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健全な精神は健全な肉体に宿る。
もち論、健全な肉体が健全な精神に宿る、とも言い得る。 誰だって風邪を引くでしょう。その時は、休養をしっかり取るなり医者に行くなりして、早めに治すに如くはなしです。しかしながら現実はそんなに甘くない。 誰もが経験することでしょうが、風邪を引いて熱が出て体の節々が痛んで、どうしようもなく気分が重い時でも、急ぎの案件があって仕事を休めないことってありますよね。そんな状況では、ちょっとした事でイライラし、同僚や部下、場合によっては、お得意さんにも感じ悪く接してしまったりする。仕事の能率も悪くなり、出来栄えにも満足できない。自己嫌悪に陥ってしまう。 こんな場合もある。長年、生き馬の目を抜く競争にさらされ、ライバル達と切磋琢磨し、名だたる大企業のナンバー2まで来た。あと一歩で、念願のトップの座だというところで、病気を患ってしまう。健康で元気なだけが取り得の奴と見下し、ライバル視すらしていなかったダークホースが、トップに立つ。 権力闘争そのものが仕事の政治家を見れば一目瞭然。持病はひたすら隠すし、常に万全の健康をアピールしようとする。もし病気が明らかになれば、政治生命を失いかねない。 だから、極々当たり前のことですが、健康は大切です。 あのベートーヴェンも健康の有難みを痛感し、病気からの回復への歓喜と感謝を印した珠玉の1曲があるのですよ。
時は、1825年春。
フランス革命とナポレオン支配のもと、目覚めた自由主義とウィーン体制下の保守主義が激しく拮抗する、オーストリア宰相メッテルニが権勢を振るった時代。日本では、寛政の改革で有名な徳川11代将軍・家齊の治世だ。 ベートーヴェンは54歳。すでに、「英雄」「運命」「田園」「合唱付き」などの9つの交響曲、「皇帝」など5つのピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、29のピアノ・ソナタ、チェロ・ソナタ、歌劇「オフェリオ」など音楽史に輝く名作を次々に発表。功成り名を遂げていた。 一方、耳の病気は悪化し、聴力をほとんど失っていた。日常生活では、孤独でいつも不機嫌で、耳の不自由な音楽家であった。それでも、ベートーヴェンは精神の王国に住み、前人未到の創造の域に挑んでいた。 当時、ウィーンはヨーロッパの政治・経済・文化の中心だ。各国から貴族や外交官、芸術家、商売人など集まっていた。その一人がロシアのガリツィン公爵、自らチェロも弾く音楽愛好家だ。公爵は、ベートーヴェンに3曲の弦楽4重奏曲の作曲を委嘱。 弦楽4重奏曲は、ハイドン、モーツァルトにより探求、開拓され18世紀末までには形式も整っていた。たった四つの弦楽器で交響曲にも匹敵する音宇宙を創ることが出来る。奥深い音楽だ。 ベートーヴェンは、弦楽4重奏曲をとても重視し、真新しい響きを創造する上での中心的な音楽ジャンルであった。委嘱を受け、精力的に作曲を進める。3月には第1曲が完成した(第12番 作品127)。ベートーヴェンは、すぐさま、2曲目に取りかかる。創作意欲に満ち充実した時期であり、第1楽章、第2楽章と順調に筆は進んでいった。 しかし、持病の腸カタルが急激に悪化。非常なる苦しみに病床に伏す。作曲は中断せざるを得なかった。5月7日には、温泉もある保養地バーデンに移り、療養する。しかし、簡単には快方に向わない。医師に送った手紙には「多量の血を吐いた」と記されている。 それでも、3週間ほどで症状も徐々に治まり、「ワインの水割りなら飲んでもいいでしょう」と医師に書き送れる程度になった。
病気が治まると、ベートーヴェンは怒涛の如く作曲を再開する。溢れんばかりの創造力で8月には完成する。「弦楽4重奏曲第15番 イ短調 作品132」だ。 当初、ベートーヴェンは標準的な4楽章形式で作曲を進めていた。しかし、厳しい病気で作曲の中断を余儀なくされ、やっと病状が回復し再び作曲することが出来ることの歓喜と感謝の念をどうしても示したかった。結局、一つの楽章を追加した。それが第3楽章だ。「病癒えたる者の神に対する聖なる感謝の歌」との頭註が伏される。 その第3楽章には二つの旋律が現れる。まず、キリスト教会の賛美歌のような響きを持つモルト・アダージョ。厳(おごそ)かにゆったりと感謝の念を音で紡いでゆく。そして、美しく明朗で軽快な希望に溢れたアンダンテ。3拍子の律動で身体全部で歓喜をあらわしている。第3楽章では、モルト・アダージョとアンダンテが交互に計5回現れる。15分を超える感謝と歓喜の音楽だ。 ※ クラシックは苦手だという君。騙されたと思って、第3楽章だけ(更に厳選すればアンダンテだけ)でいいから聴いてみて下さい。 耳の不自由な不機嫌で孤独な男が、実際の音楽を聴くことなしに頭の中に響く弦楽器の音の記憶だけで、紡いだ奇跡の音楽ですよ。しかも、ベートーヴェンが生きた時代、彼が書いた最先端の弦楽4重奏曲は、現代のロックに匹敵するような自由で斬新で美しい音楽だったんです。 それは時空を超え、今も心の耳をすまして聴けば、感謝と歓喜が君の心を揺さぶるチカラを秘めています。 ある著名な医者が言っていました。相応の社会的な責任を負う立場になったら、健康を維持するのは、その人にとって義務であり仕事の一部である。また、健康維持するためには、費用がかかる。いや、すすんで費用を掛けるべきである、と。
だとすれば、厳しい病に伏せって、健康の有難みが痛いほど分かった、気難しい男が書いた音楽を聴くのも義務かもしれませんよ。弦楽4重奏曲 第15番には、健康が一番だ、という明快なメッセージが込められているのだから。 多数の名演があるが、アルバンベルク弦楽四重奏団を推す。 (音楽愛好家 小栗勘太郎) 買ってみたいきっかけになります。来月手に入れてみようかな。
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