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主にわたしのインスピレーション(つぶやき)です。ひとつの美しいアイデアからすべてが始まる。

書庫エッセイ・感想(2)

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目が覚める、という経験がいくつかあること。生きているということは、どうせ惑わかされていることでしょうから。独断のまどろみから目を覚ます体験は、認識の洗濯みたいなもので、とてもすがすがしい。

意識が純粋に自然(の本質)を捉えられて、よろこんでいる状態かな。そういう体験があると人は何がしら境地を感じる。一生涯に眼が覚める体験がいくつかあることが、人生の意味合いになるのかもしれません。


聖地ってなんかいい

 最近、「〜の聖地」という言葉に弱い
 「〜と言えば〜(場所)」という意味だけじゃなくて、その道の人や ファンから神聖視されているニュアンスがいいのかなと…


 「オタクの聖地」はよく聞くけど、もっと身近なもので「Tシャツの聖地」があってもいいし (アロハシャツの〜とかありそうだし・・・)
 「ヒップホップの聖地」、「カルタの聖地」と聞けば、訳も分からずテンションが上がる気もする……



 最近は、アニメの舞台から「聖地」になることも多い?…
 静岡県・沼津市が、「ラブライブ」の聖地、広島県・竹原市が、「たまゆら」の聖地になっていたり…
 なにげなく北海道で検索してみると作中舞台になりやすいのかたくさんヒットする
映画「君の名は。」も、長野県、諏訪湖の立石公園が…あの風景だし
 あとは…ラノベなども…あるな…
 サブカルチャー系・恋愛系で、聖地になる傾向かな


   ※

 いや、サブカルじゃなくてもなんでもいい。一定人数のなにがしかの憧れみたいなものが存在している場所って、ちょっとキラッだとか、キュンとするというか、そんな気がして興味深い(それがガチな熱宗教的なものでなく、アニメだからホッするとこもあるのかな・・・?)
 カルタの聖地は、マンガ「ちはやふる」でも登場しているように、滋賀県の近江神宮だし(作品を読む限り、競技カルタオタには崇めたくなるような場所設定)
 「和菓子の聖地」と書けば、京都になるのかな。そういう気持ちで京都を訪れるだけでも気持ちが変わってくるし
 同じように「蕎麦の聖地」なら、信州なのか…(まぁ、これはちょっと意識的になっちゃうのだけど)


 やはり、文化・文学・芸術系が新しい価値をその土地に付加していく感じ…

 伝統的な聖地の継続の他に、新しく価値づけされたカジュアル聖地がどんどん増えている感じでしょうか
 最近、「〜の聖地」という言葉が気になっているflatopancakeです。「〜と言えば、〜」みたいなところって気になります。



 ところで、ヒンドゥー教の寺院を見るたびに思うことなのですが、寺院の屋根に神様の像がこれでもかというくらいびっしりと置かれています。

 イメージ 1

 これっていったいなぜなんだろうとずっと思っていました。

 
 イメージ 2

 インドなどの満員電車を連想したりもしましたが…

 まさか人が多けりゃ、神々も多いという単純な理由ではないと思いますし…

 でも、この寺院と電車から受ける印象…なんだか感性が似ている気がします。(こんなこと書いたら怒られそうですが)

 なんでもブッダである釈迦牟尼も、ヒンドゥ―では数いる神々のひとつにすぎないと言います。


 なんだかお祭りみたいになっちゃっていて、大丈夫なのだろうかと…


 ヒンドゥー教で、もっとも有名なのが、ブラフマン・ヴィシュヌ・シヴァの三神で、それぞれ創造・維持・破壊の最高神です。因みに、インドで一番人気は破壊の神シヴァであるらしく、同神を祭る寺院や像が一番多くあるそうです。それに続くのが、維持の神ヴィシュヌ…そして、ブラフマン…日本でもよく知られている(?)ユニークな象の姿をした神ガネーシャやシヴァの妻パールバティあたりになるでしょうか?
 すみません、ぜんぜん詳しくない。でも何に気をとめたかと言うと・・・


 この世は創造主ブラフマンが生み出した幻(マーヤ)に過ぎず、ブラフマンが一たび、目覚めればこの世は一瞬のうちに消えてしまう夢であるという信仰にです。

 この宗教観は、はっとしていいな、と思いました……最近、忘れていた感じ方でした……


 それに最近、ペルシアの詩人、オマル・ハイヤームやルーミーの詩を読みなおしていたのですが、彼らの住んでいた西アジアにも通底する儚思想みたいなものがアジア全体にあったのではないだろうかと。(彼らは、イスラムですが。)宗教を超えたアジア的な深層心理がありそうです。


 古代インド、バラモン教においては、梵ブラフマンは最高神とされ、万物の根源を担う存在だったようです。

 ただし、現在、ブラフマンの人気は落ち、存在感も薄くなってしまったようです。今ではすっかりシヴァやヴィシュヌに人気を奪われてしまった。
 ヒンドゥー自体が、シヴァ教やヴィシュヌ教で解釈が異なるようです。


 しかし、ここで、ヒンドゥー教というのは、一見、多神教のように見えて、実は、一神教に似た本質を隠しているのではないか?と思うようになったのです。



 喩えば、一神教と比べてみると…

 キリスト教には、この世のどこにでも神性(divinity)が遍在するという考え方があるようです。omnipresent(オォムニプレゼント)という英単語がありますが、これは、どこにでも存在している・遍在しているという意味です。
 キリスト教の神は唯一つであり、同時に、人々の生活をとりまくあらゆる場所にも遍在していると。
 その理屈からすると、三位一体説も成り立つように思われます。(三位一体とは、唯一絶対の神を、父と子と精霊の形態で説明したもの)。精霊が、高エネルギーとして多量に集まったものが、天使や人の血肉をとったイエス・キリストだと考えれば、わからないこともない。この世のあらゆる神秘や奇跡も起こす。
 しかし、親兄弟関係にあるユダヤ教やイスラム教では、神は目に見えないという教えが、堅持されているのに、キリスト教(カトリック・プロテスタント(・ギリシア正教は△))だけが、十字架に架けられたキリスト像を偶像崇拝している。親類宗教から大問題だと非難されるひとつの要因になっているようです。


 話が長くなりましたが、ここで、この考え方をヒンドゥー教の創造主ブラフマンに当ててみれば……この世のすべては、ブラフマンの創りだした幻(マーヤ)であるから、動物も人も、数いる神々さえも、ブラフマンの見ている夢ということになります。ここが、創造主はひとつで他はすべて非創造物という一神教の感性に似ている…気がするのです…


 この世のあらゆるものには神性が遍在し漂っているのだから、今しがた通り過ぎた人にも、公園に咲く草花にも、手に持っている鉛筆にも、なんにだって神の一部が内在し、神の力が干渉していることになります。もしそれらが可視化されれば、この世はそれぞれのモノを通した神様の姿だらけになる。あの満員電車のような寺院の神像は、ごく自然な道理で、この世の神秘の正しい姿を表しているいるようにも見えます。
 そういう具合に考えてみれば、ヒンドゥー教の寺院に、神様がてんこ盛りにのせられているのはむしろ(宇宙の)宗教摂理をあらわすのに適っている?
 (曹洞宗の道元が言う、”仏性”も内容は似ているんじゃないかなぁと思うのですが、人と大自然との霊性の融合を試みた修行僧たちは、大体同じような結論に至っているようです…)


 そんな考えに至ったのですが。ヒンドゥー教にもいろいろな考え方があるようですし、
ここに書いたことは、
 まぁ、あくまで私の思弁でしかありません。そ〜じゃないのかな、とふと思った程度のことですのであしからず。

旅が詩的な理由

 どこかへ旅行へ行くと、その土地名が無意識上で枕詞になっている。京都に行ったら「京都の(空)」とか「京都の(散歩)」とかどこにでもあるなんでもないものにも「京都の(〜〜)」という土地の観念(=イメージ)と言葉(=名前)が、”思い” の先頭に自然とくるようになる。見るもの見るものを「京都のカフェ」「京都の坂」「京都の女性」などのように「京都の」を頭につけてぼんやり思っている状態。(もちろん、京都は一例で挙げただけで別の土地へ行っても同じことが言える。)その土地の風土と名前によって新しい概念や言葉が誰しもの意識上に生まれている。

 同じ日本でもわずかに、住んでいる日常とは異なる差異。そんな不思議なずれみたいなものがたのしい?言葉(土地名=枕詞)+言葉という新しい組み合わせは(軽く、自然な形で)詩作プロセスと似ている気がする。旅には、旅情があり詩情があることへのひとつの証明になってはいないだろうか?



 またお久しぶりになってしまいました。なぜか真夏に風邪を引いてしまいましたが、それ以外は変わりなくやっております。夏が暑すぎて笑えてきました。もしかしたら、風邪じゃなくて軽い熱中症なのかもしれません。養生してねております。
 拙文、読んでいただいてありがとうございます。
 テレビで学者などが話しているときに、背後の本棚が一緒に映されることがあります。そこには、大抵、本棚を埋め尽くすほどの専門書や資料本が並べられていて、「これが私の扱う知識量だ/持っている知識の資本だ」というアピールに見えなくもありません。と言うのは、話している内容に信用と説得を与える演出になっているのではないかと思うからです。

 大半の人にとって、専門的な内容になるほど、相手の話す内容がどれだけ信憑性、信頼性があるのかを判断することは難しくなります。資格や証明証はその人物の技術や信用が実力に足るものなのかを教えてくれる便利な印です。
 ただし、中には内容よりまず、肩書きや社会的地位ありきで人物の価値を判断する人がいます。人の背後に権威や肩書きのお墨付きがあると、大抵の人はその人の言うことに耳を貸すようです。

 それを逆手にとったのが、少し前に問題になったショーンK氏の件で、私などは、大衆がいかに権威や学歴、肩書を妄信しているかを証明してしまった、ある意味でよい実例だと思っています。ちなみに、映画「Catch me if you can」(トム・ハンクス、レオナルド・デカプリオ出演、スティーブン・スピルバーグ監督)でも、同様に、天才詐欺師(デカプリオ)に、社会的地位の高い職業の偽肩書を利用され、皆が皆、ころりと騙されていく様が描かれています。単に詐欺師と刑事のおっかけあいという内容ではなくて、現代社会に住む人々の盲点を、ユーモアをまじえてうまく皮肉った名作だったと密かに思っています。

       ※

 しかし、逆に、なんの権威も経歴も肩書もない一般人が、話に強力な説得力を与えることはできないだろうか。考えてみた末、特異な量の経験を積むしかないのではないかという結論に達しました。
 たとえば、日本中の温泉街を回り、千の温泉に肌をつけた温泉狂だとか、和菓子愛が高じて、日本中の珍しい和菓子を食べ比べたスーパー和菓子好きだとか(日々、和文化と和菓子の美意識の関係に触れているような人)、世界中の廃墟施設に赴き、ブログで人気を博してしまった廃墟マニアだとか、寺院・大自然などのパワースポットを隈なく訪れ、あらゆる霊験あらたかなスピリチュアル体験をしたという人たちが(通常の経験量をはるかに凌駕するレベルで行った人ー)いたら、その人たちの背後には関心ごとの像が後ろ盾として存在するよう感じられるかもしれません。
 思わず、「あなたが推す温泉No.1はどこですか?」「和菓子の魅力ってなんでしょう?」「もっともスピリチュアルなパワーをその身に感じたパワースポットはどこですか?」などの質問をしたくなります。それぞれの道の愛好家の口から、どんな言葉がはじめに出てくるのかも、興味をそそられるところです。
 この場合、聞き手が関心を抱くのは、その人たちの経験量からの感想でしょう。


 頭でなければ、足で関心を勝ち取れみたいな話です。
なんでもいいから本当にハマるものを見つけて一点集中でチャンレジしてみるのもいいことかもしれませんね。(チャレンジというより楽しむ感じかな)

 拙文を読んでいただいた方に感謝です。

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