|
最近どうも「差別」という言葉に手垢がついてきたな、と思っています。
元々、「差別」というのは微妙な言葉で
何を差別とし、何を正当な区別とするかは
時代や社会、状況に依存する流動的なものです。
この問題はひとつに
「理想と現実の綱引き」という側面を持っています。
理不尽な現実に対し、理想を求める声が高くなり、
さらにその理想が人々の間で共有されれば
それは現実を変える大きな力となりえます。
しかし、現実的に不可能な概念であったり、
また人々の間で共有されていなければ、それは無力な「理想」のままです。
多くの人々が同じ問題に対し、理不尽さを感じたととき、
それは「差別」となり、はじめて大きな力を持ちます。
そういった「差別」は大きな改革の力を引き起こし、
事実、何度も社会や世界を大きく変革しました。
が、それはある程度条件を満たした場合にはじめて力を発揮するもので、
ただただ「差別」と叫んだところで無意味な物です。
近頃、
「差別」「差別」と何でもかんでも声をあげればいい、
と思っている人が増えているような印象があります。
結局、これは「差別」という言葉に手垢をつけ、
その言葉の持つ本来の強さや凄みを小さく、うさんくさいものにするだけで、
結局、「差別」と叫ぶ人の首を絞める行為に過ぎないと感じています。
真に世を変えたいのであれば、
どれだけの人が同じような理不尽さに苦しんでいるのか知らねばなりません。
それさえもできないのに、ただ叫ぶことに意味はあるのでしょうか?
とはいえ、
自分たちが正当な理由で区別されているのを
「差別」という言葉に包んで、他の人達を「逆差別」させよう、
という確信犯的な輩の方が実は圧倒的に多いのかもしれません。
そして、私がそのように感じてしまうことが
「差別」という言葉に手垢がついたことの証拠の1つとなるでしょう。
|