自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

爪とぎ板

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 報道によれば、07年8月にあった女性一人が殺された事件で、名古屋地裁の近藤宏子裁判長は本日(2009年3月18日)、実行したとされた3人の被告人のうち2人の殺害を命じました。より正確に言うと、検察官(行政権)が3人の殺害許可を求めたのに対して、うち2人の殺害を許可したということになります。直接実行するのは行政権に属する法務省ですから。
 日本は「するめ」を「あたりめ」、「梨」を「ありの実」と言い換える言霊の国ですから殺害を「死刑」と言い換えますが、言葉をどう飾ろうと人の命を奪う殺人に変わりありません。
 もちろん被告人の女性一人の殺害は非難されるべき犯罪行為ですが、近藤裁判長の2人の殺害(許可)は正義とされます。
どこが違うのでしょうか。3人の被告人はなんの背景ももたない一市民として自らの利益のために殺害行為を行ったのに対し、近藤裁判長の背後には国家権力が存在し、国家の利益のために殺害するということです。
 「民主主義」とか「主権在民」とか言葉は立派ですが、相変わらず権力を握った者が殺したい、殺す必要があると考えれば市民が殺される構造は、そうした言葉がなかった時代と変わりません。
 「一人を殺せば犯罪だが(戦争で)百人殺せば英雄だ」と言った人がいたようですが、殺した数ではありません。国家の名で殺せば2人でも正義なのです。こうした国家の意志の前には市民の生命など価値はないようです。

nakayamagoroさんからコメントが寄せられたのですが、長くなるので別の記事とします。
http://blogs.yahoo.co.jp/felis_silvestris_catus/58164653.html

刑事裁判の前近代的腐敗を前提とした被害者参加制度

 刑事裁判に犯罪被害者が参加するシステムとしては「付帯私訴」があります。これは同じ事件で刑事責任と民事責任(賠償などです)が問題になった場合に同じ手続きの中で両方を解決しようとするもので、フランスなどでも行われています。刑事手続きで有罪判決が出た後、それに続いて有罪判決を前提に民事手続きに移り損害賠償額も決めるという手続きです。ただ、通常は刑事裁判での立証の方が民事裁判での立証より厳しいので必ずしも被害者に有利とは限りませんし、無罪判決が出るなど場合によっては不当な訴えを行ったとして被害者が被告人への損害賠償を課せられるケースもあります。
 また、被害者が証人として証言すればその発言には一定の証拠能力が認められますが、当事者として参加すればその発言の真実性を立証する責任が被害者の側に生じます。例えば「100万円盗まれた」と証人として証言すれば一応100万円盗まれたのは本当だろうとなりますが、当事者として訴えるなら本当に盗まれたのなら証明してみろということになります。
 だから、刑事裁判に参加するより民事裁判を訴えた方が本当は楽なはずなのです。なのになぜ犯罪被害者が刑事裁判に参加したがるのか。この点は疑問だったのですが、以前機会があり明日の会の岡村代表に直接聞いてわかりました。岡村代表は、「警察に逮捕された者が犯人だ。無罪推定なんか認めない。99%を超える有罪率なんだから」と答えてくれました。確かに、政府が一歩的に被告人を非難し、断罪するのが刑事裁判なら、その非難に直接の被害者も参加したいというのも当然でしょう。
 つまり、犯罪被害者参加制度が被害者のためであるかのように見える背景には、「無罪推定」を否定し、捜査機関の判断を追認して有罪判決を垂れ流す現行の刑事裁判の腐敗があります。そしてそれを維持するために、犯罪被害者を利用しようとする政府・検察とそれと癒着した官僚裁判官の思惑があるのです。

被害者の救済を遅らせる参加制度

 犯罪被害者の人権を守る活動としては、発生直後の精神的・肉体的サポート、その後の財政的支援あるいは有罪確定後の受刑囚による謝罪・交流等があります。後者に興味があるのでしたら「修復的司法」でググって見てください。
 確かにこうした側面は日本の刑事司法システムで最も遅れているテーマです。だから犯罪被害者が、「被告人の人権は守られているのに、被害者の人権は…」と言う気持ちはわかります。でも、被害者参加制度は、本当に必要な国家によるサポートを遅らせる原因になりかねません。
 本当に犯罪被害者の人権を守るシステムを作ろうとするなら、政府の怠慢を弾劾し政府の直接行動を求めなければなりません。でも政府は強大ですからそれを批判するより、すでに被告席に立たされている市民を非難した方が楽という側面もあります。
 楽な道を選択している限り、本当の解決は得られません。政府との対決も辞さず、要求するものは要求していくことが、真の意味で犯罪被害者の人権を守っていく道ではないでしょうか。

 報道によれば今日(2009年1月23日)、交通事故で被害者を死亡させたとして訴追された被告人の公判などで、被害者の親族が公判に参加し、被告人に質問しました。
 被告人の発言は、被告人が有罪であることを前提に反省の有無を追及したもので、職業裁判官もそうした発言を容認したことで、有罪判決を受けるまでは被告人は無罪と推定されるという「無罪推定の原則」は公的に否定されました。
 また、マスコミの報道も「被害者が加害者に質問」などと被告人=加害者と決めつけています。たとえ、被告人が罪を認めていても、有罪判決が確定するまでは無罪というのが無罪推定の原則ですから,刑事裁判に加害者という立場の存在は存在しないのです。
 誰が犯人か、刑事責任があるかは裁判所ではなく警察・検察(行政権力)が決めるという日本の刑事手続の前近代的性格はますます強くなっています。裁判官の独立とは、検察など行政権力からの独立・自立ではなく、主権者である市民からの独立・みずからの誤りに責任を取らないことと理解している職業裁判官が刑事裁判を行っている限り、警察・検察への追従と捜査の追認にすぎない日本の刑事裁判の現状を改善し、刑事手続に人権原則を導入することは不可能に近いでしょう。

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 本ブログの二重の危険からの自由は国境に制限されない人権原則です(1)同(2)について、AMLを通じて前田朗先生から丁寧な回答が寄せられました。
http://list.jca.apc.org/public/aml/2008-October/021265.html
 しかしその内容にはやはり問題があります。

八つ当たりは問題解明にも再発防止にも役立たない

 第一に、前田先生は弁護士が三浦さんに「アメリカの司法権の及ぶ場所に絶対的に行ってはいけない」と忠告しなかったと問題にしています。
 危険な場所で強盗にあった友人に対して、なぜ止めなかったと周りを責めたくなる気持ちは私も同感ですが、それと強盗を正当化することは別です。人の八つ当たりの背景には、強盗を非難してもしょうがないという無力感があります。つまり、この主張の背後には、「カルフォルニア州政府の逮捕を非難してもしょうがない」という思想的な屈服があるのです。
 でも、相手が認めなくても不正義を不正義と弾劾することは、三浦さんを守り、三浦さんが命を奪われた現在では新たな被害者を出さないために必要なことです。
 なお、サイパン政府はカルフォルニア州政府ではありませんから、三浦さんは州政府の司法権の及ぶ場所に行っていません。サイパンがダメなら米国と犯罪人引き渡し条約を結んでいる50を超える国も同様でしょう。州政府が連邦政府を通じて韓国に滞在中の三浦さんの引き渡しを求め、それが実現したら、韓国に行くのを止めなかった弁護士を非難しますか。
 今回はたまたま日本の裁判ですから外国に行かなければ良いという主張も可能です。しかし、三浦さんが米国で裁判にかけられた可能性もあったのです。そうした場合、「日本に帰国しなければ良い」「日本で再逮捕されたのは帰国を止めなかった弁護士が悪い」と主張されるのでしょうか。
 「なんの落ち度もない」三浦さんがたまたま事件の発生場所が外国であったというだけで国外に出ることを禁止されるのを理不尽と感じるか、社会的に妥当と考えるかという問題なのです。
 しかし前田先生はそのようには問題を立てません。先生が問題にしているのは、結局州政府の訴追する権利であって、三浦さん個人の訴追されない権利ではありません。市民を権利の主体としてではなく、国家の権利行使の客体としかみないから、無罪判決を受けた市民が行動の自由を侵害されることに疑問を感じず、そうした自由を放棄するようすすめなかったと弁護士を非難してしまうのです。

人権は国家から与えられる恩恵ではない

 第二に、先生は「国際人権規約は国内原則を明示している」として、人権規約の文章を根拠に「二重の危険の禁止」は他国の判決には適用できない根拠としています。
 まず、こうした条約や憲法を根拠に人権の範囲を論じる論理も、人権を条約や憲法によって与えられた恩恵ととらえるものであり、人権の主体としての市民という近代市民社会の根本原理を否定するものです。また、フランス大革命に始まる市民革命が人権を確立し、国家・政府に強制してきたという歴史的事実を無視するものです。
 あらゆる国家は、奴隷や農奴、臣民などどのような名前で呼ばれようと、その国家共同体の成員に、国家が認めた範囲内ではその「権利」を尊重してきました。その範囲内でしか権利が主張されるべきでないとするなら、それは人権=市民の権利=国家への強制力ではありません。
 つぎに、条約や憲法の文章から人権を論じる論理は、ではなぜ憲法にそうした規定が設けられたのか、そうした条約が締結されたのか説明しません。ある時突然、国家という得体のしれない存在が、気まぐれに市民に「二重の危険からの自由」という恩恵を与えようと思いつき、憲法や条約を結んだ、先生はこんなふうに考えるのでしょうか。
 さらに、前田先生は自由権規約の文章を引用して、規約が国内判決を二重の危険の対象としていること、つまり「国内原則」が他国で出された判決を「二重の危険の禁止」の対象から外す根拠になるかのように主張されています。先生が前半におっしゃっていることを受け入れたとしても、単純な論理の問題として国内の判決を対象とすることが自動的に他国での判決を排除する根拠となるでしょうか。
 この論理を受け入れるなら、日本国憲法11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」は、日本国民以外、例えば在日外国人の人権を否定する条文になるでしょう。反対解釈が常に真であるわけではありません。
 規約の文章から言えることは、せいぜい外国判決を対象とするともしないとも決められないというだけです。
 そして私は、規約の文章からだけでなく、人権の本質的性格、それが現実化してきた歴史的経緯、その中で規約が制定されたという現実をもとに、外国判決の排除は規約に違反すると述べているのです。

ある結論を正当化/否定する法的根拠・論理は多数ある

 前田先生は、自由権規約に「『それぞれの国』と表記」があることを根拠に、他国での判決が二重の危険の対象にならないことを主張されています。
 こうした多くの法律家が好む「条文にこういう単語があるからこうだ」という議論のしかたは、根拠となる条文をめぐって水掛け論になりかねず、また文章の解釈権の問題から結局国家・政府の行動の擁護になりがちです。
 法学は、誰でも認識できる共通の前提事実から一定の結論を導き出すという自然科学や経済学などの論理構造をとりません。一定の結論/立場をまず前提にそれを正当化する根拠や論理を探すという、神学と同様の論理で動きます。キリストが多数決で神とされた後にそれを正当化する「三位一体」の論理がつくられたように、ある政府/個人の行為が妥当/不当と前提された後で、それを正当化する条約や法律、判例と論理が探されるのです。それは、あらかじめ利害や立場が対立している主体同士の社会的調整を目的とする法学の性格上しかたのないことですが、法律世界にどっぷりと浸かっている法学者であればあるほどそうした論理を忘れ、法律を物神化して条文などが結論を引き出す出発点になると考えてしまいます。
 例えば、前田先生はなぜか言及していませんが、私は規約とならんで日本やカルフォルニア州の憲法も取り上げています。重要なので引用します。
日本国憲法第39条後段
何人も…同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない
カルフォルニア州憲法ARTICLE 1,SEC. 15後段
Persons may not twice be put in jeopardy for the same offense, be compelled in a criminal cause to be a witness against themselves, or be deprived of life, liberty, or property without due process of law.
 「いずれにも『日本国』『カルフォルニア州』との表記はないから二重の危険の禁止は他国での判決にも及ぶ」という議論も、前田先生の論理の延長線上で可能です。
 前田先生は「国際法の法源」としてなんの疑問もなく「慣習」「文明国の認めた」「もっとも優秀な国際法学者」云々を取り上げます。では何が慣習であり、文明国、優秀な学者と決めるのは誰でしょう。それは前田先生にとっては強制力を持つ国家であり政府のようです。法学的ジャーゴンを取り去れば「国家がカラスは白いと言ったら市民は受け入れるしかない」というものでしかありません。日本の法曹界が最高裁などの裁判批判を行う能力も意志も失っている原因にはこうした思想の蔓延があると私は考えています。

人権を守って国家と闘うか、国家の権力に屈するか

 前田先生と私の意見の違いは、条約や憲法、法律の正しい解釈をめぐってではありません。市民の絶対的権利としての人権から出発するか、国家の絶対的権利としての統治権から出発するかの違いなのです。
 三浦さんの再逮捕を州政府の権力犯罪と弾劾して闘うか、州政府の権力行使には逆らえないと再逮捕に屈するかの違いです。
 前田先生は国家の統治権の絶対性を前提にしているようです。国家には誰でも、いつでも自由に訴追することができる。ただし、憲法や条約、法律の明文で禁止されている場合は例外的に訴追することはできない。そこで、
1) 規約や憲法で他国での判決を「二重の危険の禁止」の対象に含めると明記されていない以上、他国での判決は対象外
2) あるいは、他国での判決を対象から排除することが制限されていない以上、排除するかどうかは国家・政府の自由である。そして、カルフォルニア州政府は法律を変更して排除することを決めたのだから、他国での判決は対象外である
 国内原則云々というのは、結局それだけです。
 私は、人権の絶対性からあらゆる市民は国家から訴追させられない権利を持つ。ただし、憲法などで明文で容認されている場合には例外的に訴追されなければならない、と考えます。つまり、
1) 市民は「二重の危険からの自由」という人権を持つ
2) そこで各国憲法などは、それぞれの国家が市民のその自由を侵害することを禁止している、すなわち「二重の危険の禁止」である
3) 憲法などが国家に他国での判決を「二重の危険の禁止」の対象から外すことを明文で容認していない以上、他国での判決を排除することは許されない
4) したがって、州政府が法律でそれに反する意思を表明したとしても、それは侵害を正当化しない
 前田先生が「二重の危険の禁止」を語りながら、「二重の危険からの自由」というその人権的表現に言及なさらないのも、こうした対立であることを示す事実でしょう。

永遠の現状肯定と屈服のすすめ

 日本の多くの法律家の歪みは、法律とくに憲法を市民の意思によって国家を規制するものとはとらえず、国家・政府の意志によって市民を制限するものと考えていることです。
 400年にわたって武装を奪われてきた日本の市民とその社会は、民主主義とは市民が国家に対して主要な権力を持つこと、強制力を持つことを見失っています。だから人権も、市民が国家に強制するものではなく、国家から与えられ、したがって恣意的に剥奪されるものと理解してしまいます。
 前田先生は、三浦さんのケースに「二重の危険の禁止」原則を適用することは「願望」にすぎないとおっしゃいます。しかし、市民の願望の背景にはそれを実現する意志と行動が込められています。そしてそれが人権を守るための市民の「不断の努力」ということです。
 州政府が認めてないのだからしかたないとあきらめるのか、州政府の権力犯罪を市民の人権の名によって弾劾するのか、私が問題にしているのはこうした選択であって、そのために法曹界が暗黙のうち前提としている国家の無謬性、万能性、市民の無力性という神学的主張を批判しているのです。
 このように述べると日本の法律家のほとんどは、「それは法学の守備範囲内ではない」と思考を停止させます。しかし、市民から遊離し、その権利を無視する法学は、専制に奉仕して抑圧を隠すイチジクの葉でしかありません。法律家には、専制君主の気まぐれを正当化する理屈をひねり出す生き方だけでなく、市民と手を結んで君主の暴挙を諌めるという生き方もあるのです。

人権は国境に制限されない

 人権とはあらゆる市民ひとりひとりが持つ「侵すことのできない永久の権利」です。こうした権利は、憲法によって初めて与えられるわけでも、政府の恩恵によるものでもありません。武装した市民が自らの血を流した闘いによってあらゆる政府に強制したものです。日本国憲法が「国民の権利」としているから日本国民以外には人権は存在しないなどという議論が成り立たないのは、まさに人権のこの憲法も超えた無条件性にあるのです。この国家をも超えた超越性によって、人権は国境や国籍に制限されません。
 あらゆる市民は、みずからの一つの行為に対して2度も3度も責任を追及される必要はない。それが東京地裁であろうと大阪地裁であろうと、カルフォルニア地裁であろうと、市民にとっては無関係です。「二重の危険からの自由」は市民の権利であって、各国家や裁判所に付与された訴追の権利ではないからです。
 ところが、国家はみずからに強制された人権を制限し、剥奪するために様々な屁理屈や悪巧みを行います。だから人権を国家・政府に強制する闘いは武装した市民によって不断に続けられなければなりません。国家・政府がみずからの権力犯罪を正当化するために憲法を歪曲し、悪法を制定するなら、悪法の廃止を強制し、政府を倒すのは市民の当然の権利です。
 三浦さんは、「二重の危険からの自由」という人権を踏みにじったカルフォルニア州政府、捜査当局とそれに加担した裁判所によって殺されました。この権力犯罪をあいまいにしてはならないし、正当化しようという詭弁を黙認してはなりません。

「国内原則」論のどこに問題があるのか

 前田先生の「国内原則」論とは、結局「日本政府・裁判所の判決は米国政府・裁判所の行動を規制することはできない」「国家の主権行使を他国が制限することはできない」に集約されます。
 しかしそれは、第一に「二重の危険からの自由」という人権原則と、それぞれの国家・政府にそれぞれの国内での人権侵害行為を禁じた「二重の危険の禁止」という憲法原則を混同した誤りです。
 第二に、したがって「禁止」という憲法原則の自明な国内性をどれほど論証しようと「自由」という人権原則を制限する根拠にはなりません。
 第三に、「禁止」の対象判決に外国判決は含まれないとする根拠には外国判決を排除したカルフォルニア州法しかありませんが、法律が憲法の規定の制限の根拠とならないことは憲法と法の関係から明白です。
 第四に、人権が国家や国境に制限されないことは、市民革命を実現した武装した市民によって国家に上から強制されたという人権の歴史的、本質的性格を考えれば明らかです。
 そもそも人権の根拠を憲法に求めるという思想は、憲法が市民の多数者によって変更可能であることを考えれば、少数者の人権を多数者の意志に従属させ、多数者による少数者の人権蹂躙を正当化してしまいます。
 法律家の多くが人権を憲法や法律で説明しようとするのは、人権が何よって国家に強制されるか、法世界にとどまる限り見えないからです。リアルな現実世界において人権を国家に強制しようとする市民の闘いとそれに抵抗する国家・政府のせめぎ合いが、法世界に憲法や法として登場してきます。しかし、法世界の外に目を閉ざす法学者には、憲法や法に何か神秘的な力があるように感じられてしまいます。そこで「憲法が、法が…だから」とそれを絶対視する主張が出てくるのです。
 こうした法の物神化からは国家の無謬性というとんでもない主張すら出てきます。権力犯罪を弾劾する思想は絶対に出てきません。「国内原則」論は前田先生の意図がどうであろうと、三浦さんへの不当逮捕という権力犯罪を正当化する論理なのです。

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