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神様の契約は大切にしなければなりません。
聖なる契約を大切にしてこそ、契約の光の中に立つ事が出来ます。
神様は彼ら(イスラエルの民)を赦されたから。
聖なるものを大切に思う心は、知恵深い態度です。……
神様の赦しは、ただ神様の憐れみによるものです。
神様の赦しは、罪の問題と深く関係している事を記しています。
神様は、裁き(義)ではなく、憐れみ(愛)を望んでおられるのです。……
確かに、罪の問題あるところに「赦し」の心が求められている。
確かに、いさかいのあったところに「平和」が求められている。
悲しみのあったところに「慰め」
恐れ、騒ぎのあったところに「安らぎ」
痛みのあるところに「癒し」
かき乱されたところに「平ら、和らぎ」
つまり、神様の成さりたいところには、まず、必ずしも「問題」というものが
発生しているようだ。
「医者を必要とするのは、病人です」
まさに、「自分が病気だ」と気づかなければ、確信を得なければ、誰も、
病気を治そうと、医者のもとへはやって来ない。
「自覚症状」これも大切かと思う。それを知らせる為、悟らせる為に、
問題と思える事や、中傷などと言った刺激が心の内に刺さるのかも知れない。
「痛い目に会わなければ、分からない」と人は言う。しかし、
「痛い目に会いたくない」これもまた、人間の本音かとも思う。
医者のありがたさ、医療の素晴らしさ、健康のありがたさは、
怪我をして、病気をして、倒れて、死に損なって、何かが壊れて、失って、
初めて、「分かる」ものかも知れない。
いさかい自体が悪いのではない。そのいさかいを通して、何を学ぶのか、
不具合を通して、どのように修正、改正していくのか。
人は全てを失ってみて、初めて「大切さ」という、人の温もりを体験出来るのでは
ないだろうか。
主イエス様を失ったあと、人々はイエス様の大切さ、救い主のありがたさを
痛感したんだと想う。だから、復活したあとのイエス様とお会いした時の感動は、
なおいっそう深かった、心に残った、泉のようにわきあがる、自然の喜びに
満たされたのだろうと想う……。
痛みを知った人は、もう痛まないようにと努めるし、痛みを和らげようとする。
本当の痛みを知らない人は、いつまでも人、自分、環境、人の言動をつついて騒ぐ。
自分が何者か分かっていたのなら、他人に何者かなどとは質問しない。
「問題」あるところに、救い主の影は深くあられる。暗闇に光り。
闇の中に、光をもたらされた、救い主イエス・キリストに心と思いと、全ての悩みを
打ち明けたなら、その現場が、憩い、安らぎ、平和、慰め、感謝、喜び、温もりの
場所へと変えられていく、のだと想う……。
神様の赦しは、罪の問題と深く関係しているのです。
心の目が、心の中心が、神様に向いていない時、人は罪を犯す。
いえ、心の守り主から目を離すから、人は罪を犯す、失敗をおかす。
自分が今、何をすべきなのかをはっきり知るのなら、心が常にすべき事を見て
行なっているのなら、他人の失敗や欠点や、愚かさを探り続けて、それを指摘する、
そのような過ちを犯す事はなくなるのだろう、と想わされている。
神様は失敗を決して責めない。何故なら、人は初めから悪い行ないをしてしまう
弱い存在だと知っているから。だけど、罪を償う事は教えて下さる。
何故なら、神様の願いは「命」を生かす事。決して、滅びる事を望まない。
だから、「悔い改めて、生きよ」なのだと。
多くの失敗や過ちで、他人を傷つけてしまう。どうしようもない「自分」
その「自分」を神様ご自身が助け、救い、つくろい、力を注ぎ、もう1度、
その現場にて立ち上がれるようにして下さっている。
私たちは「問題」に目を向けるのではなく、「神様」に目を向けるべき。
命と息と細胞と心臓と体と、思いと心とたましいとを与えて下さった、
生きた神様に、全てをお任せしていく事。そうすれば、助け主が助けて下さる。
「私」のような、ただの人間が、全てを成していく事など、あり得ない。
人の一生は、短いもの。誰にも命は扱えない。
この見えない「命」という存在を、見えない神様に預け続けていく。
この神様が、私を救うんだ。守って下さるんだ。どんな現状をも乗り越えられるよう、
内なる力を分け与えて下さるんだ。と、信じて、受け取って、……
「信仰」を持って、またもう1歩、新しい1歩、今日からもまた、歩んでいきたい。
「主イエス様と共に……」。
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