こんにちは、ゲストさん
ログイン
Yahoo! JAPAN
すべての機能をご利用いただくためには、JavaScriptの設定を有効にしてください。設定方法は、ヘルプをご覧ください。
返信: 57件
全6ページ
[1] [2] [3] [4] [5] [6]
[ 前のページ | 次のページ ]
読書日記
[ だげーる ]
2006/11/20(月) 午後 5:14
どうもどうも。別に勉強の役に立てようという気はないのですが、私は物覚えが悪いので、こうして覚書を残しておけば、結果的に役に立つ日が来るかもしれませぬ。 >shirai君
四谷消防博物館、職場からは微妙に遠いのですが、消防史には興味があるので、そのうち行ってみます。東京都市計画ということでいえば、これまた最近読んだ 越沢明『東京都市計画物語』(ちくま学芸文庫)が面白かった。関東大震災から東京オリンピックまでの間に、東京にも質の高い都市計画がたくさんあったにも関わらず、挫折に挫折が重なって悲惨なことに…という実例多数。詳しくはまた後日。>hamさん
[ shi*ais** ]
2006/11/18(土) 午後 7:47
烏賊さんもブログしてるのですね。今日初めて来ました。外から見る限り、ブログをつけてると勉強の役に立ちそうな気がしますが、どんなもんなんでしょう?
[ ham*ak*9*7 ]
2006/11/15(水) 午前 3:51
江戸/東京都市論を考えたときに、当然火事とそれに続く都市計画というものが浮かび上がってくるわけだが、明暦の大火などの常設展示が、四谷は三丁目の交差点の消防博物館にあるらしい。職場に近いだろうから暇なら行ってみて。暇じゃないけど・・・
2006/11/12(日) 午前 9:46
ただし、どちらの選択も楽なものではない。場合によっては、苦しみを長引かせてしまったのではないか、あるいは、生存の可能性を絶ってしまったのではないかという後悔を伴うこともあるだろう。そうした家族の苦痛を和らげるのは、おそらく医者の仕事ではない。
2006/11/12(日) 午前 9:37
細い細い一縷の望みを頼りにせずにいられないのも、近しい人の末期の苦痛が引き延ばされることに耐えられないのも愛情だと思う。QOL=QODのリベラル化というのは、生き残る側から見れば、そうした二つの愛情のあり方を選択を可能にするものか。
2006/11/12(日) 午前 9:21
藤原新也『何も願わない…』には、彼の母親の死に関する章があった。病により排泄能力を失った後も、点滴で栄養を与え続けられ、異様に浮腫んでしまった母親。その姿に耐えられず、息子である藤原は、点滴の終了を医師に依頼する。管を抜かれた後、母親は安らかな顔になり、間もなく息を引き取る。
2006/11/12(日) 午前 9:11
一方で、何かの実験台のように寝台に載せられた、どう見ても助かりそうにはない父を前にして、「このまま“生かして”おけば、奇跡が起きて目覚めることがあるのではないか」と思ったのも事実。延命治療をやめられない近親者の多くは、同じような気持ちでいるのではないかと思う。
2006/11/12(日) 午前 9:04
父の臨終の光景は、家族のことではあったけれども、映画やテレビで見た場面に似ていた。祖母の場合は、死へと近づいていく数日間をかけて、本人も周囲も“最期”を迎える準備ができていたという稀有な例だったと思う。
2006/11/12(日) 午前 8:57
家族の死、というものに2度立ち会った。正確に言うと、この世からあの世へと移っていくのを見た。1度目は、明らかに死人の容貌をしているのに、計器の上でだけ行き続けていた父(機械のスイッチを止めたら亡くなった)。2度目は、確実に生きてはいるものの、いわゆる“死相”の出ていた祖母(数日後に亡くなった)。
すべて表示
小川菜摘
浅香あき恵
シルク