はんのき日記 PART2

多く読み、多く見聞きし、自分で考え、少し発信します・・

語ろう憲法

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・・・・つづき

「これまでは、国家と国民は‘対立’させられてきたけれども、‘対立’するのではなく、一緒に協力していくということがいいのでは?」という自民党改憲派の方々の主張があります。

政府と市民、国家と国民は、いつも緊張関係・対立関係に、あるものです。
‘対立’というと、‘感情的な対立’と勘違いしやすいのですが、‘憎しみ’とか‘敵意’などという情緒的なものではありません。
構造的な意味での‘対立’です(う〜ん、どういうこと?)。

少々理屈っぽい話になりますが・・・・
  権力者は、初めから権力を持っているわけではありません。
  国民(市民)から権力を委ねられているに過ぎません。
  そもそも、権力を構成したのは、主権者である国民です。
  権力を構成した国民と、その権力を委ねられた人々(つまり権力者)との関係が、‘対立’です。
  権力を委ねられた人々が、その権力を国民に対し、濫用・悪用する可能性がある。
   (人間は過ちを犯すものという人間の不完全性を前提にしている)
  それを防ぐために、緊張関係を保つのです。
  彼らの間の‘対立’は、絶対に解消するものではありません。
  彼らの間に協調・共生関係はあり得ません。

ですから、下記のようなフレーズには要注意です!・・というか危険です!    
       「行政と市民との協働」
       「市民と行政の対等な関係によるパートナーシップの確立」
       「国家と国民が協力し合いながら、共生社会をつくる」
       「政府と市民との役割分担」

つまり、※権力への不信をを抱かず、国家と共生する国民(市民)
    ※政府(行政)に積極的に協力する国民(市民)
    ※政府(行政)に従順に従う国民(市民)  ・・・・・が当然となってしまいます。

どうやら『主権者』という意識がず〜っと薄弱のまま、日本人は来てしまったようです。
主権者が国家を運営するわけで、国家に協力する・国家と役割分担するなんて、そもそもありえないのです。
主権者こそが国家を動かしているのですから・・・・(大苦笑)。
                                       ・・・またつづく・・

自治会の回覧板の中に、「市民と行政の協働を推進しよう」というパンフレットが、入ってきました。
いよいよ、きましたねぇ・・・「新しい公共」。
下記のような穏やかな言葉の何が問題なの?と不思議に思われる方も多いかも・・。

「行政と市民との協働」
「市民と行政の対等な関係によるパートナーシップの確立」
「国家と国民が協力し合いながら、共生社会をつくる」
「政府と市民との役割分担」・・・・(などなど、なんとなく、心地よい言葉が並ぶ)


次に、自民党の憲法改正プロジェクトチームが、2004年に出した2つの文章を紹介します。
 
2004年6月、「論点整理」発表
 「これまでは、ともすれば、憲法とは『国家権力を制限するために国民が突きつけた規範である』
  ということのみを強調する論調が目立っていたように思われるが、
  今後、憲法改正を進めるに当たっては、憲法とはそのような権力制限規範にとどまるものではなく、
  『国民の利益ひいては国益を守り、増進させるために公私の役割分担を定め、
   国家と国民とが協力し合いながら共生社会をつくることを定めたルール』
  としての側面を持つものであることをアピールしていくことが重要である。
  ・・・・憲法という国の基本法が国民の行為規範として機能し、
  国民の精神に与える影響についても考慮に入れながら、議論が続けていく必要がある」

2004年11月、「憲法改正草案大綱」素案発表
 「21世紀における現代憲法は、国家と国民を対峙させた権力制限規範というにとどまらず、
  『国民の利益引いては国益を護り、増進させるために公私の役割分担を定め、
   国家と地域社会・国民とがそれぞれ協働しながら共生する社会をつくっていくための、
   透明性のあるルールの束』
  としての側面をも有する」

要するに、【国家と国民の「協力」「協働」「共生」】ということ。
これはもう、「国家とは何か?」「国民とは何か?」そして「憲法とは?」「立憲主義とは?」という従来の考え方を、根本からひっくり返すことですよ!!
国家(政府・統治権力者)とわたしたち(市民・国民)の関わり方が、大きく変わってしまいます!
立憲主義が根底から壊されかねません!

・・・・・ここで、立憲主義とは?憲法とは?の復習・・・・・

そもそも憲法とは、弱者を強者の権力から守るための道具です。
近代憲法の歴史をひもとけば明らかなように、憲法とは国民一人一人の人権や自由を守るために生まれたものです。
ヨーロッパでは、かつて強大な権力を持つ国王や領主たちに、人々が支配され、日々の生活から職業・結婚・宗教などに至るまで、がんじがらめに縛られてきました。
そして市民革命を経て、“立憲主義”という考えが生まれました。
権力を持つ強者が暴走して、権力を持たない弱者をいじめないように、前もって憲法でその権力の範囲を制限しておく、つまり権力者の行為を、すべて憲法に基づかせるという考えです。
権力者は、憲法という枠内でしか、その権力を行使できないというわけです。
これが、“立憲主義”であり、憲法の存在する意味です。

憲法の精神は、『弱きを助け、強きを挫く』です。
憲法は、権力者(たとえば国家の支配者)に向かって、発せられています。
国民に向かってではありません。
憲法を守らなくてはいけないのは権力者です。
そのことが憲法第99条にはっきりと書かれています。
第99条に書かれている方々、つまり「天皇または摂政および国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」は、残念ながらかつて悪行を為したブラックリストの方々です。
彼らが、再び暴走することのないように、きつくきつく縛りをかけています。
 
ところで権力を持たない弱者には、権利が必要です。
ですから憲法には、たくさんの“国民の権利”が書いてあります。
それなのに「今の憲法は、権利ばかりで義務が少なすぎる」と、自民党の議員さんたちは、よく批判します。
憲法は、【権利だらけ】だからこそ、憲法となりうるのに・・・。

立憲主義の一番大切なポイントは、「国民の権利・自由を保障すること」です。
そして、そのために「権力者を拘束すること」です。
たとえどんなに素晴らしい人柄の人物が、権力者になったとしても!!!です。
人間の心とは弱いもので、いったん権力を握ったら、暴走しないとは限りません。
権力者(国家の支配者など)に対して、権力無き者が「暴走しないで!調子に乗らないで!」と命令しているのが、『立憲主義に基づく憲法』です。
                                            つづく

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「すばる」8月号に、文化人類学者・中沢新一と爆笑問題・太田光の対談が掲載されています。題して「憲法九条を世界遺産に」。なんとも直球なタイトルですが、「ああ、いいなぁ」と思った発言が多かったので、長くなりますがいくつか抜粋します。現実主義という名の諦め、小賢しげなニヒリズム、現状追認が跋扈し、理想や夢想を語る人間が容赦ない嘲笑に晒される昨今。もしジョン・レノンがこの世に戻ってきたら、「イマジン」を歌う気力も失せるかもしれません。その中にあって太田は飄々とした皮肉屋のポーズを取りながらも、書生臭い理想論を力強く語る言葉を持った稀有な芸人です。発言のつまらなさが行くところまで行ったビートたけしとは対極にあると言っていいでしょう。
太田 改憲すべきだと言う人が、自分の国の憲法は自分の国で作るべきだとよく言います。でも僕は、日本人だけが作ったものではないからこそ価値があると思う。あのときやってきたアメリカのGHQと、あのときの日本の合作だから価値があると(略)といって、あの憲法をアメリカが持ち帰って自国の憲法にしようとしても、アメリカ人が守れるわけがない。価値があるのは、日本人が曲がりなりにも、いろんな拡大解釈をしてきたことです。あの憲法を見ると日本人もいいなと思えるし、アメリカ人もいいなと思える。すごくいいことじゃないですか/その奇蹟の憲法を、自分の国の憲法は自分で作りましょうという程度の理由で変えたくない。少なくとも僕は、この憲法を変えてしまう時代の一員でありたくない。
太田 僕らお笑いの人間は、面白いか、つまらないかを一つの判断基準にしています。漫才で芸人がどれだけ頑張ってみせても、人が笑わなければ何の価値もない。面白いのか、つまらないのか、そのお笑いの判断基準でいえば、憲法九条を持っている日本のほうが絶対面白いと思うんです。これは確信できます/無茶な憲法だと言われるけれど、無茶なところへ進んでいくほうが、面白いんです(略)憲法九条というのは、ある意味、人間の限界を超える挑戦でしょう。たぶん人間の限界は、九条の下にあるのかもしれない。それでも挑戦していく意味はあるんじゃないか。いまこの時点では絵空事かもしれないけれど、世界中がこの平和憲法を持てば、一歩進んだ人間になる可能性もある。それならこの憲法を持って生きていくのは、なかなかいいもんだと思うんです。
中沢 その意味で言うと、憲法九条は修道院みたいなものなんですね。修道院というのは、けっこう無茶なことをしているでしょう。普通の人間が暮らせない厳しい条件の中で、人間の理想を考えている。修道僧は労働もしないし、そんなもの無駄なような気もしますけれども、人間にとって重要なのは、たとえ無茶な場所であっても地上にそういう場所がある、ということをいつも人々に知らせているというところにあるでしょう。普通に考えたらありえないものが、村はずれの丘の上に建っているというだけで、人の心は堕落しないでいられる。そういうものがあったほうが、人間の世界は間違いに陥らないでいられるんでしょう/チベットの僧院もそんな場所でした。僧侶は労働をしないで、あらゆる生き物に慈悲深い生き方をするにはどうしたらよいか、なんてことを毎日考え抜いている(略)そこで考えたことを誰かがやろうとすると必ずこけるんだけれど、みんなで温かく愛で包んで彼の努力を褒め称えてあげる。そしてまた、先に行こうとするんですね。
太田 憲法九条は、たった一つ日本に残された夢であり理想であり、拠り所なんですよね。どんなに非難されようと、一貫して他国と戦わない。二度と戦争を起こさないという姿勢を貫き通してきたことに、日本人の誇りはあると思うんです。他国からは、弱気、弱腰とか批判されるけれど、その嘲笑される部分にこそ、誇りを感じていいと思います。
太田 (略)でも最後に、ドン・キホーテが正気に返るところで、ええっと思ったんです。サンチョ・パンサが「ご主人様」と言うと、ドン・キホーテがポカンとした顔で「え、何のこと?」と答える。その最後の場面で、僕はすごくがっかりしたんです。この小説、ひどいなと。正気に返って終わりなんて、ものすごくつまんなくなっちゃうじゃないですか。

中沢 夢オチじゃあねぇ。

太田 俺たち読者が今まで長い間楽しんできた物語を、そんな終わらせ方するなんて、ひどいじゃないかと、突き放されたような感じがしたんです。憲法九条の改正問題にも、これと似たような感覚があるんです。九条を改正したら、日本は正気に返ったドン・キホーテになっちゃうんじゃないか。最後の場面で落胆したように、この世界がいきなりつまらないものになってしまう気がするんですね/憲法九条を持ち続けている日本というのは、ドン・キホーテのように滑稽で、しっちゃかめっちゃかに見えるかもしれないけれど、やっぱり面白い。
中沢 (略)太田さんがうまく言ってくれたけれど、日本が世界の中でも珍品国家であるのは、ドン・キホーテのような憲法を持ってきたからです。サンチョ・パンサだけではできていなかった。僕は現実家としてサンチョ・パンサが大好きです。「旦那はそう言うけど、あれば風車ですぜ」と言って現実的な判断をしてくれる人がいることは大事なことです。戦争はこれを永久に放棄すると言っても「ミサイル撃ち込まれたらどうするんですか、旦那」と、言い続ける人たちがいることは必要だと思います/ただただ平和憲法を守れと言っている人たちは、日本がなかなか賢いサンチョ・パンサと一緒に歩んできたのだという事実を忘れてはいけないと思います。そのことを忘れて現実政治をないがしろにしていると「旦那を殺して俺の天下に」と、サンチョ・パンサだけが一人歩きしはじめる危険性がある。日本国憲法というドン・キホーテは、戦前の国家主義的ドン・キホーテよりもずっといい考えをしています。ドン・キホーテ憲法とサンチョ・パンサ現実政治の二人が二人三脚をしてきたゆえに、日本は近代国家の珍品として、生き抜いてこれた。だからこの憲法は、まさに世界遺産なのだと思うのです。

転載元転載元: 半哲学的談笑

私の住む地域(約4000戸)でも、いよいよ「九条の会」が発足する運びとなりました。
聞くところによりますと、日本全国で約5000のいろいろバラエティに富んだ「九条の会」がつくられているとか・・・。

井上ひさし(作家)、
梅原猛(哲学者)、
大江健三郎(作家)、
奥平康弘(憲法研究者)、
小田実(作家)、
加藤周一(評論家)、
澤地久枝(作家)、
鶴見俊輔(哲学者)、
三木睦子(国連婦人会)
・・・・という、日本の良識を代表する9人の知識人によって設立された「九条の会」。
この「九条の会」のアピールへの賛同を広めつつ、憲法のことをもっと知り、積極的に使いこなしていこうというものです。

ただ今、7月中に、結成総会を持つ予定で動いています。
呼びかけ人(9人)とはいえ、実のところは、お世話係(雑用係)です。
私が、他の呼びかけ人の皆さんに、最初に確認として言わせていただいたことは、「政党色をつけないようにしましょう」ということです。
政党として、いわゆる“護憲”をはっきり主張している党は、共産党と社民党だけです(残念ながら)。
でも、きっと、自民党や公明党や民主党を支持されている方の中にも、「9条は変えたくない!!」と考えている人が、少なからずいるはずです。
また、9条に関心があるけれども、「既成政党は、どうも・・」という人も大勢います(私もその一人かな・・?)。
そのような人達に、9条の一点で、幅広く手を結んでいけるかどうかが、この会の存在の成否でしょう。
すでに、賛同を寄せていただいている人の中に、“バリバリの公明党員”もいます!

アピールの最後のところです・・・・
「私たちは、平和を求める世界の市民と手をつなぐために、あらためて憲法九条を激動する世界に輝かせたいと考えます。そのためには、この国の主権者である国民一人ひとりが、九条をもつ憲法を、自分のものとして選び直し、日々行使していくことが必要です。それは、日本の未来の在り方に対する、主権者の責任です。日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます。」

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こ、こんな法律が作られなければならない日本の社会って・・何なのだろう?

自殺者が、ここ何年も、毎年3万人を優に超えています。
自殺未遂者は、その10倍はいることでしょう(つまり30万人以上)。
そして、自殺者と未遂者の身近な人達(少なくても4〜5人はいるでしょう)の精神的な打撃は大きいはずです。

たとえば、「寝たきり老人」という言葉は、日本だけに通用する言葉です。
高齢社会の先進国には、こんな言葉はもちろん、老人を寝たきりにさせるなんてことは、ありません!
「寝たきり」、「老人」という言葉はそれぞれありますが、二つを合体させた「寝たきり老人」だなんて、先進国にはあり得ないのです!
そして、いよいよ!すざましさを増してきている民間の保険会社(アリ○など)の宣伝・・・(テレビの長いCM、新聞の全面広告、チラシなどの広告費に、いったい、いくらかかっているのでしょう?尋常ではない!)。
きっと、老後の不安から加入する人が多いのでしょう。

今、この日本において憲法25条(生存権)は、残念ながら実現しているとは言えません。

   第25条 (1)すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
        (2)国は、すべての生活部面について、
           社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

☆第1項の主語は「すべて国民」、述語は「権利を有する」です。
言うまでもなく、生存権が国民にあるという【国民の権利】が明記されています。
(明治憲法下では、国民の権利ではなく、“国家の恩恵”として、天皇から「施しを受ける」というものでした)
☆第2項の主語は「国」、述語は「努めなければならない」です。
国民の生存権を保証するために、国がしなければならないこと、【国家の義務】が明記されています。

生存権の始まりは、1919年ドイツのワイマール憲法です。
国からの干渉を受けず、縛りをかけられなければ(自由と平等さえあれば・・)、誰でも幸せになれるという考えです(つまり『形式的平等』)。
ちなみに、アメリカは、今でもこの考えですね(公的な保険がなく、民間保険だけ。保険料が払えないで無保険の人が4000万人以上いる)。
資本主義が発達するにつれ、貧富の差という不平等が生じてきました。
社会的経済的強者に対しては、一定の規制をかけ、社会的経済的弱者に対しては、生存権を保障するために国家が保護をするのです。
これが社会福祉であり、社会保障というもので、国家は積極的な施策をとらなければいけないのです。
25条は、国家に対して「介入してくれ」「放っておかないで」という「国の作為を求める」ものです(“社会権”という)。
ちなみに、19条20条21条は“自由権”ですから、国家に対して「介入しないで」という内容です。
国家による適切な介入により、貧富の差がカバーされ、『実質的平等』へ近付いていきます。


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