イエスの救いを願う祈りの日々

イエズスへの祈りがあなたの願う救いとなりますように恵となりますように

救いと苦しみの正体

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

救い

イメージ 1

修道院の聖堂
ただ一人沈黙の中で祈る
自我を打ち消し、全てを聖堂の支配者に委ねる
心も体も聖なる静けさの中に溶け込ませると、
肉体の感覚と言葉の知識は消えてしまう
十字架の前に従順にひざまずき、なすがままになれば、
この世の時の流れは止まり、意識は地上を離れる
不安を作り出す全ての記憶が無くなり、
全ての躊躇いを導く物が無くなるまで十字架に清められる
何も求めず、何も応えず、祈りに自分を捧げる
呼吸を忘れ、名前を忘れ、存在を忘れるほどに
生きていることすら忘れ、罪深い自分を忘れるほどに
試練の炎が止まり、御前に引き出された私は全てを十字架の勝利者に捧げ、
彼の意思に従う、ここにいるのは全能永遠の存在と私だけ
すでに私の霊はあなたの手の中、目を瞑り、静かな呼吸を続けながら、
深く深海に沈み落ちるような祈りを続ける
体の揺れはやがて静まり、聖堂と一体、永遠の愛の中に一人
幼子が母の胸の中で乳を飲み、そのまま眠りについてしまうような優しさに包まれて
愛する人と喜びの内に抱き合い、何もかもが赦された時のような感動に包まれて、
私はこの聖なる場に一人

もっと早くここへ来れば良かった、もっと早く祈れば良かったそんな後悔など虚しいこと
わずかな衣服だけになるまで取り払われ、貧しくなった事でここに祈ることが出来る
取り返しのつかない、どうすることも出来ない重荷に潰された我身を憐れみここに来た

“主よ”、僅かに口からこぼれ落ちた呟き
願えども姿は無く、望めども印は無く
“主よ”、一瞬開いた瞳が十字架を捉える
塵を顧みられるのはいつの日か、手が差し伸べられるのはいつのことか

窓に差し込む日はすでに傾き、空気は冷たさを増す頃
遠く歌声、僅かに聴こえる祈りの言葉、繰り返し唱えられる聴き覚えのある祈り、
強い風の中を渡り鳥のように私のもとに辿り着く、
別の部屋から漏れ聴こえる、鳥のさえずりのような囁き

“主こそ真の救い、永遠の喜び、我が力、我が歌、主のみを信じて決して恐れない”

ああっ、聴け、これぞ主の御旨、全てを失い尽くして祈る私に導かれた主の思い

主イエズスキリストが私達の真の救い
この方が私達の待ち望んでいた救い
彼こそ御父が私達に与えられた救いそのもの
彼こそ御父がこの世におくられた救い主
私達は既に彼の救いの内にある

当たり前のことなのに、何故か喜びに涙が噴き出す
信仰する者なら心に刻まれている教えなのに、何故か嬉しくて声をあげて泣き出す
“彼こそ救い”“彼こそ救い”“彼こそ救い”
何度もこみあげてくる思いを抑えきれず床に涙を流す
無くした金貨が見つかった、
失った羊が見つかった、
死んだはずの息子が帰ってきた
胸がいっぱいになる喜びと感謝に、立ち上がることも出来ない
“イエズス様、あなたが私の求め続けた救いなのです”
“あなたの他に救いはありません。あなたが全てなのです”
不安も、恐れも、悲しみも、苦しみも、憎しみも、怒りも、絶望も全てあなたの御前で消え去ります

時が立ち、事情を察したシスターからお菓子とお茶を頂き心より感謝してその場を離れる


イエズスキリストと結ばれて私達はこの世の罪、悲しみ、苦しみ、痛みから救われ慰められる
救いを求めて私たちは彼と出会い、彼の言葉と教えを受け入れ、
洗礼によって彼と結ばれ救いの内に入る。
私たちは彼の救いの中で生き方の真理を悟り、彼を信頼して愛し、
自分の人生を賭けて何があっても彼に従う
イエズスキリストという救いの中で、彼と共に生き、彼を模範として自分を変えてゆく、
考え方も、見方も、話し方も、接し方も、力強さも、優しさも全て彼のようになろうとする
イエズスキリストという救いと共に、どこまでも、いつまでも彼と旅を続ける。

救いの中でイエズスこそが私達の喜び、幸せ、生き甲斐の正体、
彼と共に喜び、悲しみ、苦しみ、耐え忍び、痛みを堪える事は私達にとって大切な恵み、
唯一の喜び、生きる目的
だから何も怖がることも、恐れる事も、心配することも無い

イエズスそのものが私達の救い
彼が私達を救うのではなく、私達は彼によって救いの中に既にいる
彼を信じ愛し模範とすることが私たちの救いである
私達はもう彼の愛によって救われている
もう恐れる事は無い、日々の厳しさのなか、悲しみ、苦しみ全てにイエズスがいる
全てはイエズスの救いの中にある

主の願い

イメージ 1

主は言われる
私はあなた達の為に日々を与え、太陽を昇らせ、月と星を輝かせ、
季節を起こし、雨を降らし、大地を豊かに実らせた
私はあなた達が私を忘れないように、喜びと悲しみ、苦しみと慰めを与えた
私はあなた達を一人残らず愛し、慈しみ、罪を赦すために大切な子を手渡した
あなた達は私に何を捧げるのか

主は言われる
血の流れる獣のいけにえ等いらない
石作りの神殿等いらない
あなた達自身を私に捧げてほしい
私の愛する子のもとに一つとなり、手足となって働いてほしい
子の言葉と教えを真理として、互いに愛し合い、喜び合い、悲しみ合い、慰め合う者達となり、
皆で糧の全てを分かち合い、争うこと無く、額に汗して働き、生涯を支え合う世にしてほしい

主は言われる
あなた達が私の愛する子のように生きるならば、あなた達は光り輝く者となる
たとえ貧しく短い命でも、たとえ豊かな長寿でも、
あなた達が子のように生きるならば、私の愛する子になれる
あなた達を私の家へ迎え入れよう、あなたの住む場所も坐る席も食事も用意しよう
私の家があなたの帰るべき場所なのだ、私の子は私と栄光と共に永遠にそこに住む事になる

主は言われる
私はあなた達を作り、世に送り、聖性への道を歩ませている
喜びも悲しみも、苦しみも慰めも、私の意思である
私の招きに気が付く者も、気が付かない者も、
進んで聖性の試練を受ける者も、試練の重みに逃げる者も
最後には子により裁きを受けるだろう
私の愛する者達よ、私の招きに答えてほしい
私があなた達を作り、自由な意思を与え、
私の約束とあなた達の裏切りを繰り返しながらも、
あなた達を愛し続けていることを悟ってほしい
あなた達は私の似姿なのだ
土と塵と息で作られた私の大切な物なのだ
私の願いを受け入れるように生まれて来たのだ
そのためにあなたには良心が与えられた
さあ気が付きなさい、私はあなたを呼んでいる

主はいわれる
今日一日、私があなたに働きかけていることを思え
明日になり、次の日が来る中で全てのことに私が働いていること思え
私への感謝もあるだろう、私への怒りや絶望もあるだろう
私に滅ぼされそうな恐怖に襲われることもあるだろう、
疲れ果て私を呼び叫び求めるときもあるだろう、
命の危機を向かえる事もあるだろう、
しかし全ては私のあなた達への愛なのだ
あなた達が私の愛する子のようになるための道のりなのだ
平坦で楽な道ではない、険しく厳しい道のりである
誰もが同じではない、全ての者の道は異なる

時には忍耐しなさい、時には喜びなさい、時には泣きなさい、
時には安心しなさい、時に全てを委ねなさい。
この道を歩みながら、私の願いを聴き入れてほしい
崖を這い昇りながら、子のように隣人を愛してほしい

私はあなた達を信じて信頼し愛している
私が作ったあなたたちには一人として無駄な者はいない
皆、私にとって必要な者なのだ、大切な者なのだ
さあ、全ては子の言葉にある通り
あなた達に渡した子に従いなさい、彼の様になりなさい、
彼があなた達の姿に現れるようになりなさい
彼を信じなさい、彼を愛しなさい、彼は私なのだ
生きよ、生きよ、私の願いのために働け、私とともに喜ぼう、
私の願いは見果てぬ夢ではない、あなた達の生き方なのだ
すべて私と共に
私の愛する子と共に

幸福の王子

イメージ 1

さあキリストの復活を祝う聖週間が始まります
この一週間に私達キリスト者の全てが込められています。
ミサの中でエルサレム入場、最後の晩餐、弟子や民衆の躓き、受難、十字架の死、そして復活
2000年に渡るキリスト者達の敬虔な祈りと共にキリストの死と復活を現体験します。
そして私達はこの週に過ぎ越します。キリストと共に死んで、キリストと共に復活するのです。

いろいろな問題を抱え、日々の生活に必要な糧にも事欠き、経済的な困難や心や身体の痛みや暴力に耐えながら、また将来に対する不安や絶望にある人達にお伝えします。
私達は決して一人ではありません。あなたの傍らにはイエズスキリストが常にいて、共に苦しみ、共に悩み、そして慈しみを持ってあなたを抱きしめています。
決してあなたは孤独ではないのです。共にこの機会に祈りましょう。一緒に主に感謝して賛美の歌を歌いましょう。絶望を嘆くのではなく、今日も生きていることに感謝しましょう。
この期間に、復活祭を祝うキリスト教の教会をお訪ね下さい。そこには皆さんと同じ状況に、もっと深刻な状況にありながら微笑み、寛容で、静かに、慈愛に満ちた人達がいます。イエズスに救いを求めて教会を訪れたことを伝えて下さい。そしてその後のことは全てイエズスにまかせて下さい。

イエズスはあなたに安易にお金や食べ物や安全な寝床を与える存在ではありません。
あなたから災難や問題や苦労や悩みを簡単に取り除く存在ではありません。
あなたが現世で欲望のままにモノやお金や名誉で満たされることをイエズスは望んでいません。
あなたが現世で人の痛みや苦悩や悲しみを知ることなく、自己の満足のみで生きる事をイエズスは望んでいません。
イエズスキリストは、あなたにイエズスの言葉を信じて彼に倣う生き方を始めることを求めます。
私達はイエズスを信じることで、それまでとは異なるイエズスの生き方を歩むことになります。
それはあなたがイエズスによって救われるのではなく、あなたがイエズスの手足となって人を救う者になることなのです。
人を救う金銭的な余裕がなければ、時間を、体を、自らの命を捧げて人を救うのです。
手元にパンがあれば、全部困っている人に渡しなさいと、山頂でイエズスは人々にこう告げました。
自分のことは最後に後回しする、もしくは自分の事はしない、人々に仕える者になりなさいとイエズスは教えました。
私たちが日々の苦難の中で本当に困っているからこそ、この世の中で苦難に苦しむ隣人の心の痛みが心底理解できるのです。
苦難の中で困っている人は自分の力では、もはや何も出来ないぐらい追い込まれています。
だから私達は人助けなど出来ないぐらい、余裕も無いのに、本当は食べるものにも困っていることを後回しにして、ひたすら自分の苦しみや悲しみは耐えて忍んで我慢して、自ら進んで徹底的に自己犠牲と自己奉献を行うのです。苦しむ人と苦しみを分かち合うのです。
共に苦しみ、共に悲しみ、共に叫ぶ、イエズスが私たちに寄り添うように、私たちは苦難にある人と苦難を分かち合いながら祈るのです。

自分の持っている食べ物を全て渡してしまい、自分の食べ物が無くなり、
結果飢えて死ぬのなら、それこそが主の御旨に適うことなのです。
自分の着ている服を全部渡してしまい、自分は寒さに凍えて、
結果として死んでしまうのなら、それこそが主の御旨に適うことなのです。
自分が飲まなければならない薬を全て病気の人達に分け与えて、自分は病気が進行して、
結果として死んでしまうのなら、それこそが神の御旨に適うことなのです。
ほかの人を救命ボートに乗せて、泳げない人に救命具を渡し、
結果として泳げない自分は溺れ死ぬのなら、それこそが神の御旨に適うことなのです。
子供が病気だから治療費を貸してくれと騙す人にお金を渡し、
結果として無一文になっても、病気の子供がいないことを喜ぶ事が神の御旨にかなう事なのです。

これはどんな生き方なのでしょうか、
皆さんは“幸福の王子”の話を覚えていますか
物語の中に出てくる南の国に帰らず、銅像の王子のために一生懸命宝石を運ぶツバメこそ私たちキリスト者のあるべき姿なのです。私たちは物語の王子ではありません。王子はキリスト、私たちはツバメです。ツバメは王子のために働き、寒さに凍え、力尽き、最後に安らかに王子の足元で死にました。実際にそんな事ができる人がいるのでしょうか、マザーテレサやコルベ神父のように命を捧げて生涯をかけてイエズスの御言葉や御旨を実践した人達がいます。

イエズスは私達に自分の十字架を背負い、神が私たちに授けた愛と慈しみを、毎日、毎日、困っている人達に分け与え続け、助けあう事が求められているのです。
キリストは受難と十字架の死によって、想像を絶する苦しみを味わい、全ての人間の罪をあがなわれたのです。私達はこの主の受難と十字架の苦しみを、正確にトレースするような人生を歩みます。
これは、キリストの教えを知らない人から見れば躓くような愚かなことですが、私達にとっては信仰の真理なのです。キリスト者はイエズスと共に苦しみ、賛美を捧げて、感謝を捧げながら悲しみ、祈り、自己犠牲と自己をささげ生きることが喜びなのです。

キリスト者は生きている間に自分の欲を満たすような利益は決して与えられません。イエズスに従い、自らの重い巨大な十字架を背負う者は、この世で手に入れた欲とモノを全て失うことから信仰の第一歩が始まります。自分が可愛い、自分だけは守りたいと考えている人、自分の財や富を守ろうとする人は、試練の炉によって、不純物である不順な思いや欲が集めた持ち物が消えるまで精錬されます。全てが消え去るまで燃え盛る炉の中で鍛え上げられます。
ではキリスト信仰の救いとは何でしょうか。それは父と子と聖霊を愛し、この世においてイエズスが再び訪れる事への希望を持ち続ける事、死後に永遠の命を授かり神の国へ入ることにつきます。
キリストと共に生き、彼と共に死に、彼と共に復活するのです。やがてイエズスは私たちに手を差し伸べます。十字架から降りてきた彼は私を抱きしめて、苦しみを癒しそして共に天へ聖母の待つ場所に向かうのです。乾ききったこの世に鎖につながれて、苦しみに力尽きて倒れた私の顔をきれいな水で洗い、涙を拭い、命の水を飲ませてくれるでしょう。

聖週間の聖木曜日、聖金曜日、復活の徹夜祭、復活の主日のミサの中で私たちは信仰を新たにします。ミサには数多くの救いを求める人々が訪れます。苦難にある人、病にある人、絶望にある人、悲しみにある人達が自らや家族の救いを願い訪れます。主はミサを通して、救いを願うために訪れた人達を、“私のために働いて欲しい”と、全ての苦しむ人々の救い手として呼ばれます。イエズスは訪れた人達に、巨大な十字架に釘で打ち付けられて血を流す自らの姿を示します。全てに勝利する力強い姿ではなくボロボロになって私たちを見つめる姿を示されるのです。この絶望的にも見える十字架に躓くことなく、十字架の中に秘められた私たちの信仰の真理を見出すように私たちは彼らのために祈ります。

ヨハネ黙示録14:13
今より後、主に結ばれて死するものたちは幸いである

幸いなる人

イメージ 1

毎日を
悲しみ、苦しみ、嘆き、肩を震わせて生きる者は幸い、
いつか救われる、死を迎えた時に
今日身に降りかかる事件に
恐れ、震え、歯ぎし、悩み、背中を丸めて隠れながら歩く者は幸い、
いつか救われる、死を迎えた時に
患難を恵みと信じ
耐え、忍び、口を閉ざし、主の再臨をじっと待ち望む者は幸い、
いつか救われる、死を迎えた時に
希望を抱きかかえながら
貧しく、悲しく、辛く、誰からも愛されない人生を歩む者は幸い、
いつか救われる、死を迎えた時に
主の教えを大切に守り
祈り、愛し、慈しみ、奉仕し、正義に生きる者は幸い、
いつか救われる、死を迎えた時に

主に結ばれて、彼を糧にして生き、やがて死ぬものは幸い、
裁きが終わると、主は私に駆け寄り、重すぎた私の十字架を取り外し、
これまでの試練の全てを労い、私を抱きしめて霊を癒し休ませてくれる
泥まみれになって倒れている私の頚木を取り外し、畑の外まで背負い、私を清めてくれる。
主を信頼し、主を愛し、主と共に生き、そして死ぬものは幸い、
死を迎えても主は私を滅ぼさず、永遠の命を授けて彼の国の住人にしてくれる
主は私を罰することなく、怒るのではなく、慈しみと期待を持って私を迎えてくれる
一番良い服と履物を用意してくれる
彼の住まいは私達の喜び、憧れ、本来の帰るところ、
神の国に迎え入れられる事は罪と死への勝利
彼の住まいを訪れれば、この世の苦しみも、悲しみも、絶望も、親しい者との別れも全て癒されて、
主の愛に満たされた喜びと微笑みと安堵に変わる

もう隠す必要はない、言葉を選ぶ必要も無い、キリスト者に明らかにしよう。
私たちの救いはその死、罪への勝利と永遠の命として成就する。
主が私達に約束された事、死んで神の国へ向かう喜び溢れる救いの日が訪れるまで、
天の国の婚礼に招かれた客人として迎え入れられる日が来るまで、
自分が罪人である事を毎日のように悔い改め、主の受難を思い、復活の希望を抱き、耐えて、忍んで、謙遜し、沈黙し、恨まず、憎まず、贖い主に信頼し祈り、感謝し讃えて賛美する
臨終の瞬間まで、御言葉の真理に従い、主に倣いもてるものを全て差し出して自己犠牲の愛を実践する。
果かなく、小さく、弱く、卑しいこの世の人生は、死と共に報われる。

この世のことに苦しめられている人、
悲しんでいる人、
恐れている人、
叫びを上げている人たち
私達が生きている間には救いは来ない
私たちはこの世に生きる限り、私達が人を救い続け、私達が隣人の救いを求めて祈り続ける
全力で耐え抜き、苦しみ抜き、悲しみ抜き、主への愛を貫き通し、回心しつくした者に、
いつか、そっと、やさしい母のように温もりのある手を差し伸べられる
“私を助けてください”と心からの祈りに主は優しく沈黙を破り救いの手を差し伸べられる
今すぐ、この瞬間にもあなたの本当の救いを待ち望みます
どんなに試練の鞭が強くなっても自ら命を捨てる事はしません
あなたの御心に従います
ですから私を本当の救いに導いてください
父と子と聖霊の御名によって、
アーメン

毎日をひたむきに、貧しさに耐えながら生きるキリスト者を励ましてください。
救い主と神の国の到来を待ち望む喜びを教派や教会を超えて、言葉や人種を超えて、与えてください。
私達の信仰と神との関りをあらためて深める機会を与えてください

洗礼を受ける人に

イメージ 1

これからカトリック教会で受洗される方々にこの文章を捧げます。

私達の願いや望みの大半は現世利益です。
日々の生活や仕事や人間関係の中の思い通りにならない事が上手く行くように、欲しいモノが手に入るように、病気や怪我が回復するように、試験が受かるように、頭が良くなるように、彼女と結婚出来ますように全てこの世の願望や欲望を満たす事が願いとなっています。
この世界の動きや未来や運命が人間の思い通りになることが成功であり、全て上手く、問題も損害も無く、モノや金で満たされた生活が出来るのが幸せと呼ばれています。

しかし幸福とも呼ばれるこの状態は長くは続きません。
人間の生涯は時計の大きな振り子のようなモノで、幸せと不幸の間を行ったり来たりしています。しかもバランスが悪い振り子で、幸せは一瞬ですが不幸はその何倍もあります。人生の振り子が不幸に振れて、人生何もかも上手く行かず、悲しみと苦しみが支配する状態に入ると、人間はたちまち不安になり、慌てふためいて、何かにすがって救いを求め始めます。

神は世界一幸せな人にも、世界一悪い人にも平等に不幸と幸福を与えます。
私たちは幸せな日々に終わりがあってはならないと思っているので、不幸になると何としても幸せな状態が継続するようにと必死にもがきはじめます。そして私達は幸せの継続と更なる大きな願いの実現ために、神仏や信仰に願望達成の要求をします。中には神仏や信仰に金を払って問題の解決を図ろうとする人もいます。信仰と称して人間は一方的に自分たちの要求ばかり並べて、神仏を人間に従わせようとするのです。また騙す目的で困っている人の悩みにつけ込み、霊感詐欺を働いて金を取ろうとする者まで現れます。過去に犯した罪が原因で不幸になった因果応報だ、私が祓って上げましょうというビジネスですね。過去の祖先が悪い事しましたといわれたら、祖先も死んだ人も堪りません。このように人間の傲慢な自己中心的なエゴイズムと欲望の本質はアダムとイブが犯した最初の罪のから何ひとつ変わることなく今に続いているのです。

主は人間の身勝手な欲望には沈黙します。
どこの世界に、金と引き換えに人間の願いを易々と成就させる神様がいるでしょうか。人間は都合の悪い時だけ神仏を拝み、一方的なわがままな要求を突きつけ、神が救わなければ御利益が無い、駄目な神仏だと非難するのです。占いも新しい信仰も、人間の側の都合に合わせて、いい事ばかり、景気の良い事ばかり並べるものが喜ばれます。
しかし本当に困っている人を救い助ける者は見返りや報酬を要求することはありません。困っている人を救う商売や救いの代償として料金や利益を取るのはおかしいと思いませんか。電車で老人に席を譲り、金を要求する者がいるでしょうか。困っている人を救い助けることは自分を神に捧げる神聖な行為なのであり、商売や利益を生むための行為ではありません。救いは無償なのです。

神は欲望を満たす為の願いや祈りを聴きいれられません。人間の欲望を達成する神の救いもありません。逆に人間が神を畏れ、謙遜し、神の願いに積極的に自分を捧げようとする努力や苦労に神は報われます。神の救いの計画に参加して、役に立つ道具となりたいと願う祈りは神によって聴き入れられます。“人間が神に信頼して従う”これが本当の神と人間の関係なのです。人間の我侭に神を従わすのではなく、神の御旨に人間が徹底的に従うのです。傲慢な自我を捨て自分の全てを神に捧げましょう。全能の神である御父が私たちを愛すように、私たちは隣人を愛し、神の恵みを分け合うのです。御子イエズス・キリストに倣って愛と義に生きましょう。そして天にあるようにこの世に神の国の到来を待ち望みましょう。

神は日々私達にイエズス・キリストを通して、神の計画への協力を求めています。
幸せと呼ばれる時に人間は神を振り返りもしません。幸福も神の恵ですし御父に心から感謝し賛美しなければならないのに、人間は神も信仰も忘れ、キリストに倣う生活を実践しません。ですから神の願いは人間が苦難の中にある時にもたらされます。人間のほうから神を求めて祈り、神との交わりを求めている時を狙い御父は人間に要求します。御父の求めは簡単な奉仕かもしれないし、献血かもしれないし、神父になることかもしれないし、もしかすると一生涯ベッドに横たわることかもしれないし、殉教することになるかもしれません。如何なる神の求めに対しても私達は拒否することなく、よろこんで受け入れなければなりません。時に優しく時に過酷にも思われる御父の求めに、神の御旨にかなう者になる喜び、神の求めに応じ死もいとわない信仰が求められます。どうしたら神の御旨に従う力と勇気を得られるのでしょうか。それはミサです。
洗礼によってイエズス・キリストの体に結ばれ、日々を生かされる私たちは主のみ旨の従う器・道具としての使命を果たさなければなりません。何時どこで主からのサインが表されるかはわかりません。その日が来るまで聖性と呼ばれる状態に入ります。とにかく素直にこのサインを掴み取れるように精神と肉体と五感を鍛えられます。鍛える方法は試練と艱難です。私たちは主イエズス・キリストの受難同様に自分の十字架を背負いいつ終わるとも知れない受難の旅に出ます。試練と艱難が私たちを聖性し鍛え上げます。これが神の求める私たちへの計画への協力です。この試練と艱難を通して御旨の器として成長するのです。この苦しみを主から与えられた恵だと思えば悲しくないし不安も消えます。どんなこんなに合おうとも誰にも愚痴らず、迷惑もかけず、ひたすら忍耐して笑顔を絶やさず人々のために尽くすのがキリスト教徒なのです。自分のために生きるのではなく、ひたすら主と隣人に尽くすために生きるのです。自分のことを後回しにして、他人のために命をかけて奉仕することが私たちの信仰なのです。
この生き方、信仰の原動力となるのがミサと御聖体の拝領です。ミサでの祈り、共同体の一員としての自覚、そしてキリストの御体であるパンと御血であるぶどう酒の拝領により、私たちはキリストと一体となり、過酷な日々に耐える事ができるようになるのです。何があってもミサに出ましょう。

キリスト者は「今日、おいしいものが食べられますように」ではなく、「世界の貧しい人がおいしいものを毎日食べられますように私の食事代を捧げます」と祈るのです。

隣人に全てを与えつくして疲れ果て、空っぽになり、私たちに何が残るのでしょうか。
永遠の命が与えられます。私たちの救いはイエズス・キリストの十字架と復活によって成就し、洗礼を授かった私たちは罪を許され、先のようにキリスト者として試練と艱難の十字架の人生を歩み始めます。そして最後にイエズス・キリストが再び現れ、生きている者も死んでいる者も裁きにこられます。このときに私たちは大概の人が永遠の命を与えられて神の国に入る事が出来るのです。でも先の試練と艱難の十字架を背負う事も無く、キリストを模範とする生き方をする事もなく、隣人を救うことも無くひたすらエゴイズム誰で生きていれば予想させる結果に陥るわけです。

さあこの復活祭で洗礼を受ける方に望みます。どうぞキリストの香りかおる立派な信者になってください。

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.
felix
felix
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

Yahoo!からのお知らせ

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事