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美術館にある詩
相田みつをは好きか嫌いかと問われると何と答えていいかわからなくなります。
ただ今回は、”美術館にある詩”を見学してみたい、という趣旨で訪館してみました。
パブリック・スペースに展示されていても、読むに堪えうる詩があるのなら読んでみたい、ということを以前、書いたことがありましたし…そういう意味ではとても興味を惹かれる場所でした。
相田みつをの詩がもっとも評価される点は、今も多くの人たちの心を励ましたり救ったりしているところでしょう…
確かに、美術館に来ていた人たち(老若男女)は楽しんでいる様子でした。
(元気づけるというのかな)
展示室に入る前の通路の壁に一人か二人入れる窪みがあって、その内壁に詩の一部が掛けられてありました。身を屈めながら窪みに入り腰を下ろすと、目の前の詩(一部)が読めるつくりです。
詩はひとり個室で心落ち着かせて読む方がよいということでしょうか。
散歩の途中に個室スペースで休憩して詩を読む、というコンセプトなのか、相田みつを本人がよく散歩していた古墳沿いの散歩道をイメージしたそうです。
館にはいくつか展示室が設けてあります。各展示室の壁に、ガラス付きの額に入った書道体の詩が、美術館の絵のように展示してありました。
(相田みつをは、本来、達筆なので達筆版の書かれた掛け軸も展示してありました)
ファンの方からしたら、相田みつをの詩は、自分も人間の端くれであることを思い出させてくれるもの。様々な迷いや悩みの原因は自分が(自然物である)人間だからであり。人間であることは悪いことでもなんでもなくあるがままのものだと。我々は、自分が人間であることの意味を普段、忘れているものなのか…詩によってそれを思い出す、という感覚でしょうか。また当たりまえの道理にハッと立ち返らせてくれる驚きがあるのかもしれません。
もう知っていることにブーメランされる、というのは哲学とも似ています。
相田みつをの詩が好きか嫌いかはともかくとして、他人と自分の心の扉を同時に開けることができる共通キーみたいなものがあるのなら、誰もが欲しいと思うものです。どんなものであっても…
自分の心の扉を開けるキーが、他人の心の扉も開けるのならば、これほどうれしいことはないですから。
相田みつをはその最小単位のキーを”人間(くささ)”という表現にした、ということなのでしょう。
ダメでもいいじゃないか、人間だもの、という受け入れ(レセプション)が詩の根底にある気がします。
(心の声;今回は、あまりdrawback(欠点)は見ないようにしています)
(終)
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