イエスの救いを願う祈りの日々

イエズスへの祈りがあなたの願う救いとなりますように恵となりますように

宗教音楽

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ドイツレクイエム

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ドイツレクイエム第6曲にテノールが歌う
“私たちにとってこの地上は永遠の都ではない、来るべき都を捜し求めるのだ。”
ヘブライ13:14、
そして神の計画が告げられる
審判のラッパの音と共に生者も死者も甦るという聖書の言葉が遂に成就するときが来る
受難曲コーラルを思わせる美しい旋律に乗せて復活の勝利を賛美する
死は勝利の中に呑み込まれた
“死よ、おまえの勝利はどこにあるのか”
“死よ、おまえの刺はどこにあるのか”
“1コリント15:55”
キリストの受難と十字架の死によって贖われた私達は、キリストの復活により死に打ち勝ち、
永遠の命を授かる
私達は天の国の婚礼に招かれた者、この希望があるから今をこの流刑の世を生きていける
この曲の私達に告げ知らせることは“主に結ばれて死ぬ者は幸い”
ドイツレクイエムは死者のためではなく、この世に生きる者への哀れみと慰めと慈しみの歌
優しく美しい主への祈りの歌
主が愛する私達のために用意した試練を、苦しみながら悲しみながら耐えながら
貧しく生きる私達を主イエズスは寄り添うように慰められる
そして私達は彼の期待に応えて彼が私達の内に育まれた種をまく
涙を流しながら種まく者は、やがてイエズスの掟がこの世に豊かに実るのを喜ぶ
互いに愛し合いなさい、彼の愛が私達の内から全ての人達のために噴き出すのを
イエズスは喜ばれる私達ははかない野の花、しかしキリストの香り香る花
私達キリストに結ばれた者は、たとえ今日食べる糧が無くとも、足や腕が動かなくとも彼のために働く
それが祈るだけでも、隣人を微笑むだけでも、救援活動に参加するだけでも、
ミサにあずかるだけでもかまわない
自分が持てる命と時間と全てを捧げて彼のために働く
また一人また一人私達の苦しみと悲しみ、喜びと感謝を通してキリストに出会う人が必ず現れる
教会の違いを超えて私達が兄弟姉妹になり、互いに愛し合い、人々にイエズスを示すものになる
聖霊が私たちを選び、私たちを支えている
彼から離れること無く彼と共に生きる

バッハ受難曲の最後にキリストの復活を期待しながらも、
私達の罪をあがなうために死に渡されたイエズスを埋葬し別れを告げた私達は、
讃歌で救い主の復活を宣言し、ドイツレクイエムで主の救いの御業をたたえる

大切な友達へ

大切な友への便り
お知らせ頂いた頁を何度も拝見しました。あなたの“讃歌”への思いに深い共感を覚え、ここにお返事申し上げます。
まず始めに、以前からご存じの通り、私には巨匠の大作を語るほどの音楽的な教養も正確な知識も、またルターが翻訳したドイツ語聖書に対する深い研究の経験もありません。充分な環境でCDを視聴する事もままなりませんが、ただ知る限りの知識と言葉に用いてお返事します。記載の内容に誤りあればお許し下さい。
メンデルスゾーン、マーラー、バーンスタインに共通するものがあります。彼らがイスラエルであること。曲の中にそれを垣間見る事ができます。独特のフレーズという面もありますが、曲を聴き、感じるままに心の耳を開けば、はかなく滅び行くものへの悲痛なまでの哀愁を抱いて、曲が祈りを捧げる姿見を出すことが出来ます。
明るい曲の多いメンデルゾーンが時折見せる悲しさの先にあるもの、たとえば“讃歌”の後半交響的カンカータの中に、旧約から脈々と続く神への深い祈りを感じるのです。人はそれを彼の敬虔なプロテスタンティズムと説明されるかもしれません。それもまさしく正解です。しかしそこにはもう一つの理由があるように思えてなりません。私はその理由こそは、あなたが文中に挿入された旧約の予言の書、ダビデの歌にあるように愛する神への救いを求める叫びにも似たものであると思います。
イスラエルは地中海と中東を結ぶ要所であり、その誕生のときから何度も隣国や他民族や強大な征服者に、政治的に軍事的に支配され略奪され、民族ごと捕囚される事を繰り返す歴史の中で、自分達の神殿や街、家を破壊され、アイデンティティを徹底的に破壊されました。
何世代後に彼らが帰還したエルサレムはいつも廃墟だったのです。先の見えない不安と絶望の中でメシアの到来を求める彼らの祈り、イザヤ、詩篇の一行一語の中に、破壊されるものに対する郷愁と胸の張り裂けんばかりの悲しみ、惜しむ心、襲いかかる恐怖へのストレスを超えた叫びが現れています。
“なぜ義人に罪を与えるのか”、“主よ、なぜあなたはこの破壊を許されるのか”と何世代も嘆き悲しむのです。しかしそこに主への信頼が損なわれているわけではありません。主への救いへの希望があったのです。
マーラーやバーンスタインのように色濃くは無いものの、私はメンデルスゾーンの曲の中に、純粋な主への救いへの希望があると思われます。
讃歌は美しい希望の歌なのです。私はあなたが誇り高き建物が再生の大義の元で破壊されてゆく様子を憂い、悲しみ、聖書の言葉を引用し主なる神に祈りを捧げられるのに、そしてそこに讃歌を重ね合されるのを拝見して思いました。

あなたは主を愛されているのですね
あなたの主への愛が全てを導かれたのですね

冒頭トローンボーンで奏でられるメンデルゾーンの主題は縦糸で神への賛歌と感謝を表し、前半のシンフォニア第一部分では、この主題に対して横糸のようにバッハの受難曲を連想させるフレーズが幾度も現れます。シンフォニア第二部分、第三部分はとてもチャーミングでロマンチックなフレーズが、繰り返し使われ、形式にとらわれない交響詩のように自由さがあり、古典派からロマン派への幕開けを感じさせます。
この曲は最初の一音から、最後の音が鳴り終わるまで、縦糸と横糸が織りなす、余すところ無く全てが神に捧げられた賛美であり讃歌です。交響的カンカータである後半では、彼の主題が再び現れ、“主をたたえよ”と歌いだし、そして美しいソプラノが主の親切を忘れるなと歌い、テノールが涙の数を数え慰められると私達に教えます。
この曲が生み出した潮流はこの曲に止まりません。この曲の息吹は確実に、ブラームスのドイツレクイエムへと続いています。私は長い間、バッハの受難曲とドイツレクイエムを結ぶ架け橋を探していました。そしてそれは讃歌だったのです。なぜならばこの2曲は教会音楽の枠を超えた、生き生きとした躍動感ある生きる者への賛歌なのです。今この世を、苦しみを耐え忍びながら涙を堪えながら生きている私達への慰め、神の愛と慈しみが曲となったのです。
希望を持て、今を力強く生きよ、人を愛し、私はあなたたちと共にいると主は語りかけてくれているのです。
ミサ典礼という形式の中の音楽ではなく、演奏会やCDで人々に語りかけ、主の言葉を直接心に届ける歌なのです。
あなたはそのメッセージを見事に受け取り、御言葉の意図を破壊される建物の中に見出し、讃歌と共に私達に伝えた。あなたはイエズスのお手伝いをされたのです。それが彼の教える愛なのです。

我が友に捧ぐ

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いつもこのブログに来られる友に捧げる

グスタフ・マーラー作曲

大地の歌「テノールとアルト(またはバリトン)とオーケストラのための交響曲」
ハンス・ベートゲ編訳による詩集『中国の笛−中国の叙情詩による模倣作』

第1楽章 大地の哀愁に寄せる酒の歌 李白の詩「悲歌行」による

なんと美しくあることか、黄金の杯を満たすこのうま酒は、
しかし飲むのを待たれよ、まずは歌でも一つ歌おうぞ!
憂愁を誘うこの歌を
君たちの心に哄笑として高鳴らせよう。
憂愁が迫り来ると、
心の園も荒涼でいっぱい。
歓びの情もその歌う声もしおれ果て消えゆくかな。
生は暗く、死もまた暗い。

この家の主よ!
君が酒蔵には黄金の酒が満ちている!
ここにある琴を、私の琴としよう!
この琴をかき鳴らし、盃を尽くすことこそ
最もふさわしいだろう。
ほどよき時に、なみなみと注がれた一杯の盃は、
この大地の全ての王国にも優る!
生は暗く、死もまた暗い。

天空は永久に蒼(あお)く、しかも大地は
永遠に揺るがずにあり、春ともなれば花咲き乱れる。
だが人間たる君よ、君はどれだけ生き長らえていくものか?
君は百歳とは慰(なぐさ)むことは許されぬ、
全てこの大地の儚(はかな)き戯れの上では!

そこかしこを見下ろしたまえ!
月光を浴びた墓の上に
座してうずくまる者は荒々しくも不気味な物影、
それは猿一匹! 聴け、その叫びが
この生の甘美な香りに甲高く絶叫する様を!

いまこそ酒をとれ!
いまこそ、その時だ、友よ!
この黄金なる盃を底まで飲み尽くせ!
生は暗く、死もまた暗い!


第6楽章 告別  孟浩然の詩「宿業師山房期丁大不至」と王維の詩「送別」による

夕陽は西の彼方の向こうに沈み
日没過ぎて、しんしんと冷気満ち、
暗闇迫り、渓谷すっぽり包み込む
おお、あれを見よ。銀の小舟のように
月はゆらゆら蒼天の湖にのぼりゆき
私は松ヶ枝の暗き木陰にたたずんで
涼しげな風を身に受ける

美しき小川のせせらぎ 心地よく
この夕闇を歌い渡るぞ
花は黄昏(たそがれ)淡き光に色失う
憩いと眠りに満ち足りて 大地は息づく
全ての憧れの夢を見ようとし始める

生きる苦しみに疲れし人々 家路を急ぎ
眠りの内に過ぎ去りし幸福と青春
再びよみがえらそうとするように

鳥は静かにすみかの小枝に休みいて
世界は眠りに就くときぞ

私のもとの松ヶ枝の木陰に夜陰は冷え冷えと
私はここにたたずんで君が来るのを待つばかり
最後の別れを告げるため、私は友を待ちわびる

ああ、友よ。君が来たれば傍らで
この夕景の美しさともに味わいたいのだが
君はいづこか。私一人、ここにたたずみ待ちわびる

私は琴を抱え、行きつ戻りつさまよいて
たおやかな草にふくよかな盛り土、
その道の上にあり
おお、この美しさよ、永久の愛に−
その命にー酔いしれた世界よ

友は馬より降り立ちて、
別れの酒杯を差し出した
友は尋ね聞く。〈どこに行くのか〉と、
そしてまた〈なぜにいくのか)と

友は答えたが、その声愁いに遮られ、包まれて
〈君よ、私の友よ、この世では私は薄幸なりし
 一人今からいずこに行こうか
 さまよい入るのは山中のみさ〉

私の孤独な心 癒すべく憩いを自ら求めゆき
私が歩み行く彼方には、私が生まれし故郷あり

私は二度と漂白し、さまようことはあるまいよ
私の心は安らぎて、その時を待ち受ける

愛しき大地に春が来て、ここかしこに百花咲く
緑は木々を覆い尽くし 永遠にはるか彼方まで
青々と輝き渡らん
永遠に 永遠に……

ヨハネ受難曲

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聖金曜日主の受難ミサの中で、ヨハネ福音書による受難の朗読が行われる。
先唱と呼ばれるミサの司会者と司祭と朗読者の3人に加え、ミサの参列者が会衆役として参加し、キリストの受難「ヨハネ18-1〜19-42」を朗読する。先唱は福音記述者役であり、司祭はイエズス、そして朗読者は大祭司館の下役、女中、否定するペトロ、そしてピラトを担当する。
私は洗礼を授かって間もない頃、そう信仰も未熟な私がこの朗読者に指名されたことがある。
初めて公式典礼奉仕に望む私はダークスーツ姿で、朗読台に立ち、淡々と指定された福音の個所を他の2人との間合いを取りながら低めの声で読み進めていった。
典礼への奉仕を自分の名誉と勘違いしていたのだろう。ピラト登場の場面に入るや、ある言葉に思わず躓いてしまう。一瞬に頭の中が白くなり、思考が止まって、まるで歌舞伎の長い溜めの台詞回しの様に間が空いてしまい、次の字を読めなくなった。
この言葉こそ、今日まで私のカトリック信仰の中で最大の疑問であり、人生における永遠の課題になってしまった。

「ピラトは言った“真理とは何か”」


当時エルサレムは過越祭を迎え、城壁内外の人口がいつもの何倍にも膨れあがり、どこに行っても人で溢れていた。また城内にはヘロデ王までが滞在し、いくつもの反体制派や過激なグループが集結していた。いつ暴動や騒ぎが起きても不思議ではない状況にローマ総督府は緊張し警戒をつよめていた。
その最中、数日前に救世主と評判の高いイエズスという若いラビがロバに乗って城壁内に入場するパフォーマンスをおこない、多くの民衆が彼を熱狂的に歓迎する騒ぎがあったばかりである。まさにエルサレムは緊迫した異常な空気に包まれていたのである。
何も起きずに全てが過ぎ越してほしいローマ側の希望も空しく、突如、総督ピラトの目の前に、ユダヤの祭司長や律法学者達が総出演で現れ、事もあろうに噂の若いラビを拘束し処刑しろと連れて来たのである。最も厄介な連中が、最も厄介な者を連れて来たことに、ピラトは思わず動揺し「お前がユダヤ人の王なのか。」と皮肉交じりに、しかし本当の事をいってしまう。
官邸守備兵力を上回る人数の金で扇動された民衆が官邸の周りを取り囲み、狐のような祭司長や律法学者達が結果を急いで謀略張り巡らし、怪しい者も集まり暗躍する中で、対応に苦慮し焦るピラト。この若いラビなど早く釈放して騒ぎを収拾させたいのに、当のイエズスの返答は具体的な問題解決につながらない抽象的な言葉ばかり。ついにピラトは目の前に立ちつくすイエズスに、少々“キレ”気味で問い直す、「真理とは何か」。イエズスが返答する間もなく、ピラトはベランダで宣言してしまう「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」

「 What is truth !! 」

イエズスのいう真理とは何か、ヨハネのいう真理とはなにか、信仰の真理とは何か。
金曜日の午後7時を過ぎているというのに、聖堂の中は民衆達が溢れ、口々に「十字架につけろ、バラバを」と叫んでいる。私の隣ではイエズスに真似て髭を蓄えた司祭が立っていた。私は思わず彼に問いかけたくなった。「オイ真理とは何だ」と


ヨハネ受難曲・第30曲アリア
「成し遂げられた!
病める魂に慰めあれ!
悲しみの夜は、まもなく終わろうとしている。
ユダの国より出た勇士は堂々たる勝利を治め、
戦いを終えられた。成し遂げられた!」
バッハが世に送り出した2つの受難曲、マタイ受難曲がキリストの受難と十字架の偉大なる巨大な追体験であるならば、ヨハネ受難曲はイエズスの十字架によって成し遂げられた神の栄光と悪に対する勝利への賛歌である。
先の緊迫するエルサレムの状況に音をつけるとしたらヨハネ受難曲だろう。イエズスの逮捕から埋葬に至るまでの出来事がまるでニュースドキュメンタリーを観るように、早いテンポで進んでゆくので曲に集中したままCD2枚を聴くことが出来る。これはベースとなったヨハネ福音書の文学としての完成度の高さに加えて、バッハのキリスト教神学に対する深い造詣と知識と理解を背景とした崇高な信仰と精神、教会音楽作曲家としての才能と経験値が結集された傑作といえる。
ヨハネ受難曲は神の愛の御業がイエズスの受難と十字架によって成し遂げられることをテーマにしている。罪人であり、救いを求めてCDを聴く者は、終盤の神の愛の成就に向って突き進む曲と共に、成し遂げられる救いの完成に感動をもって感謝する。不思議にヨハネ受難曲は血生臭い拷問のプロセスやイエズスの苦しみや受難の痛みを深く立ちどまりながら、回心しながら、祈りながら味わうのではなく、ひたすら十字架の愛の成就その時を待ちわびながら聴きくのである。

ヨハネの真理

私が見事に朗読台の上で躓いたヨハネの示す真理とは神である父の御言葉である。
イエズスが父より授かり、私達に伝えた御言葉が私達の信仰の真理なのだ。イエズスが会堂や湖や山頂で、弟子や人々に述べ伝え、彼を通して全能の神である父を信じて愛する信仰へ導いた言葉、この言葉を証しするためにイエズスは人となられ、十字架の栄光に至るのである。
御言葉を伝えるイエズスによって啓示された御父の愛は、イエズスの十字架と復活によって成し遂げられた我々を救う神の計画そのものである。私達の信仰はイエズスを通して導かれる天への道であり、イエズスが真理である神の御言葉そのものであり、我々を生かす命なのである。
「真理に属する人は皆私の言葉を聴く」
キリストを信頼して信ずる者は真理に属する人にならなければならない。私達は信仰のうちにこの真理を悟らなければならない。そのためにイエズスは真理の霊である聖霊を送られる。
御言葉に生きる者、御言葉の霊によって生きる者、生活の中に御言葉が生きている者、イエズスを通して私達に明らかにされた信仰の真理のために共に働かなければならない。しかしこの信仰の真理には苦しみが伴うのである。これが信者にとっての受難と十字架なのだ。聖マリアですら、目の前で自分の愛する子供が十字架にかけられる一部始終を目撃する。

イエズスの受難と十字架の栄光

十字架の栄光はキリストの受難と苦しみを伴うものである。しかしこれは喜びに変わる生みの苦しみである。苦しみを乗り越えて信仰のうちに救いの恵を授かる。ヨハネ福音書もバッハの受難曲もそれを私たちに伝えている。だからこそ真理とは何かと私たちに問うのである。
“神から与えられていなければ、私に対して何の権限もないはずだ”
御言葉に生きる私達にも日々の生活の中で苦しみや患難にあう、しかしこの辛さは十字架の栄光にいつか変わる。今、まさに苦しみにある者は御言葉のうちに信仰の真理を悟り、主を信頼して隣人愛を実践しよう。やがて全てを成し遂げた時、神は私達を愛と慈しみに溢れたその胸に抱きしめてくれる。

マタイ受難曲

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主を賛美した大作曲家の作品のなかに、普遍的な傑作がいくつもある。
ヘンデルのメサイア、モーツァルトのレクィエム、ベートーヴェンのミサ・ソレムニス、ハイドンの天地創造、ブルックナーのテ・デウム、その中でも人類史上最高の至宝といえるのはJ.S.バッハのマタイ受難曲であろう。
バッハは我々を、最初の憂いを湛えた一音からイエズス・キリストの受難と緊迫した最後の時に引き込む。そこではバッハの崇高な信仰と精神性に支配されて完成された曲の圧倒的な力が、信仰の薄い我々をキリスト受難劇の一場面に誘い、緊張感のあるドラマチックな感動と興奮を与える。
カトリック信者として四旬節、聖週間、聖木曜日、主の受難、復活祭を迎える我々が何度も読んでいるマタイ福音書の受難の章であるにもかかわらず、この受難曲を聴き、イエズスの受難と十字架の死の有様を文字による理解を超えてより強烈に、より鮮烈に耳を通して脳に刻み込むことになる。

「ご覧なさい!何を?その忍耐を。ご覧なさい!どこを?私達の咎を。」

そして私達は全曲を通してイエズスを十字架にかける事に加担した人間達の罪深さとエゴイズム、その罪の全てをあがなうために御父の御旨に従ったイエズスの愛と自己犠牲の極み、キリスト者にとっての受難の意味、そして最後の裁きの日まで自分の十字架をイエズスの受難と共に背負い続けて生活する真のキリスト者の生き方と信仰のあり方を悟るのである。

第57曲アリア
「来るのだ、甘い十字架よ、と私は言おう。
私のイエスよ、それをいつでも私に与えてください。
苦難のいつか重きにすぎる時がきても
私がそれを自ら背負うのを助けて下さい。
来るのだ、甘い十字架よ、と私は言おう。
私のイエスよ、それをいつでも私に与えてください。」

このアリアは足を引きずるように行進するようなリズム、哀愁を漂わすヴィオラ・ダ・ガンバの音色が、我々の罪によって重みを増した十字架を背負い、骸骨の丘へ進むイエズスの姿を私達に伝える。
キレネのシモンのように身代わりに十字架を背負いイエズスを少しでも救うことが出来ればという思う反面、この十字架は自分の罪であり、本来であれば自分が背負うものを罪無きイエズスに人間のエゴイズムが押し付けたものであるという悔根の思いが交差する。
どのアリアもコーラルもレチタティーヴォも、キリストの苦しみの原因は私達自身の罪と咎であり、罪無きイエズスが全てを贖おうとしている姿を目の前にして我々の無力さを炙り出す。

第8曲アリア
「血を流されるがいい、いとしい御心
ああ、あなたが育てた子、
あなたの胸で乳を吸った子が
今、育ての親を殺そうとしている。
なぜならその子は、蛇になったのだから。
血を流されるがいい、いとしい御心」

マタイ受難曲は聴くものに告げる。
私達はエルサレムの広場でイエズスを十字架につけろと声を上げた者の一人である。私達はバラバの釈放を叫んだ民衆の一人なのである。私達はイエスの逮捕に恐れ逃げ出した取り巻きの一人に過ぎないのだ。まさに良き牧者の恩を忘れて逃げた者。後の時代に捕らえられた殉教者が縛りつけられた松明に火を点したのも私。いや私こそが救い主を裏切ったユダそのものなのだ。実は私はキリスト者と名乗るがその実態は、神に背を向ける悪魔そのものなのだ。私の体にはアダムとイヴ以来の罪と高慢な自我が細胞の一つ一つに生きている。いざとなれば逃げ出す私の信仰の弱さを主はご存じなのだ。だからこそ私は自らの罪深き正体を知り、素直に認めなければならない。心が引き裂かれる程に回心しなければならない。

第39曲アリア
「憐れんで下さい、神よ、
私の涙のゆえに。
ご覧ください、心も目も
御前に激しく泣いています。
憐れんで下さい、神よ、
私の涙のゆえに。」

ああバッハの到達した信仰の美の絶頂は、私の罪と弱さと正体を明らかにする。終わり無き苦難の日々、訪れない救いの理由、主の沈黙の意味が祈りを込めて歌われている。「おお、幸いなる御体よ、ご覧ください、懺悔と悔恨をもって、この身の堕落があなたを苦難に追いやったことを嘆くのを」

第65曲アリア
「私の心よ、おのれを清めよ。
私は、自らを墓としてイエスを葬るのだ。
イエスが今よりのち、私の中でとこしえに
甘い安らぎを得ますように。
この世よ、出てゆけ イエスにお入りいただくのだ。
私の心よ、おのれを清めよ。
私は、自らを墓としてイエスを葬るのだ。」

新約の時代は苦難の時代である。聖マリアと使徒達、全ての聖人と福者と殉教者達は皆、自分の生涯をかけて、救い主イエズス・キリストの受難と十字架の苦しみを忍耐する。末席に座ることを許された私達も例外ではない。キリストに結ばれた者は艱難から逃れる事は出来ない。復活の希望を抱いてひたすらあらゆる艱難の苦しみと悲しみを耐え忍ぶのである。
神の栄光を受ける日までキリスト者と教会の苦しみが終わることはない。私達の救いの本質はイエズスの苦しみを日々実践することにほかならない。私達が神の国を受け入れるための準備として、神との関係を回復するために、この艱難の苦しみ以外に聖性の手段はほかにない。
毎日発生する家庭や職場や社会の中や人間関係の中でのトラブル。経済的な困難や窮地。また病気、怪我、障害等全てはキリストの苦しみの欠けたところを満たすことであり、神が私達をつくり、キリスト教に招き入れ、託された役目なのだ。絶え間無く降り注ぐ苦難と艱難は、全て創造主である全能永遠の神が海岸の砂粒の一つ程の重みも無い私に与えられた恵みである。私達は主の恵みを喜びに変え、感謝し、鍛え上げられたキリスト者として謙遜に耐え忍ぶしかない。わざわざ主が貧しい私を呼び寄せ、重い試練と艱難の炉の中に放り込む理由はここにある。救いを授かる者としての器にない私を救おうとされているのだ。

主よ、この罪人の心にもお入り下さい
試練と患難によってボロボロに打ち砕かれた私の心にお入りください。この苦しさをお捧げします。
貧しく満たされず、家族を失い悲嘆にくれる私の心にお入り下さい。この闇をお捧げします。
全てを無くした私には、あなたをお迎えする以外に何もできません。何も出来ないほどに無力となってしまいました。
この寒さの中で凍える私をお救い下さい。
あなたと共に安らぎの眠りにつかせて下さい。
この祈りの希望と灯火をいつまでも燃えさせてください。
どうか主を向かい入れるのに相応しい器になれるように導いて下さい。

全てのキリスト者が40日の受難の旅の中で悔い改めて、あなたの計画の道具として命をささげる者となれますように。

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