2016年3月11日を超えて

東日本大震災から5年。

5年前と同じ2歳児担任、金曜日、翌日勤務する保育園の卒園式と色んな状況があの日と重なった今年の3.11。

朝食を食べながら3人の子ども達とあの日の出来事を話し、初めて単刀直入に「震災の記憶」があるのか聞いてみた。

当時長男は5歳、長女は2歳で保育園にいて、津波が想定される地域にあった為高台にある小学校に避難した。
次女は生後6ヶ月で妻と自宅で経験した。

全員が「覚えてない」と言った。

保育園児2人は寒くて雪が降る中、誰のものかわからない靴を履いて逃げた経験をしたにも関わらず覚えていなかった。

その言葉を聞き不謹慎だと思うが、
嬉しかった。

3.11にあの日を思い出し話をして初めて涙ではなく、笑みがこぼれた。

同時に、だからこそ後世にしっかりと経験や教訓を伝えていかなくてはいけないと思った。

あの日からの子どもと保育2016〜伝える〜で石巻市日和幼稚園、山元町山元東保育所の裁判を担当された草場裕之弁護士が話された中身で「普段の関わりの中でいかに立場を超えて施設をより良くする為に職員間で話が出来ているかが重要」と「保育士は子どもの命を守るプロであり、責任がある立場。いかなる時でも情報の収集と共有をしなくてはいけない」という言葉が深く重く響いた。

あれから5年。入れ替わりの激しい保育の世界にあってどれだけ震災の教訓を伝え語ってこれたか。

様々な被災体験をした職員に対して傷をえぐるかもしれないと腫れものに触れないよう過ごしてきたと感じる。

しかし、親として保育士として責任を果たすという点においては話していかなくてはならない事がある。

相手や自分の傷をえぐるのではなく、自分自身の傷をなでながらケアするように相手に伝える作業をしなくてはいけないのだと今年の3.11で初めて気づいた。

そして、国に対しては、自ら傷と被災地に暮らす人達の傷を見せ何があったのか、そして何が必要なのかを伝えていかなくてはならないと。

そんな新たな気持ちが芽生えた3.11を無事に過ごし、翌日の卒園式も無事に終えることができた。

だからと言って自然災害がもう起きないから安心というわけではないが、5年前のあの日、事態が掴めず、寒さに震え、保護者の帰りを泣きもせずただただ待ち続けたあの子達が、卒園式を笑顔で迎えられたことを今は素直に喜び、感謝したい。

開く コメント(0)

2月21日に宮城県保育関係団体連絡会が主催主催開催した「あの日からの子どもと保育2016〜伝える〜」第二部での発言者4人目は保護者の立場からの発言 佐藤美希さんです。

私も佐藤さんと同じ保育園に子どもを預けていて、しかも下の2人の子は同級生。普段からお互いの家を行き来する仲。佐藤さんの子ども達から「父ちゃん」と呼ばれる位仲が良くて、私の子ども同然なあの子達の話。あの子達の姿が浮かぶだけに、この文章を読む度に涙が溢れます。
後半部分に書かれた
「あれから、5年たち、いまも、あゆみ保育園は、おなじように子供たちを守ってくれますか?」
という問いかけは同じ保護者として、そして保育園で働く保育士としても非常に重いです。
全国の人に是非読んで欲しい。そして考えて欲しい内容です。

<保護者の立場からの発言>
「あの日の思いを伝えたい」     
あゆみ保育園保護者 佐藤美希さん

イメージ 1



みなさん、こんにちは。
本日は保護者の一人としてお話しさせていただきます。
私には、3人の子どもがいるのですが、5年前の3月11日、子供たちは、4歳、2歳、そしておなかの中に息
子がいました。
あの大きな地震の時のことをお話しします。
当時臨月で3月末の出産を控えていた私は、産休中で、ちょうど自宅にいました。
大きな揺れを、マンションの4階で経験し、目の前でテレビがおち、棚から食器がおち、とにかく大きな揺れとともに、大きな音が家じゅうに響きました。
立っていることもできず、ゆれが収まるまで、その場でしゃがんで待ちました。長い揺れが収まったあと、すぐに思い浮かべたのは、当時保育園にいた、長女と次女のことです。
保育園は自宅から近くにあるので、すぐに駆けつけました。
とにかく早く家に連れて帰ろう、それだけを考え保育園に向かいました。
ちょうどお昼寝時間だった長女次女は、半ば寝ぼけ顔で、なにがあったかピンときていないようでしたが、いつもにはない早いお迎えに、心なしか笑顔だった記憶があります。
本当は二人を連れて帰りたかったのですが、次女をだっこすると、臨月の私には身動きがとれず、長女にはあわず、最初に次女だけを連れて帰りました。
マンションのエレベーターは止まっていたので、4階まで外階段を使わなければなりませんでした。そこで、初めて私は、だっこして次女を登れないことがわかりました。
おなかが痛くなり、どうしようもなくなったのです。
みなさんもご記憶にあるように、あの日、雪が降りました。マンションの階段にもみぞれが降り積もり、冷たく濡れていました。
お昼寝からだっこして連れて帰ってきた次女に、私はくつもはかせておらず、はだしでした。
次女を4階まで、はだしでその階段を上らせました。
次女は、不思議そうに私の顔を一度仰ぎみると、おそらく私のこわばっている表情をみて、あとはなにも言わず、自分の足だけをみて、4階まで、のぼりました。
次女の足は赤く冷たくなりました。次女がかわいそうになるとともに、私は長女を置いてきたことにも、見放したように胸が痛み、こういうとき、ふつう親は、「なにがあっても子供を守る」と思うのでしょうが、私は「子供たちのことを守り切れないのかもしれない」と思いました。
あゆみ保育園は比較的立地の低いところにあり、当時のマンションも同様でした。福島でそだった私は、高いのか低いのかもわかりませんでしたが、夫から低いところにあるときき、その後夫が長女を迎えに行ったあと、夫の実家に避難しました。その後、自宅周囲には津波が押し寄せ、その後当分の間、もどることはできませんでした。
夫の実家で避難生活を続けました。当時の次女は、今までになく、空元気で、ふざけたことばかりをし、周りを笑わせていました。長女はおうちに帰りたいとばかり言っていました。長女と次女は「たかだい」「つなみ」「すいそばくはつ」「にげろ」とテレビで繰り返し放送されているのをみて、覚えてしまいました。本当はもっと素敵な言葉をたくさん覚えてほしい時期だったので、複雑な気持ちでした。もれなく津波ごっこもして過ごしていました。
そんな次女ですが、後日当時の写真をみると、どの写真も笑っていませんでした。
また、震災から数日後、父方の故郷の女川の壊滅した写真が新聞の一面に乗り、もうすぐ生まれてくる息子を楽しみにしてくれていた人たちは、だれもいなくなってしまった、ことがわかりました。実家の福島は、原発事故で日々心配な状況でした。
私は、当時どのように子供を見ていたのか、過ごしていたのか、正直わからないことばかりです。
みなさんも経験のように、震災直後、空気も道路も空も、茶色と灰色の世界でした。色のない、世界でした。外をあるくと、ヘドロににおいで充満していました。火力発電所の爆発で、夜の真っ暗なか、星と、火の粉の赤い色だけが夜になると目に移りました。
そんななか、当時のあゆみ保育園の保育士の先生がたから、電話がきました。安否確認とともに、保育園をいち早く再開したい、と。臨月の私の体の心配もしてくれ、あずけることを進めてくれました。
次女と長女をつれ、夫の実家から、保育園に連れて行きました。ガソリンのこともあったので、歩いていくと、だいたい30分はかかりました。途中で開いている商店で、みかんやりんごを買って、おやつのたしにしてもらおうと、持っていきました。
ヘドロの乾いた茶色い道を、こどもたちと歩きました。
保育園につくと、ひさしぶりに会う、先生、お母さんたち、子供たちがいました。
先生たちは、顔にどろをつけながら、とびきりの笑顔で、迎えてくれました。子供達や私の体のことも心配してくれていました。
迎えてくれた先生は、震災後1回もお風呂にまだはいっていない、と話しました。でも、大丈夫だから、と笑っていました。
そのときに、震災後茶色だった世界が、もとの色を取り戻すかのように、空は青く、葉は緑に、太陽は明るい黄色になりました。保育園にこどもたちが戻り、一日でも早く日常を取り戻してあげたいという先生たちの気持ちが、本当にありがたいと思いました。
3月26日、おなかのなかにいた長男が生まれました。息子は私たちにとって、不安や悲しみをやわらげ、この灰色の世界を晴らしてくれるような希望でした。
長女次女のときには出た、祝い膳もなにもなく、毎日塩引きとひじきと白いごはん、でしたが、それでも、長男が無事生まれてくるために、多くのかたの力を借りることができたことを、本当に感謝しました。
3月26日は、あゆみ保育園の遅れた卒園式だったとのことで、参加した夫から、なにもないけれど、本当に心のこもった卒園式だったと聞きました。あとから、先生がたが、当時こどもたちを全力で守るよう冷静に避難をし、最後の一人まで、子供をあずかったことを聞き、保育士とはなんとすごい仕事なのだろう、なんと大変な仕事なのだろうと感じました。
その後保育園で、嘔吐下痢が流行りました。各地で感染症が蔓延した時期でもありました。でも、振り返っても一日でも早く、保育園を再開し、子供たちの日常を取り戻そうと、全力を尽くしてくれた先生がた、保育園には感謝しても感謝しきれません。
私も産後1週間から、保育園の送り迎えをしました。1か月、床上げするまで横になっていることはできませんでした。そのためか出血が続き、その後数か月の間出血はとまらず、体  調もすぐれませんでした。産後は1か月、しっかり休んだほうがいいです、でもあの時出産したお母さんは、みんな休むなどできなかったことと思います。
あえて言います。
あれから、5年たち、いまも、あゆみ保育園は、おなじように子供たちを守ってくれますか?今年でその息子も年長になり、あと1年で卒園します。息子たちが卒園すれば、保育園には、震災を経験した子供はだれもいなくなります。
私も仕事に復帰し、夫も転勤し、今度はすぐには迎えにいけません。
医療現場で働く身としては、今回保育園が園児を守ったように、私も夫も、患者さんを守ることを優先するでしょう。
それでも、大丈夫、きっと保育園は、子供達を守ってくれている、そう信じたいと思っています。これからもどうぞ、私たちの大切な子供達を守って下さい。

開く コメント(0)

2月21日に宮城県保育関係団体連絡会が主催主催開催した「あの日からの子どもと保育2016〜伝える〜」第二部での発言者3人目は栄養士の立場からの発言 村上慧美さんです。

イメージ 1


<栄養士の立場からの発言>       あゆみ保育園 村上慧美さん
1.当日の様子
 地震が発生した時間はちょうどおやつを作っている
時間でした。
あゆみ保育園の給食室内は棚や食器保管庫が倒れたりお皿が割れるなどの被害はありませんでした。揺れが収まってから近くの小学校に避難。おやつを食べる前に避難したので子どもたちにおやつをして非常用の乾パンを提供した。
少し落ち着いた頃に何名かの職員で保育園に戻りミルク
用のポットや布団など必要なものを取りに戻った。大人へは出来ていた分のその日のおやつを配った。そのほかに、おやつに準備していた果物や牛乳で夜まで過ごした。
2.次の日から保育再開まで
 次の日12日は自宅待機となりました。13日に出勤可能な職員で建物内の片づけと破損個所がないか確認しました。(75か所亀裂)
 16日に再び出勤し、園内清掃、園児保護者の安否確認、卒園アルバム作りを行いました。
 21日に保育所再開の要望があり1家庭保育(飲み水、弁当持参)
  この日の朝はまだ電気のみ復旧。午前中に水道が復活
 22日には3家庭5人の保育(弁当持参)
 23日から部分保育実施42名保育(主食のみ持参、おかず・おやつは提供)
  電気ご飯釜、ホットプレート、IHコンロ、ポット、卓上コンロ、電気のおかゆ釜などをを使用して給食を作る。職員はお弁当持参
24日 42名保育
25日 57名保育
28日 通常保育再開(村上復帰)
 4月13日 ガスが復旧し完全給食再開。
3.震災後の変化
震災後、散歩先で収穫してきたものが一切食べられなくなりました。それまではその季節によっていろんなものを取ってきては食べていました。きっかけは放射能でした。散歩先を測定していると、他の場所に比べ高い場所もありました。放射能のほかにも、保育園でいく散歩先は犬の散歩コースや道路沿いが多く、フンや排気ガスなどの汚染の可能性も考え、食べないということにしました。
  園庭に植えている桑、柿、姫りんごも必ず放射能検査をしてから食べることになりました。塩竃市の放射能測定器が一般でも使えるようになるまでは民間の計測器を使い測定していました。また、保育園の小さな畑も始める前に土の測定をしてから始めることになりました。
  そのほかには、近所の方などからいただいた食材も放射能測定をしてからでないと食べられなくなりました。
 乾物や牛乳の業者さんにも定期的に放射能測定の結果を提出していただくことになりました。
  塩竃市では給食で使用する食材の放射能測定を行うようになりました。費用については、塩竃市で負担し、測定するのも、搬入業者が測定してくれるため現場への負担は少ないです。しかし、各施設で毎日測定するものではなく、月に2回ほどしか測定できず、測定する食材も野菜を中心に他の保育所と食材がかぶらないように調整しなければいけないため本当に測定したいものが測定できないということもありました。
4.感じていること、想い
  あゆみ保育園は散歩が大好きでよく散歩に行きます。その散歩先でいろんなものを収穫し、食べるということが子どもたちの楽しみの一つでもありました。それが出来なくなってしまったのはとても残念です。
  また、年長児のクラスが昨年の秋に以前働いていた職員と散歩先であい、立派な赤大根を頂きました。持って帰ってきた子どもたちの顔は初めて見る赤大根に興味深々でとてもキラキラしていました。しかし、いただいたものは必ず放射能測定をしてから食べられないため、子どもたちが食べるまでに3日ほど期間が開いてしまいました。いざ、担任が子どもたちの前で大根を切ってみても、もらってきた日のような熱は感じられないように私は思いました。あの時、あの瞬間に食べられなかったことがとてももどかしい思いでいっぱいです。
  代わりものを準備できる食材については、散歩先でとってきて食べるときには代わりのものを使います。しかし、代わりのものを準備できないものがほとんどで取ってきても保育園ではお家の人に作ってもらってねとしか言えません。
給食を作るものとしては安全性を軽視することもできません。もし、万が一検査せずに食べたものが放射能を含んでいたらと考えると測定をして安全が確認されたものでなければ提供できません。



これまでなかなか話を聞く機会のなかった栄養士さんの発言をようやく私たちの集会でお話頂くことができました。
私の子ども達が通う保育園であり、私自身も卒園した保育園の栄養士さん。様々な活動にも積極的でアレルギーのある娘に対しての対応もしっかりしており、信頼している栄養士さんです。
私自身と同じような経験を子ども時代に経験して欲しいという思いからこの保育園に子ども達を預けているのですが、震災以降は様々な制約もあり、同じとはいかないのが現実です。しかし、新たな経験や文化というものを栄養士の立場で考え、子ども達に寄り添う関わりをしてくれていると感じてます。

開く コメント(0)

2月21日に宮城県保育関係団体連絡会が主催主催開催した「あの日からの子どもと保育2016〜伝える〜」第二部での発言者2人目は保育士の立場からの発言 林良徳さんです。

イメージ 1


<保育士の立場からの発言>       
つめ草保育園 林 良徳さん
2011.3.11の震災当日私は県沿岸南部の亘理町で
保育士をしていました。
地震発生時は休憩中で大きな揺れに驚き子ども達が寝ているホールへ急いで向かいました。すぐに収まるだろうと思って子どもたちに声をかけながら待機していましたが、揺れは収まるどころか段々と強くなって、園舎が壊れるのではないかと思うほど揺れ続けました。普通ではない揺れに、「この後どうすれば良いのだろうか」「外に避難するのも揺れが激しすぎて危険があるのでは?」と冷静な判断ができなかった事を覚えています。子ども達に布団を被せ揺れが収まるのを待っていましたが、避難の指示も出ないまま他の職員と「どうする?どうする?」と次の行動を考えました。実際の時間にしてみれば2.3分程度の時間だと思いますが、その時にはとても長く感じて、「いったいいつまで続くのだろう」という感じでした。結局避難指示も出ないまま現場の判断で園庭への避難をしました。後に分かったのですが、園長、主任は外出中だったということでした。園長不在等の場合に誰が避難の指示をするのか、そういった役割の分担も迅速に避難する為には必要だと感じています。
 園庭への避難後、雪がちらつき始め、パジャマ姿で震える子どもたち。続く余震の中、私たち保育士は揺れている園舎に入り、上着や毛布など手当たり次第に持ってきて子ども達を暖めました。日頃の避難訓練では園庭に避難し終了となったり、第二避難場所へ移動までの訓練ということが多く、実際の地震発生時に避難したという経験はありませんでした。そして、その先の行動までは誰も想定してはおらず、今後どのように対応するのか不安がありました。十分な情報もなく、いつまでも続く揺れ、心配になり迎えに来た保護者から大津波警報が出ていることを知らされました。
「つなみ」が来ることがイメージがつかずにいたのが正直な所ですが、何かとんでもないことが起きたんだということだけは感じていました。日頃の訓練は活かされましたが、想定外の事態が起こった時の判断の仕方や情報の収集が大事だと思い知らされました。
 次々と保護者が迎えに来て、確実に子どもを引き渡すという対応に追われる中で、「川の水が引き川底が見えている。」など情報も入ってきていて川沿いにある保育園だったので川の氾濫も可能性がないわけではありませんでした。
 職場内には自分の子どもを保育所に預けていたり、小学生の子どもを持つ人も多く、園内の子どもを心配しながらも、やはり自分の子どもを心配する様子が表情からも伝わってきました。
 女性の職員は自分の子どもを迎えに行く事を優先にし、園長・主任・男性保育士・年配の保育士が残り、迎えに時間が掛かっている子どもの保育をし、21時頃までにはすべての子どもを引き渡すことができました。その間、自分の家族とは連絡が取れずにいましたが、通常の倍近くの時間を掛け、ようやく帰宅することができ、家族の安全も確認することができたのです。
 翌日からはライフラインの関係や建物の安全確認のため、しばらく休園となりました。
当時、私は年長児の担任をしていたのですが、翌週に予定されていた卒園式も延期になり、保育園再開の見通しも立たないまま、このまま新年度を迎えてしまうのではないかという不安もありました。在園児の安否確認と卒園式のへの参加確認を行い、幸い3月の末に卒園式を行うことができ、一人も欠けることなく立派に卒園していきました。園児や保護者の安否確認の時には、何とも言えない緊張感があったことは忘れられません。
地震、津波の被害はとてつもないもので、たくさんの被害がでました。その被害の大きさは、誰が見てもすぐに感じ取れるものでした。そして次に私たちの生活を脅かしたのが放射能でした。電気も復旧しない状態で、情報がほとんど入ってこず、原発の事を知ったのは電気が復旧してからでした。私の住んでいるところは福島との県境の町、職場はその隣の町。どちらも福島第一原発に近い町。放射能の影響がどれだけあるのかわからない状態での新年度が始まりました。
 私は新年度3歳児の担任になり、その中には津波の被害に遭い母親と0歳に4月入園予定だった弟を亡くした子がいました。震災当日、祖母が迎えに来て、降園していきましたが、実家が海に近いところにあり、帰宅後津波の被害にあったそうです。津波の情報を知っていたのかわかりませんが、保育園で津波に関する情報を持っていて、帰宅するのは危険だと判断できていれば、防ぐことができた被害だった可能性があり、もしあの時という思いがあります。震災前はとても活発で明るい笑顔が印象的だった子でしたが、震災後は表情がほとんどなく、常にボーッと遠くを見ていたり、落ち着きもなく、気分の浮き沈みが激しくなっていました。残された父親、祖母も疲れきった顔で、何て声を掛けたら良いのか、特に祖母は目の前で孫と母親が津波にのまれていき、助けることができなかったという事実があり、遺族の方への対応の仕方に悩むことも多かった事を覚えています。
町内の色々な場所で目にする、倒壊した建物、不自然な状態で放置されている車、瓦礫、支援物資、給水所、仮設住宅など、通常の暮らしの中では見ることのない状況を子どもたちは嫌でも見ることになり、その原因となった「地震」「津波」という言葉が遊びや生活の中で頻繁に聞かれるようになりました。「津波がきて」とおもちゃを倒して遊んだり、テーブルを揺らして「地震だー」と遊んだり、そんな悲しい出来事が子どもたちの中で繰り返されたのです。また、震災後の余震や避難訓練では、それまではなかった位に迅速に行動する姿が見られるようになり、大事な事だけどちょっと違和感を感じていました。それだけ子どもたちの心の中に深く刻まれた出来事だったのだろうと思います。
 全国から保育園の子供達へと様々な支援物資が届けられましたが、「支援物資でもらった」と笑顔で言っている、子どもの姿が何だか複雑な気持ちにさせました。
 確実に子どもの心に大きな影響を与え、心のケアの必要性も感じました。とは言え、震災でたくさんの被害があったことを無視して行くことはできず、命を守るためには、子どもたちにも伝えて行くことは忘れてはいけないと思っています。沿岸部で暮らすにはそういった事実から目を背けて生きていくことはできないのです。
 保育園の生活は少しずつ通常の通りになっていき、町内の瓦礫も片付けが進んでいきましたが、放射能という見えないものが次に問題になっていきました。給食の食材は大丈夫なのか?外遊びはしてもいいのか?など、様々な情報があるなかで保育をしていかなければならず、保護者の中には自分で園庭の放射線量を計ったり、ネットで情報を集めたりする人もいました。保護者の不安はとても大きなものとなっているのを強く感じました。保護者の不安、園児への影響を考え、気になる部分には配慮をしていこうと、震災の年は園庭での遊びは時間を短時間にし、プール遊びは中止、運動会も時間を短くするなど、多くの制限を設けての保育になり、子ども達がのびのび過ごす環境とは違うものになりました。その代わりに室内で遊べるおもちゃの種類を増やしたり、室内での遊び方の工夫が必要となっていきました。地震や津波などは避難訓練などで、子どもたち自身も対応の仕方をある程度身に付けていけると思いますが、放射能に関しては目に見えるものではないし、大人が子ども達を守っていく他に方法は無いと思います。
 子どもにどんな影響があるかもわからない中ではその不安を取り除くことが必要だったのです。
震災から5年が経ち、保育の環境は元通りとまではいかなくても、震災前と近いものとなってきてはいるのではないかと思います。しかし、依然として復興の途中であり、集団移転先での新しい生活や再建された新しい保育施設での生活など環境の変化が大きい状態となっています。
 被害の大きかった沿岸地域で暮らす人も、親の立場からすると、自分の子どもを安全な場所に預けたいと思っているはずです。ただ別の土地へ移動することは簡単なことではなく、そこで生活するしかない人もたくさんいます。また、保育士不足が問題となっている今、津波被害の地域で働こうとする人がどれだけいるのか?同じ保育士をするなら安全な場所の方が良いという人もいるのではないだろうか?と思います。大事な子ども達を守ること、安心して働ける場所を作ること、基本となるそれがとても大事な事だと思います。
想定外と言われてきた大震災の被害を体験した私たちは、保育現場で起きたことや感じたこと学んだことを決して忘れず教訓とし、若い保育士やこれから保育士になって一緒に働く人たちに伝えていく責任があると思います。そして、「想定外だった」と言わずに対応できるような、命を守るための方法を日頃から考えていかなければならないと思います。


震災1年後に保育現場を離れ保育とは違う仕事も経験した彼。そんな彼が、保育や福祉の現場で働く人たちや子ども達、保護者の環境を改善する為に少しでも力になりたいと、再び保育の現場に戻り、様々な活動に参加し、発言するようになりました。
様々な経験をした彼だからこその視点で、今後も震災や震災以降の経験を伝えながら、福祉の環境改善の為に活動をしていくと思います。

開く コメント(0)

報告の2回目となる今日からは第二部での発言者4名の方の原稿を4日に渡り記載いたします。

イメージ 1


<保育園園長の立場からの発言>    「そのとき保育園はどうしていたか」
元乳銀杏保育園園長 高橋悦子さん
 震災を語るにしても、保育園の置かれた地理的状況―浸水地域か原発避難区域かではその対応、課題は大きく違います。乳銀杏保育園は園児の2家庭が流失したことはありましたが、子どもたちその家族職員もみんな無事。そして保育園も大きな被害はなく保育も次の日から継続できたという恵まれた状況でありました。
しかし、子どもたちの命を守らなければという思い、そしてあの過酷な状況を職員みんなで乗りこえてきたという点では、どこも同じなのだと思います。

―そのとき保育園は―
 そのとき保育園は次の日に卒園式を控えこれから会場準備という時の揺れでした。いつものようにすぐ放送しようと思ったのですがその時間ももどかしく隣の0歳児室へ。担任と一緒に寝ている子どもたちの布団に覆いかぶさるようにして守りながら揺れが収まるのを待ちました。強く長い揺れでしたがこのくらいなら建物は大丈夫という気持ちがありました。揺れが収まってから他のクラスの様子をみて回りましたが、不安いっぱいな子どもたちは担任のそばに固まっていてその頃は泣く子もいませんでした。蛍光灯がたれさがったことがありましたが保育室は無事でした。
 事務室ではすぐラジオをかけて情報を収集し、子ども達を新館に移動させる、寒さに備え石油スト―ブの準備、子どもたちが落ち着くようにおやつを出す、お迎えはクラスごとに確認しての引き渡しなどの指示を出し、手分けして行いました。玄関で見送りながら兄弟の安否確認もあるだろうと思って「保育園に戻って。」とは言わないでしまったけど、その後体育館などの避難所にいった家族もいたことを思うと、「保育園のほうが安心できるのでみんな連れて戻ってきてください。」と声かけすればよかったと思いました。
そして、私は無事子どもたちを保護者に引き渡すこととこれからどう夜をすごすかということに頭がいっぱいでしたが、小さい子を抱えた職員を早く返してあげればよかったと反省しました。

―その夜―
迎えに来れない子が多いことを予想していたのに7時過ぎには一人を除いて全員がお迎えになりました。マンションの扉が開かない、部屋が散乱して入れない、体育館では子どもが泣いて寝ないなどで戻ってきた家族、職員の家族も入れて40名が泊まりました。子どもがいる職員、帰宅を希望する職員以外は泊まることにしました。電気、ガスがだめでも水が出ていて助かりました。
その夜は、非常食用乾パン、バナナなどを夕食にしました。度重なる強い地震につけていたストーブを止め戸を開けることを繰り返しましたが1台でも石油ストーブがあったことで助かりました。(その後石油ストーブの台数を増やして保管)
雑魚寝してラジオの情報に胸を痛めていましたが、みんなが一緒だったので不安も分かち合い、朝を迎えることができました。

―次の日から保育実施―
次の日の土曜日は自衛隊のお子さんが登園。土、日と1名だけでしたが泊まった子どもたちと一緒に保育しました。
石油ストーブでご飯やみそ汁をつくり、園児の保護者がご飯を炊いて持ってきてくれたり、元職員はおかずをもって来たり、いろいろな差し入れもありました。玄関に貼った「ミルクやお湯があります」の張り紙を見てもらいに来たり泊めてと地域の方もきましたが泊まりは3日間で終わりにしました。
 園児は次週からは多い日で30数名になりました。業者さんも魚や野菜は手配がつき、非常用コンロや石油ストーブで対応し、食事も提供できました。給食職員は何度もお湯を沸かして消毒したり毎日献立を考えながら奮闘しました。コメの備蓄を心配して手を尽くしましたが、次の週には仙台市からの物資提供もあり3日ほど過ぎれば食料は廻ってくることがわかりました。
職員は交通機関が不通でガソリンもなく、放射能汚染が不安な雨の中、カッパをきて自転車で仕事に向かう職員の姿は心配しながらもありがたいものでした。また、家族や交通事情で勤務につけない職員もそれぞれが自分の地域で役割を果たしていました。小幡君は避難所での保育に参加しました。

―子どもや保護者の状況―
次の日、仙台新港近くの職場から歩いてきたお父さんが、携帯の充電が切れ家族と連絡が取れないといってきました。充電をしおにぎりを食べてもらいましたが昨夜は暗闇から何人も「助けて―。」という声が聞こえたとその恐ろしさを話していました。保護者の職場が流されたり崩壊して自宅待機が増え、他県の実家に避難したり休む子が多くなりました。被災後、子どもたちは放送に怯えたり、「地震でないよね。」と聞き耳を立てることが多くなり、しばらく園内放送をやめました。映像を見たり、親戚を訪ねたりして衝撃を受けてる様子が見られました。
 3月26日には卒園式を行いました。みんなで集まれたことを喜び、命の重みを確認する卒園式となりました。

《震災を振り返って思うこと》
1 震災対策が基本
―保育園にいるときはどこにいても子どもの安全は保障されなければならない―被災時にも一番は子どもたちの命を守り無事保護者の元へ返すこと―
(1)建物の耐震診断をしていたこと―震度6強でもひび割れはあっても倒壊はしない
(2)窓ガラスに飛散防止フイルムを貼り蛍光灯にも同じようなカバーをかけていた
(3)落下防止をいたるところにつけ子どもに怪我が及ばないようにしていた
(4)備蓄や懐中電灯などの準備、ラジオや石油ストーブ、保温ポットの準備など
(5)震災時にはお迎えに来るまでの間は何時に責任をもってみています。建物の倒壊はないと考え外への避難も危険なので園内にいます。と事前に保護者には伝えてある 
2 保護者への引き渡しについて
津波地域では祖父母に渡した後になくなった子どもたちが多かった。そうした地域では震災後は迎えに来ても安全になるまでとどまってもらうとか、一緒に高台に避難するなど、すでにこういう方針を決めたと思います。「どこにどう」避難するのか、そして「いつ誰に」引き渡すのかの確認を保護者としておくことが必要。
「津波てんでんこ」という言葉があるが、それぞれがその場で自分の身を守ることを優先すること―子ども達には特にそのような防災教育が大事だ。絵本などで津波のことも伝える機会をつくりたい。地域としては動けないお年寄りをどうするかなどの対応も必要だが。

3 震災後の保育園の対応―保育の実施・保護者や職員を支えること
保護者の仕事や生活再建のためにも、そして子どもたちにとっては友達と遊ぶことが元気の源なので一日も早く安心して日常生活ができるように保障することが大事。そのためには保育の実施が必要。同時に家が流されたり仕事がなくなったりした保護者を支えることも必要。そして職員も肉親を失って同じように辛かったり様々不安を抱えていたりする。職員への寄り添いもとても大事なこと。

4 保育園として被災した方にできる支援とは―地域に役立つ保育園として
・震災の次の日、赤ちゃんのミルクやお湯をもって避難所である原小や宮小、区役所へ職員と行く。それから「保育園にはなんでもありますから赤ちゃんがいる方はどうぞおいでください。」と避難所を回って呼びかけたり、門に張り紙をするなども。しかし、その場所で遊び場を設けるなどこちらから出かけての支援が必要だった。小幡君は要請もあって避難所での役割を果たした。
・阪神大震災の状況(保育園の庭にたくさんのテントが張られ、被災地の困難な中での保育実施)から保育園の果たす役割が大きいことを感じていた。そしてあの夜もトイレ貸して、入れて下さいと指定避難所ではない法人内の児童館に60名以上の方が押し寄せたということ。それから何日間か児童館は避難所として対応した。
この経験からも、保育園は小さい子どもを抱えた家族にとっては最も安心して過ごせる場所であることを痛感。保育再開が優先なので何日もできないけど最初の1日か2日でも、トイレも充分でない寒い体育館よりは、保育園のほうがどれだけ過ごしやすいか。町内会の総会でそのことを話したらとても喜ばれ、その場で物資を保育園に届けます(NPOの方)とか銀杏町集会所も避難所として考えられるのではなどの話になった。

5 震災時にも何よりも公的保育制度が重要
認可園や公立は仙台市も動いたが、建物が壊れたサンプラザの保育園や宮城野保育園など無認可保育所の保護者は自分たちで子どもの行き先を探すことになった。3月は数家庭の子どもを一時保育で受け入れたが無認可ということで対応が大きく違っていた。津波震災地域では休園していた間の職員給与も出されることになり、無認可や幼稚園などとは違う公的な保証があった。
 また、子どもたちの命を守るという視点で考えると、受け持ち人数の改善が必要だし、特に朝夕の手薄な時間帯などの避難体制はどこでも安心できるものではない。まして、朝夕にはひとりは無資格者でもいいとする厚労省の方針も出されており、子どもたちが安全な環境で育つためにも公的保育制度の拡充が求められる。


以上が高橋悦子さんの発言内容です。
高橋さんは当時私が勤務していた保育園の園長であり、職員全員の母親のような存在でした。
集会でこの発言の前半「小さい子を抱えた職員を早く返してあげればよかったと反省しました。」という言葉を聞いた時には涙を堪えるので精一杯でした。
あの大変な状況の中で私も自宅へ帰った1人でしたが、あの日帰れるとは思っておらず、あの日からずっと残った職員に対して申し訳ない気持ちを抱えていました。
そんな気持ちを汲んで頂いているようなその発言に私は救われました。

開く コメント(0)

[ すべて表示 ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事