弦のツブヤキ

心の弦が呟いたもろもろを書きとめただけの心象スケッチ

ブログ移転のお知らせ


下記のリンクへブログを移転しました。

ここを見ていて下さった方には、ぜひこれからは、
新しいブログも覗いて頂けると嬉しいです。
宜しくお願いします。


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あれは、昨年の春のこと。

何気なくネットサーフィンを楽しんでいた私は、
ひょんなことから、不思議な魅力に溢れた世界への扉を開けた。

天地創造以前から存在した神々。
天使に悪魔、他、自らにその自覚のない人ならざる者たち。
幽玄の世界に囚われていることに気付かない乙女。
美貌の悪魔にいざなわれ、地獄を覗く女。
本に囲まれて暮らす女性に、特殊な出生を背負った娘………。

その息遣いや温もりまで感じられそうなほど、
確かな血肉を持ち、生き生きと動きまわる彼ら、彼女らは、
みな誰かを慕い、憧れ、追い求めている。

まるで、「高野聖」や「草迷宮」のように、
読むものを惹きこむ力をもった、鮮明な世界――――――。

それが、オリジナル小説サイト『天使のたまご』との出逢いだった。

当時公開されていた小説は、
サイトを見つけたその日のうちに、すべて読破してしまった。
しばらくの間、独特の香りを持つその世界から抜けられなかった覚えがある。

でも、決して厭な気持ちではなかった。

いみじくも同じ題名を掲げる映画(※)について記事を書いた時も述べたことだが、
ひとつのしっかりと確立された世界観に基づく創作物は、
決して、読者や観衆の心に、不快な印象を残さない。

その時は衝撃を与えたり、苦痛を感じさせたりする描写があっても、
読み終わり、見終れば、ちゃんと無意識の通過儀礼がきて、後遺症を残さないのだ。

このサイトにある小説も、まったく同じだった。

そして、物語の内容や発想が斬新でおもしろいことは云うまでもないが、
一度覚えたら忘れられない、一種の味というか、香りのようなものがあって、
それが私にはとても魅力的で、居心地がよかった。

―――……それは、作者の個性と云えるのかもしれない。
とにかく私は、すべての小説の根底に流れているその空気に、恋をした。

運命の親切な計らいで、私は一年ほど前から、
このサイトの管理人であり、小説の作者である庚真守さんと、
便りを通してお話することができるようになった。

たびたび、個人的な悩みも聞いて頂くこともあるが、
真守さんはそのたびに、根気強く話を聞き、泣きごとに付き合って下さる。

この場も借りて、心からの感謝の気持ちを申し上げたい。

******

さて、真守さんの小説に触発された格好で、私もモノを書きはじめた。
さすがに彼女のように、奥深い世界や生気溢れるキャラクターは描ききれない。
それでも、創作の楽しさは何にも代えがたい魅力がある。

そうしてこの度、半年ほど前から取り組んでいた小説が、書きあがった。

………もっとも、登場人物のほぼすべてが真守さんのキャラクターなので、
完全な創作とは云い難い(所謂二次創作というものになると思う)。

それでも、初めから終わりまでひとつの物語をつくりあげた悦びはひとしおだ。

非常に恐縮なことだが、真守さんは私のそんな拙い作品を、
ご自分のサイト内にある、Giftのページにアップして下さった。
万が一、ご興味のある方などがあれば、
そこで、私のヘロヘロタッチな小説を冷やかすことができる(※2)

しかし、私はまず何よりも、真守さんの作品を満たしている、
あの独特の魅力を孕んだ雰囲気を味わって頂きたい。

現世から連れ出されてしまいそうな世界が、目の前に開けるはずだ。


オリジナル小説サイト
『天使のたまご』


※ 以前、このブログでご紹介した映画『天使のたまご』と、今回ご紹介したサイト『天使のたまご』は、
  偶然、同じ題名であることをのぞき、一切関係ありません。
※2 Giftのページは、真守さんのブログ内にリンクがあります。

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“自分”と意識できる概念のことを、“自我”と呼びます。

他に、理性とか意識とか、様々に云いますが、
この“自我”は、主観と客観、ふたつの視点が生まれて、
初めて、認識できるものなのだそうです。

私には、不思議と鮮明に心に張り付いている思い出があります。
 
四歳の誕生日を迎える前夜、夢を見ました。
澄み切った美しい湖の水面。
場所は渓谷なのでしょうか、岩山や木々の色彩が映えています。
水面へ向かって、まだ色づく直前のモミジが垂れていて、
そこへ、目にも鮮やかな、真赤なトンボが二匹、とまるのです。
 
その時、目が覚めました。
 
その瞬間、私は生まれて初めて、
「ああ、私は私になったんだ。これから長いことそうなんだ」と、
不思議な感慨を覚えました。
 
実際、私の中にある“自我”の記憶は、この時から今まで、
ちっとも変ることが無く、鮮明なままなのです。
 
それを境に、面白い体験もするようになりました。
 
実際に肉体を動かし、活動している自分自身を、
もう一人の自分が、少し上空から眺めている感覚です。
とてもおもしろかったので、
これを意識して行うのが、当時の私の遊びでもありました。
 
もしかしたら、“主観”と“客観”が人格内に生まれた、
ひとつの過程だったのかもしれません。
 
このような経験をされた方は、きっと少なくないと思います。
 
あまりに劇的な、一夜の変化だったためか、
未だにあの、真赤なトンボの夢は鮮明に記憶に残っています。
 
―――二匹のトンボ―――
 
あれは、自分自身というものを感じ取る、
ふたつの自分の姿だったのでしょうか。

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魂のふるさと

先日、ポーランドはクラコフの街を訪ねてきました。
ここの美術館に所蔵されている、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品のひとつ、
『白貂を抱く婦人』という絵に逢うためです。

そう、「逢うため」。
最初の出会いから、もう十数年が経ったかと思います。

『白貂を抱く婦人』は、絵画という美術作品が持ちえる力と、
コピーでも写真集でもない、実物の絵画をみるというのがいかなることかを教えてくれた、
自分にとっては、とても思い入れの深い作品です。

絵が、語りかけるということ。
絵と、対話すること。
絵も、時を超えて生きる命をもちえるということ。

すべて、この絵画との出会いによって知った衝撃でした。

クラコフは、今回ものぞいて二度訪れたことがありますが、
二度とも、必ず美術館を訪れて絵との対話を楽しみました。

また、あの人に逢って話がしたいな。

そう思うようになって三年ほどになりますが、
今回、ようやく念願かなって再びクラコフの土を踏む段となったのです。

クラコフという街そのものが、
戦火を免れて、中世の美しい佇まいをそのままに残す魅力的な土地です。
ウィスラ川のほとりの丘に、ヴァヴェルの城がそびえています。
歴史的な町の中心にある広場は、もとは市場だったそうで、
たくさんの琥珀の装飾品を売るお店が現在も軒を連ねていました。

しかし、最後に訪れた当時の記憶と情報だけを頼りにしたのは失敗でした。

当時、『白貂を抱く婦人』を所蔵していたチャルトルイスキ美術館は、改修工事中。
現在、絵画はヴァヴェルの城で展示されているとの表示。

そこで、今度はヴァヴェルまで戻ったはいいものの、
どうやら、一日に展示室へ入室できる人数には制限があるらしく、
すでに午後も遅めの時間、すでに制限は上限に達していたのです。

まさに、はるばる遠路を恋人に逢いにきたのに、ドタキャンされた気分(笑)

しかし、何がどう功を奏したのか、
それとももともと、そのあたりのことはなぁなぁな気質だったのか、
私たち一行の嘆願は聞き入れられ、入室させてもらえることになりました。

こうして、九年ぶりに再会を果たした『白貂を抱く婦人』は、
宮殿の一室に、ひっそりと展示されていました。

臙脂色のやわらかな壁に囲まれていた、
住み慣れたもともとの美術館の部屋を離れて、
どこか疲れた様子もあったものの、
記憶していたとおりの美しさと生命の輝きは損なわれていませんでした。

旅を共にした方の一人が、あとでこんなことを云いました。

仮に、この絵がダ・ヴィンチ直筆のものではなかったとする。
描かれてから数百年の間に、紛失したか盗まれたかして、
現在、ホンモノとして飾られているのが、真っ赤な贋物だったとして、
私たちはそのことを知らないから、本物だと思っていたとする。
そういうことだってありえるのではないか?

私はしばらく考えたあと、こう答えました。

仮に、あなたの云うことが本当だったとしても、私はあまり気にしない。
十数年前と九年前、そして今日、自分の目の前にあった絵と、
確かに対話し、確かな美しさや力を感じ取ったのだから。
何であったとしても、私は確かに目の前にあった絵が、大好きだから。

「なぜ、好きだと思うの?」と、その人は再び訊ねてきました。

さあ、そう云われるとなんとも言葉になりません。
強いて云えば、恋している人に対して、
「なぜその人に恋しているのか」と訊ねるようなものだったからです。
恋なんて、たいてい、なぜよりによって「その人」に惹かれたのか、
わからないものですからね。

それでもちょっと考えてみると、答えはでてきました。

自分が「私だ」と意識できるより、ずっと大きな自分自身・・・
自分のふるさと、原始の自分、それよりもっと大きく最初の何かを感じるから。
とにかく、懐かしいから。

私はこの感覚を、“魂のふるさと”を思い出させると表現しています。

絵画に限りません。
音楽であれ、演奏であれ、漫画、映画、小説、舞台であれ、
誰か特定の個人も、なんらかの感情も、どこかの風景も、
惹かれるものの中には、必ず、
“魂のふるさと”を感じさせる何かが含まれていて、懐かしくなるのです。

芸術作品が、そんな思い出を呼び起こし得るというのを教えてくれた、
それが、クラコフにある『白貂を抱く婦人』でした。

ルーブル美術館所蔵の
『モナ・リザ』、『洗礼者ヨハネ』、『聖家族』と対面した時も、
まったく同じ感慨が訪れたのを、今でもよく覚えています。

訊ねた人は、私の答えにわかったような、わからないような表情でした。
とても主観的な感覚だから、言葉だとうまく伝えられないのかもしれません。

次に逢えるのは、いつのことになるのか。

その時には、今よりもう少し、
なぜ、こんなにもあの絵に惹かれて、話したいと思うのか、
この感覚がいったい何なのか、
俯瞰できるようになっているかもしれません。

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私はよく、“修行”という言葉を使う。

「まだ修行が足りない」とか、「もっと修行したい」とか。
修行するということは、私にとっては人生を生きることと同義であり、
人生を生きるとは、自己実現への道を歩むことと常々感じている。
日々の暮らしの中でそう考えるようになったというよりは、
そんな感覚が、物心ついた時から血の中に流れていたような感じだ。

だから、修行に励むとは、清々しくて、わくわくする行いであり、
たった一ミリ程度の進歩であっても、その達成感と充足感はたまらない。

もちろん、とある具体的なものに対する相対的な修行もあるけれど、
どうも突き詰めていくと、修行は、日々の無意識の行為も含めて、
すべてが内包されていると、少なくとも個人的にはそう感じる。

ところで、このように「修行」という言葉を使うと、結構よく、
「あまり無理をしないで」とか、「自分に厳しくし過ぎないように」などと声を掛けられる。

心を配って頂けるのはとても嬉しいし、ありがたいのには違いないのだが、
自分としては、特に無理をしているとか自分に厳しくしている自覚もないので、
なぜそんなふうに思われるのか、実はいまいちよくわからずにいた。

それが昨夜、とある友人との昔のコレスポンデンスを整理していたところ、

「あなたは“修行”というものを、何かのために苦しみに耐えるというのでなく、
 気高く清々しい行いとして、それを楽しむような感覚を持っているようですね」

というその人の指摘が目にとまって、ふいに胸に落ちるものがあった。

確かに、修行という言葉からは、様々な宗教の僧侶たちの、
己を厳しく律する苦しい禁欲の生活が連想されるのだろう。
修行とは苦しいものと思われがちなのかもしれない。


また、これは私の知り合いの男性の話だが、
彼と共通の知人から、彼からの連絡が途絶えて困っていると云われて、
どうしたのか訊ねてみたことがあった。

すると彼は、その共通の知人からひどい侮辱を受けたのだと云う。

詳しく話を聞いてみたところ、彼はその人からネクタイを贈られたらしい。
ところで、彼によると、彼の故郷のウクライナでは、人にネクタイを贈るというのは、

騎馬民族時代、酋長が誰かに自殺を命じる証として縄を渡していたことから、
「死ね」と同義であるとして、最高の侮辱行為にあたるのだそうだ。

だから、ウクライナではネクタイは贈り物として究極のタブーらしい。
もっとも、贈り物をしたのは日本人だったのだから、それを知るはずもない。

幸い彼もこちらの説明を理解してくれて、二人は関係を修復することができた。


同じ言葉、同じ習慣が、国により、民族により、時代により、
その概念や連想されるもの、善か悪かまで変わってしまう。

個人と個人であっても、それは同じなのかもしれない。

何気なく発したことが、意外な受け取られ方をしていることもあれば、
相手から受け取った物を、私たちはひどい誤解のまま理解しているかもしれない。

そこに何の他意もなければ、よけいに戸惑ってしまうこともあるだろう。

思いこみには注意しようとか、柔軟な考え方を身につけようとか思っていても、
生まれながらに刷り込まれた概念というのは、
固定観念として脳に居座っているから、自覚するのは想像以上に難しい。

だからといって、歩みよる努力や理解する姿勢を放棄してはならない。
どんなに理解しがたくて受け入れられないものでも、
せめて受けとめる心は持っていたい。
仮にこうした小さなすれ違いが、取り返しのつかない傷になることがあっても、
もしかしたら私にはわからない何かがあったのだろう……と受け止められれば、
悪戯に誰かを恨んだり自分を責めたりしなくても済むかもしれない。


私たちは、ひょっとしたら自分たちで思っているより複雑で面倒な生き物だ。

だけど、元の元の元の元まで辿っていけば、
地上で最初の生物の中に、原初のたったひとつの細胞の中に、
宇宙のチリの唯ひとつ、原子、分子、素粒子の中に、
すでに、複雑怪奇な人間の脳みそもスピリットも、内包されていたのだ。

展開に展開を重ねて、今の世界、今の私たちがいるのだろう。

つまるところは世界のすべてと同じお母さんから生まれたことになる。
そんなことを考えていると、やっぱり優しい気持ちになれる。

だから、困ったことや戸惑うことや、その他いろいろなことがあっても、
すべてに対するその優しさと愛情だけは決して忘れたくない。
つらつらとこのようなことを感じている昨今である。  

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