映画「図書館戦争 the last mission」を見ました。
物語の中の日本では、悪質な表現から人権や公序良俗を守るという名目で「メディア良化法」という法律が作られ、政府によるメディア規制・検閲が拡大しています。そして、「資料収集の自由、提供の自由」などを掲げて唯一検閲に抵抗する図書館に対して、武装した検閲実行部隊「メディア良化隊」による攻撃が繰り返されています。
市民を装った「良化隊」の攻撃で図書館を燃やされ館員を殺された図書館側でも、その襲撃「日野の悲劇」を契機に「図書隊」という武装組織を作り、検閲を強行しようとする「良化隊」に対して銃による反撃を開始しました。
この映画は、その武装組織「図書隊・タスクフォース」初めての女性隊員・笠原郁の、本を守ろうとする闘いの映画であり、彼女が入隊したきっかけとなった図書隊員との恋愛の映画です。(ネタバレになるのであらすじは省略)
焚書に対抗する二つのやり方
政府の検閲・焚書に抵抗する姿を描いた映画としてまず浮かぶのは「華氏451度」(原作・レイ・ブラッドベリ1953年、監督・フランソワ・トリュフォー1966年)です。
本の所持や読書を禁止された社会で、政府の焚書官として本を摘発し燃やしてきた主人公は、ある事件をきっかけに本を読むことに目覚めます。違法な本の所持が発覚した主人公は、森に逃げ込みます。そこには、焚書に抵抗して書物の内容を暗記して保存しようとする人々が存在していました。
市民の武装権を認めた憲法を持つ米国で、武装して闘うのではなく暗記によって焚書をすり抜けようとする「華氏451度」の世界と、「民主主義とは話し合いと多数決」などと教え込まれ暴力=悪と見なすような日本社会で、検閲に対抗するために図書館が軍事組織=暴力装置まで作り上げる「図書館戦争」の世界の対比は、非常に興味深いと思います。
無力さのただよう「華氏451度」の背景には、それが赤狩りのまっただ中で書かれたという時代性だけでなく、ラジオやテレビを読書の妨害物と考えるようなブラッドベリ自身の知的エリート主義が存在しているように思います。だから、古典・名著のたぐいの暗記が焚書の対抗策となるのです。
一方、「図書館戦争」で、笠原郁が図書隊入隊のきっかけとなったのはどうしても読みたかったという童話の最終巻であり、闘う気力を支えているのは図書館に通ってくる多くの市民の存在なのです。
「華氏451度」のプラトン的エリート主義と「図書館戦争」の民主主義という思想的対比がそうした違いを生み出しているのではないでしょうか。「図書館戦争」の背景には、市民の自由を守るのは市民自身の武装と戦いであるという民主主義の根幹に関わる問題提起が存在しているように思います。民主主義の絶対的な基礎である武装した市民の存在を欠く日本の戦後民主主義体制の下だからこそ、政府の人権侵害と市民的自由の剥奪に対しては、あらためて「図書隊」のような武装組織の創設が必要なのかもしれません。
「図書隊」なき「メディア良化法」時代にどう生きるか
図書館が武装するというのは、荒唐無稽な設定と言えばそうでしょう。
しかし、検閲を合法化する「メディア良化法」の存在は荒唐無稽でしょうか。
私たちの現実世界の中で、政府・地方自治体は「有害図書」なるものを制定しその流通を規制しています。警察による「わいせつ」などを口実にした出版社・書店の襲撃と本の略奪も繰り返されています。最高裁も、そうした検閲を合憲としています。この7月からは政府が「児童ポルノ」と決めつけた書籍、メディアの所持自体が刑罰の対象となりました。もちろん、そうした規制の必要性を頭から否定はできないかもしれません。しかし、戦争の悲惨さを描いた「東京大空襲 ガラスのうさぎ」(原作・高木敏子、監督:橘祐典1979年実写映画化)のような映画ですら主人公の入浴シーンを口実に「児童ポルノ」として規制可能な状況を生み出していることも事実なのです。
すでに、「メディア良化法」は現実にその一歩を踏み出しています。それと闘うために、私たちもやはり「日野の悲劇」を待たなければいけないのでしょうか。
抵抗権発動が現実の課題となっている
政府が市民の自由と人権を侵害し、憲法を踏みにじるとき、民主義体制の市民には、武装して政府と闘う権利が認められ、責任が生まれます。そうした権利を「抵抗権」と呼びます。
安倍政権は、日本国憲法を踏みにじり、いわゆる戦争法案の制定を強行しました。次は、第18条「苦役からの自由」の解釈変更による徴兵制かもしれません。第9条が踏みにじられる時、第18条や検閲を禁止した第21条2項もまた同じ道をたどります。
戦争法案に対しては多くの市民が反対の声を上げました。制定を阻止はできませんでしたが市民が全力で闘ったからこそ、次の課題が明らかになっています。国会も裁判所も政府の暴走に無力であることが明らかになった今、市民自身の武装と抵抗権発動こそが現実の課題として登場しています。そうした時に、好きな時に好きな本を読む、たったそれだけのことでも、それが多くの先人が血を流してかちとった権利であること、図書館とはその具体的成果であること、私たちの不断の戦いなしにはそれは容易に奪われてしまうことを思い起こさせるこの映画を見ることは決して無駄ではないと思います。
興味深い様々のシーン
「戦艦ポチョムキン」(監督・セルゲイ・エイゼンシュテイン1925年)でオデッサの階段を下りてくる兵隊を前に逃げ惑った市民と図書館の階段を下りてくる「良化隊」に対して一人一人倒れながら抵抗を続ける図書隊、良化隊の銃撃を防いだカメラのフラッシュ、考えさせられるシーンの多い映画です。いろいろな見方があると思いますが、そうしたシーンを探しながら見るのもよいでしょう。是非見てほしい映画です。
最後に、原作はまだ終わりではありません。次は「革命」でしょう。次作が作られることを願っています。