自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

七つの命

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猫には七つの命があるといいます。一方、好奇心は猫も殺すとか。七つの命がすべてなくなるまで、好奇心丸出しでいろいろ書いていこうと思います。
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夏も眠い……

 寝る子だからネコというそうですが、夏も眠いです。


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 昼寝はとくに気持ちがいいですね。


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 でも、枕にはキーボートが一番です。


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 ん? なにか??

『資本論』の読み方

 『資本論』には様々な読み方があります。
 「価値」という超感性的な存在が動き回る神話世界の中で、人間の意志とは無関係な救済を約束する予言の書という読み方もあれば、資本主義経済を分析した経済学論文という読み方もあります。
 2回にわたって「関係式」を使って展開した記事は、後者の視点に立ったとき資本論の冒頭に何が書かれているかを分析したものでした。そしてその視点から読んだ時、マルクスの『資本論』の著述には多くの不適切な表現や矛盾点、いくつかの明白な誤りすら存在することにすら気づかざるをえません。それらがなぜ存在するのか、その検討がこの記事の目的です。

 『資本論』を予言書として読み、その哲学を神学にまで高めた人びとは、そうは考えないでしょう。神学においては、聖別された人間がある主張を述べたことがその主張の正しさの根拠となるからです。聖マルクスの教えに疑いを挟むなど涜神と考えるのが神学の論理です。スターリンを絶対不可謬の法王とするスターリン主義こそはマルクス神学の典型といえるでしょう。
 それ対し、科学においては、人がある主張を述べたことはその人物がその主張を持っているという意味しか持ちません。誰が述べたかではなく、その主張の論理的一貫性、現実との整合性がその主張の正当性の根拠とされます。したがって、科学的方法論に立つならマルクスの主張のすべてもそうした視点から点検されなければなりません。『資本論』を批判的に読むか否か、ここにマルクス神学とマルクス経済学の分水嶺があります。

 ところで、誤りにも現実世界の理解の一道程として大きな意義が存在するのが科学の世界です。
 『資本論』の誤りや不適切な表現の具体的な諸点についてはすでに、宇野弘蔵やその後継者らの多くの研究がありますので、ここでは思いつくまま若干の一般的論点について検討してみます。

文章技術上の限界

 ワープロ登場前の手書き文章の場合、語数の節約は避けることのできない限界です。
 例えばマルクスは“有用性という属性”の意味での使用価値と“その属性を持った物としての使用価値”を表現上明確に区別せず、「使用価値」と簡単に表記しています。文章の論理展開を丹念に追えば、それがどちらか判断可能ですし、マルクスもそれを前提に著述を進めています。しかし、マルクス自身が次のようにそうした限界に足を取られてしまっている部分も少なくありません。
 「交換価値は、…ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として…現れる」(岩波文庫版1969、第1分冊p.70)
 ある物が交換過程に投げ入れられるのは、その物が所有者にとって有用性・使用価値という属性を持たないからです。こうした有用性・使用価値のそれぞれの人間の欲望への従属性、個別性はここでは見失われています。
 ちょうどキリスト教の神父や牧師がみずからの説教の正当化のために聖書の一断片を使うように、マルクス自身の主張の解明ではなく、みずからの主張の正当化のためにマルクスの文章を引用するマルクス神学者は、こうした限界なども利用して必ずそのための文章を見つけ出すことができます。だから、こうした技術上の限界についてしっかりと認識しておく必要があるのです。

歴史的限界

 マルクスが『資本論』で行った交換関係についての分析の画期的意義は、交換関係が対称的関係(“AならばB”が成り立てば、“BならばA”も成り立つ関係)ではなく、非対称的な関係(“AならばB”が成り立つからといって“BならばA”が成り立つとは限らないという関係)であることを解明したことでした。商品と貨幣、「売る」と「買う」などの区別こそ資本主義的生産システム解明の出発点です。このことを明白にするために、マルクスは「相対的価値」や「等価」などの用語を駆使するなど様々な工夫をしています。

 非対称な関係とは、例えば次の様な関係です。
 いま、目の前の文庫本に物差しを当てて縦の長さを測ったところ149mmの目盛りのところまでありました。したがって、文庫本の大きさ(縦の長さ)は149mmであるということができます。では、この物差しの長さはどれだけでしょう。長さを測ることができるのは、文庫本も物差しも同じ空間的広がりという性質を持っているからですが、実は、物差しの長さを測る方法を人類は持っていません。現在1メートルの長さというのは「1秒の299,792,458分の1の時間に光が真空中を伝わる距離」と定義されていますが、それは単に1光秒の299,792,458分の1を1メートルと言い替えたにすぎず、1メートルの長さを直接測ることができるわけではないのです。
 同様に、ある商品の価値の大きさは貨幣となった「物(例えば金)」の一定の量(Xグラム)で量ることができますが、貨幣そのものの価値の大きさは量れません。だから、商品が貨幣と交換される場合、商品の価値の大きさと貨幣の価値の大きさが等しい「等価交換」と考えるのは明白な誤りなのです。
 しかし、非対称的な関係について一般的に認識されはじめるのは、カタストロフィ理論やカオス理論が学界の枠を超えて話題となった20世紀後半のことでした。それ以前には「AはBである」と述べることは「BはAである」と述べることと同じと考えられていたのです。
 マルクス自身がそうした時代の「常識」にとらわれた結果、例えば「物価表の値段表示を逆に読めば、貨幣の価値の大きさがありとあらゆる商品であらわされる」(国民文庫版1972年第1分冊p.173)と非対称的な関係を否定するともとれる文章を書いています。
 もちろん「値段表示を逆に読む」というのは一つのトートロジーであり、貨幣の価値の大きさを量ることができないことを示す事実です。しかし、「大きさが…あらわされる」と表現することで、この文章はこの文脈の中でも量ることができるかのように読める不適切な表現でとなっています。そして、「非対称の関係」を理解しない多くのマルクス神学者は、この文章を切り取って貨幣の価値の大きさを量ることはできるというみずからの主張の根拠とすることで、これを明白な誤謬へと転化してしまったのです。
 ただ、神学者といえども現実から遊離して存在することはできません。貨幣の価値の大きさを量ろうとすれば、商品や貨幣の価値の大きさをともに量る第三の存在が必要となります。この誤謬を「発展」させた後代の研究者の中には、第三の新たな物差しを探し求め、ついに、「価値=超感性的な実体」という新たな物差しを「発見」してしまう者すら現れたのです。

弁証法的論理

 これは不適切な表現とか誤りということではありませんが、弁証法という論理体系を駆使するマルクスは、それぞれの著述においてその段階までの検討で可能な命題をまず提起し、その命題を検討する中でその正確さを否定し、止揚して新たな命題を打ち立てるというダイナミックな論理構造を採用しています。
 例えば、マルクスは、W−G−Wの検討に続いてその論理的発展形態としてG-W-Gという命題を次のように提示します。
 「しかし、この形態と並んで、われわれは第二の特殊に区別される形態、すなわちG-W-Gという形態…売るために買うということを見いだす」(国民文庫版1972、第一分冊p.258)
 ところがこの命題はすぐに「このG-W-Gの流通は一見無内容に見える、というのは同義反復的だからである」と否定され、「この過程の完全な形態は、それゆえG-W-G'」(同p262-4)と止揚されます。
 ここは比較的わかりやすい部分ですが、こうしたダイナミックな構造は『資本論』全体で貫かれ、しかも内部で完結しているのではなくそれを超えて発展、展開していくものとして想定されています。だから、『資本論』はその意味では未完成であり、スタティックな論理で解釈すれば不適切な表現で満ちていると見えるのです。

資本論引用の意味

 スターリン支配下のマルクス神学からマルクスの著作を解放し、科学として批判的に検討しなければならないと提起し、実践したひとりは宇野弘蔵でした。だから、スターリン主義の呪縛からの解放を求める革命的左翼が宇野弘蔵に学ぼうとしたのは当然でした。しかし、革命的左翼はマルクスの批判的検討を貫くことができず、新たな神学的権威を求める方向に走ってしまったようです。それがトロツキー主義であり、黒田寛一や吉本隆明などのイデオローグ達でした。反スターリン主義とは、いまだ一つの宗教改革にとどまっていたように感じます。
 それを典型的に示すのは、前節に示したマルクスのダイナミックな論理展開を無視し、著述の断片を切り取ってみずからの主張の根拠とする神学的引用がいまだに横行している現実です。マルクスの著述の一部を切り取ることはその主張を歪曲することであり、表現された内容を誤謬に転化してしまう危険が非常に高い行為です。まして、それは引用者の主張を正当化する根拠となりえません。

 「E=mc^2」が正しいのはアインシュタインが言っているからではありません。1945年7月16日にロスアラモスの砂漠で爆発した一個の爆弾などがその正しさを証明したからです。私たちは、マルクスを「唯物論」という神学から解放し、現実に根ざした唯物論として再建するとともに、その正しさをこれからの私たち自身の実践をとおして証明していかなければなりません。2回にわたる「関係式」を使った投稿は、そうした問題意識にもとづく私の一試論です。

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 前回、“もの”の交換の際に使用価値や交換価値、価値の間でどのような関係が存在するか考えてきました。貨幣と商品の登場で交換関係が偶然的なものから日常的に行われるようになると、それらの関係はどのような変形を受けるか検討することが、次の課題となります。

貨幣=交換過程にとどまった“もの”

 交換関係が日常的に行われると、様々な“もの”がその交換価値によって別の様々な“もの”の使用価値を実現する代わりに、ある特定の“もの”が日常的に交換過程の中にとどまり、その交換価値によって別の様々な“もの”の使用価値を実現する傾向が強まります。貨幣の登場です。
 ではどのような“もの”が貨幣となることができるのでしょうか。
2-1)セーター(交換価値:塩むすびと交換できる/1着必要)→塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)
2-2)セーター(交換価値:テントと交換できる/2着必要)→テント(使用価値:雨露をしのげる/1張り必要)
 これはすでにみたセーターの諸交換価値を示す関係式です。この関係式ではすでにセーターを特定する直接の使用価値(使用価値:暖かく過ごせる/1着必要)は隠されてしまっています。したがって、セーターは諸交換価値を持つ別の“もの”Kと置き換え可能です。Kの交換価値の関係式は次のようになります。
6-1)K(交換価値:塩むすびと交換できる/k1個必要)→塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)
6-2)K(交換価値:テントと交換できる/2倍のk1個必要)→テント(使用価値:雨露をしのげる/1張り必要)
 Kが交換過程にとどまる限り直接の使用価値が実現することはありませんから、残るのは間接的な使用価値である交換価値のみです。したがってKの直接の使用価値を示す関係式もつぎのようになります。
6-3)K(使用価値:諸交換価値を持つ/それぞれの交換価値に対応した個数必要)
 ところで6-1〜3)の3つの関係式はKがなんであっても成り立ちますから、あらゆる“もの”は、何らそれ自体が変化することなく貨幣となることができます。歴史的にみても家畜や石、金属など様々なものが貨幣として使用されました。

商品=「唯一の交換価値」を持つ“もの”

 交換関係を逆方向から見ると次のようになります。
3-3-1)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)←X1(交換価値:塩むすびと交換できる/y1個必要)
3-3-2)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)←X2(交換価値:塩むすびと交換できる/y2個必要)
3-3-3)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)←X3(交換価値:塩むすびと交換できる/y3個必要)
 このX1、X2、X3がすべてKに置き換わることによって残るのは次の関係式のみです。
6-4-1)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)←K(交換価値:塩むすびと交換できる/k1個必要)
 この関係は、K以外のすべての“もの”について成り立ちます。
6-4-2)テント(使用価値:雨露をしのげる/1張り必要)←K(交換価値:テントと交換できる/2倍のk1個必要)
 そして、Kが他のあらゆる“もの”の使用価値を素材的担い手とする一般的な交換価値となるとともに、他の“もの”の交換価値を排除する傾向も生まれます。つまり、セーターがKでないとするなら、セーターの交換価値例えば(交換価値:塩むすびと交換できる/1着必要)は排除されます。しかし、すべての交換価値が排除される訳ではありません。その使用価値がKの交換価値の素材的担い手とならない唯一の“もの”が存在するからです。Kは次の様な自分自身と交換関係に入ることはありません。
K(使用価値:諸交換価値を持つ/k個必要)←×−K(交換価値:Kと交換できる/k個必要)
 つまりセーターに残った唯一の交換価値の素材的担い手はKの使用価値のみであり、次ぎの関係式のみなのです。
6-5)セーター(交換価値:Kと交換できる/k0個必要)→K(使用価値:諸交換価値を持つ/それぞれの交換価値に対応した個数必要)
 セーターの“商品・セーター”への転換です。商品とはただ貨幣の使用価値のみをみずからの交換価値の素材的担い手とする“もの”です。
 交換の日常化によってある“もの”が貨幣となります。しかし、それ以外のあらゆるものが商品となるのは、ただそのある“もの”が貨幣となった結果なのです。

交換の2つの類型:売る、買うへの整理

 貨幣の登場とともに、貨幣以外の“もの”と“もの”との直接の交換関係、物々交換は消えていきます。その結果、交換関係は次の2種類に整理されます。
7-0) セーター(交換価値:Kと交換できる/k0個必要)→K
7-1)X1(交換価値:Kと交換できる/k1個必要)→K
7-2)X2(交換価値:Kと交換できる/k2個必要)→K
……これが「売る」ということです。
8-1)K→塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)
8-2)K→テント(使用価値:雨露をしのげる/1張り必要)
……これが「買う」ということです。

商品・セーターで飢えを満たす

 この結果、セーターの飢えを満たすという拡張された使用価値は、もはや単純な交換価値の実現では達成できなくなり、貨幣を中間項とする二つの交換の組み合わせによって実現されるようになります。
9-1)セーター(交換価値:Kと交換できる/1枚必要)→K(使用価値:塩むすびと交換できる交換価値を持つ/k1個必要)→塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)
 なお、「諸交換価値を持つ」というKの使用価値の特徴から、7-0)の関係式ではセーターの交換価値を実現する枚数は何枚でも可能でした。しかし9-1)の関係式では、飢えを満たすという使用価値を実現するために必要なセーターの枚数は最終的に塩ムスビの使用価値によって規定・制限されるのです。
 この点は、商品・貨幣の資本への転換を考える際に重要となる視点です。セーターは1枚から売ることができますが、セーターあるいはそれと交換された貨幣が資本となるためには、労働力など資本活動に必要な“もの”の使用価値に規定された一定以上の大きさが必要という根拠は、この関係式から導きだされるからです。

売ることは買うことという錯覚

 ところで、次のように「売る」関係式の左辺に登場するのはあらゆる商品であり、右辺は貨幣です。そして、「買う」関係式では左辺に貨幣が、右辺に全商品が登場します。
売る)全商品→K
買う)K→全商品
 このような一見鏡像的関係から、「売る」ことは「買う」こと、言い替えれば交換とはAとBとが互いに交換され合う対称的関係であるという錯覚が生まれてしまいます。資本論の理解を妨げる最大の錯覚です。
 A→Bという交換は同時にB→Aという交換であるという貨幣の登場とともに強化された錯覚は、A=Bという錯覚に行き着きます。ところで、AとBの使用価値が異なることは誰の目にも明らかであり、他方AとBがともに価値という要素を持つことから、交換とは等しい大きさの価値同士の交換・等価交換という誤謬が生まれてしまいます。そしてそれは、貨幣の素材となった“もの”の使用価値がもはや問題にされないという貨幣特有の性格と結びついて、貨幣を価値そのものが実体化した存在とみなす誤謬へと発展していきます。これこそが、「貨幣の物神化」とマルクスが批判した考え方の根拠です。
 改めて強調しますが、すでに見てきたように、そしてマルクスが執拗に示唆しているように、交換とはAのある要素(交換価値)がBの別の要素(使用価値)と関係する非対称の関係です。A=Bではなく、AはBであるという関係なのです。この点は絶対に曖昧にしてはなりません。

価値の大きさの規定

 では、商品と貨幣との交換関係において、価値の大きさはどのように規定されるでしょうか。
 商品社会の中に新たに登場した1枚のセーターは、7-0)の関係式の中で貨幣と交換されることによってはじめて、自分自身が社会的に必要とされた使用価値を持つことを証明します。それは、セーターの生産に費やされた労働が社会的に必要とされた労働、つまり抽象的人間労働とカウントされること、価値を生み出したということの立証なのです。
 ところで、すでに素材の直接の使用価値が問題とされない貨幣の場合、例えば貨幣としての金の一定量がどれだけの大きさの価値を持つか、その生産に使用された労働のどれだけが社会的に必要とされるか、計測する直接の方法はありません。つまり、貨幣の価値の大きさを直接測る手段はありません。ですから貨幣によってセーターの価値の大きさは規定されないのです。
 ただ、すでに述べたように交換価値とは拡張された使用価値ですから、貨幣の交換価値の素材的担い手である8-1)の関係式の塩ムスビの価値、つまりその生産に使用された抽象的人間労働の大きさは計測可能です。そこから貨幣の価値はその交換価値の素材的担い手である塩ムスビの使用価値を担う塩むすび自身の(ここでは6個の)価値で間接的に規定されるのです。その結果、セータ−1枚の価値の大きさも、同様に塩ムスビ6個を生産するために費やされた労働時間によって規定されます。要するに、7-0)と8-1)の合成である9-1)が、セーターの価値を規定する関係式でもあるのです。

等価交換で比較されるもの

 ところで、セーター1枚が貨幣経由で塩ムスビ6個と交換されるということは、セータ1枚の価値と塩ムスビ6個の価値が等しい、つまりその生産に費やされた労働時間が等しいということを意味するでしょうか。そんなことはありません。実際、商品は、価値ではなくそれを基準に変動する価格に従って交換されます。等価交換とは、現実の交換ではなく、交換の基準となる原則なのです。だから交換の対称的関係つまりA=Bを等価交換の根拠とすることもできません。
 すでに述べたように、セーターの価値を決める関係式は次の様なものでした。
9-1)セーター→K→塩ムスビ
 ところで、貨幣Kの使用価値の特徴からこの関係式の最右辺には全商品が存在します。
9-2)セーター→K→テント
9-3)セーター→K→商品X
…
 その中には当然、次の関係式も含まれます。
9-0)セーター→K→セーター
 ここで、両端の同じセーターが等しい大きさの価値を持つだろうことが想定されます。そしてすでに見たように「K→」の交換関係において、右辺の塩ムスビ、テント、商品X、セーターの価値の大きさは等しいことがわかっています。つまり、9-1)の左辺のセーターの価値の大きさは、9-0〜3…)の関係式の相互関係によって間接的に決定されるのです。
 結論です。
 第一に、等価交換で比較される価値の素材は商品と貨幣ではなく、貨幣を媒介とする二つの交換の最左辺である商品と最右辺である商品である。
 第二に、等価交換の原則は、個別の交換で成立する原則ではなく、商品交換が日常化した商品社会の諸交換をとおして実現する間接的関係である。だから複数の交換関係の統計的平均として等価交換が実現する。これが等価交換の原則なのです。
 ここに等価交換が、個別交換の原則ではなく交換の基準となる原則であることの理由があります。そしてその点についての曖昧な理解や誤解が、貨幣物神化のもう一つの根拠となっているのです。

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ある掲示板で、マルクスの『資本論』冒頭の使用価値や交換価値、価値について議論になりました。
スターリンが、マルクスやレーニンを聖人に祭り上げ、その著作を政敵を攻撃するための警句集、予言書と変えてしまって以来、マルクス経済学に対する研究は科学的手法ではなく、神学の世界に入り込んでいる気がします。今回の議論の相手の方も、『資本論』の記述については豊富な知識を持っておられるようですが、それがマルクス経済学の論理構造の中でどのような位置を占め、その体系の何について述べているか考えるより、その記述の正統な理解を知ることに力を注いでいるようです。
私が、法律に関心を持ちはじめ多くの法律家の話を聞かせていただいて感じたことも、まさに法学が科学ではなく最高裁を法王庁とする神学の世界で動いているという現実でした。神学とは永遠の現状維持です。しかし、法学も経済学と同じく、人権原則を基準にして人間生活を豊かにするための科学となりうるし、しなければならないと私は思います。
以下は、マルクス経済学をを科学として研究するために、『資本論』をどのように読むかという一つの試みです。

セーターで飢えを満たす

涼しくなるとセーターが欲しくなります。そこで、羊の毛を刈り……毛糸を編んでセーターを作ります。セーターを手に入れた人は、それを着て暖かく過ごすことができます。このようにセーターには、人が暖かく過ごしたいという欲求をかなえる機能があります。それをマルクスは「使用価値」と名付けました。
しかし、セーターは食べられません。飢えを満たすためには稲を栽培し……飯を炊き、塩ムスビを作るというまったく別の労働をしなければなりません。こうしたある欲求を満たすため羊の毛を刈り……、稲を栽培……という労働の異なった側面に注目したマルクスは、その側面を「具体的有用労働」と名付けます。
しかし、同時にマルクスは次の点に気がつきます。セーターは塩ムスビとの交換という行為をとおして飢えを満たす手段になるということに。このセーターの、飢えを満たすといういわば間接的な使用価値を、マルクスは「交換」という行為をとおして実現される機能として「交換価値」と名付けました。ですから、セーターの交換価値はこの場合は、塩ムスビの飢えを満たすという機能=使用価値によって示されます。
ただ、セーターは同時に例えばテントと交換されることで雨風をしのぐ手段ともなりますから、セーターの交換価値は様々な“もの”の使用価値で示すことが可能です。「諸交換価値」です。

使用価値には大きさはない

ものの使用価値には欲求を満たせるか満たせないかしかありません。飢えを半分満たして半分だけ餓死なんてことはありません。塩ムスビが必要以上にあっても残りは残飯になるだけですし、飢えている人と飽食している人では使用価値は異なるでしょう。使用価値に相互に比較できるような大きさはないのです。
当たり前に思えますが、使用価値の量を「有用度」のようなものとして量ることができ、商品交換とは同一量の有用度による交換だと主張する人もいますから、きちんと意識しておくべきです。

交換価値の大きさ

ある欲求を満たすための使用価値を持った“もの”(使用価値の量ではなく)の必要かつ十分な量というのは、その欲求から自ずと決まります。飢えを満たすために例えば、塩ムスビが1日に6個いるというように。
ところが、交換を通じてある欲求を満たす手段となるセーターの場合、ある部分は間接的に飢えを満たす塩ムスビであり、ある部分は雨風をしのぐテントであるとしても、それを質的に区別することはできません。ただ塩ムスビ6個と交換できるセーターは1着であるとか、テント1張りと交換できるセーターは2着であるとか、セーターの量で決まります。この6対1とか、1対2というのがマルクスのいう「交換比率」です。
そこで、ある欲求を満たすための“もの”を得るための交換に必要なセーターの数を交換価値の大きさと考えることもできます。雨風をしのぐには飢えをしのぐよりも倍のセーター(に表現される交換価値)が必要というように。しかし、塩ムスビ6個の使用価値で示されるセーター1着の交換価値がセーター2着になれば倍の12個の使用価値になるという関係にあるわけではありません。

異なるものの比較基準=価値

ところで実際の交換において、交換されるのは使用価値や交換価値という“もの”の属性ではなく“もの”そのものです。そして、塩ムスビのようなその使用価値を目的に交換されるものは、セーターという交換するものの数によって量的に比較可能となります。量的に比較可能ということは、それらの間にある共通の属性Xが存在するということです。例えばテント1張りのXは塩ムスビ6個のXの倍であるというように。
使用価値や交換価値という質的に区別される属性がXではありません。
そこでマルクスはいったん“もの”そのものに戻り、それが人間労働によって作られたという点に着目し、その属性Xを「価値」、そうした側面からみた労働つまり継続時間のみから量られた労働を「抽象的人間労働」と名付けます。結局、価値とは使用価値や交換価値とはまったく異なる性格の属性なのです。

使用価値と交換価値、価値の間の関係式

以上の前提から資本論の論理に従って展開すると次の一連の関係式を得ます。

《使用価値》

1-1)セーター(使用価値:暖かく過ごせる/1着必要)
1-2)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)
1-3)テント(使用価値:雨露をしのげる/1張り必要)

《交換価値=拡張された使用価値》

2-1)セーター(交換価値:塩むすびと交換できる/1着必要)→塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)
2-2)セーター(交換価値:テントと交換できる/2着必要)→テント(使用価値:雨露をしのげる/1張り必要)
ところで、交換価値の関係式は次のようにまとめることができます
2-1b)セーター(交換価値:塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)/1着必要)
つまり、セーターによってその本来の使用価値ではない「飢えを満たす」などの欲求を満たすことができるということに交換価値の内容があります。
そして、使用価値という質を問題にしながら、この関係式の中には6個と1着という量的関係が表示されています。これが交換比率です。

《価値:逆から見た交換関係》

交換価値を示す関係式を逆の方向から見ると次のようになります。左辺と右辺の入れ替えではないことに注意してください。この関係は左右を入れ替えても成り立つ対称的関係ではありません。
3-1)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)←セーター(交換価値:塩むすびと交換できる/1着必要)
3-2)テント(使用価値:雨露をしのげる/1張り必要)←セーター(交換価値:テントと交換できる/1着必要)
この関係式では塩ムスビやテントの使用価値が同一のセーターの交換価値と関係させられていますが、セーターはすでにそれを特徴づける(使用価値:暖かく過ごせる/1着必要)とは切り離されています。そこでセーターは同様な交換価値を持つさまざまなものX1、X2……と置き換えることが可能です。
3-3-1)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)←X1(交換価値:塩ムスビと交換できる/y1個必要)
3-3-2)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)←X2(交換価値:塩ムスビと交換できる/y2個必要)
……
セーター、X1、X2……は関係式の同一の辺にあり、かつ同一のものと関係していますから次のように等置できます。
4-1)セーター(交換価値:塩ムスビと交換できる/1着必要)=X1(交換価値:塩ムスビと交換できる/y1個必要)=X2(交換価値:塩ムスビと交換できる/y2個必要)……
この使用価値とは切り離されたセーター、X1、X2……を貫く共通の属性=何時間かの労働によって生み出されたという属性をマルクスは「価値」と名付けました。そこで3-1)等の関係式は次のように書き換えることができます。
4-2)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)←←セーター(価値:z時間の労働で生産/1着必要)
4-2-1)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)←←X1(価値:z1時間の労働で生産/y1個必要)
4-2-2)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)←←X2(価値:z2時間の労働で生産/y2個必要)
もう一つ、次の関係式も成り立ちます。
4-2-1)塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)←←X1(価値:z1時間の労働で生産/y1個必要)
4-3-1)テント(使用価値:雨露をしのげる/1張り必要)←←X1(価値:z1時間の労働で生産/2倍のy1個必要)
4-2-1)と4-2-2)との関係から塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)と交換できるのは、ただx1、x2に共通する価値(ある時間の労働で生産)という属性=価値があるからであることが示されます。
そして4-2-1)と4-3-1)との関係から、テント(使用価値:雨露をしのげる/1張り必要)と交換するためには、塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)と交換する場合の2倍の価値を持つもの(X1の2倍の量)が必要であることが示されます。X1がどれだけの時間で生産されたかは無関係です。価値の大きさ(価値そのものではなく)はただ異なる使用価値を持つものとの関係の中で相対的に計測されるだけなのです。
最後に、4-2)を再び逆方向から見ると次の関係式が得られます。
5-1)セーター(価値:z時間の労働で生産された/1着必要)→→塩ムスビ(使用価値:飢えを満たせる/6個必要)
つまり、セーターが塩ムスビと交換されることで飢えを満たすという欲求を満たす存在となりうる背景には、セーターが価値をもつことがあるのです。

《貨幣と商品》

一連の4-?)の関係式から、ただXの位置を占めることがその機能であるような特別のXを想定することができます。貨幣の登場です。そして貨幣の登場ととともに、塩ムスビやセーターは商品となります。これまでの関係式の中で、セーターや塩ムスビは商品ではありませんでした。しかし、商品関係のもとで、これまでの関係式がどのように変形されるかは、稿を改めなければなりません。

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散歩中に…

先日、公園に散歩に行ったらそこに住み着いているクロににらまれました。
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けっこう凶暴な公園の主です。
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あわてて草むらに逃げ込みましたが、
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気になります。
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