こっち見んなって言ったら負け

思ったことなどを書き留めるメモ帳のようなものです。

雑記

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選択と集中

テレビ局が減収で困っているようです。

それはそれとして、先の参議院選挙でのマスコミ、
特にテレビ局の報道に違和感を感じた人が少なからずいるようです。
少なくとも私の周囲には、ですがw


6年の任期を持ち、良識の府と呼ばれる参議院。
にも関わらず焦点になったのは年金問題、
そして閣僚らの失言。

特に失言問題に違和感を感じた人は多いらしい。


何故マスコミは本質的な議論を避け、失言問題などでの自民たたきに走ったのか?


理由はいろいろあるんでしょうが、単純に市場原理で考えてみると
お客さんがそれを望んだから、といえます。
マスコミ、特にテレビ局のお客さんは誰か?というと
スポンサーと視聴者という二つの答えが考えられますが、
今回は視聴者について考えてみます。(次回があるかは知りません)



ところで冒頭の話題ですが、最近テレビ離れが進んでいるそうです。
テレビ局のトップなどが、犯人はゲームだ、ネットだ、といっているようですが、
それを踏まえると今1番テレビを見ている層は
ゲームをしない、ネットをしない層ということになります。※


単純に世代論で考えればゲーム・ネットに親和性の低い高齢層。
ならば年金問題が特に取り上げられる理由も納得できます。

同時に私の周囲のネットもゲームもする人達の間では
今回のテレビ局の報道姿勢は総じて評判がよくありません。
つまり、テレビ局は他の媒体に客を奪われた今、
全ての層にアピールする放送から、テレビを見てくれる層に特化した放送へとシフトしていると考えられます。



最近は不採算部門を切り捨て、身軽になる傾向がどこの業界でも顕著ですが、
テレビ局の場合、一部の視聴者をターゲットからはずすことは選択と集中になるのでしょうか。
しかし、「視聴率」が評価指標である限り、
ある層を丸ごと切り落とすことはそのまま視聴率の低下に直結します。
その層が見ない分を他の層で補う必要があるためです。

選択と集中はどの層を相手にするか?ではなく、
どのようなコンテンツに特化するか?で考えるべきだったのではないでしょうか。
(当然、コンテンツ≒それを見る層となるのですが、
 番組表を見る限りコンテンツをそこまで意識しているように思えません)

何より最大の問題が、
ほとんどのテレビ局が同じ層を切り捨ててしまったことでしょう。
結局、自分達で奪い合いパイを小さくしてしまっただけの結果に終わりました。


自分達を見限ろうとする者に対し、
各々が安易な選択をしてしまったことが
今のテレビ局の不振と報道の偏りの原因となったのはないでしょうか。


今はテレビ局がネットなどのほかの情報発信媒体と住み分ける方向に進んでいるようです。
情報源が多様化することは情報の受け手からは歓迎すべきことですが、
各情報源の住み分けが進むとすれば、情報の偏りが予想されます。


テレビや新聞だけを見ていればいい時代は終わりを迎えつつあるようです。


※具体的な記述は自信がないので避けます。

飴と鞭

人間は必要性を感じないと動けないもの。


例えば、受験を控えている生徒は
高校生だろうと、中学生だろうと、小学生だろうと
勉強することに疑問を投げかけることもなく、
熱心に取り組みます。

受験という明確な目標が存在し、
そのために勉強が必要であることが明らかだからです。


しかし、そうでない生徒の中には
「何故勉強しなければならないのか?」と教師や親に問い、
納得しなければ本当に勉強しない者もいます。

勉強しないと将来困ると諭したり、
また子供を教育することの社会的な意義を説明する人もいるでしょう。

ですが、その言葉の意味を理解できる生徒達がどれほどいるでしょう?


勉強に限らず、マナーや道徳的観念、政治的決定などに関しても、
「納得しなければ従わない」という人は少なからずいます。
しかし、彼らは果たしてそういった「社会の決定」を理解しえる立場なのでしょうか?



「自分たちが納得するまで勉強しない」生徒達は
飴と鞭でも使って勉強させるか、
また、仮に彼らが勉強しなくとも本人が後悔するだけです。



しかし、勉強しない生徒とは違って
周囲に影響を与えるような事案の場合、
誰が鞭を振るい、誰のお金で飴を買うのでしょうか。

8/8 : タイトルを修正しました。

大義名分

某新聞にて、
DVDなどのデジタルメディアへのコピー回数の上限が
1回から9回に変更になる、というニュースについての社説が載っていました。

そこでは著作権保護の観点からコピー回数制限は必要だが、
利用者の利便のために回数を増やしたというような経緯と、
そして
「既にコピー1回だけの製品を買った消費者の為に
 メーカーは無償で交換などの対策をすべき」
という言葉が載っていました。



何かズレているような気がします。


どう考えてもメーカー側が望んだとは思えない規制と
その後始末のためにメーカーが自腹を切る必要があるのでしょうか。


そもそも時代にあった形の規制が行われていれば
このような無意味な混乱は起こらなかったはずです。



この手の話はいつも
「著作権は保護すべき」
から話が始まりますが、
そもそも著作権は何故保護すべきなのか?
保護すべき権利は何でそうでない権利は何なのか?
といった議論はなく、
「保護すべき」が出発点になっています。


この手の分かりやすい「理念」が出発点になっているとき、
その理念にケチをつけるような議論はあまり行われません。



歴史を鑑みると、
戦争が仕掛けられる時は大抵何らかの
分かりやすい大義名分が唱えられます。

曰く、異教徒から聖地を奪還するため、
曰く、野蛮人を我々の素晴らしい文化で教育するため。。。


それらの大義名分の果たした役割は
後世の私たちからすれば明らかです。



何千年という歴史が過ぎ去っても猶、
私たちは「大義名分」という分かりやすい理念に誤魔化され続けるのでしょうか。

さて、今日同僚がこの記事のタイトルにあるような本を読んでいました。
プログラミングに関する本です。

その本のタイトルに対し、外国人の同僚が一言。


「普通こういう本って『○○ができるようになる!』ってタイトルつけない?」


『なぜできないのか?』というネガティブな名前じゃ売れないんじゃないか?
と彼は素朴に思ったそうです。

それに対し、本を読んでいた同僚は
「日本人はネガティブな表現に対して親和性がある」
と答えていましたが、
そもそも本屋さんに行くと
ネガティブなタイトルよりも
「○○できる」とか
「○○入門」といったタイトルのほうが多いように感じます。


海外がどうなのか、は一概にいえないので今回は触れませんが、
何故敢えてネガティブな表現が本につけられ、
また、それを手に取る人がいるのか、について考えてみます。


少なくとも、今回のプログラミングに関する書籍を選ぶ場合、
確実に何らかの目的意識を持っているはずです。

そしてその問題意識にアピールするのが
「何故○○なのか?(できないのか?)」という表現なのではないでしょうか。



そして問題意識や疑問がはっきりしているのであれば、
それに明確に答えをくれるようなものを求めます。


ですから、
「なぜ○○できないのか?」というタイトルは
決してネガティブなタイトルではなく、
寧ろ「○○できないでいる人達」に協力にアピールするタイトルといえます。
つまり、「○○できる」といった書籍とは最初からターゲットが異なるだけです。

しかし、こういった書籍にタイトルをつける際、
もっと素直に
「○○するための方法」や
「○○するためにはどうすればいいか?」
といったタイトルをつけることができます。


そちらのほうが表現だけを見るとポジティブです。



「なぜ○○できないのか?」というタイトルが選ばれる理由は2つあると思います。

1つは、仮に問題が解決できたとしても、
その原因がつかめなければ、同様の問題が起こるかもしれない
という意識です。

仮に本の通りに行動し、無事○○ができたとしても、
できなかった理由が分からなければ、
同じ過ちを繰り返してしまうかもしれない。

当然、「○○する方法」といった本に
そういったことが書かれていないわけではないのですが、
読者に与える印象が大きく異なります。


もう1つは、読者が抱く著者のスタンスの違いです。
「○○する方法」では
ただ実現する手順が書かれているだけのように感じます。
しかし、「なぜ○○できないのか?」というタイトルであれば、
専門家である著者が、
今まさに自分が悩んでいる問題に対して、
共に考え、答えを出してくれるような、そのような印象を受けます。
(少なくとも私はw)


私たちは全ての分野で専門家となれるわけではありません。
何か問題にぶちあたったとき、
誰かに助けてもらいたかったり、意見を聞きたくなるのは当然の心理です。
「なぜ○○できないのか?」というタイトルは
決してネガティブなものではなく、
ターゲットをある程度絞った上で、
悩める彼らに強くアピールするタイトルといえるのではないでしょうか。




また、専門書以外にも
「何故○○なのか?」といった書籍は多く書店に並んでいます。


これは私たちにこれまで意識していなかった問題を認識させ、
好奇心を刺激します。


また、他人の意見にただ流されるだけでは思考の停止と言われても反論できませんが、
同時に何らかの「明確な答え」を求める心理が私たちにはあると思っています。

政治の世界でも、
何らかの問題に明確な原因や答え(のように見えるもの)を
声高に叫ぶ人は強く支持される傾向があります。



「何故○○なのか?」という呼びかけは
普段私たちが気にしていなかったような疑問を掘り起こし、
さらにそれに対して
「その答えが知りたい」という思いをたくみに刺激しているのではないかと思います。


そしてその呼びかけは
対象を絞らないのであれば、
インパクトがあればあるほどいい。


時々タイトルと内容がずれている書籍があるのは
こういった事情からでしょうか。



---
長々と書いた割りに内容の薄いものになってしまいました。。。
以後気をつけます。。。

嫌悪学習

嫌悪学習と呼ばれる現象があります。

ブログの一番最初の記事が「嫌悪」の文字から始まるのはどうなんだ?
という突っ込みはしないでくださいw


嫌悪学習とはその名の通り、
「自分の嫌悪するものは何か?を学習すること」

例えば何かを食べてお腹を下してしまった後、
その食べ物をなんとなく食べたくなくなってしまう。
こういった現象が当てはまります。


この嫌悪学習の存在が
人間やその他の動物を弱肉強食の生存競争から守ってきたのは
紛れもない事実であると思われます。


光あるところに闇もまた存在する・・・



この嫌悪学習には別の側面があります。

この嫌悪学習の古典的な実験として
幼児に白いネズミを見せ、
その子が近づくと大きな音を出して驚かせる
というものがあります。

これを繰り返すことで、幼児は白いネズミを避けるようになるのですが、
同時に白いヒゲなど、
白いネズミではない別のものにも同様の
拒否反応を示すようになるとのことです。(※)



人間の脳は複雑で、
何がどこでどうつながってるのか未だに全容は明らかになっていません。

私が何かに触れたとき、
それに嫌悪感を抱くのは何故なのか。

その嫌悪感はどこから来たのか?



それが何らかの実体験によって直接的に引き起こされたものであっても
その嫌悪感が冷静な判断を妨害することは十分起こりえることです。


もしそれが全く別の体験から引き起こされたものであったとしたら?


その嫌悪感にどれほどの意味があるのか?



過去を振り返り、そこに原因と思われるものが見出せれば、
それが根拠のあるものなのか、ないものなのかが判断できましょう。
しかし、そこに原因が見つからない時、
証拠の不在は不在の証拠の論理で
それは正当性の嫌悪感である、と判断することの危険性を
この実験結果は物語っているのではないでしょうか。



感情や直感は時に論理を超えた大きな力になります。

しかし、妄信する必要性は当然ありません。
何事にも限界がありますが、
不可解なものであるからこそ、
冷静な判断が欠かせないと思うのです。




白いネズミと白いヒゲのように
外見上の相似についてしか嫌悪反応が起こった例しか
私はまだ知りません。

そのため外見以外に基づく嫌悪反応についても
同様の間接的な影響があるかは未知数です。

しかし、嫌悪学習が
自分の身を守るために発達したのだと考えれば
その他のものに関しても同様の影響が現れる可能性は高いと思います。

夜の墓場が怖いのももしかしたらこの嫌悪学習の結果かも・・・

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