすれば、同じ肉親の命を奪われた被害者でも、死刑になる場合のみに復讐権が認められ、それ以外の場合にはまったく認められないという著しい不平等を生み出すことになります。さらに、複数の殺人の場合に限定されている現在の最高裁基準を前提にするなら、たまたま別に殺された市民がいたかどうかという偶然で、被害者の被害も加害者の加害の意志も変わらないのに復讐権が認められたり認められなかったりという不合理が生じてしまいます。
 いずれの場合も、「復讐権」を持ち出すことは現在の刑事裁判を偶然と恣意にゆだねることになるのです。

誰のどのような復讐権か

 次に検討しなければならないのは、権利の主体は誰で、どのような被害に対する復讐権なのかということです。二つの権利が考えられるでしょう。
 一つは、殺された市民自身の自らの命を奪われたことについての復讐権です。
 もう一つは、肉親を殺された市民の復讐権です。
 後者の場合、例えば光市事件で復讐を叫ぶ男性は自分が殺されたのではなく妻と子供が殺されたのですから、「目には目を」の原則に従えば彼の復讐の内容は加害者を殺すことではなく加害者の妻と子供を殺すことでなければなりません。しかし、そんなことが許されるでしょうか。
 結局、問題にできるのは殺された被害者の復讐権だけなのです。

死んだ者が権利を行使できるか

 すでに冒頭で述べたように権利を行使するかどうかは権利を持つ者の自由ですから、その行使には権利者の行使の意志表示が必要です。しかしすでに死亡した本人が意思表示を行うことやそれを第三者が確認することはほとんど不可能でしょう。
 この意思表示の問題はすでに死亡者の慰謝料求権の問題の中で検討されてきました。請求権も権利ですから死亡者が慰謝料を請求する意思の表示を必要とするからです。そこで当初は被害者が死亡時に「残念無念」と叫んだことを慰謝料請求の意思表示とみなす(昭和2年5月30日大審院判決)などの便法が考えられてきました。現在の最高裁の多数意見は特別の条件のない限り「請求する意思を表明…を必要とするものではない」というものですが、意思表示が必要という少数意見も併記されています。(昭和42年11月1日最高裁大法廷判決)
 意思表示は必要ないとする多数意見もその根拠を「請求権そのものは、単純な金銭債権」という点においていますから、原告側により厳格な立証義務を課している刑事手続きで、より直接的な「復讐権」の行使を問題にする場合、この多数権を根拠に意思表示が必要ないとすることは困難でしょう。当然明確な意思表示が必要になります。
 しかしそうなると、死亡前に「復讐を!」を被害者が叫べば死刑、即死か近くにその言葉を聞く者がいなければ死刑は許されないといった矛盾と不合理が横行することになります。

「復讐権」は相続できない

 では、死亡した者の親族が「復讐権」を相続して、代わりに意思表示することは可能でしょうか。
 ある人が何らかの被害を受けたことより生じる請求権(何かを要求することのできる権利)は一身専属である(その人のみに属する)ことを否定する法学者はいません。相続人が損害賠償を請求することができるのは、被害者の意思表示によって慰謝料請求権が貸した金と同じ単純な金銭債権である損害賠償請求権になるからなので、慰謝料請求権そのものが相続されるわけではありません。
 当然、復讐権も一身専属で相続の対象とはなりません。復讐権は「自然権」というのだからなおさらです。つまり、死亡した者の親族などが「復讐権」を行使することはできないのです。

「復讐」は誰が決めるのか

 そうした恣意と偶然、法律的矛盾をいっさい無視して親族の復讐権行使を認めるとしても、では例えば親族間の殺人の場合で殺人者の方が被害者より親族のウケが良かった場合どうなるでしょう。放蕩息子は殺され損になるのでしょうか。また、相続人間で意見が分かれた場合、多数決、3分の2、それとも全員一致で行使の有無を決めるのでしょうか。基準は頭数なのか、相続割合なのか、どちらでしょう。そうしたことは何一つ明確にされていません。被告人の命を奪う死刑制度がそんな曖昧なまま実行されていいのでしょうか。
 このように一見もっともらしい「復讐権」も一歩踏み込んで検討すれば恣意と偶然にまかせた矛盾と誤謬でしかありません。自分が気に入らない者をともかく殺したいという歪んだ感情を、もっともらしい言葉をまぶしただけで叫んでいることの必然的結果でしょう。しかもそれを自ら行うのではなく、政治権力という強者の陰に隠れ政治権力に代ってしてもらおうという卑劣な心情がますます矛盾を拡大してしまうのです。
 自分の愛する者を殺された市民が復讐したいと考えるのは当然です。だから復讐すればいい。慰謝料という金銭的復讐だけでは満足できなければ、それの改革を訴えるべきです。政治権力の衣の裾に隠れて代わりに復讐してくれることを哀願することはけっして解決にはなりません。

 朝鮮民主主義人民共和国が人工衛星打ち上げのためと説明して発射しようとしているロケットに対し、日本政府と自衛隊は迎撃すると息巻いています。仮に日本政府は主張するようなミサイル発射実験だとしても、自国を目標にしたわけでもないものを撃ち落とすことを正当化することはできません。そこで最近、日本政府はロケットが事故で自国に落ちてきた時は……などと言い訳し始めています。
 ところで、第2次大戦時に東京などに落とされた焼夷弾は、空中で数十発の子弾に分解して降り注ぎました。また、現在不発弾による被害が問題になっているクラスター爆弾も数百の小爆弾に分解します。なぜわざわざそうするのでしょうか、もちろん多くの小爆弾に分解した方がより広い面積に被害を与えることができるからです。
 コースをそれて日本の上に落ちてこようとする飛翔体を自衛隊がPACー3で撃墜するといっても、飛翔体を消滅させられるわけではありません。PAC−3ミサイル本体や放出するペレットで、飛翔体を破壊し、多くの破片に分解することができるだけです。いわば、わざわざ日本が落ちてくる物体をクラスター化するようなものでしょう。被害範囲を数倍、数十倍にしてしまうだけです。
 撃墜が意味あるのは、周辺を犠牲にすることによって目標とされた軍事基地への被害を低減するとか、核兵器のようなそのまま爆発させると大きな被害を生じさせる爆弾を不発化させて被害を低減させる場合だけなのです。今回、打ち上げられるのが共和国の主張するとおり人工衛星であっても、日本政府の主張するようなミサイル実験であっても、弾頭にわざわざ本物の爆発物を搭載するとは考えられません。したがって、撃墜に積極的な意味はなく、自衛隊が撃墜などすれば被害範囲を数倍化、数十倍化させてしまうことは、政府も自衛隊もよくわかっているはずです。
 では、なぜマスコミも巻き込んで撃墜すると騒ぎまわるのでしょうか。頭の上からミサイルが降ってくるなどという虚構を騒ぎ立てることによって市民を非理性的なパニック状態に陥れ、自衛隊と戦争に対する市民の批判と抵抗を解体することに狙いがあるように感じます。
 警察官僚は「安全・安心」などというスローガンのもと、凶悪事件の激増という虚構によって市民の治安パニックをあおり、警察による抑圧と人権侵害に対する市民の批判と抵抗を解体し、厳罰化と監視社会を拡大してきました。その経験に学んだ防衛省官僚と軍人達が、今度は軍事分野においても脅威をねつ造しあおり立てることで一挙に政治と社会の軍事化を進めようとしているのではないでしょうか。
 そして、抵抗精神と批判能力を失って久しいマスコミがそのキャンペーンに乗っかり、あおり立てることで、現在の異様な状況が生み出されているのです。
 私たちは、そうしたパニック政治に巻き込まれるのではなく、一歩立ち止まって理性的な判断とパニック政治への批判を生み出していく必要があるように思います。

 死刑制度をめぐって、刑事裁判制度の存在理由やその正当性を個人の「復讐」から説明する人は多いようです。そうした人びとがしばしば取り上げるのが「目には目を」という「基準」です。死刑制度の正当性を主張する人びとはまさに「人を殺したのだから殺されてもしかたがない」という主張の根拠として取り上げます。

「目には目を」は民事裁判制度の原則

 周知のようにこの言葉は現存する世界最古(正確には2番目)の法典であるハンブラミ法典の記述に由来します。そしてこれを刑事裁判制度の歴史的・本質的原則であるかのように理解する人は、法学者の中にも存在します。
 例えば人がB人を殺した場合、その行為には「仲間を殺してはならない」というその人の属する共同体の掟(現代の法律)を侵害したという性格と、その結果被害者に「生命を失う」という不利益を与えたという性格があります。前者の側面は現代では刑事裁判制度の対象であり、後者は民事裁判制度の対象とされています。
 ではこの「目には目を」が刑事裁判制度の原則という理解は正しいでしょうか。
 例えば、私がある人から100万円盗んだとします。この原則に従えば「100万円を盗んだのだから私も100万円盗まれるべきだ」、言い換えるなら「100万円の罰金」が刑罰のすべてであるべきだということになります。経済犯罪に罰金刑以外の自由刑などを科すことは不当になります。私がすでに100万円以上もっていて私の窃盗が判明する確率が50%以下ならこれはかなり有利な経済活動になりはしないでしょうか。100万円を10回盗んで4回罰金を払えば収入600万円、支出(罰金)400万円で差し引き200万円の純益となります。
 あるいは聖書に不倫をして石を投げられる女性に話がでてきますが、妻に不倫された夫が自分も不倫する権利以上のものを求めるのは「目には目を」の原則違反になるのではないでしょうか。
 「目には目を」を刑事裁判制度の原則と主張することは、このような不合理を主張することです。もちろん、ハンブラミ法典の時代でもそんなことが実行されていいたわけではありません。
 ハンブラミ法典の時代、社会はさまざまな血族・氏族によって重層的に構成される社会でした。そして、国王のもとに持ち込まれるのは、国家そのものに対する反逆か、血族・氏族間のトラブル・利害対立でした。血族・氏族内のトラブルはその長に裁判権がありましたから。
 前者であればあらかじめ処罰の基準を公表する必要はありません。血族・氏族相互間の利害対立の解決基準だからこそ、特定の血族・氏族を不当に優遇しない、平等に扱っているということを示すために、あらかじめ基準を公表する必要があったのです。
 Aの血族のメンバーがその血族の羊を殺してしまった場合、その者にどのような罰を与えるかは国王の知ったことではありません。しかし、別のBという血族のメンバーが殺した場合、Aの長にBのメンバーに対する裁判権はありませんから国王に訴えでることになります。そしてその場合“AがBに要求できるのは羊1頭殺されたのなら羊1頭(またはその価格)の引き渡しのみである”、これが「目には目を」の意味です。AがCに代ってもBがDに代っても平等に同じ基準が適用される、そのことを示す必要があったのです。
 そしてメンバー間のトラブル解決は民事裁判制度の領域です。つまり、「目には目を」とは日本でも行われている損害に見合った賠償の原則であって、アメリカのような懲罰的賠償(被害額の3倍の賠償請求を認める)は採用しないということなのです。刑事裁判制度とは関係ありません。

刑事裁判制度は「復讐」の代わりではない

 「目には目を」を刑事裁判制度の原則であるかのように主張する背景には、刑事裁判制度について、“国家は個人の復讐を禁じ、その代わりに刑事裁判制度を作った”という誤解や意図的ねつ造があります。
 すでに前説で明らかにしたように、刑事裁判制度は共同体(国家)とそのメンバーとの間の関係を扱います。米国の裁判で原告○○州などとされるのはそのためです。民事裁判ではメンバー間の関係が問題になります。「目には目を」は国家のメンバーである各血族(現代なら各個人)間のトラブル解決、言い換えれば復讐の原則でした。そして、現在でもその原則が民事裁判制度の原則として貫かれているということは、民事裁判制度こそ現代の復讐の手段として存在しているということを意味します。
 逆の言い方をすれば現代でも、ある個人が別の個人から不当な被害を受けた場合、それに対して復讐することは禁じられていません。ただ、それを恣意的に実行することやその手段として相手に主要に金銭以外のものを要求することが禁止されているのです。もちろんそれが正しいか間違っているか、十分か不十分かという議論の余地はあります。しかしそれは民事裁判制度の問題で刑事裁判制度の問題ではありません。

共同体の特権的地位を要求する被害者運動

 一部の犯罪被害者運動はこの自らに認められた復讐権の行使・民事裁判制度を意図的に無視します。復讐権の行使に対するさまざまな制限に不満があるなら民事裁判制度の改善を求めるべきなのに刑事裁判制度を問題にします。なぜなのでしょうか。
 共同体(国家)にとって復讐の主体であろうと対象であろうと同じ共同体メンバー(市民・国民)であることにかわりありませんからその扱いは平等でなければなりません。だから復讐権も含めてあらゆる権利の行使や実現はそれぞれの共同体メンバー(市民・国民)の主体的行為によるしかありません。
 羊を殺されたと主張するAの血族はその事実を自らの努力によって国王に証明しなければならないのです。国王がそうした証明も求めず、一方的にAの血族の言い分を認めてBの血族に羊の引き渡しを命令すれば、それはAに対する不当な優遇といわなければならないでしょう。一部の犯罪被害者運動が民事裁判や復讐権に触れない背景には、まさにそうした不当な優遇、国家が別の市民に対して自らの復讐権を代行してくれるという特権的地位を求めているからなのです。
 もちろん、それをそのまま露骨に主張すれば不当性は明らかです。だから、彼・彼女らは復讐の対象となる市民を共同体メンバーとは認めないこと、共同体から排除することを求めます。
 共同体(国家)がその権利・利益を守るのはその共同体のメンバー(市民・国民)だけです。だから、共同体メンバーとそれ以外の者との対立では共同体は無条件に自らのメンバーの味方です。羊を殺されたAの長は無条件にAの利害を主張をして国王に訴えでるでしょう。逆に国王が被害立証を求めるのはAもBも同じ国家のメンバーだからです。一部の被害者運動が狙っているのは、Bを国家から排除することによって国王をAの長の位置、つまり無条件の味方の位置に引き下げることなのです。

社会の分裂と戦争状態を生み出す被害者参加制度

 確かにそうすれば犯罪被害者の社会的地位は上昇し、特権的存在となるでしょう。しかし、それはAとBの上にたつ調停者としての国王という存在をなくしてしまうことになります。生まれるのはAとBとのむき出しの対立であり、力と力のみがものを言う戦争状態です。
 「国家は犯罪被害者の無条件の味方となれ」という一部の犯罪被害者の要求が実現すれば、被疑者・被告人だけでなく将来的にそうなるかもしれないあらゆる市民は、国家を「自らの権利を無条件に踏みにじる敵」とみなすしかありません。犯罪被害者参加制度など一部の犯罪被害者運動がめざし生み出すのはそうした社会の分裂と戦争状態なのです。
 そのメンバーの生存を保障する共同体(国家)の絶対的義務を否定する死刑制度の背景に存在するのも、そうした「敵の殲滅」思想であり、強い者を正義とし、強い者に弱い者を殺す権利を認める戦争の論理なのです。
 そして現実にそうした状態が生まれようとしています。マスコミの犯罪報道に示される恐怖と敵意は、かつての戦争下の鬼畜米英報道を思い出させます。

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