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壽産院の悲劇

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終戦直後、日本の政治、経済が大混乱していた時期、法律は現実に即さず戦前のままであった。多くの兵士達が戦場で倒れ、残された女性たちは生きていくために避妊具なしの売春行為で妊娠した。当時の日本の法律は中絶を認めていなかったので、子供を生んだ後、社会の目、経済的理由により育てることができず産院など養子を仲介しているところへ持参金を持たせて預けた。
 
たいていの産院は養子先がなかなか見つからない状況下、人道的な精神で多くの子供たちを助けたが、中には赤子に国から配給されるミルクや食べ物、赤子が死んだ時に配給されるお酒などを闇市に流し不正を行った産院もあった。
 
ミルクや食べ物を少しだけ闇市に流すというのであれば許せるが、この東京新宿区の寿産院は母親が残した持参金や国からの配給品の利益を着服するために103人もの赤子を殺したのだ。殺し方は、ミルクを赤子に与えないで餓死させたり、毛布を頭からかぶせ窒息死(さ泣き声が癇に障るという理由)せるというものだった。
 
この経営者夫婦(石川夫婦)が着服していた金額は、当時のお金で90万円(現在の2,000万円)にのぼった。その上、床下や押入れから闇市に流すミルクやお酒が大量に出てきた。
  
この事件に対する法の裁きは妻(首班)懲役4年、夫(共犯)懲役2年であった。この事から、日本政府は一般の人間のことなどあまり考えてこなかったことがわかる。103人の赤子を殺した殺人鬼に懲役2年と4年である。天皇や皇太子が殺されていたら、間違いなく死刑だろう。


日本は有職故実の国であるから習慣や慣行を重んじて、現実に合うように法律、経済のあらゆる分野で速やかな変革をしてこなかった。過去の習慣(ここでは、中絶をどんな理由があろうと認めなかった)や慣行にしがみ付いたせいで起こった事件について反省するどころか、反対にこういう醜い事件を有耶無耶にして、国民から隠す傾向があるように思える。このままでは寿産院のような悲劇が、これからも生み出されるだろう。

国民は上流階級(政治家、官僚、経済人)の習慣、利権、面子など、どうでもいい。世の中を現実に合うよう、より良く改良してもらいたいだけだ。

国民の期待に答えるために、政治家、官僚は常に人道的な向上を忘れず(田中正造翁のように)勉強しなければならない。彼らの給料は国民の税金から出ている。選挙に立候補したり、官僚の試験を受けるということは、国民のために全力を尽くして働くという宣言であり、料亭で遊ぶためではない。 彼らの勉強不足、既成概念固執、利権確保、怠慢による犠牲者(薬害エイズ、ヤコブ病など)が、これからでないことを祈るのみである。

坂の上の雲

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「春や昔 一五万石の 城下かな」 で始まる司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」を読んだのは30年前である。私はまだ10代の半ばで、伊予、松山出身の秋山好古、秋山真之、正岡子規の三人の成長を通して発展していく明治時代の日本の描写に触れて、深く感動した。司馬遼太郎の文章は、「まんが日本昔話」のようなのんびりした感じで、ほのぼのとした気持ちになった。

その「坂の上の雲」が30年の時を越え、NHKの映像として私の目の前に現れた。配役も、秋山好古=阿部寛、秋山真之=本木雅弘、正岡子規=香川照之、正岡律=菅野美穂、竹下恵子、原田美枝子など、大河の常連たちで、たいへんいい。

明治維新は武士が起こした革命であるが、武士への報酬は身分剥奪、領地召し上げ、廃刀令だった。しかし、その困窮した武士や水飲み百姓の倅でも、頭が良ければ陸軍士官学校、海軍兵学校、師範学校に無料で入れ、日本人が希望に夢を膨らませることができた時代だった。長い階級社会が終わって、誰でも能力があればチャンスを掴める開放感が、西洋に必死に追い着こうとしている日本に活気を与えていたのではないだろうか。ちなみに当時のヨーロッパの国々では特権階級しか軍隊の士官にはなれなかった。

アジアの国々がヨーロッパ列強の植民地になるのを目の当たりにした日本は、それまでの士農工商を180度改め、四民平等の総力戦で、欧米に追いつこうとした。当時の日本は焼け野原症候群になることなく、世界の情勢、自国の置かれた状況を感じ取り、見事に方向転換し、近代国家として生まれ変わった。

明治維新は薩長土肥によってなされたと思われているが、徳川慶喜が水戸家出身で勤皇の精神を持っていなければ、日本は他の東アジアの国のように大混乱のうちに欧米の植民地になっていただろう。そういう意味では、徳川家も近代日本を作るうえに大きな貢献をしたのである。特に賊軍としてレッテルを貼られた藩の人間たちが頑張った。賊軍の殿様たちは負け戦の汚名を濯ぐために、奨学金制度を整え元藩士の教育に気を配った。そして、その負けん気が日本全体に活気を与え、極東の猿の国に奇跡の発展をもたらしたのだ。

松山藩は幕末幕府側につき賊軍になった。その藩から秋山兄弟、正岡子規(上士出身)が出た。賊軍の藩の貧乏藩士の子として生まれたにもかかわらず出世した典型的な例だ。世界の底辺から這い上がろうとしていた日本と、その日本の賊軍の10石ほどの貧乏士族が軍隊や文壇で日本の頂点に登っていく姿を重ね合わせ、司馬遼太郎には小説の絶好の題材だと思えただろう。
物語は伊予松山の賊軍の元侍として肩身の狭い思いをして生きている家族から始まる。子沢山の貧乏家族である。秋山好古は成績が良かったので大阪にあった師範学校に入学し、その後、東京の陸軍士官学校に転校し、士官として任官する。弟の真之は兄を頼って東京にでるが、兄とは別に海軍兵学校に入る。秋山兄弟と違って比較的裕福な家庭に育った正岡子規は東京大学に進み文学の道を志し、俳句、短歌の改革者となる。

近代日本は戦いに次ぐ戦いだった。明治維新という革命を推進した薩長土肥の侍といえども特権を剥奪され、その不満が佐賀の乱、熊本神風連の乱、萩の乱、秋月の乱となり、その最大で、最後の反乱が西南の役だった。武士の不満を抑えた明治政府は安全保障のために朝鮮半島、満州と大陸に進出する。そして日清戦争、日露戦争と連戦連勝して、世界の5大国のひとつに登り詰める。

その日本のもっとも幸せな時代に日清、日露の戦争に関わっていく秋山兄弟、兄好古は日本騎兵の基礎を作り、弟真之は日本海海戦の作戦を立て大勝利に導く、その戦争の合間に正岡子規の文学社会がオアシスのように配置されている。この文学の話がなければこの小説は無味乾燥なものになっていただろう。戦争の描写も面白かったが、正岡子規を中心とする文学界の話も待ちどうしかった。

この三人の主人公のほか、高橋是清、乃木希典、児玉源太郎、小村寿太郎、広瀬中佐、明石元二郎、山本権兵衛などなど明治期のオールスター陣を使うことによって、西南戦争で乃木が軍旗を奪われたり、児玉源太郎満州軍総参謀長が旅順攻囲線に派遣され203高地を落とし、28サンチ榴弾砲をつかって旅順艦隊を沈没させたり、細かいエピソードまで描いて読者に明治という時代を知らしめる。おそらく、この小説は内容、ボリュームとも司馬遼太郎の最高傑作だろう。NHKのドラマでは高橋是清が東京共立学校で子規と真之に英語を教えるという原作にないシーンが出てくるが、それも一興である。

明治期を描く上においていろいろなアングルがあると思うが、この作品は、明治という時代を希望に満ちた、明るさと共に描いているので、我が国がすばらしい歴史を持っていたことを痛感させられるだろう。そして、現在の逼塞した日本を再生するためのヒント(たとえば何でも民営化され有料になりがちな現状を、教育などを無料化して国が人材を育てるという方向へ転換する)を与えてくれるのではないだろうか。そういうインフラを政府が整備し、日本人は、いまこそ、「のぼっていく坂の上の青い空に一だの白い雲がかがやいているとすればそれのみをみつめて坂を上っていくだろう」ように懸命に生きるべきではないだろうか。

日本の教育

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現状の日本の教育とはどういうものなのだろう。日本には国立、公立、私立と3種類の教育機関がある。国立と公立は文部省の影響力を受けやすいので「ゆとり教育」の方針によって崩壊状態であるといわれている。国立は元々知的能力の優れている生徒を受け入れているので崩壊とまではいえないが、私学の生徒の学力に追いつくために塾通いをしているのが現状だろう。

「ゆとり教育」が採用されるまで公立校は日本の教育を中核になって支えてきた。都道府県によって違いがあるが、私の頃の大阪の例を見てみると大阪全体を9学区に分け一つの学区に10ほどの高校がありそれぞれランク付けされていた。学区のトップ校にもなれば私学の雄といわれる学校よりも進学率が高く、公に優秀な日本人を育てるという理念があったように思われる。

しかし、「ゆとり教育」により優秀な生徒が私学に流れ、学区No.1だった公立高校ですら私学の二番手レベルまで地盤沈下し、優秀だが所得の低い家庭出身の生徒のチャンスを摘み取っているように思われる。ようするに、いい大学にいくためには月謝の高い有名私学に行かなければならず、そういう学校には金持ちの子弟しか入れないので、階級が固定化してしまう危険性がある。階級が固定化しつつあり将来の展望がないから公立小学校や中学において陰湿な虐めが行なわれ、自殺者が続出する原因の一つではなかろうか。

では、どうすれば日本の教育を再生することができるか考えてみよう。まず、国は優秀な人間を責任を持って育て上げなければならないということを認識しなければならない。そのためには「ゆとり教育」をすべての生徒を対象にするのではなく、優秀な生徒を他の生徒から隔離するための優秀クラスを作るべきだろう。しかし、一度優秀クラスに入ってしまうと成績が悪くてもそのクラスに居続けることができるというのであれば生徒の能力を最大限に引き出せないので、三ヶ月か半年ごとに下位の生徒を他のクラスの上位の生徒と入れ替えればいいだろう。優秀クラスとそうでないクラスだけに分けるというより、学年を上中下に分けて常に生徒を循環させるようにすれば生徒全体のやる気を引き出せるように思われる。


学校間の垣根をなくし一年に一度編入試験を実施するのも面白いだろう。ある学校に居る学力がない生徒は格下の学校の編入試験を受けて降格という可能性を盛り込めればおもしろい。この案は大学とも重なる部分があるので次に置いて説明することにする。

日本の大学教育の問題は大学が閉鎖的になり学校間の垣根を高くしすぎているところにあるように思える。垣根を高くするということは優秀な学生の流出を避けることができるという反面、勉強しない学生を卒業するまで在学させるということでもある。学校側にしてみれば勉強しなくても学費を払ってくれ収入に貢献するから御得意様なのだろうが、その学生がその学校に編入したい人間のチャンスを奪っているともいえる。

学校は本来勉強するところなのだから勉強をしない学生は辞めてもらい、その学校に入るために努力している人間にポジションを空けるようにするべきでないか。学校は辞めた学生の定員を補充するために半年に一回編入試験を行い、入学金なしに、もと居た学校で取得したすべての単位を持っていけるという制度にすれば、学生全体のレベルがあがるのではないだろうか。そうすれば三流大学に入学したが、卒業時には一流大学だったという現象も現れるだろう。一見、この制度は強きが弱気を駆逐するという弱肉強食にみえるが、一度悪い学校に入った人間に希望の学校に入るチャンスを与えるので敗者復活も含んでいる。最下位の大学を辞めさされた学生は1年ほどの停学期間経れば同程度の学校に戻れるようにしてそこで頑張れば格上の学校へ編入することができるようにすれば、落ちこぼれ救済にもなり、学生間の階級固定化を防止することができるだろう。


これまで長々と書いてきたが総括すると、「ゆとり教育」という名の元に公教育を破壊してしまうと優秀で、裕福な家庭の子弟は私学に流れ、優秀でも裕福でない家庭の子弟が崩壊した公立校で能力を出し切れなくなる可能性がある。 国は貧富の差に関係なく優秀な人材を育てるべきだから公教育を充実させて無料で質の高い教育を提供するべきである。私学もお金儲けに専念するのではなく人材を作り出すのだという理念のもと、親の所得によって学費を決めるというのもおもしろいし、優等生は学費を無料にして、生活費まで出してもいいだろう。優秀な人間が社会に出て活躍すれば学校の宣伝にもなり、優秀な生徒が多く集まってくるのだから採算は合うはずだ。とにかく、学校という場を貧乏人にも広く開放して出来るだけ多くの人間が競争できるようにしてこそその国の国力が向上するわけで、今のままだと日本丸は沈没しかねない。

薩摩藩と黒糖

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私の母は鹿児島県の南西諸島の出身です。子供の頃から
そのことを言うのも嫌でしたし、触れられるのも嫌でした。なぜ
かと言うと、沖縄(徳之島や奄美大島などに住んでいる人々は沖縄
の人に限りなく近い)に関係がある人間は差別されるということ
を肌で感じていたからかもしれません。

最近、大沢在昌氏の「灰屋」という小説を読むと、鹿児島で離島
出身の人間は差別されていてヤクザになる人間が多いと書かれて
いましたので、何か理不尽なものを感じたのです。小説の中の話
ですから、それが事実かどうかわかりませんが、沖縄系統の血を
受け継ぐ私が関西でもその出自を隠そうとしたほどですから、お
そらく、鹿児島での離島差別というのは、凄まじいものがあると
思います。

年月を400年ほど戻して、薩摩のことを書きます。豊臣秀吉の九
州征伐に平伏した島津は、それまで占領していた九州の半分近くの領
土から薩摩と大隅の二国に押し込まれてしまいます。

それより以前、広大な領土を持つことになった島津は、それに見合
うだけの侍の数を急増させていました。しかし、このとき領土を減
らされたにも関わらず侍を減らすことをしませんでした。

島津家は鎌倉以来、守護職を務め、頼朝の後落胤かもしれないとい
う名家です。気位がそうさせたのでしょうか、実質36万石しかな
いのに、56万石の禄高があると豊臣政権に届け出てしまったので
す。しばらくして、島津はこのままだと家臣団を養っていけな
いと石田三成に相談します。石田三成は、大阪の堂島に米市場があ
るから、米が安い時は蔵屋敷に保管して、高い時に売りなさいと助言
します。その助言に従い薩摩は一息つきます。

しかし、名家のなせるわざでしょうか、江戸時代になって、実質36
万石、表高が56万石の領土を72万石として届け出てしまうのです。
こうなると悲惨なもので、侍の半分以上は百姓のように田圃や畑仕事
をしなくてはいけませんし、藩は大名貸しからお金を借りなければ
やっていけませんでした。

それにだめを押したのが、25代藩主島津重豪の放漫財政政策でし
た。藩の財政は以前よりも逼迫し、貧困の最盛期には借財が5百万
両(現在の貨幣価値で6兆円ほどとか)になっていたそうです

薩摩藩の調所広郷が、財政改革の切り札として目を付けたのが、琉
球や南西諸島の黒糖でした。藩最大の収入源であった黒糖は、大変
貴重で高価なものでしたから、わずか10年足らずで、500万両
の借財が返済され、250万両の蓄財ができ、財政再建が成就され
たのです。その陰で琉球や南西諸島の島民たちは、搾取され、悲惨
な生活をしいられたのはいうまでもありません。財政再建は彼らの
血と汗の結晶だといってもいいでしょう。

その後、黒糖による蓄財が薩摩藩を雄藩にし、倒幕させ、明治維新
を成し遂げさせたのです。そのお蔭で鹿児島県人は、中央で総理大
臣、県知事、官僚を輩出することになります。

「俺たちは黒糖の恩恵なんか何も受けていないよ。中央に
出たわけじゃないしね」と言われる鹿児島人の方がおられるかもし
れませんが、もし明治維新がなければ鹿児島人は東北人と同じよう
に徹底的に東京で馬鹿にされる対象になっていたでしょう。

あの凄い訛りが「カッコいいじゃない」と思われるのは、まさに
明治維新があるからです。その原動力になったのが黒糖ですから、
沖縄人、西南諸島人は、鹿児島人にとって恩人と言っても過言で
ないわけです。一部の歴史を知らない鹿児島人が、離島出身者を差
別するのは、まさに恩人に砂をかけるような行為といえるのではな
いでしょうか。

ほんとうに残念なことです。

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1575年(天正3年)、織田軍3万8千と武田軍1万5千が美濃国長篠で衝突した。いわゆる長篠の戦いである。この戦いで織田信長は日本の合戦史上初めて鉄砲3千挺を主役に三段撃で、当時日本最強といわれた武田の騎馬軍団を完膚なきまでに打ち破ったとされている。信長が日本史上最大の天才であり、武田勝頼が馬鹿殿様だったことの証明を裏書するような戦いである。

多くの研究者や作家が信長=発想の天才、勝頼=馬鹿殿様と規定して本を書いているが、少数の研究者、作家はその定評に疑問符を付けている。私は最近、信長や長篠の戦いについて数冊の本を読んで、定説になっている歴史上の常識と自分の経験とを重ね合わせて考えたことは、はたして信長の発想が突然変異のように出てきたのだろうかということだ。

人間という動物は、過去の出来事や自分で体験したことを基に生きている。多くの人々は先人や自分の経験の枠の中で生きていくが、ある人間はその枠を超え経験を発展させ、まるでそれまでなかったようなことをやってのけたように見える。しかしその発想も過去の出来事、経験がなければ生まれてこなかったわけで、突然ある天才が発明を無から生み出したことにはならない。

信長もそうで、彼は発想の天才というよりも、むしろ先人が経験から発見したことを発展させ、より大きな規模で実践する才を持った人間であったのではないだろうか。

津本陽は「信長の傭兵」という小説で長篠の戦いに於いて信長が世界で初めて行ったという3千挺の三段撃ちは、根来衆や雑賀衆が既に行っていたと書いている。織田軍は「本願寺攻め」で大量の鉄砲を使っての数段射ちに苦しめられたのだそうだ。だから、信長の鉄砲の大量使用、段撃ちは、根来衆、雑賀衆の真似で、彼の独創でないということなる。

楽市楽座にしても、兵農分離により専属の兵士を城下に住まわしたのも、信長が突然発想したわけでなく、今川義元や斉藤道三などの先人が早くから行っていたことだと言われている。

では、馬鹿殿として評判の高い武田勝頼はどうだろうか? 彼は信長に比べて観察力がなく、兵農分離や鉄砲の活用についても積極的でなかったのは確かだろう。しかし、「長篠の戦い」で3千挺の鉄砲に武田が誇る騎馬軍団に突撃を繰り返させるほど馬鹿ではなかったように思われる。まず、武田の騎馬軍団と聞いて多くの人が連想することは、馬に乗った、たくさんの騎馬武者だけが疾走する姿だろう。しかし、武田軍はそのようなヨーロッパ式の騎兵はもっていたわけではなく、騎馬するのは正規の武士だけで兵士(足軽)のほとんどは徒歩で馬と並走していたらしいのだ。そんな軍団が騎馬による突撃を無駄に何回も繰り返したとは考えられなく、もしヨーロッパ式の騎兵を持っていたとすれば機動力を使ってナポレオンのように側面攻撃を仕掛けることもできただろう。それに当時すでに鉄砲対策として竹束が使用されており、武田軍も大量に所有していたので、狙い撃ちされる騎馬での突撃を繰り返したとは考えられない。

新田次朗の「武田勝頼」の長篠の戦いのシーンでは、最初の攻撃で武田軍の騎馬武者は鉄砲の狙い打ちで相当の損害を被ったが、2回目の攻撃からは竹束を使用して柵を倒し、織田軍の右翼の奥深くまで攻め込んでいる。小説では親族である穴山信君が後詰めで攻撃に参加していれば織田軍の右翼を崩し信長の本陣を付くことも可能だったが、穴山が動かなかったことが書かれている。これが敗因になったのだろう。


いずれにしても長篠の戦いは鉄砲で勝負が付いたわけではなく、武田軍1万5千に対する織田軍3万8千でわかるように数の差が勝敗を決したと新田次朗は結論付けている。

では、なぜ勝頼は1万5千の軍勢で3万8千人の織田、徳川連合軍と長篠において戦ったのであろうか。まず、奥平信昌が守る長篠城は、武田軍が美濃、遠江に進出するためには重要な地点であり、そのような地点は敵にとっても重要地点なので必ず確保しなければいけない場所だった。

だから勝頼は1万5千の軍勢を率いて長篠城を囲み、信長は機会到来と長篠まで3万8千の軍勢を率いて出て来た。武田軍は織田軍が到着するまでに長篠城を陥落させるのが理想的だったが、陥落させることができなかった。


この状況では甲斐に引き上げるべきだっただろう。その上で、自軍の最大動員兵士3万5千を動員して、北条、上杉と同盟し共同で信長と決戦するべきだった。

定説では勝頼だけが長篠での決戦を主張したということになっているが、新田次朗によると、決戦は一部の家臣を除いた家臣団の総意である。もしそすだとすると勝頼だけに責任を負わせるのはかわいそうな気がする。ようするに信長の策略に武田家臣団まるごと引っ掛かってしまったというところだろう。ちなみに後に秀忠軍3万8千を信州上田に引き付けて関ヶ原の戦いに間に合わないようにさせた真田昌幸は撤退を進言していたそうだ。

結論をいうと、私は長篠の戦いでも織田信長は過大評価され過ぎで、武田勝頼は過小評価され過ぎではないかと思う。長篠の戦いは朝6時から午後2時まで8時間に及ぶ激戦だった。通説になっているように、織田軍が鉄砲により一方的に勝利したように思われているが、右翼の馬場隊が織田軍の左翼を抜き穴山信君が攻撃に参加していたら戦いの勝敗はどうなっていたかわからないほど激戦だった。このことから、武田勝頼自ら決戦を主張したというより、むしろ一門の意見にしぶしぶ従い、一門の裏切りから負けたのではないだろうか。言い換えれば、信玄の作った組織に押し潰されたと言っても過言ではないだろう。他方、信長は世界初の三段打ち(これも根来や雑賀の真似)で勝ったのではなく、単純に数の差が勝敗を分けたということで、この戦いに画期的な戦略、戦術などなかったということだろう。

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