粒焼次郎の落書夜話

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知られざる「君が代」

今日は「建国記念の日」である。昨年も述べたが、「建国記念日」ではないので、お間違いのないよう。ところで、日本という国は不思議なところで、首都も公用語も法令(成文法)で決まっていない。元首は天皇だというのが一般的な認識だが、これも憲法上は「象徴」と書かれているだけで、元首であると明記した法令はない。つまり元首も法的にハッキリしない。

法には慣習法(不文法)というものがあり、英国のように憲法でさえ慣習法で成り立っている国もあるので、成文法で規定されていないからといって問題があるとは限らないわけだが、日本では長らく、国旗・国歌も法令上は明文化されていなかった。平成の世に入った1999年になってようやく、国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)が制定されたのである。ちなみに、国章については現在も明記した法令がないが、パスポートの表紙や在外公館の玄関などには菊花紋が実質的な国章として、政府の公式記者会見で使われる演台などには桐花紋が実質的な政府章として、それぞれ使用されている。

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さて、そんな国歌「君が代」だが、どうしてこれが国歌に選ばれたのだろうか。「君が代」の歌詞自体は、平安時代に編まれた『古今和歌集』の賀歌巻(祝い歌を集めた巻)の巻頭にあった和歌とされている。しかし、古い写本に残されている当該歌は、
 我が君は 千代にましませ さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
という歌詞になっており、ピッタリ一致しない。後世の写本に「千代に 八千代に」が登場してくるが、これも「千代にや 千代に」という反復形態のものがあったりする(全てひらがななら同じ文だが、切る場所が違う)。「我が君は」が「君が代は」に変化してくるのは、『和漢朗詠集』の鎌倉初期の写本が最も古いらしい。『古今和歌集』の版本でも、時代が下ると次第に「君が代は」バージョンが増えていく。

さらに後の江戸時代になると、今度は一般的な祝いの歌として庶民の宴席でも歌われるようになった。これが、「“君”とは、天皇ではなくYouの意味」とする学説の根拠である。ただ、元来の『古今和歌集』では、賀歌巻のトップに据えてあることから、天皇の長寿を願った特別な歌だったとする考え方もある。中世の注釈書にも、「“君”とは天皇のこと」と明記しているものが散見されるが、これはその注釈書の書かれた時代背景が影響している可能性もあるので、そのまま信じていいわけではない。そもそも「題知らず・詠み人知らず」の歌でもあり、作歌の真の意図を解明するのはほとんど無理だ。いずれにせよ、こうして民間に浸透していったために、皮肉にも後に国歌として採用されることになる。

国歌というのは西洋由来の概念で、江戸期までの日本には存在していなかった。本来は国家儀礼の場で軍楽隊が演奏するために必要とされたもので、歌詞よりも曲が先にありきである。スペインの国歌などは、今も歌詞がない。前近代の日本には軍楽隊もなかったし、国歌で一般的な吹奏楽というものもなかった。明治初期までは「National anthem」(anthem=祝歌、賛歌)に当てる訳語もなく、「国歌」という語は古くからあったが、これは漢詩に対する「大和言葉の歌」、つまり和歌と同じニュアンスで使われていた。

こういうわけなので、国歌としての「君が代」は、外国人居留地として栄えていた横浜で生まれる。1863年、前年の生麦事件を原因として、薩摩藩と英国との間に薩英戦争が起こった。この戦争自体は引き分けに終わり、それでも薩摩藩は莫大な賠償金を支払わされる羽目になるわけだが、薩摩藩はこれを教訓として、主として英国から先進的な技術や文化を次々に学ぶようになる。1869(明治2)年、英国軍の軍楽隊が薩英戦争戦死者の葬儀で演奏するのを薩摩藩士が聴き、吹奏楽に興味を持った。彼らは、軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンに指導を依頼し、まずは20人の藩士が軍楽隊を結成して、現在の横浜市・中区にある妙香寺で、吹奏楽を習うようになる。他にも広い寺はあったが、領事館に近かったことや山に囲まれていて思う存分楽器の練習ができたことが、ここが選ばれた理由と推定される。

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翌1870年、明治天皇による閲兵式で、この軍楽隊が初演奏することになった。この時フェントンは、国歌がないのではこういう儀礼の場で演奏する曲に困るので、日本も国歌を制定すべしと進言する。軍楽隊員から歌詞の選定を依頼された薩摩藩歩兵隊長・大山弥助(大山巌、後に日本陸軍元帥)は、彼の愛唱歌の中から「君が代」を採用したという(これには異説もあるが、現在最も信憑性が高いのは、このエピソードとされる)。つまり、国歌になったのは、明治政府の指導者となる志士たちが、幼い頃から親しんでいた馴染みの唄だったのだ。この「君が代」の詞に、フェントンが曲をつけた。これが初代「君が代」である。現在の「君が代」と同じ歌詞だが、メロディーが違うことが分かると思う。

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初代「君が代」は、評判があまり良くなかった。フェントンが日本語を読めなかった上に、藩士の方はまだ西洋音楽に慣れていない。それで、歌詞とメロディーが合わず、かなりの違和感があったのだ。演奏するにも難しい曲だったらしい。6年後には海軍音楽長から改訂の提言があり、日本海軍軍楽教師になっていたフェントンもやがて帰国。1880(明治13)年、宮内省式部職雅楽課の伶人(雅楽を奏でる楽師)・奥好義がメロディーを考え、一等伶人・林廣守が曲に起こし、さらにフェントンの後任の海軍軍楽教師となったドイツ人フランツ・エッケルトが西洋風和声をつけて完成させた。それが、現在我々の知っている2代目「君が代」だ。これにより、歌詞とメロディーの違和感はなくなった。

この後、「君が代」は「陛下奉祝ノ樂譜」という名称で公開される。文部省も、その他の関連楽曲を含めて「祝日大祭日歌詞竝樂譜」として官報に告示した。それからずっと、事実上の国歌として運用されていながら、正式に「国歌」と定義されることがないまま、平成を迎える。そして、冒頭の国旗国歌法に繋がるのである。2代目「君が代」制定の頃には、「National anthem」の訳語として既に「国歌」の語が使用されていたようだが、こういう曖昧な歴史をたどったのは、上に書いた「国歌=和歌」という古い語義が、多少なりとも影響していた可能性がある。なお、この2代目「君が代」は、1903(明治36)年にドイツで開かれた「世界国歌コンクール」で1等を受賞した。

ちなみに、文部省が1881(明治21)年に編集した日本最初の音楽教科書『小學唱歌集 初編』には、「君が代」の別バージョンが掲載されている。歌詞は現在の「君が代」より長く、2番まで存在した。
 1.君が代は 千代に八千代に 細石の 巖と成りて 苔の生す迄
   動き無く 常磐堅磐(ときはかきは)に 限りも有らじ
 2.君が代は 千尋(ちひろ)の底の 細石の 鵜の居る磯と 現るゝ迄
   限り無き 御代の榮を 祝(ほぎ)奉る
既に実質的な国歌として公表されていた「君が代」に、この教科書の編纂に携わった師範学校教員らが歌詞を補ったと言われている。メロディーは、英国古代の作曲家ウェブの創った古い賛美歌と記されているそうだが、詳細は不明。この他、複数の異なるバージョンもいくつか伝わっている。
 君が代は 限りも有らじ 長濱の 眞砂の數は 讀み盡くすとも
 君が代は 千代とも止(さ)さじ 天の戸や 出づる月日の 限り無ければ
 君が代は 千代に八千代に 八千鉾の 安らに研いで 針と成る迄
こういう扱いには、正規の国歌というより民間の愛唱歌として普及させようとしていた可能性が垣間見える。実際、比較的最近の時代まで、祝宴などでこの種のバージョンが唄われていたらしい。古くから国歌を持つ欧米諸国では、わざわざ新しい曲を創作するよりも、国民の間で広く親しまれていた曲を国歌に採用することが珍しくないので、その発想が下地にあったのだろう。その意味では、仮に「君が代」が国歌にふさわしくないとして廃止される場合、誰でも知っている「さくら、さくら」を代わりの国歌にしようという意見があるが、あながち的外れでもない。なお、私の学生時代は、まだ国旗国歌法がなかったから、音楽教科書には「君が代」について「日本古歌」と記されていた(当時も、学習指導要領には「国歌・君が代」という記述があったそうだが)。

「君が代」は元々が祝い歌だから、旋律もあったはずだが、それは純和風の曲で吹奏楽に向かなかったのだろう。それで、外国人に作曲をしてもらうという事態になったと思われる。初代「君が代」は歴史に埋没したが、妙香寺の入口には「君が代」発祥の地を記念する石碑が建っている。

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お久しぶりです。
「君が代」に2番があったなんて知りませんでした。
私が使っていた音楽の教科書には1番しか載ってなかったような。
国歌にもいろんな歴史があるんですね。日本を離れてから「君が代」を聞くとちょっとポロって来ちゃう時もあるんですよね、なぜか。
スペインの歌詞なしの国歌、私は結構気に入ってます。
フランスやイタリアの国歌も好きですけど。

2009/2/11(水) 午前 8:10 elizabetta830

「君が代」の2番があるバージョンは、かなり古い教科書にしか載っていないので、
知っている人はほとんどいません。
国歌としての紹介ではないですしね。
ただ、地方の年配者などには、祝宴で謡った記憶を持つ世代があるようです。

日の丸や「君が代」には賛否両論がありますが、海外に住む日本人の方が、
愛着を感じると聞きます。
国内にいて、国というものを実感する機会は少ないのでね。

2009/2/11(水) 午後 3:05 粒焼次郎

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こんなに君が代のレパートリがあるとはしりませんでした。
君が代の和歌は、資料によっては柿本人麻呂作などといういい加減な説を唱えているのをみたことがあります・・・。

2009/2/12(木) 午前 7:38 idesituki

「君が代」の元歌については、「詠み人知らず」になった事情に政治的な背景があったという学説もあって、そこから色々な作者を推定する動きに繋がっています。人麻呂説も、そういう考えの延長で出てきたのかもしれないので、いい加減と決め付けるのはどうかと思います。歴史学の諸説には、オカルト的なものが多いですが、本当の歴史はタイムマシンでもないと確かめられませんからね。

2009/2/12(木) 午後 2:21 粒焼次郎


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