ちょっといい話
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ところが、球史に残る名投手でありながら、所属チームとは関係なく、通常は草野球しか行われない球場で、引退試合を行った選手がいる。
江夏豊投手である。 なぜそのようになったのか。どのような引退試合だったのか。 阪神、南海、広島、日ハムと球団を転々とした江夏が、日本で最後に在籍したのは西武ライオンズである。しかし、西武では首脳陣との確執もあり、最後の年となる1984年には飼い殺しのような処遇を受け、球団主催の引退式も開かれないことになった。同年にやはり西武を引退することになった田淵幸一の引退試合が球団主催で行われるのとはあまりにも扱いに差があった。 この仕打ちに対して、 「一時代を築いた人間に、あまりに失礼じゃないか!」 と憤ったのが、雑誌「Number」の初代編集長・岡崎満義や同誌のスタッフたちである。創刊号の特集記事「江夏の21球」以来の親交があった彼らにとって、あれほどの実績のある大投手の引退式が行われないことは許せなかったのだ。 自分たちの手で引退式を開こうと考えた彼らは、当初、江夏氏とゆかりのある他の球団に、「球場を貸してくれないか」と頼むが、ことごとく断られてしまう。 その状況を米国から帰国したばかりの江夏(当時、メジャーリーグに挑戦しようとしていた)に伝えると、こんな返事が返ってきた。 「分かった。それなら草野球の球場でもええわ。それの方が案外、ワシらしい引退試合になるかもしらん。やってくれるというありがたい人がいるかぎり、球場はどこでもかまわんと思う」 こうしてようやく決まった舞台は、東京・多摩にある「一本杉球場」だった。 超満員のスタンドは、江夏の登場を今か今かと待ちわびている。
ところが、なぜか目の前では、地元の少年野球チーム「多摩ファイターズ」対「多摩市野球スポーツ少年団」の試合が始まった。 1回の表・裏と、のどかな試合が進む。 2回の表、多摩ファイターズ“臨時”監督として登場した男が突然、マイクを持って喋り出した。 ビートたけしだった。 たけしと江夏は、よく草野球をやった仲だった。この日、江夏のためにわざわざ一本杉球場まで駆けつけてくれたのだ。たけしが選手交代を告げる。 「ピッチャー交代、江夏豊!」 観客が一斉に「江夏! 江夏!」と声を合わせる。 球場管理事務所からグラウンドへ向かう32段の階段を、ユッサユッサと体を揺らしながら、神妙な面持ちで降りていく江夏。 バックネット裏の扉を開け、いよいよ江夏が大観衆の前に現れる。 その姿を見て、1万6000人の大観衆が一斉に歓声をあげた。 「28」。
江夏の背中に、10年ぶりにあの数字が蘇っていた。
引退式で身を包んだのは、現役最後の西武「18」ではなかった。 ファンの心に残る“完全なる投手”江夏豊の背番号、阪神の「28」だったのだ。 このあと、球場には球団の垣根を越えて、名選手たちが次々に「代打」として登場して、江夏と対戦した。落合博満、高橋慶彦、福本豊、山本浩二、大杉勝男、斉藤明夫、江藤慎一……。
次々と登場する名選手に、ビートたけしもため息をつきながら、
「役者が違うわ……。オレが来る場ではなかったみたい。でもお役に立てて」 と言い残し、急いで次の仕事へ向かった。 このあと、江夏は1万6000人の観客に向けて、挨拶をする。 「江夏豊にとって、これほど、すばらしい、引退試合はございません。 胸を張ってアメリカに行ってきます」 そう締めくくると、金網越しにファンから差し出された手を一人一人握りながら球場を歩いたのである。 一部略 http://news.livedoor.com/article/detail/12693245/ 忘れられない引退になったのですね。 それにしても「人」を「人」扱いできない日本の会社は異常だと思います。 この話は美談ではありますが、その根底に「出家」事件のような人を物扱いする風潮があると 思います。 |
![]() https://scontent.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/16729474_1915995135300887_1932343700905849778_n.jpg?oh=84c2d8d2c5dc6ed46ec31edb00bab12a&oe=593641D9 より転載 いろいろなやり方がありますよね。 特に感銘を受けたのはこの方のこの行為です。 日本の仏教に今欠けているものがこの画像にあるように思います。 |
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2月5日に新宿区で在日中国人がアパホテルへの抗議デモを行った件で、現地ではこれに反発する人々らと共にウイグル人の男性が中国を厳しく非難する演説を行い話題になっています(画像はツイキャスより)。 在日中国人によるアパホテル抗議デモに対しては日本第一党の桜井誠氏らが現地を訪れていましたが、桜井氏はチベットやウイグルからやってきた別の団体もアパホテル抗議デモに反対しているとして紹介しマイクを渡していました。 マイクを持った男性はウイグルの人権問題を日本で訴えているトゥール・ムハメット氏で、九州大学で農学博士の学位を取得後日本の民間企業に就職、世界ウイグル会議日本・東アジア・東南アジア全権代表や日本ウイグル連盟の会長を務めていると自身のプロフィールに記述している人物。
在日ウイグル人の声を直接聞く事のできる機会が珍しいという点からも生の声は反響を呼んでいるようです。
「日本の皆様、こんにちは。私は日本に住んでいるウイグル人です。今日は中国の官製デモがこのアジアで最も素晴らしい国家、最も民主主義的な国家、そしてアジアのモデルである日本で行われています。
全世界がこの日本に敬意を表します。この国家は世界のモデルです。こんな素晴らしい国家でこんな下らないデモが行われていることは誠に残念です。
中華人民共和国は1949年、建国して以来、数え切れないほどの殺戮、弾圧、そして海外侵略を行ってきてます。皆様はよくご存知だと思いますけれども、平和ノーベル賞(ノーベル平和賞)をもらっている中国の活動家、劉暁波さんは今は中国の獄中にあります。
そして、中国の憲法のもとで中華人民共和国民族自治区域のもとで、中国におけるウイグル人の基本的人権を守るために発言をした、中国中央民族大学の教授、イリハム・トフティさんがウイグル人の中国の憲法のもとで保障されている権利を主張しただけで無期懲役にされて今、いわゆる新疆ウイグル自治区の獄中におります。
そして、今この習近平の政権の元で中国における言論の自由、デモの自由、結社の自由、全てが奪われています。
こんな国家の人間が、どうして国家犯罪に反対するデモをやらずに、この素晴らしい国家の中で、日本の平和の象徴である日本の素晴らしい警察が守っている中でデモが出来るんでしょうか。
私は、彼らのデモに対して、別に暴力を以て立ち向かう必要は全くありません。このデモをやっている人達というのは、もしかして中国共産党に洗脳されて、あるいはこの中国共産党政権から利益をもらって、あるいは自分達が自分達の手で中国人の血を流した人達かもしれません。
しかし彼らは、彼らが今日行っているこの行動の対価を彼ら自身が支払うことになります。歴史は決して中華人民共和国がこの建国以来の67年間行ってきた数々の虐殺、数々の弾圧、今現在行われているウイグル人、チベット人に対する虐殺と民族抹殺は全く許せない。
しかし皆さん、私は暴力を主張しません。平和な日本の中で平和がいかに大切かということを私はつくづくわかっております。日本の警察の皆様もこんな中で日本の法律を守るために今日、あるいは何日も前から頑張ってこられています。私はもう一度この現場の実情を守っていらっしゃる日本の警察の皆様、そして関係機関の皆様に心から敬意を表します。皆様本当にお疲れ様です。今後とも宜しくお願い致します。ありがとうございます」http://www.buzznews.jp/?p=2105950 より転載 |
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日本の〝絆の物語〟を紹介していきます。
■ポーランド……窮地を救ってくれた日本への70年越しの「恩返し」
ポーランドが日本びいきになったのは、20世紀前半に日本がたびたびポーランドを援助していたからだと考えられている。当時、帝政ロシアの圧政に苦しんでいたポーランドは、日露戦争で小さな日本が超大国ロシアにまさかの勝利をし、歓喜に沸いたという。そして1914年、第一次世界大戦時、ポーランドは、ロシア軍とドイツ軍の主戦場となってしまい、多数のポーランド人がシベリアへと逃げていった。その数20万人。だが彼らはシベリアの荒野で餓死、凍死、病死と、次々に命を落としていく。挙兵したポーランド人もいたが、ロシア軍にはまったく歯が立たず、窮地に陥っていた。
そのとき、救いの手を差し伸べたのが日本人。ロシア軍に追い詰められたポーランド人部隊を救助し、シベリアから祖国へ送り届けた。そしてまた、多くのポーランド人の孤児を保護して日本へ。そして祖国へ送り返す。祖国へ帰国する際、孤児たちは船の上から「アリガト」と、日本との別れを惜しんだ。70年後、ポーランドは、その恩を忘れず、阪神淡路大震災で被災した60人の日本の子どもたちをポーランドに招待して慰めてくれたのだった……。
■イラン……国の救世主となった「日章丸」のドラマ
イランは、原油の確認埋蔵量が世界4位という資源大国。第二次大戦前はイギリスの半植民地のような状態だった。ところが、1951年、イランが自国の石油を国有化したことで、イギリスが激怒し、ペルシャ湾に艦隊を派遣し、海上封鎖に打って出て、イランの石油は国際市場から閉め出されてしまう。その結果、どの国もイランの石油を買わなくなり、石油輸出に依存するイランは国家存亡の危機に陥る。そのとき、果敢にもイランの石油買い付けに乗りだしたのが、日本の出光興産だ。社長の出光左三は、かねてよりイギリスから搾取されつづけていたイランに同情的だったのだ。
イギリスの目をかいくぐってタンカー「日章丸」がイランに到着。「日章丸」は、まさにイランの「救国の船」になった! この一件により、イランに「超親日国」の土台が築かれたのである。
■トルコ……「エルトゥールル号」事故に端を発した両国の友好関係
明治23年、トルコ(オスマン帝国)の軍艦が日本を表敬訪問した際、和歌山県沖で台風に遭遇し難破。沈没してしまったのである。乗員の安否は絶望的と思われたが、地元串本の人々は、必死で人名救護にあたり、運よく島に流れ着いたトルコ人に浴衣を着せたり、食料を分け与えたりし、生存者を手厚くもてなした。結果69名の命が救われたのである。その後、トルコの教科書にエルトゥールル号事件が掲載されたこともあり、トルコの人々は親日感情を深めていく。
ときはたち、昭和60年、今度はトルコが日本の窮地を救ってくれることに。イラン・イラク戦争が勃発し、中東情勢は緊迫の度を増していた。そうした中、イラクのフセイン大統領が「イランの上空を飛ぶ飛行機を撃ち落とす」と世界に向けて宣言したのである。攻撃まで残された時間は48時間。各国とも、自国民の帰還・保護に努めたが、日本は航空機を確保できず、イラン在住の日本人たちが取り残されてしまった……。このとき、彼らを救出するために、自らの危険を顧みず救援機を飛ばしてくれたのがトルコだったのである! トルコ人は「エルトゥールル号の遭難で日本人に受けた恩は忘れていません」と語るという……。
■インド……大正時代から独立運動に関わった日本との強い絆
イギリスからの独立を画策するインドのビハリ・ボーズは、大正3年に日本へ亡命。パン屋「新宿中村屋」に匿われる(その際、ボーズが伝授したのが、中村屋名物「インド・カリー」)。その後も日本は、インドの独立に関わり続ける。そして、敗戦後の「東京裁判」では、インドのパール判事はただ一人、日本人被告全員の無罪を主張……。
■フィンランド……独立を後押しし、領土問題も解決した日本人
フィンランドも日露戦争で日本びいきに。日本はまた、フィンランドのロシアからの独立を後押しし、経済援助や武器供与も行った。さらにスウェーデンとの間に領土紛争が起きると、国際連盟の事務次官だった新渡戸稲造がこの領土問題を「大岡裁き」でスッキリ解決し、フィンランドは超親日国に!
より転載です
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