|
スペシャル版(4/21版!)で長々と年表を載せてしまいました。
でも、自分なりにまとめてみて、改めてわかったことがたくさんありました!
★★ ポツダム宣言が、7月26日に米英中より発表された時、日本政府が「この宣言を相手にせず」と無視した理由は、国体護持の保証がなかったからでした。(国体とは、天皇を中心とした国家の政治体制のこと)
8月15日の正午に流されたラジオ放送での「終戦の詔書」は聞き取りにくかったようですが、ちゃんと「・・・朕ここに国体を護持し得て・・・」とあります。
「・・耐え難きを耐え〜、しのび難きをしのび〜」はドラマなどでよく取り上げられるフレーズですが、メインは、国体護持だったのです!
ポツダム宣言は無条件降伏だったといわれますが、とんでもない、天皇自ら望んだ「国体護持」という条件がありました。
★★ もし、7月26日以降の早い時期に、この宣言を受け入れていれば、広島長崎の原爆投下はありませんでした。
ソ連の参戦(満州に軍を進めた)もなかったので、今なお続く残留日本孤児問題もなかったはず、そして、ソ連参戦の前なので、朝鮮半島が南北に分断されることもなかった・・・。
★★ 敗戦直後にスタートした東久邇宮内閣は、天皇の一族による内閣ということもあって、不敬罪(天皇批判ダメという法律)や治安維持法(今うわさの共謀罪みたいなもの)はそのままで、ポツダム宣言の趣旨に則った政治が行えませんでした。
それどころか「一億総懺悔説」を唱えました。
これは、日本国民こぞって、天皇に対して!!『敗戦を詫びる』というものでした。
当時の人口は、7000人でしたが、朝鮮人や台湾人も含めて一億としたのです(朝鮮人台湾人がなぜ天皇に詫びなければならないの??)。
★★ GHQは当初、日本が主体的にポツダム宣言に従い、民主化を進めるだろうと様子を見ていましたが、二ヶ月経っても一向に民主化が進まないため、10月に入り、新憲法の作成などを示唆しました。
当時の政府首脳陣は、残念ながら『敗戦から学ぼうとしなかった』のです。
だから無駄な2ヶ月間が過ぎてしまいました。
★★ 中国侵略に反対して、戦前は公職につけなかった幣原喜重郎が首相となり(10/9)、ここからようやく日本の戦後がスタートします。
11月には、第89回帝国議会が開かれ、ここで女性に参政権を与える法律が可決されました。
12月には、白鳥敏夫が巣鴨拘置所から吉田外相宛に書簡を出しました。
★★ この白鳥書簡の内容が、今では第9条の原型と考えられています(日米どちらから9条の基になる考えが出たのか議論が分かれていた)。
その内容は、「将来この国民をして、再び外戦に赴かしめずとの天皇の厳たる確約、いかなる事態、いかなる政府の下においても、(略)国民は兵役に服することを拒むの権利、および国家資源のいかなる部分をも軍事の目的に充当せざるべきことなどの条項は、新日本根本法典の礎石」になると位置づけ、「憲法史上全く新機軸を打ち出すもの」としました。
そのうえで、「天皇に関する条章と不戦条項とを密接不可離に結びつけ(略)憲法のこの部分をして(略)将来とも修正不能ならしむることによりてのみこの国民に恒久平和を保証し得べき」と述べています。
つまり、“戦争放棄の条項”を“天皇制条項”と結びつけることで、天皇制を守ることもできるとしました。(いうまでもなく、第9条と天皇条項はワンセットなのです)
★★年明けて、風邪をひいた幣原はGHQからペニシリンを譲ってもらい、そのお礼に24日、GHQを訪れています。
それが、1月24日のマッカーサー・幣原会談です。
白鳥書簡の経緯が明らかになるまでは、9条の発案は幣原自身によるものという説が有力でしたが、白鳥書簡が幣原の手に渡っていたことを考えると、もともとの発案者は白鳥だったと言えます。
この書簡を発見したのは、ドキュメンタリー番組制作者鈴木昭典氏です(詳しい内容は朝日新聞05,8,?より、すみません、日にちがはっきりしません)。
★★ また、1946年1月1日のいわゆる天皇の「人間宣言」は、どうやらアメリカ主導で作成されたらしいことが、今年の元旦の毎日新聞で明らかにされました(人間宣言の草案メモが発見された)。
そして「人間宣言」の冒頭に、なんとしても『五箇条のご誓文』を入れたがっていたのが、天皇自身でした。
「神格否定は二の問題だった。民主主義は、明治天皇が採用されたことを示したかった」と天皇自身が後日(77年)述べています。
★★ 1946年2月1日に、毎日新聞によってスクープされた日本政府の憲法草案は、あまりにも保守的で明治憲法とたいして変わらない内容でした。
マッカーサーは、驚き怒り、急いで民政局に憲法草案を作成するように指示します。
これが後にいう「マッカーサー・ノート」「マッカーサー三原則」です。
まだ時々「今の憲法は押しつけられた憲法だ」という人がいますが、「誰が、なぜ、どの部分が押しつけられたのか」きちんと調べれば調べるほど、軽はずみなことは言えなくなるはずです。
約9日間という短い期間で、GHQ案は作成されました。
それは民間の学者たちによる「憲法研究会」の内容がかなりヒントになったからです。
また諸外国の憲法もおおいに参考にされています。
★★ 4月10日、日本初!男女平等の普通選挙(衆議院)が実施され、女性が初めて投票所に足を運びました。
女性立候補者も大勢出て、全国で36人が当選したそうです。
この選挙で選ばれた国会議員たちによって、憲法草案が審議されていきます。
|