お気楽な詩人の真似事と日常

失敗ばっかりですが、気楽によんで下さい

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

塔 和子の「湖」

ふたたび 「本の旅人」から。
塔 和子を知っている人は少ないと思う。
私も 独立系の映画館で「風の舞ー闇を拓く光の詩」(2003年)を見たことで知っただけである。

 湖  塔 和子

出合わなかったいぜん
湖は氷っていました
あなたと視線が合ったとき
あの
熱い羞恥でとけたのです

  だから
私の眼の底には
青い湖が深々と横たわっています
ある日
あなたの投げかけてくれた言葉が
私の湖の中で
あわい水輪になって
果てしなく広がります

「風の舞」はドキュメンタリー映画だった。
14歳で四国高松の療養所に収容されたハンセン病患者である。
この「湖」は 今から46年前発行された 塔さんの最初の詩集「はだか木」の巻頭の作品である。
この作品の中の湖がどれくらいの深さで存在しているのかは 読者の想像力にゆだねられている。
いわゆる「療養文芸」と呼ばれるものがある。閉じ込められて 自由がなく 物質的欲望も制限されている場所からの発語。その重さを差し引いて 読まなければいけないが この切実さを読み取ることはできる。
なお、この作品を含んだ57編が入ったアンソロジー「いのちと愛の詩集」(角川書店)1575円が出ている。
現在、塔さんの作品は「塔 和子 詩集」(これはほぼ全作品が入っています)。アンソロジーのもとになった「塔和子 いのちと愛の詩」も絶版になっている。

開く トラックバック(1)

中原中也

現在、詩の作品を一般の人が読むことがあまりない。
中原中也の生誕100年ということで 山口の湯田温泉は ここ一ヶ月ぐらいイベントが目白押しである。

本屋でただで貰える「本の旅人」(角川書店)の5月号に そのイベントの一つ 中原中也賞のことが出ていた。今年で12回目で 受賞詩集は「みちのく鉄砲店」須藤洋平。
去年は三角みずえの「オウバアキル」だったかな?

 孤独とじゃれあえ  須藤洋平
夢中になって小さな岩場まで泳ぐと仁王立ち、周りを見
渡すと何もない黒い海にぽつんと「障害」という孤独が
際立った。

芸術なんだ!僕の身体は芸術なんだ!
それがその時の僕の唯一の逃げ場だった。
「生きるという事は恐ろしいね」
祖母が畑にはびこる雑草を見て言っていた事を同時に思
い出していた。

副題は「トゥレット症候群と闘う勇者たちへ捧ぐ」だそうである。神経の病気だそうだ。
昨年の「オウバアキル」も自閉症で自分の手首などを切る病気をテーマにしていた。

詩は どこかに病気を抱かえていて その中の孤独からの発語なのかもしれない。
この詩集は青土社から5月に発売される。(定価1470円)

私は この歌がきらいだった。
車座になって 座敷で ドラ声で歌う感じがきらいだった。
歌に 情緒も ストーリーもない。

のーえ節は 農兵節からきたともいわれる。

冨士の白雪 のーえ。冨士の白雪のーえ。
冨士の白雪 朝日に溶ける。

溶けて流れてのーえ。
溶けて流れて 三島に注ぐ。

三島 女郎衆は お化粧が長い。

お化粧長けりゃ お客が怒る。

お客 怒れば 石の地蔵さん。

石の地蔵さんは 頭が丸い。

基本的には このように続く。
この連と連の間には ほとんど 関連はない。第一連の白雪と女郎とは つながりが見えない。
まあ、宴会ソングだから いいのか で 許せるわけではない と 長く思っていた。

ところが 最近 連句や連詩をやり始めて これは 歌合わせで 即興で歌い継ぐものなのだ と 許せるようになった。
連句の句と句の間の付け筋がおもしろいかどうかであると思えるようになった。
もちろん 白雪が 溶ける。溶けて 三島に注ぐ。三島で女郎(宿場には酌婦がつき物)。
このような付け方は 月並みである。逆にいえば 一般に普及した常識でもある。それだから 宴会ソングとして 歌われたのだろう。

円朝の影

講演会に行ってきました。
講演者は 清水良典氏。
演題は 「ことばの行方」。
清水氏は文芸評論家。

前半は 愛知県の小牧工業時代の国語科での作文指導の時の実体験からの話。
人は なぜ作文がきらいなのか。
私もだが ブログやメールなどでは書くことができるのに 論文や報告書が賭けない。これは 改まった場所での文章の文体がみつけられないからではないか。
明治以前は 文章をかくことは 一部の教養人にしかできないことであった。その文体は漢籍や義太夫などのことばをもとにしたものであった。ところが 明治中期以後 言文一致の文が始まる。
この言文一致の特徴は 言葉に性別ができたこと と 客観描写と 主体描写が使い分けられるようになったことである。
もちろん 言文一致といっても 完全なしゃべり言葉ではない。しゃべり言葉は そのままを書き写すと 脈絡がないし、論理が整理されていない。この言文一致は しゃべる言葉ににせたもので 当時の書き手は 円朝の速記本の文体から学んだものである。
すくなくとも 「牡丹灯篭」や「文七元結」 あるいは「芝浜」などは 高座でかけられて ある程度磨かれた言葉になっていた。
この文体が私たちの実感から外れているのは 当たり前で その差を埋める文体 言葉を作り出してきたのが 1980年代からの村上春樹などの文章である。
その文章は 例えば 蜂飼 耳 の作品にあらわれている。それは 散文でもなく 詩でもなく 細部描写はするものの これまでの何かを伝えるのではない 脈絡のない世界を繫ぐものになっていくのだろう。
つまり 円朝の影から抜け出ようとしているのだと。

勉強会は 時間の都合さえつけば 出席するようにしている。
何らかの得るところはあるからである。
が、たまに 出席したくない勉強会もある。
それが 4月15日の勉強会である。
討議のテーマは「ケイタイと若者」題からして時代錯誤だぞ。という感じである。
問題提起の要旨を引き写すと「ケイタイの情報が電波として空中を交差しあっていると考えると空怖ろしくなってくる。それらの情報が、誰かがアクセスし、受信してくれることを待って、発信されつづけているのである。とりわけ、ケイタイはメールのやりとりという形で文字文化に関わっている。ケイタイのメールは画面の制約から言葉の短縮形を生み出し、絵文字による情緒表現を作り出している。同時に、間接的な人間関係を隣にいるかのような親近性を産み出し それでいて匿名性の高い関係を作っている。パンドラの箱を開けた時のような問題の拡散、こんな問題を ことばの力 を 信じる者として 一所に考えてみたい」
報告者の肩書きは 愛知学習協議会会長 とある。
うーん、こんな肩書き すごく怪しい。まあ、考え方はそれぞれなんだけど。
で この人の作品が読むに耐えられれば ある程度説得力があるけど 彼の作品は

権力はいつも汚れている
その汚れが
はみだして目に見えるのは 時々

排泄された汚物をふきとったから
と言って
清められたわけではない

ふき取った後から
また同じ場所で
腐敗がはじまっている

腐臭があふれるからと言って
顔をそむけないで
無臭の毒よりマシだから。

これである。どうみても 概念だけで書いている。これで 高校の社会科の教師だったらしい。
具体性がない。これでは 報告も具体的事例を出してくるように思えない。
勉強会は 具体的事例で討議したほうがよいのだが。
行きたくない 理由でもある。
それに 反論用の資料を用意するのも大変である。

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事