いわやま4

岩大附小24年度・附中27年度卒業生の頁

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   コーヒーの歴史 木版画「かうひい異名熟字一覧」誕生を探る
             
 ジュリアンに掲げられていた木版画「かうひい異名熟字一覧」。詳しく知りたくなった。
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 解くキーとなるのは、キーコーヒーのホームページと思い検索してみた。さすがコーヒーの歴史のページがある。
 抜粋すると、日本にコーヒーが伝わったのは足利時代、キリスト教の布教のためやって来たポルトガル人やスペイン人と伝えられているが、有力説は江戸時代、長崎の出島にオランダ商人が持ち込んだものとされる。
信頼できる文献は、1728年(天明2年)に蘭学者志筑忠雄が訳した「万国管窺」
(ばんこくかんき)という本の中に「阿蘭陀の常に服するコッヒーというものは豆の如くなれどもじつは木の実なり」と書かれている。とある。
 あの喫茶店ジュリアンに掲げられていた「かうひい異名熟字一覧」の筆頭に出ている「万国管窺」である。
 
 明治になると、文明開化、東京には西洋料理店が誕生、コーヒーも次第にメニューの一つに加えられていった。日本最初の本格的喫茶店は、1888年(明治214月、東京下谷黒門町に鄭永慶(ていえいけい)によって開店された「可否茶館」であった。明治の中ごろから、コーヒーを飲ませる店が少しずつ増え、明治末には銀座に「カフェー・プランタン」や「カフェー・ライオン」が開店した。なかでもコーヒーの大衆化に最も貢献したのは「カフェー・パウリスタ」というブラジルコーヒーの販路拡大とPRのため開かれた喫茶店であった。
 
 明治41年から始まったブラジル移民の多くはコーヒー園で働き、その見返りとしてブラジル政府から無償のコーヒー豆が提供された。その豆を低価格で提供したパウリスタは、最盛期には20数店舗、従業員も1,000名を超えるほど繁盛した。そのパウリスタで働いていたのが、キーコーヒーの創業者・柴田文次で、大正9年横浜中区福富町にコーヒー商木村商店を開店した。(以上、キーコーヒーHPより一部抜粋)
 (注)パウリスタ(Paulista)とは、サンパウロっ子のこと。リオっ子はカリオカという。
 
 ジュリアンで撮った木版画の写真を拡大してみると、この版木の版権所有者は、版画家奥山儀八郎と読めた。奥山儀八郎(1907年(明治40)〜1981年(昭和56)は、木版画家で、主に商業広告版画を手掛け、ニッカウィスキーのポスター、ラベルのデザインも制作している。自らのコーヒー好きが高じて歴史等を研究しコーヒーの多様な呼び方を表した木版画「かうひい異名熟字一覧」を制作した。著書に「珈琲遍歴」(1957年初版)がある。(ウィキペディアより抜粋)

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          奥山儀八郎著「珈琲遍歴」表紙  どこかニのラベルに似ている。
 
  「珈琲遍歴」は藤沢市総合図書館にあった。早速、借用した。最近はネットで検索し、申し込むと最寄りの図書館に届けてくれるから便利である。
 前述のコーヒーの歴史は、奥山儀八郎の「珈琲遍歴」を基にしていることが判った。木村コーヒー店主柴田文治は奥山のスポンサーであった。奥山は柴田から新聞広告に「珈琲文献募集」の広告を出し、だいぶ集まったから、これを種にして「日本珈琲史」を編集してほしいと依頼された。何気なく「ようがす」と引き受けたが、集まった文献はガラクタばかりで、到底、本に出来る材料ではなかった。そこで、柴田に出版は断念した方がよいと進言したが、「業界にも木村コーヒーが本を出す」とは発表した後だから、面子にもかかわるので何とかまとめてくれるよう懇請され仕方なく引き受けた。昭和8年ころであった。当時、奥山は谷中に住んでいたので、上野の図書館に通い長崎関係の本をやたら読んだ。そうして完成したのが、著書「珈琲遍歴」であった。
 
余談:
 パウリスタの創立者は、水野 竜はブラジルの邦人コーヒー園開拓の大恩人、ブラジル政府がその報奨として年間1,500俵のコーヒー豆を無償給与を受けて、日本でブラジルコーヒーの宣伝を委託された人であった。水野は私利私欲がない国士風の人であった。
 水野は初め、皇国殖民合資会社社長として移民事業を行っていたが、明治30年頃、当時在サンパウロ公使杉村濬(ふかし)(注)の報告書「ブラジル・コーヒー耕地の事情、及び各国移民の状況」を見て、在日ブラジル公使に自分がブラジルコーヒー栽培のため日本人移民を送りたいと申し入れた。
 調査のため渡伯の船中、チリの硝石地帯に入植せんとする青年、鈴木貞次郎という青年出会った。鈴木は水野のコーヒー栽培熱に共鳴し、行き先を変更、ブラジルに向かった。この鈴木貞二郎は日本人のコーヒー耕地入植第一号となる。
明治41618日、サントス港に最初の移民781名が到着した。
 
(注):杉村濬(ふかし)の事は、イワヤマ3 391392に書いたが、ブラジル移住の先駆者、盛岡藩士。1895年閔妃殺害事件の容疑者として投獄されたこともある。息子の陽太郎は新渡戸稲造の後、国際連盟事務次長を務めた。
 
出典:キーコーヒーHP、奥山儀八郎著 「珈琲遍歴」1957年 四季社
   ウィキペディア
 
 最後に「珈琲遍歴」の表紙裏に鮮明な「かうひい異名熟字一覧」があったの
で掲げておく。
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