JFAの記録捏造 & 極悪ウィキ執筆者Athletaの釜本デマ

代表記録捏造とウィキペディアのデマは酷過ぎる。日本人は協会幹部とAthleta(Ath02)の悪行を知り早く永久追放すべし。
【 Jリーグが出来て以降、世界一流のMFを輩出できなくなった日本 】

Jリーグが出来る前の1980年代、奥寺康彦は、
ドイツ・ブンデスリーガのブレーメンで「左サイドハーフ」 を務め、優勝争いをしていた。
そして、「ブレーメンは、1985年、1986年と2年続けて、欧州最高得点率のチーム」 だった。
[ 欧州5大リーグ、全94チーム中、1位 ]
(ちなみに奥寺は欧州で1977年から、9年も活躍したが、1970年代は、ケルンに所属していた。
そして、「ケルンは、1978年、欧州最高得点率のチーム」 だった。
つまり、奥寺は、1970年代、欧州最高峰レベルのチームに居たし、
1980年代も欧州最高峰レベルのチームに居たという事だ)。
(奥寺の居たブンデスリーガは1976〜84年まで「UEFAリーグ・ランキング」 で1位で、欧州最強リーグでした。
奥寺は1986年まで、ブンデスリーガで活躍しましたが、
1985年と86年のブンデスのリーグ・ランキングは、それぞれ1985年は、欧州3位、1986年は欧州2位でした
つまり、彼は、キャリアの最後までずっとレベルの高いリーグに居たという事です)。

そんな凄いチームで、日本人MF、奥寺康彦は活躍していたが、
1990年代に入り、日本人トップ選手のレベルが大きく低下した。
奥寺と違い、中田英寿のようなMFは、「欧州最高得点率のチームに所属する事もなければ」、
「優勝争いするチームのレギュラーにもなれず」、
日本人MFは、下位チームでしか通用しないレベルに下がった。
中田は当時、「欧州2位リーグだったセリエA 」 、ローマで通用せず、ずっと補欠で1年で退団する事になった。
また奥寺は30才過ぎても大活躍したが、中田は30才前に引退し、通用せずキャリアを終えた。
つまり、日本人MFのトップは、1980年代と比べて退化した訳である。
2000年代に入り、中村俊輔小野伸二稲本潤一などのMFも台頭したが、
彼らも奥寺と違い、欧州最高峰レベルのチームに居た訳ではない。
稲本はアーセナルに入団したが、レンタルに出され、他のチーム(フラム)でプレイしていた。

そして、2010年代、本田圭佑香川真司長谷部誠柴崎岳などのMFが出て来たが、
彼らも欧州最高峰レベルのチームで活躍した訳ではない。
香川真司が良い例だろう。
ドルトムントという「欧州3位リーグだったブンデスリーガ」 の上位チームで活躍し、優勝もしたが、
「欧州2位リーグのプレミア・リーグ」 の上位チームだった
マンチェスターユナイテッドに移籍したら、レギュラーは掴めず、
通用せず、イングランドを後にした。
つまり、香川は、「欧州3位レベルのリーグでしか活躍できない選手」 だったのだ。
それ以上のハイ・レベルのリーグだと、もう通用しない。
本田圭佑は、「欧州4位リーグだったセリエA」のビッグ・クラブだったACミランに移籍したが、
活躍できなかった。
ちなみにDFだが、長友佑都も同じ時期に、インテル・ミラノというビッグ・クラブに移籍した。
しかし、この時期のインテルは、長友入団と同じ頃から弱くなり、彼の在籍中、一度も優勝争いをしなかった。
故に、長友は、本当に世界の一流レベルで活躍していたのか? というと疑問である。
長友在籍中のインテルは、大体、毎年、4〜9位の辺りの順位で終っていた。
9位(2013年)、8位(2015年)、7位(2017年)などの酷い年があり、
「本当にビッグ・クラブなのか?、中堅クラブだろ」という成績の年がしばしばあった。
故に、長友は本当に欧州最高峰レベルのチームに居たのか? というと微妙である。
長谷部誠は、「欧州4位だったブンデスリーガ」(2009年時) で、
ヴォルフスブルク時代、1度、優勝したが、それ以外の年は優勝していないし、優勝争いすら1度もしていない。
彼も香川真司と同じで、更にハイ・レベルなリーグ、スペイン・リーグ(欧州1位)、プレミア・リーグ(欧州2位)などでは通用しないだろう。
柴崎岳に至っては、スペイン1部ではなく、2部でばかりプレイしている。
これでは奥寺と比較する段階にないだろう。

つまり、日本人MFは、Jリーグが出来て、海外移籍を多くするようになり、欧州挑戦しているが、
全員、奥寺康彦に遥かに及ばないレベルの実績で、
全員、日本人MFのレベルを低下させているのだ。
つまり、日本人トップ・レベルの選手は、1980年代からずっと退化している。
全く進歩できていないという事だ。

よく考えれば、Jリーグ発足以降、「欧州1位のリーグで活躍したMF」 は1人も居ないのだ。
奥寺のように「欧州最強リーグの強豪チームに所属し、活躍したMF」 は1人も居ない。
(中田の時代のセリエAは、既に欧州2位リーグだった。
中田の欧州移籍2年目以降、セリエAは欧州2位リーグになっていた。
2000年以降、スペインが欧州1位リーグである。
日本のバカ・マスコミは、「UEFAリーグ・ランキング」 というのを知らないのである。
それで当時、マスコミは勝手にセリエAを「欧州最強リーグ」 と言い続け、
その結果、バカな日本人サッカー・ファン達は、
「中田の居た時代、ずっとセリエAは欧州1位リーグだった」 と現在でも思い続けているのである)

日本のマスコミは、この酷い実態を国民にきちんと伝えるべきだろう。
「Jリーグが出来て以来、なぜここまで日本人MFのレベルは低下し、
奥寺康彦のように欧州最高峰レベルのチームで、その攻撃陣の1人として活躍できなくなったのか」、
を考えるべきだろう。


[ ブレーメン 1984〜86年、基本システム ]
1984−85シーズン、1985−86シーズン、2年連続で、「欧州最高得点率」 を達成した。
(2年続けて、「攻撃成績」 が、欧州5大リーグ、94チーム中、1位だった)。

4−3−1−2 システム。 

             フェラー                 ラインダース (ノイバート)
  
                     マイヤー
           奥寺康彦                ジドゥカ
                 
                     メルマン (ボタバ)
   
   オッテン     クツォップ              ペッツァイ      シャーフ 
              
                     ブルデンスキー

 
奥寺氏の「ブレーメン時代のポジションは『ウィングバック』」 と書く、サッカー評論家は「ニセモノ」 と判断して
良いです。
確実に試合を見てないです。
奥寺氏の主たるポジションは「左サイドハーフ」 でした。


「名選手、名鑑」です。

「世界最高の監督」の歴史。名将列伝。
 
「10代で得点王になった天才選手」。 久保建英より凄い10代、まとめ。
 
 
ブラジル代表、歴代10番  https://matome.naver.jp/odai/2156001524382112001
 
日本人が知らない、ペレ伝説。 https://matome.naver.jp/odai/2154148733658141301
 
2014年ブラジルW杯、金儲けの為に試合開始を午後10時(現地)にした、金の亡者、日本人。
 
サッカー史上、最もゴールを決めた男、ヨーゼフ・ビカン https://matome.naver.jp/odai/2155592233646717401
 
ブラジル代表、 歴代エース・ストライカー https://matome.naver.jp/odai/2155651982320746801
 
小クラブを優勝させる天才、 オットー・レーハーゲル監督。 
 
スペイン・リーグ史上最高FW、イシドロ・ランガラ https://matome.naver.jp/odai/2155588627731601101
 
世界最高ドリブラーの歴史。 https://matome.naver.jp/odai/2155633540866813001
 
世界最高ボランチの歴史。  https://matome.naver.jp/odai/2155620829332449401
 
世界最高センターバックの歴史。 https://matome.naver.jp/odai/2155600480470601501
 
世界最高10番の歴史。 https://matome.naver.jp/odai/2155607814393565601
 
世界最高FWの歴史 (簡略版)。https://matome.naver.jp/odai/2155312617766955901
 
世界最強クラブ・チームの歴史。https://matome.naver.jp/odai/2155435270953889601
 
2011年、アジアカップでのキ・ソンヨンの猿パフォーマンスの解説。

日本人が勝手に作った「JFA基準」の酷さを解説。
 
リーベルプレートというチームを「リバープレート」と嘘の名前で放送する日本テレビという馬鹿会社の解説。https://matome.naver.jp/odai/2146055300976480701
 
テレビ朝日と日本人の異常性が分かる解説。
【サッカーの戦術は進歩していない】

日本人はとても汚くアホな民族なので、真実を語らない。
毎度、日本人サッカー評論家達は、「最新の戦術」 などとドアホな事を言っている。
つまり、これが彼らにとって、一番、金を稼ぐ為に、必要な言葉なのである。
これを書くと雑誌が売れるからである。
最近では、「言語化」などと言い出し、無理矢理、「新語」 を作っている。
これも詐欺みたいなモノである。
つまり、「新しいですよー」 と印象づけて、サッカー・ファンを呼び込んでいるのである。
つまり、「新しいモノが出て来ました」 と言って読者を刺激させると、
一番、雑誌が売れ、彼らは儲かるのである。 
日本人サッカー・ファンはバカなため、そのメカニズムがあることを理解していない。
雑誌を作ったり、本を書いてる連中が、そのメカニズムを柱にし、活動しているのを理解していない。
日本人はとても汚いので、「真実」 を話すより、ウソをつき儲ける方を選ぶ。
故に、日本人評論家たちは、あらゆる屁理屈を述べて、ウソをつき、
「新しいモノが出て来た」 という印象を付けるために躍起になり、
詐欺活動を続けているのである。

Leo the football」 というアホは、本当に酷いですね。
この男は、ユーチューブでチャンネルを持っていますが、「最新の戦術」 と大嘘を連呼しています。
こいつ海外のテレビ番組は一切、見てないと思いますね。
「エムバペ」の事を「ムバッペ」と言ってますから。
海外のテレビ番組を見ていたら、「ムバッペ」 とは絶対に言う気になりません。
なぜなら海外メディアは皆、「エムバペ」 と呼んでいるからです。
こいつは、海外メディアを読まず、見ず、何の勉強もしてないが、
勉強して知っているというフリをしている「ニセモノ」 だと思います。

私は、なぜこの点に関し、怒るかと言うと、ウソつきが増える事は、
日本のサッカー界にとって、本当に良くないことだと思うからである。
それは長期的に見て、日本人・馬鹿サッカー・ファンを大量に生み出し、
「時代で語るバカ」 を大量に増やす事になるからである。
海外で、ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラー、シュスター、マラドーナなどを「時代が全く違う」 と
切って捨てるような場面を見る事はまずない。
しかし、日本人サッカー・ファンというのは、時代で語る事が体質になっており、
過去の名選手、名チームを簡単に切って捨てるのである。
彼らは、日本のサッカー雑誌、評論家から「戦術は進歩している」 、「選手は現在が上」 等の
間違った教育を受け、
その結果、何でも「過去より現在が上」 という固定観念の固まりみたいな馬鹿の集団と化しているのである。


【 サッカーの戦術は進歩していない。 戦術の指示者、監督を見ろ 】

イビチャ・オシムは、日本代表監督時 (2006〜07年)に、

サッカーの戦術はほとんど出尽くした

と述べていた。

しかし、なぜか日本のサッカー評論家達は、この言葉をスルーするのである。
「サッカーの進歩は日進月歩」 とか、「最新の戦術」 とか、真逆の事を延々と、毎日、言っているのだ。
つまり、彼らにとって、サッカーは進化し、戦術は進歩してくれないと、
職業が成り立たないのである。 
常にサッカーというモノは変化し、「新戦術」 などと紹介し、読者を食いつかせないと
雑誌の売れ行きが鈍り、商売がきつくなるのだろう。
2000年代に活躍した、ファビオ・カンナバーロ  (イタリア代表DF、「2006年、バロンドール受賞」 )、
2010年代に活躍した、ジョルジョ・キエッリーニ (イタリア代表DF)は、
「1990年代のセリエAの方が守備のレベルは高かった」、
「昔のイタリア人DFの方が、レベルが高かった」
等の「前世代に対し、『降参コメント』 を発している」 が、
なぜか日本人・評論家達は、こういうコメントもスルーする。

よく考えれば、サッカーは1980年代から変わっていない。
もしサッカーが大きく変わっていたならば、
2010年代に、1970年代から監督業をやり、活躍していた、
アレックス・ファーガソン (スコットランド人、マンチェスター・ユナイテッド監督)
ユップ・ハインケス     (ドイツ人、バイエルン監督)
オットー・レーハーゲル  (ドイツ人、ギリシア代表監督。ユーロ2004優勝)
らが活躍するのは不可能だったろう。

日本人は、詳しく知らないのかも知れないが、ファーガソン、ハインケス、レーハーゲルは、
1970年代から監督をやっていたのである。
ファーガソンに至っては、1974年から監督をやっていたのである。
もし、サッカーが日進月歩で進歩していたならば、ファーガソンは2013年に監督として、
プレミア・リーグに優勝していないだろう。
本当に日進月歩で進歩している業界というのは、
IT業界」 のように、若者の感覚がビジネス・アイディアで勝り、若者がトップに立てる業界である。
もしサッカー界が日進月歩で、戦術が進化しているならば、
30代で監督業をやり始め、「新しい感覚を持っている」 という人間が、その感覚により大成功を収めるだろう。
でもサッカー界は全く違う。
現実は、1980年代に大活躍していた、ファーガソン、ハインケスが2010年代になっても大活躍していた。
40年ぐらい活躍していた。
私は彼らのサッカーを1990年代から見ているが、2010年代になってもやっている事は同じであった。
1980年代から
FWは前線からのプレスの義務を負わされていたし、
ワン・タッチ、2タッチでプレイする風潮は既にあったし、
「プレス」 という概念もあったし、
何も変わっていない。 だから、ファーガソン、ハインケスは2010年代になっても大活躍していたのである。

バルセロナのジョゼップ・グアルディオラは、ヨハン・クライフの弟子である。
グアルディオラのやっている事は、1980年代にクライフがやっていた事のコピーである。
グアルディオラは、クライフが考え出ししたコンセプトを、現在も忠実に真似してやっているだけである。

私は、海外の新聞を読むが、日本人のように「最新の戦術」 と惹句を用い、煽る事がない。
むしろ、1980年代に活躍していた監督の話をコピーのように語る評論家が多い。
自分の師匠筋の監督のコンセプトを、40代ぐらいの元選手の評論家が、そのままテレビの解説で
国民に向け、話している。
彼らもオシムと同じで、「戦術は既に出尽くした」 と思っているのだろう。

日本人は、彼らと違い、詐欺商売に精を出し、
「最新の戦術」 と毎年、毎月、毎日、変わらず連呼するバカで汚い民族である。


最近(2019年7月)、マンチェスター・シティーが来日したが、
日本テレビは、「マンチェスター・シティー、初来日」 とテロップを打ち、
ずっと横浜マリノスとの親善試合を放送していた。
恐らく、「初」 と付けた方が視聴者の食いつきが良いと考えたからだろう。
しかし、マンチェスター・シティーは、1976年5月に既に来日し、東京、名古屋、広島と周り、
「日本ツアー」 までしていた。計4試合も試合を行っていた。
日本テレビのテロップは、全くの大ウソである。
つまり、日本人というのは、昔、来日していても「新しいですよー」 と初めての事として、
宣伝すると金が儲けられるという考えが、骨の髄まで染み渡り、平気でウソをつく民族という事だろう。

だから、イビチャ・オシムが「サッカーの戦術は出尽くした」 と日本人に説明していても、
日本人は汚い嘘つきなので、「最新の戦術」 と言って宣伝する事を決して止めないのだ。
本当に頭がおかしい民族である。


リーベルプレートを「リバープレート」と嘘の名前で放送する馬鹿会社、日本テレビ。
  
釜本の日本代表得点記録がインチキである説明。
 
「世界最高の監督」の歴史。名将列伝。

釜本の本当の実力を紹介。
 
日本代表公式記録が異常である説明。
 
テレビ朝日と日本人の異常性が分かる解説。
 
リーベルプレートを「リバープレート」と嘘の名前で放送する馬鹿会社、日本テレビ。
 
セルジオ越後の経歴詐称の解説。
 
2011年、アジアカップでのキ・ソンヨンの猿パフォーマンスの解説。
 
ペレの嘘みたいな笑ってしまうほど凄い経歴を紹介しています。
 
アジア史上最高の選手、チャ・ボングンの凄過ぎる経歴を紹介しています。

現地アルゼンチンでのメッシの評価を紹介しています。日本のマスコミが伝えない真実です。

日本代表史上最多連敗を作ったチームはどのチーム?そのチームを教えます。
 
ウィキペディアに居るバカの紹介。
 
ゲルト・ミュラーの解説。
 
世界最高FWの歴史。
世界最高ゴールキーパーの歴史。
https://matome.naver.jp/odai/2155180768344900901

世界最高ボランチの歴史。

【 1982年、キリン・カップ。 ブレーメンのフォーメーション 】

1982年6月、「キリンカップ1982」 に参加する為に、
奥寺康彦を擁するドイツのクラブ・チーム、「ヴェルダー・ブレーメン」 が来日しました。
(日本サッカー協会は、奥寺さんが所属していたので、ブレーメンを招待したのだと思います。)
ブレーメンは、「ブンデスリーガ、1981−82シーズン、5位」 という成績でした。
当時、ブンデスリーガは、「欧州最強リーグ」 でしたので、
ブレーメンは、欧州の強豪チーム」 と言っても構わない地位に居たと思います。

この大会には、
ブレーメン、日本代表、シンガポール代表、フェイエノールト(オランダ)、日本鋼管の
5チームが参加しました。
そして、「5チームで、総当たりのリーグ戦を行い、優勝チームを決める」
という大会方式でした。
そして、ブレーメンは見事、優勝しました。

順位と対戦成績は以下です。

優勝  ブレーメン          3勝1分
2位、  日本代表          3勝1敗
3位、  フェイエノールト     2勝1敗1分
4位、  シンガポール代表   1勝3敗
5位、  日本鋼管          1分3敗


ブレーメンの詳しい試合結果は以下です。
         
      6月2日、  日本鋼管         6−0  〇 勝利
      6月4日、  シンガポール代表   6−1  〇 勝利   奥寺氏、1ゴール。
      6月6日、  日本代表         2−1  〇 勝利 
      6月9日、  フェイエノールト     1−1  △ 引き分けました。


【ブレーメン、フォーメーション】

[ ブレーメン、第1戦、第2戦のシステム ]

  ブレーメンは、初戦と第2戦の対戦相手、日本鋼管、シンガポール代表は、「弱い」と予想したのか、
   4バックの攻撃的なシステムを採用しました。
   奥寺さんは、恐らくサイドハーフを務めました。
   私は、この大会を見ていないので、100%の確証は掴めていませんが、
   ブレーメンのメンバー表を見ると、恐らく、この布陣で臨んだろうと思います。


4−3−1−2 システム

              ベーレンス             ノイバート

                       マイヤー
         
                ブラーツ                   奥寺康彦(30才)      

                        メルマン

   オッテン       グルーバー       フィヒテル       シャーフ

                       ブルデンスキー      



[ ブレーメン、第3戦、第4戦のシステム ]


   ブレーメンは、第3戦と第4戦は、日本代表フェイエノールトとそれぞれ対戦しました。
   すると、用心したのか、この2チームとの対戦では、
   システムを3バックにし、3−5−2システムに変更しています。
   恐らく、地元の日本代表、そして「オランダのビッグ・クラブ」、フェイエノールトが相手という事で、
   守りに力を入れる方針に変更したのだと思います。
   しかし、奥寺さんがミッドフィルダーである事には、変わりはありませんでした。
   私は、この試合を見ていませんが、メンバー表から考えられる布陣は、
   恐らくこれで当たっているだろうと思います。


  3−5−2 システム

                 N. マイヤー            ノイバート

                 ブラーツ              奥寺康彦 (30才) 
                                                   
       H. マイヤー              メルマン                シャーフ
              
               グルーバー    フィヒテル     オッテン

                          ブルデンスキー
                          
         
という訳で、奥寺さんは、ブレーメン時代は最初、サイドバックをやっていましたが、
2年目以降は、SB出場が減って行き、MF出場が多くなって行った訳です。
 (2年目以降でも、勿論、サイドバックを務めていた時もありますが)。

奥寺さんは、「ブレーメン1年目は、右サイドバックを務めた」 と話していますから、
この1981−82シーズンは、右サイドバックを務めたと思います。
しかし、オットー・レーハーゲル監督は、
右サイドバックに有望株、トーマス・シャーフ (21才)を起用したいという考えを持っていました。
シャーフは、このキリンカップでは、「全4試合、先発出場」 していますが、
1981−82シーズンで、シャーフは、「なんと試合出場がたった1試合」 です。
しかも途中出場です。
つまり、彼は「ほぼプロの試合に出た経験がない選手」 でした。
レーハーゲル監督は、駆け出しのシャーフを日本遠征に連れて来て、右サイドバックで起用し、経験を積ませ、
また、奥寺氏を右サイドバックからMFにポジション変更をし、新しい役割を命じていたという訳です。
ブレーメンは、シーズン終わったばかりで来日しましたが、
レーハーゲル監督は、早くも新シーズンに向けて、新布陣を試し、 
日本遠征を「テストの場」 として活用していた訳です。
ブレーメンは、大会優勝しましたが、真剣勝負で優勝を目指すと共に(賞金が懸かってましたからね)、
同時並行で、若手を試したり、新しい布陣を試したり、色々と実験して、見事、優勝を成し遂げたという事です。
つまり、私が何を一番、言いたいかというと、
トーマス・シャーフの成長と共に、奥寺氏のサイドバック出場が減って行った
という事です。  
ちなみに、この後、トーマス・シャーフは、「ブレーメン、不動の右サイドバック」 となって行き、
なんと1995年まで計17年間もブレーメンに在籍しました。
(1978年、17才の時から34才の引退まで在籍した。
ブレーメン一筋で活動し、引退しました)。
彼は在籍中、ブレーメンで数多くの優勝を経験し、現在では、「ブレーメンのレジェンド」 となっています。
   
話をまとめますと、このようにキリンカップでは、奥寺氏は「MFで試合出場をしていた」 と思われます。
 しかし、なぜか未だに日本人は、皆、
 「ブレーメンで、奥寺康彦はサイドバックが本職」 と口を揃えて言うのか、不思議で仕方ありません。
 この様に、凱旋してMFで試合をしていても、「ブレーメンで、奥寺はサイドバック」 と言うのですから
 日本人の「奥寺サイドバック、固定観念」 の強さは、相当だなと思います。
  

【 おまけ。 「キリンカップ、1986年」。 ブレーメン・フォーメーション 】

1986年にも、ブレーメン は「キリンカップ」 に参加しました。
この「キリンカップ1986」 は、奥寺康彦さんの「ブレーメン最後の試合」 となりました。
つまり、日本サッカー協会が、「ブレーメンを退団する奥寺さんの花道」 として、
「キリンカップ1986」 にブレーメンを招待し、日本で「最後の試合」 を行う企画を打ち立てたのです。
それにブレーメン側が乗っかった訳です。
1985−86シーズン、ブレーメンは、ブンデスリーガで2位」 でした。
だから、相当、強かったと思います。
 しかも、「勝ち点は1位で、得失点差で敗れての2位」 ですから、
ほとんど「優勝チームのバイエルンと実力的には大差ない凄いチーム」 でした。

この「キリンカップ1986」 には、
ブレーメン、日本代表、パルメイラス、アルジェリア選抜
の4チームが参加しました。

そして「4チームで総当たりのリーグ戦を行い、リーグ戦上位2チームが決勝戦を行い、優勝チームを決める」
という大会方式でした。

それで、ブレーメンは、大会主催者の期待通り、決勝進出を果たしました。
そして決勝の相手はブラジルのビッグ・クラブ、パルメイラスでした。
決勝戦は、ブレーメンが延長戦までもつれた末、4−2でパルメイラスを下し、見事、優勝しました
(前後半90分終わった段階では、1−1の引き分けでした)。
奥寺さんは、「ブレーメン最後の試合」 を、見事、優勝で飾りました。

パルメイラスは、この大会後、「1986年のサンパウロ州リーグ、2位」 になりましから、
元々、ビッグ・クラブですが、当時、「南米の強豪」 という名に恥じない実力を有していたチームだったと
思います。
そう考えると、この年のキリンカップの決勝は、
「ドイツ2位」 と、「サンパウロ州リーグ2位」 の対決で、
「豪華な対戦」 と呼べるモノだったのではないでしょうか。


[ キリンカップ1986 決勝 ブレーメン・フォーメーション ]

ユーチューブにこの大会の決勝戦のダイジェスト映像(5分ぐらい)が残っています。
私は、それで確認しましたが、映像の時間が短か過ぎて、確認が難しかったです。
でも大体、これで合っていると思います。
 

3−5−2 システム


             ブルグスミュラー                  ノイバート

                                                 マイヤー

     奥寺康彦 (34才)                            シャーフ              
                    ボタバ           メルマン       

              オッテン       ザウアー        クツォップ      

                           レック


ブレーメンはボランチのミルコ・ボタバベノ・メルマンの2人が一緒に出場し、
グンナー・ザウアー (21才) がスイーパーでプレイしているようなので、
恐らく3−5−2 システムで、戦ったと思います。
ザウアーは、「キリンカップ1986」の決勝に出場しましたが、
1985−86シーズンは、なんと「途中出場1試合のみの試合出場」 でした。
プロで先発出場した事が、まだ1度もなく、「ほとんど1軍の試合に出た事がない」 という選手でした。

この「キリンカップ1986」 には、
名DF、ブルーノ・ペッツァイ (オーストリア代表)が参加していましたが、
第2戦の日本代表戦(ブレーメンが2−0で勝利)以降、試合に出場していません。
恐らく、怪我をしたのではないかと思われます。
(決勝戦は、この大会、ブレーメンにとって、4試合目でした)。
その為、第3戦以降、代わりに若手で経験の乏しい、ザウアーが出場する事になりました。
それで、この決勝戦で、ブレーメンは、
前半26分に、ザウアーがボール処理を誤り、そこをパルメイラスFW陣に突かれ、
先制点を許しています。
経験が乏し過ぎる若手が大事な試合でミスを犯してしまうという、たまに見かける悲劇が起きています。
ブレーメンは、その後、それを乗り越え、
延長戦までもつれ、苦しんだ末、4−2で逆転勝利しました。
見事、優勝を果たしました。
日本人は、
「『奥寺さん、ブレーメン最後の試合』 だったので、ブレーメンが優勝して良かった。
お客さんは、ブレーメンを応援する人ばかりで、ホームと同じで有利だったろう」、
「当時、ブレーメンは強かったので優勝したのは、当たり前」と
そういう感じで、この大会を結論していると思いますが、
実は舞台裏では、守備の要、 ペッツァイが故障離脱し、
大きなトラブルが起きた中で、それを乗り越え、優勝していた訳です。
 
この決勝戦では、後半11分、奥寺氏が左サイドから、
FW、フランク・ノイバートにクロスを送り、
1−1の同点となる「ボレー・シュート」 のアシストをした事も
補足として、お伝えてしておきます。
 
ブレーメンは、1985−86シーズンは、基本的に4バッグでした。
この大会、決勝戦では3−5−2システムで戦ってますが、
メンバー表を見ると、ペッツァイが故障する前までは、
4バックで戦っていたのではないかと思われます。

ボランチのベノ・メルマンは昨シーズン(1984−85 シーズン)まで「不動のレギュラー」 でした。
昨シーズン(1984−85シーズン)は、「リーグ戦34試合、全て先発する活躍」 でした。
しかし、今シーズン(1985−86シーズン)は、
加入したミルコ・ボタバ (31試合先発した)にポジションを奪われ、
先発は、34試合から9試合に大きく減りました。
ブレーメンは、基本的に「ダブル・ボランチ」 を採用していなかったので、メルマンの出場は大きく減りました。
日本での「キリンカップ1986」 で、2人は一緒に出場しましたが、
当時は、2人が同時に先発する方が、珍しい状態だった訳です。
翌1986−87 シーズン、ブレーメンは「ダブル・ボランチ」 を採用するようになり、
(奥寺さんが退団したので、MFに席が1つ空いたのが大きな理由だと思いますが)
ボタバとメルマンは、ダブル・ボランチで一緒に試合に出るようになりました。
メルマンの先発もまた増え、翌1986−87シーズンは、20試合に先発しています。

ちなみに、1985−86シーズン、リーグ前半戦は、
左サイドバックのジョニー・オッテンが、故障により「全休」 しました。
1985−86シーズンの試合データを見ると、リーグ前半戦は、オッテンが復帰するまで、
奥寺氏は、その穴を埋める為に、左サイドバックで多く出場していたようです。
1985−86シーズン、奥寺氏は、「34試合中、30試合に先発しました」。
そして、途中出場が3試合でした。
つまり、リーグ戦で、「34試合中、計33試合に出場しました」。
最後のシーズンでも、本当に大活躍していました。
つまり、「欧州の強豪チームで最後まで余裕で通用していたが、日本へ復帰した」 訳です。
こんな凄い選手は、日本でこの先、現れるでしょうか?
中々、それは難しいのではなないかと思います。


「奥寺康彦、歴史 1」 へ戻る場合→ https://ameblo.jp/rulli-coco/entry-12403409340.html
 
「レアル・マドリード、バルセロナより攻撃力のあるチームに居た、奥寺康彦、歴史1」 
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釜本の日本代表得点記録がインチキである説明。
 
釜本の本当の実力を紹介。
 
日本代表公式記録が異常である説明。
 
テレビ朝日と日本人の異常性が分かる解説。
 
リーベルプレートを「リバープレート」と嘘の名前で放送する馬鹿会社、日本テレビ。
 
セルジオ越後の経歴詐称の解説。
 
2011年、アジアカップでのキ・ソンヨンの猿パフォーマンスの解説。
 
ペレの嘘みたいな笑ってしまうほど凄い経歴を紹介しています。
 
アジア史上最高の選手、チャ・ボングンの凄過ぎる経歴を紹介しています。

現地アルゼンチンでのメッシの評価を紹介しています。日本のマスコミが伝えない真実です。

日本代表史上最多連敗を作ったチームはどのチーム?そのチームを教えます。
 
ウィキペディアに居るバカの紹介。
 
ゲルト・ミュラーの解説。
 
世界最高FWの歴史。
世界最高ゴールキーパーの歴史。
https://matome.naver.jp/odai/2155180768344900901

世界最高ボランチの歴史。
 https://matome.naver.jp/odai/2155620829332449401

世界最高10番の歴史。
https://matome.naver.jp/odai/2155607814393565601

世界最高ドリブラーの歴史。
https://matome.naver.jp/odai/2155633540866813001

ブラジル代表、歴代エース・ストライカー。
https://matome.naver.jp/odai/2155651982320746801





【1977年6月〜8月、日本代表、欧州遠征での奥寺康彦】

私は、1977年10月に、奥寺康彦氏が、ドイツの強豪ケルンに入団したという出来事を知り、
それで、「その当時の奥寺氏は、手がつけられないような凄い状態だったのか?」
という疑問が沸いた。
当時、ドイツ杯に優勝し、ブンデスリーガで強豪だったケルンの名将ヘネス・バイスバイラーが、
「外国人枠、2枠」 という少なさでも是非、奥寺氏を入団させたいと思った時の、
奥寺氏の活躍ぶりというのは、どれ程、凄かったのだろうかと思い、
ケルン入団直前の日本代表での試合結果を調査してみた。

日本代表は、1977年6月下旬から2カ月間、欧州遠征を行った。
「ドイツ、オランダ、ベルギー、スペインの4カ国を2カ月間かけて周り、海外チームと18試合を対戦」
という大遠征であった。

日本代表チームの戦績は、「18試合を戦い、8勝2分8敗」 だった。
奥寺氏は、なんと「18試合、全てに先発した」。 途中交代は僅か2試合だった。
彼は、1試合も欠場する事なく、遠征中、全試合に出場した。
かなり過密日程の時期もあったが、全試合出場したのだから凄い。
連日試合しているケースも見られる。
奥寺氏は、「18試合7ゴール」 という成績だった。
しかし、マラガ、バジャドリード、アメリカFC(ブラジル、リオ・デ・ジャネイロのチーム)など、
我々、日本人でもかろうじで知っているレベルのチームとは対戦しても得点できなかった。
奥寺氏は、ドイツの全く聞いた事のない、分からないチームからは得点をしている。
恐らく、これらはドイツの下位リーグのチームであろう。

1968年、釜本邦茂らがメンバーに居た、「オリンピックで銅メダルを獲ったチーム」 は、
オリンピック前に欧州遠征に行き、「日本代表史上最多連敗記録 (11連敗)」 を作りました。
未だにこの最多連敗記録は、破られていません。 50年以上、破られていません。
その当時と比べると、奥寺さんの頃は、日本のサッカー・レベルはかなり上がっていますね。
詳しくは、これを読んで、勉強して下さい。 →  https://matome.naver.jp/odai/2152344618508583201       


試合結果は、
1977年、 【 試合会場 】
6月28日〔 デュイスブルグ ]      西ドイツ陸軍選抜              〇   3−1   奥寺氏、途中交代。
6月29日[ デュイスブルグ ]        ビクトリア・ブッフホルツ        〇   7−0    奥寺氏  2ゴール。
7月   5日[ デュッセルドルフ ]    カルクム・ビトラー               〇   3−0     奥寺氏、 1ゴール。
7月 7日[ デューレン  ]            シュバルツバイス・デューレン●  1−2  
7月 9日[ グメルスバッハ ]    グメルスバッハ                 〇   2−1
7月10日[ エッセン ]          シュバルバイス・エッセン    ●  2−4
7月16日[ ホフ ]           バイエルン・ホフ         ●  1−3    奥寺氏、1ゴール。
7月23日[ ハスフルト ]         ハスフルト             △  1−1
7月24日[ ロッテルダム ]      エクセルシオール       ●   1−3   奥寺氏、1ゴール。
7月27日[ エトリンゲン ]         エトリンゲン・シュペザクト   〇  4−1   奥寺氏、1ゴール。 
7月30日[ カールスルーエ ]        ビルフェルディンク        〇  7−0   奥寺氏、1ゴール。 途中交代
7月31日[ ベブラ ]          ベブラ               〇  1−0 
8月 5日[ ケルクラーテ ]        ローダJC                       〇  1−0
8月 6日[ アントワープ ]          ベルヒェム・シュポルト    △  0−0    奥寺氏、途中交代。
8月13日[ マラガ ]          マラガ               ●  0−2
8月15日[ マラガ ]          アメリカFC [ BRA ]       ●   2−4
8月19日[ バジャドリード ]     バジャドリード             ●  0−2
8月20日[ ブルゴス ]         ブルゴス [ SPA ]        ●  1−2
  

私は、奥寺氏が、ドイツの強豪ケルンからオファーを受けたという事で、
この時期の奥寺氏は、手がつけられないぐらい活躍していたのかと想像していたが、
成績を見ると、そうでもなかったようである。
私は、奥寺氏が「ハットトリック」 等の活躍をしたり、強豪クラブ相手にも得点をしていたなど、
「ケルンから声がかかるのも当然」 と思うような得点成績だったのかと予想していたが、
そうではなかった。
しかし、バイスバイラー監督は、奥寺氏の能力を見抜き、オファーを出し、
そして奥寺氏はその後、「ブンデスリーガを代表する外国人助っ人として大活躍した」 訳だから、
いかにバイスバイラー監督の眼力が凄いかが分かる。
当然、奥寺氏がドイツに行ってから、相当な努力をした事が一番の成功理由だと思いますが、
この時、「日本代表という弱小チーム」 でプレイしていた奥寺氏の素質を見抜いた
バイスバイラー監督の目利きの凄さは、
他の監督では見抜けないレベルのモノを見抜いてしまっていたという事ではないかと思いました。

【リンク集】

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「レアル・マドリード、バルセロナより攻撃力のあるチームに居た、奥寺康彦、歴史1」 
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釜本の日本代表得点記録がインチキである説明。

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日本代表公式記録が異常である説明。

テレビ朝日と日本人の異常性が分かる解説。

リーベルプレートを「リバープレート」と嘘の名前で放送する馬鹿会社、日本テレビ。

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2011年、アジアカップでのキ・ソンヨンの猿パフォーマンスの解説。

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日本代表史上最多連敗を作ったチームはどのチーム?そのチームを教えます。

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世界最高FWの歴史。
世界最高ゴールキーパーの歴史。
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世界最高10番の歴史。
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ブラジル代表、歴代エース・ストライカー。
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【昔は、欧州の強豪チームが今より来日し、日本と多く試合をしていた】

私は、奥寺康彦氏に関する、資料を調べていたら、
驚くべき事実を発見した。

それは、
昔(1960〜70年代)の方が、世界の強豪チームが日本に来て、親善試合を数多く行っていた
という事実である。
これには、本当に驚いた。
現在、日本では欧州のビッグ・クラブ(バルセロナ、チェルシー、マンチェスター・シティー、ドルトムント等)が、
時々、欧州のシーズン・オフである夏場(6月、又は7月) に来日し、日本のクラブ・チームと対戦している。
それで大体、日本チームと1試合ぐらいして、すぐに帰ってしまう。
しかし、昔の方が、日本は欧州のビッグ・クラブと贅沢な対戦をしていたのである。

【 1968年、ビッグ・クラブ、アーセナル来日 】

例えば、1968年には、イングランドのビッグ・クラブ、アーセナルが来日していた。
アーセナルは、日本代表と3試合、対戦した。 日本代表は3連敗した。
1968年、「イングランド・リーグは、欧州最強リーグ」 だった。
アーセナルは、「1967−68シーズン、国内リーグは9位」 だった。
この年のリーグ成績は良くなかったが、アーセナルが当時からビッグ・クラブだったのは確かだ。

[ 1968年、日本代表 対 アーセナル 対戦成績 ]

試合結果は、日本代表は3試合を戦い、0勝3敗だった。

アーセナルは、遠いイギリスからやって来たが、
その後、日本でも東京からはるばる福岡まで移動し、第2試合を行ったのだ。
こんな過密日程を、よくアーセナルは了解したなと思う。

1968年、5月23日 (東京、国立競技場)  1−3
       5月26日 (福岡、平和台競技)  0−1
       5月29日 (東京、国立競技場)  0−4


【 1969年、ドイツの強豪、ボルシアMGも来日した 】

翌1969年には、ドイツのボルシアMGが来日し、日本代表と4試合も対戦している。
ボルシアMG は、「ドイツ・ブンデスリーガで、1968−69シーズンは、3位」 だった。
(注: ブンデスリーガはこの年、1969年の「UEFAリーグ・ランキング」 は、欧州6位で、低迷していた。
しかし、ドイツは、3年前のW杯1966では準優勝し、翌年のW杯1970では3位になった。
この当時、ドイツはリーグ・ランキングは低かったが強豪国であった事は確かだ)

「ドイツのリーグ戦、3位のチーム」 が、シーズン終了後、わざわざ遠い日本まで試合をしに来ていたのである。
しかも激弱の日本代表、プロ・リーグなど存在しない、サッカー人気など全然ない日本に来て、
「会社員で構成された、日本代表」 と試合をしたのである。
ボルシアMGのメンバーは、フル・メンバーではなかったようだが、それでも驚きである。


[ 1969年、日本代表 対 ボルシアMG 対戦成績 ]

試合結果は、日本代表は4試合を行い、1分3敗だった。

1969年、6月15日 (東京、国立競技場)  1−3
       6月19日 (広島、県営競技場)     1−1
       6月22日 (大阪、長居競技場)   0−2
       6月24日 (東京、国立競技場)   0−1


【 1970年、ブラジル、ポルトガル最大の人気チーム、来日 】

翌1970年には、ブラジル最大の人気チーム、フラメンゴ が来日した。
ブラジルはW杯1970で優勝した。当時、世界最強国だった。
そして同年、なんとポルトガル最大の人気チーム、ベンフィカ も来日し、
日本代表と3試合も対戦しているのである。
ベンフィカは2年前、「1968年の欧州チャンピオンズ・カップで準優勝」 していた。

試合結果
1970年、3月21日 (神戸、御崎サッカー場)  日本代表 対 フラメンゴ  1−1 で引き分け。

私は、この当時のアマチュア日本代表が、
「フラメンゴと引き分けている」 という結果に驚き、
この試合のフラメンゴのメンバーを調べたが、主力はほぼ全員いない。
アダンジーニョという19才のMF以外、1軍は1人も参加していない。
このフラメンゴは、「20才ぐらいの若手中心のメンバー」 で来日したようである。
だからこの年、日本代表は、1−1で引き分けているが、
「真のフラメンゴ」 と対戦し、引き分けた訳ではない。


 [ 1970年、日本代表 対 ベンフィカ 対戦成績 ]  

試合結果  日本代表は、ベンフィカと3試合対戦し、3連敗した。

1970年、8月25日 (神戸、御崎サッカー場)   0−3
           8月29日 (東京、国立競技場)     1−4
        9月  1日 (東京、国立競技場)    1−6


【 1971年、「欧州最強リーグ、3位」 、トッテナム・ホットスバー来日 】

1971年、「1970−71シーズン、イングランド・リーグで3位」 になったトッテナム・ホットスパーが来日した。
この時代、イングランド・リーグは、欧州最強リーグ」 だった。
欧州最強リーグの強豪チームがわざわざ日本にやって来た訳である。

試合結果、日本代表は、トッテナムと3試合を行い、3連敗した。

1971年、5月29日 (神戸、中央球技場)  0−6
       6月 3日 (東京、国立競技場)  2−7
       6月 9日 (東京、国立競技場)  0−3


【 1973年、「ブンデスリーガ、2位」、強豪ケルン来日 】

1973年、「1972−73シーズン、ブンデスリーガで2位」 になった「1FCケルン」 が来日した。
(注: この年のブンデスリーガの「UEFAリーグ・ランキングは、欧州4位」 だった。 少し低い。
しかし、ドイツは翌年のW杯1974は優勝している。 
リーグ・ランキングは少し低いが、この時代、ドイツが強豪国だったのは確かである)

試合結果は、日本代表は、3試合対戦し、3連敗をした。

1973年、6月26日 (東京、国立競技場)  1−3
       7月 1日 (大阪、長居競技場)  0−4
       7月  3日 (東京、国立競技場)  2−6


【 1975年、欧州王者、バイエルン・ミュンヘン来日。 日本代表と対戦した 】

1975年1月には、なんとバイエルン・ミュンヘンが来日している。
この当時、バイエルンは欧州王者だった。
バイエルンは、「1973−74シーズン、欧州チャンピオンズ・カップ」 を優勝した。
バイエルンは、「1973−74シーズン、ブンデスリーガ優勝」 でも優勝を果たした。
1974年は、国内、国際大会で優勝し、2冠を達成した。
バイエルンは、1975年1月に来日する半年前に、「初の欧州王者」 、「2冠」 に輝いていたのだ。
そして、その後、バイエルンは2年連続で「欧州チャンピオンズ・カップ優勝」 を達成し、
結局、「欧州3連覇」 したのだ。
つまり、この当時、「世界最強チーム」 だった。
そんな強いチームが、わざわざブンデスリーガの中断期間に、日本まで来て、
「サラリーマン」 の日本代表と試合をしていたのである。

欧州王者のバイエルンが、日本に来たのは、
「1964年、東京五輪で、日本代表チームの監督補佐を務めた、
ドイツ人、デットマール・クラマー氏」 が、
1975年1月から、「バイエルンの監督に就任した」 事も大きく影響しているかも知れない。
私の調査力では当時、クラマー氏の影響があったかどうかは不明である。

試合結果は、日本代表は、バイエルンと2試合を戦い、2連敗した。

1975年、1月  5日 (東京、国立競技場) 0−1
        1月 7日 (東京、国立競技場) 0−1


【 1977年、アルゼンチンの、ビッグ・クラブ、インデペンディエンテ来日 】

1977年2月、アルゼンチンのビッグ・クラブ、インデペンディエンテ が来日した。
インデペンディエンテは、「1972〜76年にかけ、南米王者4連覇した」 という強豪である。
そして、現在でも「南米王者の回数は、通算7回で、南米最多」 という超名門である。
1973年には、イタリアのユベントスを倒し、世界王者に輝いていた。
この年、インデペンディエンテは、日本から帰国後すぐ、
1977年のアルゼンチン・リーグ、「メトロ・ポリターノ」(ブエノス・アイレス州のチームが参加するリーグ)を戦い、2位になった。
そんな超名門チームが、わざわざサラリーマンで構成された日本代表と試合をする為に、
地球の反対側から、片道24時間以上(1日以上かかる)をかけて、日本にやって来たのである。
そんな苦労をしてやって来て、アマチュアと対戦していたのである。
信じられない話である。 しかも、インデペンディエンテは主力が日本遠征に参加していた。

日本代表は、インデペンディエンテと2試合対戦し、1分1敗だった。
当時、日本はアマチュアであった事を考えると、大健闘だろう。
しかし、インデペンディエンテ側は、長旅の疲れがあった事は予想される。

試合結果は、 1977年、2月11日 (東京、国立競技場) 2−3
                2月13日 (大阪、長居競技場) 0−0

ちなみに、奥寺康彦は、この対戦で、2試合共、出場した。 無得点だった。


【 1977年、ドイツ杯優勝チーム、強豪ケルン、来日 】
1977年には、
「1976−77シーズン、ブンデスリーガ、5位」、「1977年、ドイツ杯優勝」 した「1FCケルン」 が来日した。
この当時、「ブンデスリーガは欧州最強リーグ」 だった。

日本代表は、なんと4試合もケルンと対戦した。成績は、1勝3敗だった。

試合結果は、 1977年、6月 1日 (東京、国立競技場)    1−0
                6月 5日 (東京、国立競技場)    0−2
                6月10日 (広島、県営競技場)    0−3
                6月12日 (京都、西京極競技場)   1−3

1977年と言うと、1977年10月に奥寺康彦は、1FCケルンに入団したのである。
この年は、アジア・サッカーにおいて歴史的な年であった。
その入団、4ケ月前に、なんと強豪ケルンは、日本で4試合も試合をしていたのだ。
だから私は、この時、奥寺氏が活躍したので、
対戦相手のケルン監督だった名将 ヘネス・バイスバイラーは獲得を考え出したのか? と思ったのだが、
試合メンバーを見ると、奥寺氏は初戦、1977年6月1日の試合、1試合にしか出場していないのだ。
しかも、後半24分で途中交代している。
試合は、日本代表が1−0で強豪ケルンに勝利したので、日本としては、歴史に残る大金星だったろう。
この試合で奥寺氏が活躍したかどうかは、私の調査力では不明である。
しかし、残りの試合に、奥寺氏は帯同していたが、出場機会は全く与えられなかった。
だから、初戦では途中交代もしているし、活躍できなかった可能性が高いだろう。
当時の詳しい状況は、奥寺氏本人にでも聞かないと分からないが、
初戦で活躍できなかったので、その後、3試合、出場機会がゼロになったと考えるのが妥当であると思う。
その後、奥寺氏は、6月下旬から開始された日本代表ドイツ合宿に参加し、
「1FCケルン」 とすぐ再会している。
奥寺氏は、ケルンの練習に参加し、ここでバイスバイラー監督から「獲得オファー」 を告げられたのだ。
私は、奥寺氏が1977年10月にケルンに入団したのは勿論、知っていたが、
その4カ月前に、ケルンが来日しており、しかも4試合も日本代表と対戦していたとは知らなかった。

長々と書いて来たが、はっきり言って、
サッカー人気が全然ない時代の方が、欧州のビッグ・クラブが日本にやって来てないか?
しかも、結構、長く滞在し、3、4試合を対戦している。 
東京以外でも試合をし、まるで「日本ツアー」 をしているようである。
一体、これはどういう事だろう?
「金払えば、遠い日本でもやって来た」 という単純な話なのかも知れないが、
あまりにも格上のチームが来日しているので、私は驚いてしまった。
特に、
欧州王者のバイエルン・ミュンヘンが、ブンデスリーガの中断期間に、
わざわざサラリーマンで構成された日本代表と試合をしにやって来る」 って、これギャグだろ。
バイエルンにとっては、何の強化にもならない話である。
「おい、バイエルン、お前ら、何考えてんねん、そんな事してる場合か?
新年早々、お前ら何やっとんねん!!」
と、ツッコミを入れたくなる話である。
ドイツ人は金に目が眩んだのだろう。

現在、アーセナル、トッテナム、バイエルン、ケルンが日本に来て、
こんなに試合をしてくれるだろうか?

昔よりサッカー界が過密日程になった関係もあるが、現在ではもう不可能な話だと思う。
昔の日本サッカーの方が、ビッグ・クラブを呼べたし、たくさん試合をしていたというのは、
本当に不思議な話である。
しかも、日本は全然サッカー人気がなく、アマチュアだったのに試合をしてくれたのだから、
「夢のような話」 だったのではないだろうか?
現在では、どんなに頭を下げてお願いしても、
アーセナルは3試合もし、しかも東京、九州を往復し、過密日程で試合をこなすなんてスケジュールは
決して受け入れてくれないだろう。


【リンク集】

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ブラジル代表、歴代エース・ストライカー。
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【奥寺康彦、歴史トリビア】

今までに紹介できなかった奥寺康彦氏に関する、「歴史情報」 を紹介します。
だから、寄せ集め状態で、テーマがあちこちに飛んで、読みにくいと思いますが、ご了承ください。

奥寺氏の高校時代の愛称は 「怪獣」 だったそうだ。
その高校生離れしたプレイぶりから、チームメイトからそう呼ばれていた。
奥寺氏の高校時代のチームメイトは、奥寺氏の人物評として、
試合中の怪物的なプレイと、普段の穏やかな雰囲気から
「(奥寺は) 怪獣と羊の同居した人物」 と表現している。

奥寺氏は、高校2年生の時の関東大会で、スーパーゴールを決めた。
「相模工大付属校 対 浦和南」 戦で、
相模工大付属は4−3で勝利した。
この試合で、相模工大付属は2−3で負けていたが、奥寺氏が2点取り、4−3で逆転勝利した。
相模工大付属の4点目のゴールは、
奥寺氏がハーフウェイ・ラインから6人を抜き、GKともつれ合いながらシュートして決めたそうだ。
恐らく、W杯1986、準々決勝 「アルゼンチン 対 イングランド」 戦で、
ディエゴ・マラドーナが決めた有名なドリブル・ゴールのようなモノではなかったかと思われる。
奥寺氏に当時の詳しい思い出を聞いてみたいものだ。

奥寺氏は、高校時代、チームメイトからそのプレイの凄さから 「怪獣」 と呼ばれ、
関東大会では、このようなスーパー・ゴールを決めたりしていたが、
大学から強い勧誘はなかったそうだ。
そして知人から「古河電工サッカー部」へ入る事を勧められ、古河に入社したそうだ。
これ程の才能に関し、どこの大学も強い興味を示さなかったのだから、不思議な話である。
もしあの時、奥寺氏が古河に入社せず、「大学から誘いが無かったので、サッカーを止めた」 などの事態が
起きていたら、日本、そしてアジアのサッカーの歴史は大きく変わっていただろう。
アジア人が世界で大活躍するのは、奥寺氏が最初ではなく、韓国人チャ・ボングンが最初となり、
また日本人が欧州で活躍するのは、更に20年以上、遅れていただろう。 

奥寺氏は、ブラジルのビッグ・クラブ、「パルメイラス」 で武者修行した際、
パルメイラスから「残れ」 と勧誘されたそうである。

奥寺氏は、ブラジルのビッグ・クラブ、「パルメイラス」 で武者修行した時、
パルメイラスの監督は、名ボランチ、ジノ・サニ
(ブラジル代表でW杯優勝、ACミランで欧州チャンピオンズ・カップ優勝)
だった。
奥寺氏は、ジノ・サニから直接指導された時もあり、その時は、1対1でパス練習などをしたそうである。

奥寺氏のバイエルン・ミュンヘン戦との対戦成績は、6勝3分3敗(リーグ戦)である。
かなり勝ち越している訳である。
日本人の多くが、これについて知らない。
ブンデスリーガ史上、ビッグ・クラブ・バイエルンに6勝もし、勝ち越している選手は、
恐らくとても少ないと思う。

奥寺氏が「1FCケルン」 に入団した経緯は、
1977年6月から、日本代表が「ドイツで2カ月間に渡る長期合宿を行った」 のがきっかけである。
こんな話を聞くと、「こんなに長い休みを取って、彼らは本当に会社員だったのか?」 と思いますね。
とてもアマチュア選手とは思えない活動ですね。
そして、日本代表メンバーは、この合宿中にドイツの複数のプロ・チームに4、5人ずつのグループで派遣され、
ブンデスリーガ開幕前の練習に混ぜてもらい強化を図るという方針だったそうだ。
他にも勿論、日本代表として現地チームやブラジルのチームと18試合も強化試合を行った
(ドイツ、オランダ、ベルギー、スペイン、ブラジルのチームと試合を行った)。
それで奥寺氏はプロ・チームへの派遣で、たまたまケルン参加が命じられ、練習に加わったそうだ。
奥寺氏の予想として、「2軍の練習に混ぜてもらうんだろう」 と思っていたそうだ。
そうしたら初日から、「1軍のスター揃いのメンバーと合同練習」 だったそうだ。
これにはかなり面食らったそうである。
そして1軍同士の紅白戦にも出場したそうだ。
すると、奥寺氏は紅白戦でウィングを務めたのだが、試合中、やたらと自分にボールが回って来るので
「なんか、おかしい」 と思ったそうである。
それで途中から、バイスバイラー監督が「奥寺にパスを回せ」 とケルンの選手に指示を送っている事に
気づいたそうである。
バイスバイラー監督は、紅白戦で奥寺氏がどれだけ通用するのか、そのドリブル等を観察したかったらしい。
その後、2日目、3日目も奥寺氏は1軍で練習する事になり、紅白戦にも参加した。
奥寺氏は、まさか自分が入団テストされているとは、つゆほどにも思わなかったので、
割とリラックスして試合をこなせたそうである。
そして1週間後、ケルンでの練習参加が終了する日、バイスバイラー監督が奥寺氏の元にやって来て、
「奥寺、俺はお前をもう取るって決めた。結論を出した。ケルンに入団しろ」
とオファーを言い出したそうだ。
奥寺氏は、この時、驚き、足が震えたそうである。
まさか入団オファーを受けるとは思っていなかったので、
突然のオファーにガタガタと足が震え出したそうである。
それで奥寺氏は、突然の事で、今すぐには決められない、会社にも相談しなければいけないという事で、
決定を保留し、日本に帰国したそうである。
ちなみに、バイスバイラー監督は、当時の日本人選手のレベルについて、
「もう少し鍛えれば、奥寺以外にもブンデスリーガで使えそうな選手は、5、6人は居る」
と答えていたそうである。
当時は、外国人枠がたったの2人でしたし、
日本サッカー自体に信用がありませんでしたので(なにせプロ・リーグはないし、W杯にも出場した事がない)
奥寺氏しかチャンスが与えられなかったのは、仕方ない事だと思います。
ちなみに、この前年、バイスバイラーは、ベルギー代表ウィング、ロジャー・ファン・グール
「外国人選手の移籍では、ドイツ史上最高額の移籍金」 で獲得したそうです。
それで、ロジャー・ファン・グールは良い選手ではあるが、そこまで金を投資して獲得するレベルの選手か?
という批判があったそうです。
しかし、ファン・グールは活躍し、バイスバイラーの洞察力が正しかった事が証明されました。
その後、ファン・グールは怪我により全盛期のレベルを失いましたので、有名ではありませんが、
彼はとても良い選手でした。
そして、1年後に、バイスバイラーは奥寺康彦に懸けて、これまた成功したのですから、
彼の才能を見抜く目というのが、いかに凄いかが分かります。

奥寺氏が入団し、活躍した「1FCケルン」 は、
ドイツでは 「外国人選手が活躍できない」ことで有名だそうだ。
現地では、その理由として、
「ケルンはとても排他的な街で、他所者が溶け込むのが大変な土地だから」 と言われているらしい。
奥寺氏が入団する前から、「ケルンは外国人助っ人が活躍しない」 とされていた。
それを乗り越えた奥寺氏は、凄いと思う。
それで、奥寺氏以後も、ケルンに数多くの外国人助っ人が入団したが、
本当に活躍していないのである。
皆さんも他のクラブと比較すればよく分かるだろう。
(日本人FW、大迫勇也、日本人DF、槙野 智章もその内の1人だろう)。
奥寺氏はケルンで活躍したが、「長期に渡り大活躍したか?」 というと、そうではない。
期間は、3年の在籍であった。
しかし、ケルンではクラブ史上、奥寺氏を上回る活躍をした外国人助っ人は、
トニー・ウッドコック (イングランド代表FW、1979−82、1986ー88在籍、130試合39ゴール)、
トニ・ポルスター (オーストリア代表FW、  1993−98在籍、151試合79ゴール)
の2人ぐらいしか居ないのである (2019年現在)。
アントニー・モデスト (フランス人FW、2015−17在籍、68試合40ゴール)が、素晴らしい得点率で、
奥寺氏より活躍したと言えるかも知れないが、
彼は僅か2年の在籍で、ケルン自体のチーム成績が優勝争いするレベルでなく、
(2016年は9位、2017年は5位)、ブンデスリーガのリーグ・レベルも落ちている時代なので、
評価は微妙ではある。モデストはフランス代表に選ばれた事すらないレベルの選手なのだ。
しかし、モデストを奥寺氏の上としても3人ぐらいしか居ないのである。
つまり、何が言いたいかというと、
「奥寺氏は外国人助っ人が活躍するのが難しいとされているケルンで活躍し、
そしてクラブ史上でも、奥寺氏を上回る活躍をした外国人は未だに数少ない」
という事である。

奥寺氏はケルン時代、「アジアの黒豹」 という愛称も持っていたそうである
(ブレーメン時代は、この愛称では呼ばれていなかった)。
色黒で足が速かったのでドイツ人には、まるで黒豹が駆けるように思えたのかも知れない。
日本では、あまり知られていない話である。
元サンフィレッチェ広島の浅野拓磨が、快足ゆえに「ジャガー」 の愛称を宣伝しているが、
「日本の豹」 、「アジアの豹」 と言えば、奥寺氏が本家・元祖である。
しかし、奥寺氏がこの愛称を気に入っているかどうかは不明である。

奥寺氏は、1977−78シーズン、ケルンで 「ブンデスリーガに優勝」 した。
この時、ケルンは、ボルシアMGと「同勝ち点で、得失点差で3点上回り」 優勝した。
ブンデスリーガで、「同勝ち点で、得失点差で優勝が決まった」 というのは、
1963年にリーグ開始以来、このシーズンが初だった。

1977−78シーズン、1977年10月15日、
ドイツ杯、3回戦、「ケルン 対 FSVフランクフルト」 戦が、
フランクフルトのホーム・スタジアムで開催された。
(注: 対戦相手は、長谷部誠が所属するフランクフルトとは違う。同じフランクフルトにある別のチーム)。
奥寺氏は、10月初旬にケルンに入団し、この試合でデビューする予定だった。
しかし、体調が優れず、欠場した。
それで、この試合にはたまたま「サッカーの王様、ペレ」 が観戦に訪れていたそうである。
当時、ケルンは強豪だったし、監督のバイスバイラーは有名だったので、
ペレはドイツを訪問したついでに、わざわざケルンの試合を見に来たのかも知れない。
ペレは、ケルンのメンバーに挨拶をし、奥寺氏も挨拶する機会を得たそうである。
ペレの前で試合をできなかった奥寺氏は、さぞ無念だった事だろう。
ちなみに、この試合、アウェー戦だったがケルンが3−0でフランクフルトを下した。
その後、この年、ケルンはドイツ杯に優勝した。 決勝戦で、奥寺氏は先発した。

1978年2月18日、ブンデスリーガ、第26節、「ドルトムント 対 ケルン」 戦、
奥寺氏はセンターフォワードを務めた。
CFのディーター・ミュラーが故障欠場したので、代わりに急遽、奥寺氏が務めたそうである。
アウェー戦だったが、ケルンは2−1で勝利した。 奥寺氏は無得点だったが、監督の評価は高かったそうだ。
奥寺氏は、ケルン時代、両ウィングを務めたし、このようにCFまでこなした。

1977−78シーズン、最終節、「ザンクトパウリ 対 ケルン」戦、
(1978年4月29日)、
ケルンは5−0で勝利した。そして見事、リーグ優勝を果たした。
奥寺氏 (26才)は、この試合、2得点をし、大活躍した。
この試合は優勝の懸かった試合だったので、
当時、この試合のダイジェスト映像は、ドイツ以外の国でも紹介されていたそうだ。
もう少し詳しく、この試合での奥寺氏の活躍を説明すると、
奥寺氏は後半15分と41分にヘディングで2ゴール決めた
後半15分、右CKをニアでヘディング、
後半41分、右サイドからのクロスを左サイドでダイビング・ヘッドし、決めた 
(ちなみにこの後半41分のゴールは、
2014年に「ブンデスリーガ・公式ユーチューブ・チャンネル」で
ブンデスリーガ史上最高のヘディング・ゴール」に選ばれた)。   
それで、前述のように当時、奥寺氏の「ヘディング・ゴールの映像」は、
欧州の国々にニュースで報じられていた。
その為、当時、日本から欧州へ、出張等でやって来た日本人サラリーマン達は、
ヨーロッパ人から「日本人もサッカーするんだな」とか、「日本人が点を決めていたな」と、
声をかけられたそうだ。
しかし、日本はサッカー超不人気国だったので、話しかけられたサラリーマン達は、
「一体、何の話か分からない」ときょとんとしてしまう人達が多かったそうである。

奥寺氏は、ベンチ・メンバーの時は、いつもバイスバイラー監督の脇に座らされ、
その試合中の会話を聞いていたそうである。
バイスバイラー監督の弟子には、
ユップ・ハインケス  監督   (レアル・マドリード、バルセロナで欧州CL優勝)、
ベルティ・フォックツ 監督   (ユーロ1996で、ドイツ代表監督で優勝)等、
監督で活躍した人物が居る。
奥寺氏が、名将バイスバイラーの脇に座り、監督の仕事ぶりを学んでいた事を思うと、
彼が監督業に挑戦し続けなかった事は、残念に思う。
奥寺氏が監督業に執着したのであれば、もしかして名将になっていたのではないか? 
という期待が、今でもあります。

奥寺氏は、1980年、欧州3年が終了した後、ケルンで「戦力外扱い」 されたが、
その3年目のシーズンは、自身で手応えがあり、成長を実感していたそうである。
当時、周囲には
「俺は、せっかくプロでやっていける自信がついたばかりだったんだよ。
(チーム構想外扱いになったけど) どこのチームに行ってもやって行けると思っている」
と語っていたそうである。
そして、実際にその言葉通り、その後、彼は30才を過ぎても余裕で活躍し続けてしまったのである。

奥寺氏 (28才)が1980年、ケルンで「構想外扱い」 となった時、
ベルギーのチームからオファーがあったそうである。
また日本の新聞報道では、ニューヨーク・コスモスの監督を務めていたヘネス・バイスバイラーが、
「奥寺氏の現状を見て、コスモスに入団させる可能性も」 という報道をしたそうである。
結果として、奥寺氏はドイツで3年活動し、慣れており、
ベルギーに行くとまた新たに外国語を覚えるはめになるので、
ドイツ2部でもヘルタ・ベルリンの方が良いという判断で、ヘルタに移籍した。
現在となっては当時の真相は、奥寺氏に聞かなければ分からない。
一体、ベルギーのどのチームからオファーが来ていたのか、そしてバイスバイラーは本当に、奥寺氏に
「奥寺、コスモスに来ないか?」 と誘ったのかどうか、誰か奥寺氏にインタビューしてもらいたいところだが、
日本のバカ・マスコミには無理な話である。非常に残念だ。
コスモスは当時、「選手全員の年棒契約総額が20億円を超える」と言われ、
金満チームとして有名だった。
3年前までペレが所属し、1980年はベッケンバウアーが所属していた。
「第一線を退いた選手が集まる、峠を越したスター軍団」という感じのチームだった。
(現在、「年棒総額20億円」というのは、大した事ではないが、1980年当時は、凄かったそうだ)。
年棒だけで考えたらコスモス移籍の方が良いかも知れないが、
サッカー選手としての評価だと、欧州で実績を残さないと評価されないと思うので
(現在でもそうだと思うが)、奥寺氏があの時、ニューヨーク・コスモスに移籍しなかった事は、
本当に良かったなと思います。
また1986年、奥寺氏が日本に復帰する際、ブレーメンが契約延長オファーを出したが、
他のチームも奥寺氏の獲得に乗り出し、オファーを出していたそうだ。
そのチームはどこだったかも奥寺氏に聞いて欲しいものだが、
日本のバカ・マスコミはその種の好奇心はゼロなので、本当に役に立たない。


奥寺氏は、1977年、ケルン入団した際、3年契約をしたそうである。
そして契約最終年、1980年に、ケルン側から「契約延長オファー」を提示され、
新契約を結んだそうである。その時は、何年契約だったのか、私の調査力では不明である。
つまり、ケルンでの3年の活躍が評価され、クラブはまだ奥寺氏に期待していた訳である。
実際、契約最終年、1979−80年シーズンの奥寺氏は、
公式戦33試合も先発する活躍だった。
国内リーグ戦では34試合中、28試合に先発した
(2試合途中出場しており、リーグ戦、計30試合出場した)。
ドイツ杯では、決勝戦まで勝ち進み、5試合に先発した
(他に3試合途中出場しており、計8試合出場した。
ドイツ杯では決勝戦を含め、トーナメント全8試合、全て出場した)。
よって1979−80シーズンは、ブンデスリーガ、ドイツ杯を合わせると、「公式戦、計33試合先発」 した。
その為、奥寺氏は、ドイツ3年目で、成長を実感していたそうである。
しかし、新契約を結んだ途端に、新監督が就任し、それに伴い、奥寺氏は、「構想外扱い」を受けたのだ。
当時、奥寺氏は、こんな展開が起きるとは、全く想像していなかったそうだ。


奥寺氏は、1980年、ケルンで「構想外扱い」 となり、
「ヘルタ・ベルリン」 へ、レンタル移籍の形で半年、所属した。
その後、ブレーメンへ移籍した。
日本人の感覚だと、ケルンからブレーメンへ移籍したので、格下へ移籍し、
少し「都落ち」 みたいな感じがあるが、
実際には、奥寺氏はケルン時代の1.5倍の年棒で契約し、
レンタル移籍後、ブレーメンに入団した事は逆に良かった、成功したという事だ。
つまり、あのままケルンで契約を全うするより良い契約を勝ち取ったという訳である。
(注: ケルンは、ドイツではベルリン、ハンブルク、ミュンヘンに次ぐ、第4の大きな街である)。

1986年、奥寺氏 (34才)はブレーメンを退団する際、契約延長オファーを受けていたが、
拒否し、日本帰国した。
この時、奥寺氏はブレーメン以外のチームからもオファーを受けていたそうだ。
恐らく、ブレーメンでの契約より更に良い条件のオファーだったろう。
しかし、日本帰国した。
日本の古河での契約は、ブレーメン時代より遥かに良くないモノだったそうだ。
(私の予想だが、恐らくブレーメン時代の3割ぐらいしか得ていない。
多分70%ダウンぐらいの契約だったと思われる)
しかし、奥寺氏は「余力のあるうちに日本サッカーに貢献したい」 という想いがあり、
日本復帰を決めたそうだ。
人の金の話を延々とするのはゲスで誠に恐縮であるが、
私は、ブレーメンに移籍した事で、日本人の多くは、
「奥寺はケルンより更に小さいクラブに行ったんだろ。そこで待遇悪くなったけど、活躍して、
チームの成績は良かったんだよな」
と思っている人間が100%近いと思う。
しかし、それは違っていて、奥寺氏はケルン時代より高い評価を受け移籍して、
更に高待遇の中、活躍していたという事を、皆さんにお伝えしたい。

1980年代、ブレーメンの右サイドバックで、引退後、名将となったトーマス・シャーフは、
フランクフルト監督を務めていた時代(2014−15)、
「私は(若い頃)、奥寺さんが練習に打ち込む姿を見て、日本人を尊敬するようになった」
と、チーム・メンバーの長谷部誠(フランクフルト所属、MF) に話したそうである。
それ程、奥寺氏のトレーニングに打ち込む姿勢というのは、素晴らしいものだったのだろう。
シャーフは35年も前の事を、わざわざ長谷部に話すぐらいだから、奥寺氏のトレーニングの模様は、
余程、彼にとって感銘を受けた事だったのかも知れない。
という訳で、シャーフは、奥寺氏の後輩である。 2人は先輩・後輩の関係である
(ドイツ人にそんな感覚があるのかは不明だが、日本的に言うとそういう関係である)。
「新人選手、シャーフ」 にとって当時、30才を超したベテラン選手、奥寺氏の姿というのは、
とても良い「プロのお手本」 だったという事だ。
2人は、一緒に数多くの試合を戦った。先輩・後輩の関係のみならず、れっきとした戦友でもある。
奥寺氏が日本復帰するまでの4年間、2人は数多くの試合(130試合ぐらい)を共にブレーメンで戦った。

奥寺氏 (30才)は、ブレーメン入団1年目は、右サイドバックを務めていたが、
1982年、下部組織から右サイドバック、トーマス・シャーフ (21才) が1軍に上がって来た。 
当時、シャーフは有望株の選手で、クラブから期待されていた。
その時、レーハーゲル監督は、シャーフを先発で起用したいので、奥寺氏に向かい、
「右サイドバックから左サイドハーフへのポジション変更」 を頼んだそうだ。
つまり、シャーフは、奥寺氏のキャリアに大きな影響を及ぼしていたのだ。
シャーフが現れなかったら、奥寺氏はブレーメン時代、そのままずっと右サイドバックの選手として
キャリアを終えていたかも知れない。
私は、個人的にサイドバックより、サイドハーフを務める奥寺氏の方が面白いと思うし、
奥寺氏はサイドハーフの方が向いていると思っている。
だから、シャーフの登場は、奥寺氏にとって良い展開であったと思う。
しかし、「奥寺氏が、サイドバックとサイドハーフは、どっちを務めるのが好きであったのか」
は未だに不明である。
当時、奥寺氏が、「ポジション変更」 をどう思っていたのかは、未だに謎だ。
日本の記者は、その手の質問には全く興味がない。
そもそも、彼らは、奥寺氏のポジションを正確に知っていないレベルなので、そんな質問すら思い浮かばないの
かも知れない。
ちなみに、トーマス・シャーフは、現役引退後、監督で大成功したのだが、
彼は、名将オットー・レーハーゲルの「弟子」 と呼べる監督である。
彼は、現役時代、ほぼレーハーゲルの下でしかプレイしていない選手なのだ。
レーハーゲルは、ブレーメンで1981〜95年まで、14年も監督を務めた。
その間、シャーフは、ブレーメンで1982年にプロで初の先発デビューし
(それ以前のシーズン、途中出場で2試合出ていた)
そしてレーハーゲル在任中、1995年に選手引退したのだ
(1995年、レーハーゲルがブレーメン退団を決めたのと同時に、シャーフは現役引退した)。
またシャーフは、選手生活の最後の2年は、
レーハーゲルのアシスタント・コーチを2年務めていた(1993−95)。
彼は、まだ現役だったが、1993〜95年は、「現役選手兼、アシスタント・コーチ」
という珍しい状態の選手だった。 選手をやりながら、レーハーゲルを補佐していた。  
つまり、シャーフは、プロ・デビュー以来、
ほぼ 『レーハーゲル・サッカー』  しか経験していない」 という極めて珍しい人物なのだ。
キャリアの最後は、アシスタント・コーチまでやり、レーハーゲルのサッカーを学んだ。
そんな彼は、現役引退の4年後、1999年に38才の若さでブレーメン監督に就任すると、
その後、2013年まで、なんと14年間も長期政権を築いたのである。
師匠のレーハーゲルと同じく「14年連続で、ブレーメン監督を務めた」。
この間、シャーフは、ブンデスリーガ優勝 1回(2003−04)、ドイツ杯優勝、3回(1999、2004、2009)、
UEFAカップ、準優勝(2009)という成績を残した。
特に、2004年は、「ブンデスリーガとドイツ杯で2冠を達成した」 という偉業で、
クラブ史に残る壮挙であった。
またシャーフ在任中、ブレーメンは、2004年、2006年、2007年と、
3シーズン、「欧州最高得点率」 を記録したのである (欧州5大リーグ、全98チーム中、1位)。
ブレーメンは中堅クラブであるが、中堅クラブの分際で、
「3回も欧州1位の攻撃成績」 となったのは、かなり凄い。
シャーフは、師匠 オットー・レーハーゲル監督ゆずりの「攻撃サッカー」を実現したのだ。
21世紀に入ると、ビッグ・クラブであるレアル・マドリード、バルセロナ、マンチェスターユナイテッド、チェルシー、アーセナル、バイエルン等は、
20世紀と比べモノにならないぐらい金持ちになった。
上述のクラブと中堅クラブの格差は大きく開き、彼らは金の力に任せ、凄いメンバーを集めていた。
しかし実は、2000年代に
ブレーメンは3回も欧州最高得点率を叩き出し、攻撃成績では上回っていた年が、
3回もあった」
のである。
なぜか日本人の多くは、それを知らない。 恐らく100%近くの人間が、知らない。
詳しくは、以下のサイトを参照して頂きたい。 詳細なデータを載せています。

話は大きく脱線したが、奥寺氏に「プロの手本」 を見た後輩は、
その後、この様にブレーメンで、監督としても大活躍をしたという話である。
そして、日本人選手、長谷部誠の監督までしていたという話である。

ブレーメンは、レーハーゲル、シャーフが共に14年も長期政権を築き、合計すると28年である。
両者のサッカー・スタイルは、シャーフはレーハーゲルの弟子なので近いモノが当然、あるだろう。
つまり、ブレーメンは、頻繁に監督が替わる現代サッカーにおいて、
「一貫したチーム・スタイルを長年、継続して成功を収めて来た」 という珍しい存在のクラブであると思う。
この時期(28年間)で、「クラブ哲学」 が、2人によって確立されたであろうと思う。
また21世紀に入り、国際化が更に激しく進んだ中で、
長年、生え抜きシャーフを監督として起用したのを見ると、
未だに「ローカル意識」 がとても強く、「アット・ホームな良いクラブ」 なのではないかと思う
(悪く言えば、閉鎖的なのかも知れないが、本来、サッカー・クラブ自体が「地元主義」 を標榜した、
「おらが街のチーム」と叫ぶ、田舎臭いモノだ。
だからブレーメンのように「生え抜きや、クラブ出身者を監督として重宝するスタイル」 が実は本道であろう)。
日本人は、バイエルンだのドルトムントの話ばかりをするが、
ブレーメンのこういった現代では「珍しい顔」 についても、少しは関心を持つべきだろう。
ちなみにトーマス・シャーフは、
現役時代、プロ生活17年で、通算362試合に出場し、
「イエローカードは僅か13枚、退場はゼロ」 という珍しい選手だ。
彼はDFだったが、ここまで警告・退場がないDFというのは、とても珍しいだろう。
彼は、奥寺氏に似て、フェア・プレイで戦う選手だったという事だろう。
この点も奥寺氏を手本にしたかどうかは知らないが、とにかく2人は反則が少ない選手だった。

奥寺氏が、ブレーメン時代に通っていたギリシア料理レストランの店名は 「クノッソス」 である。
現在でも存在しているかどうか不明です。
大迫選手の応援で、ブレーメンに足を運んだ方は、先輩・日本人選手、奥寺康彦さんの行きつけだった店で
食事するのも良いかと思います。
しかし、現在も存在しているかどうかは不明です。


【リンク集】

「奥寺康彦、歴史 1」 へ戻る場合→ https://ameblo.jp/rulli-coco/entry-12403409340.html

「レアル・マドリード、バルセロナより攻撃力のあるチームに居た、奥寺康彦、歴史1」 
に戻る場合。
           ↓
釜本の日本代表得点記録がインチキである説明。

釜本の本当の実力を紹介。

日本代表公式記録が異常である説明。

テレビ朝日と日本人の異常性が分かる解説。

リーベルプレートを「リバープレート」と嘘の名前で放送する馬鹿会社、日本テレビ。

セルジオ越後の経歴詐称の解説。

2011年、アジアカップでのキ・ソンヨンの猿パフォーマンスの解説。

ペレの嘘みたいな笑ってしまうほど凄い経歴を紹介しています。

アジア史上最高の選手、チャ・ボングンの凄過ぎる経歴を紹介しています。

現地アルゼンチンでのメッシの評価を紹介しています。日本のマスコミが伝えない真実です。

日本代表史上最多連敗を作ったチームはどのチーム?そのチームを教えます。

ウィキペディアに居るバカの紹介。

ゲルト・ミュラーの解説。

世界最高FWの歴史。
世界最高ゴールキーパーの歴史。
https://matome.naver.jp/odai/2155180768344900901

世界最高ボランチの歴史。
 https://matome.naver.jp/odai/2155620829332449401

世界最高10番の歴史。
https://matome.naver.jp/odai/2155607814393565601

世界最高ドリブラーの歴史。
https://matome.naver.jp/odai/2155633540866813001

ブラジル代表、歴代エース・ストライカー。
https://matome.naver.jp/odai/2155651982320746801


【皇帝 フランツ・ベッケンバウアーから認められた、奥寺康彦 】

イメージ 1
【写真解説】 1982年。 ハンブルガー時代の「皇帝、フランツ・ベッケンバウアー 」 (36才)。 
                   1981年10月28日には、奥寺所属のブレーメンと「北ドイツ・ダービー」 を戦った。


1981−82シーズン、ブレーメンはリーグ戦で、5位に終わった。
この年、「サッカー史上最高のDF」 であり、
名将(監督としてW杯1990優勝、W杯1986準優勝) の
フランツ・ベッケンバウアーは、
奥寺康彦氏についてドイツのマスコミに向かって話した。
残念だが、奥寺の良さは、君らには理解できないし、説明しても分からない。
私やレーハーゲルのような人物にしか分からないよ
とだけ述べた。
それ程に、奥寺氏のプレイというのは、玄人を唸らせる、
超一流でないと分かりづらいモノだったようだ。
奥寺氏は得点は多くないので、どちらかという地味な印象を与える選手だ。
しかし、名手ベッケンバウアーは、奥寺氏のレベルの高さを理解していた。
恐らく戦術面での奥寺氏の優秀さに感銘を受けたのだろうと思う。
ちなみに、この当時、ベッケンバウアー (36才)は、
ブレーメンの永遠のライバル・チーム、ハンブルガーSVに所属していた。
そして両者は、ブンデスリーガ第15節、「ブレーメン 対 ハンブルガー」(1981年10月28日)、
「北ドイツダービー」 で対戦した。
この試合、奥寺氏 (29才)のブレーメンが3−2で勝利した。
得点者 ブレーメン:    ラインダース 前半6分、8分  コステデ  後半23分
      ハンブルガー:  バストルップ 前半25分     マガト    後半42分 
 
奥寺、ベッケンバウアー 、共にフル出場した。
メンバー表を見ると、恐らく奥寺氏は、右サイドバックで出場したと思われます。

ちなみに、この年、ベッケンバウアーを擁したハンブルガーSVは優勝した (勝ち点、48)。 
ブレーメンは5位 (勝ち点 42)で終りました。


【ヘネス・バイスバイラー監督による、奥寺康彦、選手評】
 
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         【写真解説】        ヘネス・バイスバイラー監督

選手評の前に、
ヘネス・バイスバイラー監督が、
「古河電工(当時、奥寺氏所属) に直接、ドイツから電話して来た際の言葉」
を紹介します。
奥寺氏は、ケルンのオファーを最初、断わりました。
理由は、欧州挑戦するよりも、現在の安定した生活を続ける方が得策だと考えたからです。
他に、「バイスバイラー監督からオファーを受けた」 と
古河電工、日本サッカー協会関係者に報告しても、2つの団体は無反応で、「回答なし」だったからです。
両団体共、この件に関し、奥寺氏を積極的に応援する姿勢は見られず、
海外挑戦を後押しする雰囲気は全くありませんでした。
それ故、奥寺氏は会社に「(バイスバイラー監督からのオファーを) 断って欲しい」
と伝えました。
当時の奥寺氏の心境としては、
「名監督から直々に誘われただけでも幸福だった」 と考え、
この件に関し、区切りをつけたそうです。
しかし、バイスバイラー監督は諦めず、直接、ドイツから電話で再勧誘して来たのです。
これは、その時の内容です。
以下。
 
1977年、9月19日。 電話でのバイスバイラー監督の言葉。
「ケルンは現在、シーズン中で、
ウィング、ハーネス・ルアーに代わり、1日も早く、
奥寺康彦がレギュラーとして必要だ。
奥寺の待遇は、ブンデスリーガのトップ・クラスと同じにする。
今すぐ、副会長かマネージャーを東京へ派遣する」
 
この電話を受け取った古河電工は驚き、
折り返し、1FCケルンに国際電話をかけた。
「さっきの電話は本当に、ヘネス・バイスバイラー監督だったのか?」
と確認作業をしたそうである。
そして、本人だと知り、2度びっくりしたそうである。
この電話により会社側の態度も変わり、
奥寺氏も「2度も誘われるというのは大変な事だ」と思い、海外挑戦を決めたそうです。 

この2週間後、奥寺氏は、ケルンと契約しました。
この当時、奥寺氏の年俸を上回る日本人スポーツ選手は、
野球の読売巨人軍の強打者、王貞治氏しかいなかったそうだ。
奥寺氏は会社員だったが、ケルンとプロ契約した事で、
日本のスポーツ界で一気に、王貞治氏に次ぐ、高年俸のスポーツ選手になったのだ。
 
以下は、日本のサッカー誌 「イレブン」(1977年2月号)より。
「奥寺康彦、ケルン入団」 から3カ月後に、
バイスバイラー監督が、日本のサッカー・ファンに向けた言葉です。
「最初にはっきり申し上げれば、奥寺康彦がブンデスリーガで成功を収める事は、
間違いない事だと確信している。
奥寺は左利きであるが、右足でも同じようにボールをコントロールできる。
また日本人選手は、フィニッシュの際に、
勇気がなく、いかにも恥じらいながらプレーする事が多いが、奥寺は違う。
奥寺は得点能力があり、突破力もあり、足も速い。
また奥寺はチームプレイにより攻撃を組み立てられる選手だ。
ひとりよがりのプレイは決してやらない。
奥寺は状況を素早く把握する能力があり、それをチームの為に正しく活用している。
奥寺は第一級の選手だ。
そうでなければ、わざわざドイツに呼んだりはしない。
彼はブンデスリーガで立派にやっていけるだろう。
奥寺は言葉 (ドイツ語) が完全にできるようになれば、ずっと気が楽になると思う」。
と語った。
 
次に紹介するコメントは、
ケルン入団後、既に奥寺氏が活躍している最中の言葉です。詳細な発言時期は不明です。
「奥寺はチームプレイをいつも大切にする。
試合中のどんな場面にもまずチーム全体のプラスを考え、
自分自身のプラスはその次にする。
奥寺はケルンのFWの中で、最も守備をする選手だ。
彼は、守備のタスク(仕事)を忠実にこなす。
奥寺が出場するゲームでは、ケルンの守備陣が相手の攻撃により裸にさらされる事はない。
奥寺と対面する相手は確実に攻撃力を封じられてしまうからだ」

【オットー・レーハーゲル監督。 
ブレーメン退団に際し、奥寺氏について語る】

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     【写真解説】  1980年代、ブレーメン監督、オットー・レーハーゲル。

ブレーメンは、1986年5月、MF、奥寺康彦の退団に伴い、アジア・ツアーを行った。
中国の大連、日本を訪れ、親善試合を行った。
当時ブレーメンは、
1985−86シーズン、ブンデスリーガで2位」 となった直後だった。
文句なしの欧州を代表する強豪チームの1つだった。
しかも、このシーズンの2位は、「勝ち点は1位で、惜しくも得失点差で敗れ2位」 という内容で
ほとんど1位(バイエルン) と実力的には大差のない2位だった。
 
日本開催の「キリンカップ 1986」は、奥寺氏のブレーメン引退試合となった。
キリンカップ1986は、
4チーム(ブレーメン、日本代表、パルメイラス、アルジェリア選抜)が参加し、
4チームでグループ・リーグ戦を行い、その上位2チームで決勝戦を行い、
優勝チームを決めるという大会方式だった。
 
奥寺康彦氏は、この大会で全4試合、全てに出場した。
ブレーメンはグループ・リーグで、
パルメイラス、日本代表、アルジェリア選抜と対戦し、
1勝1分1敗の成績で、グループ2位となり、決勝戦へ勝ち進んだ。
グループ1位は、3連勝をしたパルメイラス(ブラジルのビッグ・クラブ)だった。
(パルメイラスは、1986年のサンパウロ州リーグは2位だった)。
そして決勝戦で、ブレーメンは、パルメイラスと対戦したが、
1 対 1 の同点で決着が着かず、延長戦となった。
その後、延長戦で3得点をしたブレーメンは、最終的に、4−2でパルメイラスを下し、
優勝を果たした。
「欧州の強豪」 と 「南米の強豪」 の対決は、ドイツ名門チームの勝利で終った。

この大会の詳しい内容は以下である。

[ ブレーメンのグループ・リーグの対戦成績 ]。
5月11日 [ 福岡開催 ]、パルメイラスと対戦し、0−4で敗れた。
対戦チーム・パルメイラスには、FW、三浦知良が居た。 奥寺と三浦カズの日本人対決が実現した。

5月14日 [東京、国立競技場開催]、 日本代表と対戦し、2−0で勝利した。

5月16日 [名古屋開催]、 アルジェリア選抜と対戦し、1−1で引き分けた。

前述と重複となるが、決勝戦の内容。
5月18日 [東京、国立競技場開催]、 
パルメイラスと決勝戦を戦い、ブレーメンは1−1で決着つかず、
延長戦まで戦い、最終スコア、4−2で勝利した。
ブレーメンは見事、優勝を果たした。
 
1986年5月18日、大会後の記者会見で、
ブレーメン監督、オットー・レーハーゲルは、
記者から「日本サッカーが発展するにはどうしたらいいか?」 と質問され、
「奥寺の経験、技術、人脈などを最大限に生かす事だ」 と回答した。

この後、記者会見後のパーティーで、
レーハーゲルは、日本のサッカー関係者に本音を吐いた。
「日本のサッカー界は、奥寺の価値を知らないね。まるで分かっていない。
正直言って、帰国してらからの奥寺をどう生かすのか何の計画もないと聞いて、驚いてしまった。
奥寺の素晴らしさは、お世辞で言っているのではないんだよ。
もしサッカーの事が分からなくてもオクが国際的に活躍した事で、
日本の国家に大変貢献したのだから、彼に何かの形で示しても良いんじゃないかな。
(サッカー界でポジションを用意する、表彰する等)
それとも日本には奥寺クラスがウジャウジャ居るという訳かい?
奥寺の価値が分からず、オクの活用プランがないという事が、結局は現在の日本サッカーの実力という事だよ。
それは言い過ぎにしても、もし自分達でできなければ、我々とかドイツ協会に相談してくれてもいいじゃないか」
と話した。
 
現在、奥寺氏のブレーメン引退から33年経ちました。
しかし、依然として、オットー・レーハーゲルが当時、
日本人に対してぶちまけた不満というのは、未だに正論であり、
未だに日本人は奥寺氏の偉業を全く理解できていないのではと思います。
この33年間で、奥寺氏が日本サッカー協会の要職に就く事もなければ、
日本マスコミが奥寺氏の偉業を理解する事もなく、
彼らが正確な知識を身に着け、奥寺氏に知見を求めようと懸命だったとも思えません。
彼らは歴史に一切、興味がないので、永久に正確な知識など身に着けられませんし、
永久に奥寺氏の偉業を理解する事ができません。バカなんですよ。
彼らは、芸能人を出演させ、ぬるい、おふざけ番組を作るしか関心も技量もなく、
サッカーの本質を紹介する番組を作ろうという意志もありません。
恐らく、私のこのブログを読んで、
「奥寺さんって、そんな凄い選手だったの」
と思っているのが、現在の日本のマスコミ・レベルではないかと思います。
それぐらい日本人というのは、バカな民族なんだと思います。
レーハーゲルの怒りを全く理解できないくらいのバカだと思います。

奥寺康彦 歴史5 に戻る場合→ https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil

「奥寺康彦 ヒストリー 4」 に戻る場合 → https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/67114111.html

「奥寺康彦、ヒストリー 3」 に戻る場合→ https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/67113280.html

「奥寺康彦、ヒストリー 1」に戻る場合→ https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/66700964.html

「奥寺康彦、ヒストリー 2」に戻る場合→ https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/67093775.html


「名選手、名鑑」です。

「10代で得点王になった天才選手」。 久保建英より凄い10代、まとめ。


ブラジル代表、歴代10番  https://matome.naver.jp/odai/2156001524382112001

日本人が知らない、ペレ伝説。 https://matome.naver.jp/odai/2154148733658141301

2014年ブラジルW杯、金儲けの為に試合開始を午後10時(現地)にした、金の亡者、日本人。

サッカー史上、最もゴールを決めた男、ヨーゼフ・ビカン

ブラジル代表、 歴代エース・ストライカー https://matome.naver.jp/odai/2155651982320746801

小クラブを優勝させる天才、 オットー・レーハーゲル監督。 

スペイン・リーグ史上最高FW、ド下手メッシより遙かに得点能力が高い男、  イシドロ・ランガラ

世界最高ドリブラーの歴史。 https://matome.naver.jp/odai/2155633540866813001

世界最高ボランチの歴史。  https://matome.naver.jp/odai/2155620829332449401

世界最高センターバックの歴史。 https://matome.naver.jp/odai/2155600480470601501

世界最高10番の歴史。 https://matome.naver.jp/odai/2155607814393565601

世界最高FWの歴史 (簡略版)。https://matome.naver.jp/odai/2155312617766955901

世界最強クラブ・チームの歴史。https://matome.naver.jp/odai/2155435270953889601

2011年、アジアカップでのキ・ソンヨンの猿パフォーマンスの解説。

日本人が勝手に作った「JFA基準」の酷さを解説。
 
リーベルプレートというチームを「リバープレート」と嘘の名前で放送する日本テレビという馬鹿会社の解説。https://matome.naver.jp/odai/2146055300976480701

テレビ朝日と日本人の異常性が分かる解説。https://matome.naver.jp/odai/2148594966089833601

アジア史上最高選手、チャ・ボングンの経歴。https://matome.naver.jp/odai/2152042081873689301
 
サッカー史上、誰が一番、ゴールを決めた? 
「公式戦、通算得点数」ランキング。https://matome.naver.jp/odai/2155701574970679301
 
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【写真解説】 1978年、「ケルン2冠優勝、祝賀会」 での奥寺康彦。 
写真左、ドイツ杯のトロフィーを持っているのが、奥寺氏 (26才)。 
写真中央、リーグ優勝トロフィーを持っている眼鏡のDF、ヘアバート・ツィマーマン (23才)の右肩後ろ
顔だけ写っている高齢の眼鏡の人物が、ヘネス・バイスバイラー監督 (68才)。

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【写真解説】 1978年、2冠優勝し、サポーターに挨拶する奥寺康彦とケルンのメンバー。
        写真、左奥が、奥寺康彦 (日本代表FW、26才)。
              右、  額が広い選手は、ロジャー・ファン・グール (ベルギー代表FW、27才)。

       奥寺氏が右ウィング、ファン・グールは左ウィングで、2人はケルンの両ウィングだった。

【ヘネス・バイスバイラー監督の慧眼】

ヘネス・バイスバイラー監督というのは、「ダイヤの原石」 を見つける才能があったそうだ。
「名選手、発掘エピソード」 が幾つか残っている。
20才でバロンドール(欧州最優秀選手賞) で2位になった
名MF、ベルント・シュスター(ドイツ代表 & ケルン、バルセロナ等に所属)がそうだ。
バイスバイラー(当時、ケルン監督) は回って、シュスターを見つけて来たそうだ。
そして、シュスターはケルンに入団した。

また1972年、ボルシアMG監督を務めていたバイスバイラーは、
アラン・シモンセン (ベイレBK所属、デンマーク代表) にオファーを出し、彼を入団させた。
1977年にバロンドールを受賞したアラン・シモンセン(デンマーク代表)は、
身長165センチと小柄で、しかも足は細く、
シモンセン(20才)がボルシアMGに入団した当時、
誰も将来、彼が「バロンドールを受賞する」 ような名選手になるとは
想像もしなかったそうだ。
試合中のプレイぶりは、ひょろひょろとしていて、
そんな事は、想像できないという状態だったそうだ。
しかし、バイスバイラー監督の指導の下、成長し、
5年後にはバロンドールを受賞するまで成長してしまった訳である。
(注: バロンドールを受賞した1977年時、バイスバイラーはボルシアMGの監督ではなかった)。
またレアル・マドリードで活躍した名DF、ウリ・シュティーリケ(ドイツ代表)も、
18才の時、バイスバイラー監督の勧誘を受け、ボルシアMGに入団したそうだ。

そして、日本人・奥寺康彦である。
これもバイスバイラー監督がテストの末、奥寺を入団させた。
ドイツでは、「なんで日本人を獲得したんだ。なんで起用するんだ」 という疑問があったらしい。
実際、当時の映像では、ドイツ人記者が直接、バイスバイラー監督に
「なぜ日本人を起用するんだ?」 と質問している映像が残っている。
これは失礼な質問だが、当時の時代背景を考えると当然かも知れない。
バイスバイラーは、
欧州最強リーグで、しかもその中で強豪チームだったケルンに(前年にはドイツ杯を優勝していた)、
プロ・リーグのない国で、遠く離れた日本から「無名の外国人助っ人」 を入団させ、起用していたのである。
奥寺は最近まで「会社員」 だったのである。しかも25才で結構、いい年になっていた。
18才の選手を将来性を見込んで入団させた訳ではなかった。
現在のサッカー界なら考えられない話だろう。
奥寺氏以降、サッカー界でこんな移籍はあっただろうか? ないのではないか?
奥寺氏の話によると、ドイツ・メディアに限らず、ケルン入団当初のチームメイトの反応も、
「こいつ(日本人)、サッカーできんのか?」 というレベルの雰囲気だったそうだ。
それぐらい見下げられていた訳である。
しかし、バイスバイラー監督の指導の下、最終的に奥寺氏は「ブンデスリーガを代表する外国人助っ人」 に
なってしまい、誰よりも長く生き残ってしまった。
「ブンデスリーガ、最高齢助っ人(34才)」 となり、しかも優勝争いする強豪チームの助っ人を務めていた。
ここでもバイスバイラーの「才能を見抜く力」 がいかに凄いモノだったかが、分かる。

奥寺氏の話によると、年下の歴史的名手がケルンの1軍に上がって来た当時について
「シュスターもリトバルスキーも最初はそんなうまくなかった。でも数年経つと、凄い選手になっていた」
と語っている。
私は、「シュスターとリトバルスキーが上手くなかったなんてわけないでしょう。元から凄かったんじゃないの?」
と疑問を感じたが、
それ程に、バイスバイラーは「ダイヤの原石」 のように、他の人間ではよく気づかない才能をきちんと見定め、
一流選手のレベルまで伸ばす指導力があった監督だそうだ。

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【写真解説】 1978年のケルン、メンバー。 右から2人目が奥寺康彦 (26才)

【 30代で、強豪クラブの助っ人をやっていた、奥寺氏の凄さ。 実はアジア人で奥寺氏だけだ 】

最近、岡崎慎司(33才) がマラガ(スペイン2部)に移籍が決まった。
奥寺康彦氏は、34才でブンデスリーガ1部、ブレーメンで優勝争いをしていた。
もう少しで優勝する所であった。
岡崎を引き合いに出し比較するのも何だが、
日本人サッカー選手で、奥寺氏ほど高齢になっても余裕でトップ・レベルで活躍していた選手はいないだろう。
なぜか日本人はその点に関し、奥寺氏を称賛する事がないように思う。
日本人は、長谷部誠のようにレベル低下したブンデスリーガ(欧州3位、4位のリーグ) の中堅クラブ辺りで
プレイするのが限界だろう。
長谷部は欧州最強リーグや、欧州2位リーグ辺りの優勝争いするチームの主力ではない。
30才を過ぎれば、香川真司のようにトルコに行ったり、
中田英寿のように30才前で通用しなくなり引退というのが、日本人選手の常識だろう。
韓国人もパク・チソンは、マンチェスター・ユナイテッドで半分くらいしか試合に出れず、
30才となれば、ビッグ・クラブでは全く通用せず、退団していた。
韓国では、1980年代、名FW、チャ・ボングンが居た。 彼は30代はレバークーゼンという中堅クラブに居た
(チャ・ボングンは「アジア史上最高の選手」 として有名で、「UEFAカップに2回優勝」 した事でも有名である。チャ・ボングンは、35才の時、レバークーゼンで「UEFAカップ1988年」 に優勝した)。
しかし、レバークーゼンは、国内リーグで優勝争いする力はなかった。
大体、彼の所属したチームは毎年、6〜10位ぐらいの成績で終っていた。
「チャ・ボングンは、12年もドイツに居たがブンデスリーガで優勝争いをした経験は一度もなく、
キャリアを終えた」。
(注: ドイツ杯では1回、優勝した)。
一方、奥寺氏の所属チームは「欧州9年中、5回」 は優勝争いを演じた
(2部時代ヘルタでも、奥寺康彦は優勝争いをしたので、正確には「欧州9年中6年」 は、優勝争いに加わった)。
しかも奥寺氏は、「ブンデスリーガで6位より下のシーズンがない」 のだ。凄過ぎる。
優勝争いしなかった年でも、5位か6位という好成績で終えていたのだ。 これは凄い話である)。

つまり、30才を超して、優勝争いする強豪クラブで、主力で活躍していたアジア人というのは、
今まで奥寺康彦氏以外、誰も居ないという事だ。
日本人の多く、ほぼ100%はこの事実を理解していないだろう。

これから先も、奥寺氏のような選手は恐らく出て来ないと思う。
それ程に34才で、欧州でトップ・レベルで助っ人をこなすというのは難しい事で、
奥寺氏の実力は際立っていたという事だと思う。

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【写真解説】 
1980−81シーズンドイツ杯、準決勝、「ヘルタ・ベルリン 対 フランクフルト」戦(1981年4月4日)での、
奥寺康彦とDF、ブルーノ・ペッツァイ。
写真、右、 白いユニフォームが奥寺氏 (2部ヘルタ・ベルリン所属、29才)。
    左、 赤と黒の縦縞のユニフォームが、ペッツァイ (フランクフルト所属、オーストリア代表、26才)

試合は「フランクフルトのホーム」で開催され、0−1でヘルタ・ベルリンが敗れた
(1発勝負の大会規定で、1試合だけ行われた)。
奥寺所属のヘルタは、2部チームだがドイツ杯で準決勝まで進むという快進撃を見せた。
しかし、惜しくも決勝進出はならなかった。
2部チームが、1部のホームで試合するのだから、ヘルタが負けてしまうのはほとんど当然だろう。
大会ルールが非常におかしいと思う。
ヘルタが0−1で最小スコアで負けたのは、 十分、健闘したと言って良いのではないかと思う。
ちなみに、この時、対戦相手のフランクフルトには韓国人FW、チャ・ボングン (27才)が居た。
この試合は1−0で終ったが、フランクフルトの得点は、
前半30分、チャ・ボングンによる決勝ゴールだった。
彼は、この時代、フランクフルトのエースで一番、点を取っていた。
チャ・ボングンは決勝戦でも1ゴールを挙げ、1980−81シーズンのドイツ杯優勝を果たした
(決勝で、フランクフルトは、カイザースラウテルンを3−1で倒した)。
チャ・ボングンは、この大会、チーム最多の6得点(6試合)を挙げ、エースの活躍を見せ、優勝した。
ちなみにこの年の大会得点王は、7得点を挙げた、
 ホースト・ルベッシュ (ハンブルガー)
 ジミー・ハートビッヒ  (ハンブルガー)
 トーマス・リマーク   (ヘルタ・ベルリン)
  の3人だった。

奥寺とペッツァイの2人は、翌1982年からブレーメンでチームメイトとなった。 外国人枠、2枠を占拠した。
奥寺は、日本に復帰する1986年まで、4年間、ペッツァイと共に戦い、
2人を擁したブレーメンは、リーグ戦で2位に3回なった (1983年、85年、86年)。


【 奥寺康彦が居た当時のブンデスリーガ、外国人助っ人選手、一覧 】

これは、当時、欧州最強リーグ(1976〜84年)だったブンデスリーガに居た外国人助っ人のリストです。
奥寺氏は、1985年、1986年と2年続けて、「ブンデスリーガ、最高齢助っ人」 でした。
1986年時で、34才でした。
彼は、ブレーメンから1年契約延長オファーを受けていた為、まだ「ドイツ最高齢助っ人」 を続けられましたが
日本に復帰する決断をしました。
ブレーメンは1986年、欧州最高得点率のチームで、リーグ戦は2位でした。
その攻撃陣の1人だった奥寺氏に対して、クラブが契約延長オファーを出したのは、34才とは言え、
当然だろう。しかし、奥寺氏は、帰国を選びました。


[ ケルン ]
ロジャー・ファン・グール    (ベルギー代表  FW)
プレーベン・エルケア       (デンマーク代表  FW)
奥寺康彦              (日本代表  FW)
ルネ・ボッテロン          (スイス代表 MF)
トニー・ウッドコック        (イングランド代表 FW)
ミヒャエル・ファン・デ・コルプト (オランダ代表 DF)

[ ブレーメン ]
ブルーノ・ペッツァイ     (オーストリア代表 DF) 
                  バロンドール:14位(1980年)、11位(81年)、12位(82年)

奥寺康彦           (日本代表 MF)

[ バイエルン ]
ブランコ・オブラク   (ユーゴ代表 MF) 
 
ジャン・マリー・パフ (ベルギー代表  GK) バロンドール: 6位(1983年)、11位(86年)、17位(87年)
セーレン・レアビー  (デンマーク代表 MF) バロンドール:12位(1985年)、13位(86年)

[ ハンブルガーSV ]

イバン・ブルヤン    (ユーゴ代表     DF)  
ケビン・キーガン    (イングランド代表 FW) バロンドール受賞(1978、79)[ 2年連続 ]
ラース・バストルップ  (デンマーク代表  FW)


[ シュツットガルト ]
ドラガン・ホルツェル       (ユーゴ代表 DF)
ローランド・ハッテンベルガー (オーストリア代表  MF)
ニコ・クラエセン          (ベルギー代表    FW)
ジジエ・シス            (フランス代表      FW)
アスゲイル・シーグルビンソン  (アイスランド代表 FW。 アイスランド史上最高選手)

[ ボルシアMG ]
カーステン・ニールセン        (デンマーク代表    MF) 
アラン・シモンセン           (デンマーク代表   FW) バロンドール受賞(1977年)
ベルント・クラウス         (オーストリア代表  DF)
カイ・エリック・ハーロブセン   (ノルウェー代表  DF)
エリク・トルシュトベット        (ノルウェー代表  GK)

[ カイザースラウテルン]
ロニー・ヘルストローム (スウェーデン代表 GK)
ベニー・ベント       (スウェーデン代表 FW)
トルビョルン・ニルソン  (スウェーデン代表 FW)

[ ドルトムント ]
マルチェル・ラドゥカヌ  (ルーマニア代表 MF)
エルダル・ケッサシュ   (トルコ代表 FW)

[ フランクフルト ]
チャ・ボングン       (韓国代表  FW)
ブルーノ・ペッツァイ    (オーストリア代表 DF)

[ フォルトゥナ・デユッセルドルフ ]
アートゥリ・エスバルドソン (アイスランド代表 FW)

[ レバークーゼン ]
アーネ・ラーセン・オークランド (ノルウェー代表 FW)

[ デュースブルク ]
クルト・ヤーラ   (オーストリア代表、MF)

[ バッテンシャイト ]     (ブンデス2部)
カルロス・バビントン   (アルゼンチン代表 MF)

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【写真解説】 ドイツでの日韓対決。 
        1982−83シーズン、第16節、「ブレーメン 対 フランクフルト」戦(1982年12月4日)の一枚。
         写真、一番左が     奥寺康彦   (ブレーメン所属。 元日本代表FW、30才)。
             左から2人目が チャ・ボングン(フランクフルト所属、韓国代表FW、 29才)  
          
           この試合、奥寺氏のブレーメンが3−0で完勝した。
     この第16節時点で、順位はブレーメンは6位、フランクフルトは15位だった。
     このシーズン、最終的には、ブレーメンは2位、フランクフルトは10位でシーズンを終えた。
     チャ・ボングンは15ゴールを挙げ、得点ランキングは10位だった。
     得点王は、ブレーメンFW、ルディー・フェラーで23ゴールだった。
     奥寺氏は4ゴールだった(注: ブレーメン時代、奥寺氏はFWではなくMFである)。
  
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      【写真解説】  1982−83シーズン、ブレーメン時代の奥寺氏。
                写真、右奥が   奥寺氏(30才)。
                    中央奥が  リゴベルト・グルーバー (CB、21才)
                    中央前が  ノーバート・シグマン   (DF、 29才)

       試合後、勝利した後だろうか? 奥寺氏、CBのリゴベルト・グルーバーと抱擁している。

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【写真解説】 1982−83シーズンのブレーメン・メンバー。
       写真、一番左が      MF、 奥寺康彦 (30才)
           左から2番目が DF、 ジョニー・オッテン (22才)
           左から3番目が CB、  リゴベルト・グルーバー (21才)
                        左から4番目が FW、 ルディー・フェラー (22才)   [ この年、得点王 ] 。
           一番右が      MF、 ベノ・メルマン (主将、29才)  彼は、ボランチです。

          この年のブレーメンって、メンバー若い奴、多いけど、強くね?
          リーグ戦、2位だよ。

 1982ー83シーズンは、リーグ戦で2位だった。
 勝ち点は1位だったが、宿敵ハンブルガーに得失点差で8差上回られ、惜しくも得失点差で優勝を逃した。
 奥寺氏とブレーメン・サポーターにとって非常に悔しいシーズンだったろうと思われる。

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【写真解説】 1981−82シーズン、第32節 「ハンブルガー 対 ブレーメン」 戦 (1982年5月15日)。
ハンブルガー・エースFW、ホースト・ルベッシュとヘディングで競り合う奥寺康彦。
写真、左、赤いユニフォームが ルベッシュ (ハンブルガー所属。 ドイツ代表FW、31才)。
    右、白いユニフォームが 奥寺 (30才)。

奥寺氏は、ハンブルガーとの「北ドイツ・ダービー」 を戦ったが、ブレーメンは敵地で0−5、歴史的大敗をした。
ハンブルガーのエースFW、ルベッシュは、この試合、ハットトリックの大活躍をした。
ルベッシュは長身 (身長188センチ) のセンターフォワードで、ヘディングを得意としていました。
ヘディングが強かった奥寺氏でも対応するのは大変だったのではないかと思われます。
ちなみに、ルベッシュは、この年、27ゴール(32試合) を挙げ、得点王に輝きました。
ハンブルガーはこの年、優勝した(勝ち点48)。ブレーメンは5位だった(勝ち点42)。
ハンブルガーは翌1982−83シーズン、再び優勝し、国内リーグ2連覇した。
更に欧州チャンピオンズ・カップでも優勝した。 国内でも国際大会でも優勝し、2冠を達成した。
この頃、ハンブルガーは欧州最強チームだった
(注: ハンブルガーは1979年にリーグ優勝し、翌1980年に、欧州チャンピオンズ・カップで準優勝してます。
つまり、同クラブは、当時、5年ぐらいずっと強かった訳です)。

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【写真解説】 1982−83シーズン、第2節 「ハンブルガー 対 ブレーメン」戦 (1982年8月25日)。
         写真、中央が 奥寺康彦         (ブレーメンMF、   30才)。
               右が ユルゲン・ミレフスキー(ハンブルガーFW、24才)。
        この試合、奥寺氏のブレーメンは、敵地で1−1で引き分けた。
        1980年代前半、ハンブルガーは欧州で最も強いチームの1つだった。
        しかし、ブレーメン時代、奥寺氏はハンブルガーSVとの「北ドイツ・ダービー」 は
        通算5勝3分2敗で、大きく勝ち越した。
           ちなみに、奥寺氏は、バイエルン戦も、通算 6勝3分3敗 (リーグ戦)で大きく勝ち越している。

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【写真解説】 1983年7月15日撮影。  1983−84シーズンのブレーメン。 
前列右から2番目、  奥寺康彦 (31才)
前列右端が      ルディー・フェラー   (23才、ドイツ代表エース・ストライカー)[ 昨シーズン、得点王 ]
前列右から3番目、 ギュンター・ヘアマン (22才、W杯1990、ドイツ代表MF)
前列左から3番目、 クラウス・フィヒテル(38才、DF。W杯1970、3位。ブンデス出場数、歴代4位 552試合)
この年はリーグ5位で終わった。
しかし、優勝したシュツットガルトとは僅か勝ち点3差で、最後まで優勝争いをした。


【 1980年代中頃、「2年連続、欧州最高得点率」(1985年、86年)を記録した、ブレーメン攻撃陣、紹介 】 (欧州5大リーグ、全94チーム中、1位)

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【写真解説】  ブレーメンのエース。 FW、ルディー・フェラー(W杯1986準優勝、W杯1990優勝)。
          ブレーメンの「クラブ史上最高の選手」 です。

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【写真解説】  W杯1990優勝トロフィーを持つ、ルディー・フェラー。
          ドイツ代表でもエース・ストライカーだった。

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【写真解説】 W杯1990優勝直後のドイツ代表チーム。  前列、右から3人目が ルディー・フェラー。

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【写真解説】  ルディー・フェラーに次ぐ、チームのエース。 FW、ウーベ・ラインダース (W杯1982準優勝)
          巨体で、身長187センチの大型FWだった。
         ブレーメンに22才から8年も在籍し、レギュラーで活躍した。1985年を最後に退団した。


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 【写真解説】   長身FW、フランク・ノイバート。 身長が190センチ。

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【写真解説】  1983年1月29日。 
1982−83シーズン、第19節 「ブレーメン 対 ハンブルガー」 (北ドイツ・ダービー) を戦う
ブレーメンFW、2トップ。
緑のユニフォーム、 フェラー(左、22才) と ノイバート(右、20才)。
ブレーメンは勝利し、ハンブルガーの「ブンデスリーガ無敗記録」 (36試合) を止めた。
この試合、ブレーメンが3−2でハンブルガーを下した。 フェラー、ノイバート共に1得点ずつした。
得点者は
ブレーメン    :フェラー    前半41分、ノイバート  前半45分、 メルマン 後半20分
ハンブルガー:バストルップ 後半4分、 ヤコブス     後半42分

メンバー表を見ると、奥寺氏は恐らく、3−5−2システムの左ウィングバックか、4バックの右サイドバックの
どちらかで出場したと思われます。どっちのシステムだったかは、私の調査力では不明です。
この試合で敗れるまで、ハンブルガーは「36試合無敗」 でした。
1年以上、リーグ戦で負けておらず、「ブンデスリーガ無敗記録」 を更新中でした
(この記録は、2013年にバイエルンに破られるまで30年間、ブンデスリーガ最長無敗記録でした)
この頃、ハンブルガーは欧州最強チームだったので、こんな偉大な記録を作ったのです。
私は日本人に「当時のブンデスリーガは欧州最強リーグでレベルが高かった、凄いチームが多かった」
(ハンブルガーSV、バイエルン、ボルシアMG、ケルン、ブレーメンなど)
と説明していますが、日本人はアホなせいか、奥寺氏の居た世界を毎回、過小評価し、
それが終わる事はありません。
試合後、順位は、首位ハンブルガー (勝ち点28)、勝ち点2差で、4位ブレーメン (勝ち点26)でした。
敗戦したハンブルガーのエースFW、ホースト・ルベッシュは、
「ブレーメンは優勝する為に必要なモノを全て持っているチームだ」 と
永遠のライバル・チームを警戒しつつ、称賛しました。
しかし、1982−83シーズン、優勝したのはハンブルガーでした。
このシーズン、両チームは、共に勝ち点1位 (勝ち点52) で並び日程終了しました。
しかし、ハンブルガーが得失点差で8点上回り優勝となり、ブレーメンは2位で終わりました。
つまり、この時代、欧州では「北ドイツ」 が一番、サッカーのレベルが高かったという事です。
しかし、日本人はアホなので、
「奥寺が居たのブレーメンだろ?、レアル・マドリード、ACミランとかビッグ・クラブに居たんじゃないんだろ」
と誰もが言い出し、話が通じないのです。
私が 「当時、ブンデスリーガが一番、レベル高かったんだよ」 と繰り返し説明しても、
彼らは理解できないのです。
変な民族ですね。
奥寺氏は、「俺達は、(ライバルの)ハンブルガーのブンデスリーガ無敗記録を止めたんだよ」 と
自慢しても構わないと思いますが、彼がそういう事を日本のマスコミに一切、話さないのは
ある意味、不思議です。
この試合は、ドイツでは「歴史的試合」 とされており、
また、「(欧州最強だった) ライバル・チームの無敗記録継続を止めた」 というドラマ性から、
ブレーメン・サポーターにとっては 「語り草」 の試合となっています。
日本のマスコミ・記者はとてもアホなので、奥寺氏にこの1戦での経験についてインタビューする会社・人間は
1人も居ません。 奥寺氏の存命中に、誰か聞いて日本サッカー史の資料として残すべきだと思いますが、
日本人は頭が変なので、そういう意識は皆無です。
当時の「欧州最強チーム、ハンブルガー」 と戦い、その強さを実体験し、
更に「直接対決(ダービー・マッチ)では勝ち越している」 という貴重な人物が奥寺氏だと思いますが、
日本人はその話は聞きたいとは、全く思わない訳です。
彼らにとっては長谷部、大迫らに取材する方が何百倍も大事なことなのでしょう。

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【写真解説】 「ブレーメンが、ハンブルガーの無敗記録を止めた試合」。 写真、2枚目。
        右の緑のユニフォームが、ブレーメンFW、フェラー (22才)。
        中央、倒れている選手が、ハンブルガーDF、ディトマー・ヤコブス (ドイツ代表、29才)

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【写真解説】  司令塔。 攻撃的MF、 ノーバート・マイヤー。 ユーロ1984では、ドイツ代表の10番だった。

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【写真解説】    マイヤー、写真2枚目。

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【写真解説】  右サイドハーフ。 ウォルフガンク・ジドゥカ。 身長185センチの高身長MFだった。

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【写真解説】    ジドゥカ、2枚目。 
                         ドイツ人は、シドゥカと発音する人と、ジドゥカと言っている人で2通り居る。
            どっちが正解か、未だ不明。 奥寺氏に正解を聞きたい。

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【写真解説】     左サイドハーフ。  アジアの欧州開拓者、奥寺康彦
            「 プロ・リーグ挑戦最初のアジア人」 だったが、
            欧州最高得点率を出すチームの攻撃陣の1人として活躍した。

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【写真解説】            MF(ボランチ)、 ベノ・メルマン。 彼は主将だった。 

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【写真解説】   メルマン、写真2枚目。

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       【写真解説】 MF(ボランチ)、ミルコ・ボタバ (ユーロ1980優勝)
      彼は、「ブンデス試合出場数、歴代5位、546試合 (MFでは1位)」の記録を持つ名ボランチである。
      1986年は、メルマンよりボタバが多く試合出場した。
      ボタバは、アトレチコ・マドリード、ドルトムントでも活躍した。

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     【写真解説】 ボタバ、写真2枚目。


[ ブレーメン 1984〜86年、基本システム ]

4−3−1−2 システム。 

             フェラー                 ラインダース (ノイバート)
  
                     マイヤー
           奥寺康彦                ジドゥカ
                 
                     メルマン (ボタバ)
   
   オッテン     クツォップ              ペッツァイ      シャーフ 
              
                     ブルデンスキー

3−5−2 システムの場合。
         
         フェラー                    ラインダース (ノイバート)
                     マイヤー
                     
 ヘアマン(奥寺)    メルマン           ジドゥカ      シャーフ
 
          奥寺康彦     ペッツァイ      オッテン
                     
                     ブルデンスキー


4−3−3 システムの場合。           

                     ノイバート
       フェラー                         ラインダース

            マイヤー            ジドゥカ
                     メルマン

  奥寺康彦       ペッツァイ        オッテン     シャーフ
                     
                     ブルデンスキー


【 おまけ。 ブレーメン守備陣、紹介 】

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       【写真解説】  CB、ミヒャエル・クツォップ。 身長 189センチ。 デカいね。

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      【写真解説】  ブルーノ・ペッツァイ。  身長188センチ。 君もデカいね。
                「オーストリア史上最高のCB」 と今でも言われています。
                「世界選抜で先発し、ベッケンバウアーとCBコンビを組む」 ぐらい凄い選手でした。
               ブレーメンが優勝してたら、バロンドールの順位はもっと上がってたかもね。

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     【写真解説】  右サイドバック。 トーマス・シャーフ。 彼は後に名将になりました。

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     【写真解説】   左サイドバック、ジョニー・オッテン。 たまにCBもやります。

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   【写真解説】  GK、ディーター・ブルデンスキー ブレーメンで 479試合出場。 凄い。
            1972年から16年間も在籍しました。 
            ブレーメンの「クラブ史上、最多試合出場記録」 を持っています。

   
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【写真解説】  1986年のブレーメンの選手達。 
          一番左から、ブルデンスキー (黄色い服のGK)、ジドゥカ (右サイドハーフ)、ペッツァイ (CB)、
                  メルマン (ボランチ、主将)。 
          右端奥が  ノイバート (FW)。
 
 1980年代のブレーメンって、先発で身長185センチ以上が5人居る時があったんですね。
 ノイバート (190センチ)、ラインダース (187センチ)、ジドゥカ (185センチ)、
 クツォップ (189センチ)、ペッツァイ (188センチ)。
    「巨人チーム」 ですよ。

【更におまけ。準レギュラーMF、紹介 】

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【写真解説】  MF、ギュンター・ヘアマン。 3−5−2システムの場合、左ウィングバックを務めます。
         ブレーメンには1982年から10年在籍し、231試合に出場しました。
         W杯1990にドイツ代表として参加しました。 
         試合出場はできませんでしたが、ドイツは優勝しました。
         だから彼は、一応、W杯優勝メンバーです。
         という事は、奥寺さんはドイツ代表選手とポジション争いして勝ってたという事ですね。

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【写真解説】  右サイドハーフ、トーマス・ボルタ―  奥寺さんが居た時はトップ下もやってました。
          ジドゥカの後継者ですね。 2人は体型も感じも似てます。 ジドゥカ程、大きくないですけどね。
          ブレーメンには1984年から14年間も在籍し、312試合に出場しました。


【更におまけ。監督紹介】

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      【写真解説】   オットー・レーハーゲル監督。 この素晴らしいチームを作り上げた名将です。
                 「ブンデスリーガ最多試合、指揮記録 830試合」 を持つ。


「奥寺康彦 ヒストリー 4」 に戻る場合 → https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/67114111.html

「奥寺康彦、ヒストリー 3」 に戻る場合→ https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/67113280.html

「奥寺康彦、ヒストリー 1」に戻る場合→ https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/66700964.html

「奥寺康彦、ヒストリー 2」に戻る場合→ https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/67093775.html


「名選手、名鑑」です。

「10代で得点王になった天才選手」。 久保建英より凄い10代、まとめ。


ブラジル代表、歴代10番  https://matome.naver.jp/odai/2156001524382112001

日本人が知らない、ペレ伝説。 https://matome.naver.jp/odai/2154148733658141301

2014年ブラジルW杯、金儲けの為に試合開始を午後10時(現地)にした、金の亡者、日本人。

サッカー史上、最もゴールを決めた男、ヨーゼフ・ビカン https://matome.naver.jp/odai/2155592233646717401

ブラジル代表、 歴代エース・ストライカー https://matome.naver.jp/odai/2155651982320746801

小クラブを優勝させる天才、 オットー・レーハーゲル監督。 

スペイン・リーグ史上最高FW、イシドロ・ランガラ https://matome.naver.jp/odai/2155588627731601101

「世界最高の監督」の歴史。名将列伝。 https://matome.naver.jp/odai/2156646308574623601


世界最高センターバックの歴史。 https://matome.naver.jp/odai/2155600480470601501

世界最高10番の歴史。 https://matome.naver.jp/odai/2155607814393565601

世界最高FWの歴史 (簡略版)。https://matome.naver.jp/odai/2155312617766955901

世界最強クラブ・チームの歴史。https://matome.naver.jp/odai/2155435270953889601

2011年、アジアカップでのキ・ソンヨンの猿パフォーマンスの解説。

日本人が勝手に作った「JFA基準」の酷さを解説。
 
リーベルプレートというチームを「リバープレート」と嘘の名前で放送する日本テレビという馬鹿会社の解説。https://matome.naver.jp/odai/2146055300976480701

テレビ朝日と日本人の異常性が分かる解説。https://matome.naver.jp/odai/2148594966089833601

アジア史上最高選手、チャ・ボングンの経歴。https://matome.naver.jp/odai/2152042081873689301
 

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【写真解説】 ブレーメン時代、奥寺康彦。

日本人というのは、とても不思議な民族である。
奥寺康彦氏を「日本初、欧州挑戦したサッカー選手」と何十年も紹介しているが、
「奥寺さんって、どういう選手だったの?」という事について、好奇心はほとんどない。
マスコミは、紹介する気もないらしい。
マスコミに勤める人間が興味がないのだ。本当に異常な集団である。
(なぜだか、中田英寿、香川真司とかには凄い興味があり、色々、深くプレイ・スタイルについて
書いたりしている。正直、そんな深堀りする程のレベルの選手達でもないと思うが)。

その為、日本人は、奥寺氏が欧州でプレイしたポジションについてもあやふやであり、
全員、「奥寺って、FWだったけど、ブレーメンに行ったら、DFになったんだよな」 とDF扱いしている。
「いや、その後、MFになって、また攻撃の選手になったんだよ」 と言いたいが、
なぜか日本のマスコミ関係者ですら「奥寺康彦、DF扱い」である。
「ダイヤモンド・サッカー」という番組で、「奥寺さんの試合を見ていた」 と誇らし気に語る日本人ですら、
「奥寺はDFだ」 と言う。 日本人というのは、バカなんじゃないだろうか?
「左サイドハーフ」 でプレイしいてるのに、なぜか全員、口を揃え「奥寺は、DFだ」 と言う。
一体、何を見ていたんだ? 

という訳で、日本に収まらず、アジア・サッカー史で語り落とせない偉業を達成した
(日本が不運にもサッカー超不人気国だった為、日本人が凄さを理解できず、
「国民栄誉賞」 の選考にすら一切、登らないというスポーツ選手ですが)
アジア人初、欧州プロ・リーグ挑戦し、成功してしまった。しかも、34才まで余裕で通用し、帰国した
という名選手のプレイ・スタイルに関心がないという、おかしな民族・日本人に、
私が、一般人ですが評論をし、教授したいと思います。
恐らく日本で、奥寺康彦選手についてここまで長く詳細にプレイ・スタイル解説した評論はないと思います。
私以外やる人が居ないという本当に残念な話で、本当に日本人は不思議だなと思います。


【私的、奥寺康彦、選手評】

私は、ブレーメン時代の奥寺(敬称略)のプレイを見たが、ドリブルで仕掛けて行く事は、滅多になく、
正直、その点については刺激が無く、がっかりした
(30才を超し、瞬発力で勝負する段階でなくなっていた可能性もあるが)。
彼はクロスを上げてゴール・チャンスを作るやり方が、ほとんどだった。
しかし、そのボールの正確性はさすがで、ブレーメンの得点を生んでいた。
私は、ドリブルを見るのが好きな為、攻撃面に関し、奥寺のプレイに物足りなさを感じたのだが、
しかし、奥寺氏は、「試合の流れを読むのが抜群にうまい選手」 というのが分かった。
その点については、興味深かった。
チームがイケイケで攻めている時は、周りに行かせ、中盤の底に入り、バランスを取る、
攻撃面では、前線にいきなり姿を現すのがうまく、ゴール・チャンスを作るなど、
(注: 奥寺氏は、非常に「気配を消すのがうまい」 選手です。いきなり現れるのでびっくりします)。
試合の流れを感じて、適切なプレイをする選手だと思いました。
(また彼は空中戦が強く、前線に飛び出し、クロス・ボールに競り勝ち、ヘディングでチャンスを作る事ができる。
前線へ走り込んで跳び、クロス・ボールを頭で折り返し、中央に居るFWにパスを送ったりする。
奥寺氏は、元々、高校時代はセンターフォワードだったそうだ。
ヘディングは、彼の強味であった。
1990年代前半、レアル・マドリードにイバン・サモラーノ(チリ代表、ストライカー)という上背はないが、
ヘディングがやたら強かったセンターフォワードが居た。
奥寺氏は、サモラーノと似ているなと思う。
「背が高くないのに、ヘディングが強く、ちょっと驚く」 というあれと全く同じモノがある。
奥寺氏のヘディングの強さは、ブレーメンの攻撃面で大きかったと思う)。
私は、奥寺に対し、「巧みに試合をこなす選手」という感想を持った
奥寺氏は、「試合の流れを読む」事に関し、日本史上最高の選手だと思う。
この長所が、奥寺氏を世界の一流レベルで長く活躍する事を可能にし、
世界の名将が高く評価し、重宝した理由だろう。
日本で、奥寺氏が、「身体能力が高かった」という事でのみ、成功理由としている事が多いが、
あまりに単純で、短絡的と言わざるを得ない。
日本人は、「技術信仰」 があるようで、小野伸二、中村俊輔、中田英寿、久保建英らを称賛し、
奥寺氏を過小評価、極まりない状態に置いているが、これらの選手より、
奥寺は 「試合の流れを読む」 という事に関し、遙かに上である。
守備面では、「チームが攻守のバランスを保てるポジションを取り、抑えたプレイをするのも厭わない」。
地味な役回りでも必要と感じやっている。周りの選手が攻めていてもバランスを大事に考えプレイしている感じである。
奥寺氏のサッカー観として
「前の選手が(走って) 守備で頑張らないと、後ろの選手は(相手を)捕まえられないですよ」
と話していたが、彼は、「フォア・ザ・チーム」で、DF陣を助けようという意識の高いMFだったのかも知れない。
しかし、奥寺氏は、勿論、攻撃もする。攻撃面では、サイドのMFとしてクロスを上げる。
その他では、気配を消し、突然、現れ、チャンスを作る。これがうまい。
奥寺氏は、シンプルにプレイするタイプである。
それで、そつなくプレイし、仲間に任せてると思いきや、突然、ゴール前に現れたりする。
実に「合理的な選手」 である。
奥寺氏は、自分の強味(攻撃参加、ヘディング)を、試合中、どこで出せば良いのかというのを探っている
感じだ。
それでそつなくプレイし、その機会が訪れたら、一気に強味のプレイを出すという感じである。
私は、彼は「メリハリの効いたプレイをする選手」 で、「合理的な選手」という印象を持った。
これは、試合の流れを読めてないとできない芸当である。
「この時間は、仲間に任せておけばいい、自分が生きる状況が来たら、俺はフル・パワーで全部、持って行く」
という感じでプレイしている。
奥寺氏は、サッカーに通じているので、「試合の勘所」 を分かっている。

奥寺氏は、日本復帰した際、日本選手の印象に関し、
「個々の選手の技術は高いけど、それがチームになった時に、(チームとして) うまく生かせていない」
と語っていた。
奥寺氏のように、組織プレイに通じ、試合中、自分が目立つ方法にも通じているという
戦術眼に長けた選手からすると、
日本人選手は「技術は高いけど、サッカー知らねーな、こいつら」
という感想(本音) だったのかも知れない。
しかし、奥寺氏は、釜本、中田英寿などと違い、
「日本史上、最も活躍し、世界の一流選手だった」 にも関わらず、
自分の経歴をかさに尊大に振る舞い、同僚選手を見下すという事を、ほとんどしなかった。
(現在、後の世代の日本人選手をあからさまに見下すような事も一切、ない。釜本等とは大違いである)。
自分と他との大きなレベルの差により、ストレスを感じていても、
そのような本音を吐き、日本人を見下したり、仲間を批判したりはしなかった訳だ。
しかし、日本人はとてもバカな為、
中田英寿のように同僚をマスコミの前でも平気で批判する人間の方を「凄い選手」 と思い、
高い評価を下す。
奥寺氏の控え目な態度、仲間への敬意を読み取れないバカな民族が、日本人である。

奥寺氏は、誰に似ているか? と考えると、
ブレーメンのMF時代は、
1980年代に活躍した、フリオ・オラルティコエチェア(アルゼンチン代表)が一番、似ているかなと思う
(奥寺氏の方が、オラルティコエチェアより欧州で活躍し、優れた選手だと思うが)。
オラルティは、南米で言う所の、
「ボランテ・ミクスト」(ボランチ・ミックス: 攻撃も守備も両方こなすMFというタイプの選手)だった。
ミッドフィルダーは普通、攻撃も守備もやるので両方こなすのは当たり前の事である。
しかし、それが際立っているタイプの選手に使われる呼び名である。
「エネルギッシュで、守備面ではボール奪取に優れ、攻撃面ではサイドを精力的に走り、クロスを上げ
チャンスを作るというタイプのMF」 に対し、この呼び方が使われる事が多い。
(注: 日本で「ボランチ」(ポルトガル語)と言うと、「守備的MF」 の事を指す。
これはブラジルから輸入した「呼び名」 である。
しかし、ブラジル以外の南米で「ボランチ」と言ったら、中盤全体の事、「MF全部」 を指す。
「ボランチ = 守備的MF」 という呼び名は、南米ではブラジル1カ国のみで通用するポジション名である。
アルゼンチン等では、ボランチの事を、「ボランテ・セントラル」(真ん中のMF) と呼んでいる。
ちなみにブラジルで、ボランチ以外のミッドフィルダーのポジションの呼び名は、
メイア・アルマドール(司令塔MF:しかし、トップ下でなく守備的MFで司令塔の能力のある選手を指す。
日本で言うと、遠藤保仁(ガンバ大阪)、柴崎岳(元鹿島アントラーズ、デポルティーボ・ラ・コルーニャ)
の2人などが当てはまる。
「meia : メイア」 とは、「ハーフ」、MFという意味である。
「armador : アルマドール」とは、司令塔という意味である)、
他は、メイア・ジレイタ(右MF)、メイア・エスケルダ(左MF)。
トップ下は、ポンタ・ジ・ランサ(槍の尖端) と呼んでいる。
「lanca : ランサ」 とは、「槍」 という意味である。
「ponta : ポンタ」 とは、「尖がっている物」 という意味である。
ちなみにウィングは、ポンタ・ジレイタ (右ウィング)、ポンタ・エスケルダ (左ウィング) と呼んでいる。
「右の尖端・とんがり」、「左の尖端・とんがり」 という意味だ。
つまり、「サイドから突き刺す」 というイメージからできた呼び名である。

ペレ、ジーコ、カカなど「10番」 は、
ブラジルでは、「ポンタ・ジ・ランサ (槍の尖端)のポジション」 と呼ばれているのだ。
つまり、「槍の先が、ゴールを襲う」 というイメージだろう。
日本人は「10番」」のポジションを「トップ下」 と呼んでいる。
ブラジルと比べると味も素っ気もなく、またモノを識別するには半端な呼び方である。
「バカボンのパパ」みたいな変な呼び方である。
日本人は、主体を直接、定義する言葉を作らず、「トップの下に居る人」という珍妙・半端な呼び方で、
ポジション名称を決定し、日々、使用している。
日本人と言うのは、とても不思議な民族で、「ボランチ」 と日々、誰もが使用しているが、
「他のポジションは、ブラジルでは何て言ってんだ?」 という疑問を一切、持たないという変な民族である。
「俺たち、『ボランチ』 って毎日使ってるし、30年ぐらい使っているけど、
他のポジションは、ブラジルで何て言ってんだ?」 
と誰も考えすらしないのである。
そもそもの好奇心が全くない。本当に不思議過ぎる話である。
だから恐らく、「10番は『ポンタ・ジ・ランサ』 (槍の尖端、槍の穂先) だよ」 と言っても、
ほぼ100%が知らない。日本人は、
「そんなの知らない。なんだ、そのアンポンタンみたいな名前は。俺にケンカを売ってんのか」
と答え、怒り出すだろう。
もしくわ
「何、ポンタ知らんさ? お前、ポンタ知らんさって、『ポン太』 って子が迷子なのか? 
そんな子供は、うちの近所に居たかな。
あんた、最近、この辺に引っ越して来たの?」
と言って来て、会話にならないだろう。
日本人は、10番を「トップ下」 という「バカボンのパパ」 みたいな呼び方で定義するのが
非常に気に入っているらしく、これから先も何十年と、それで行くらしい。 
私は「トップ下」という呼び方を聞くと、毎回、「変な呼び方だなー、なんだよそれ」 と思い、
「どうにかなんねーのか、このポジションの呼び方」 と毎回、いらつきを抱いている。

恐らく、日本人がブラジル人のマネをし、日本サッカー協会のお偉いさんあたりが、
「『10番』もブラジルと同じ呼び方にしよう。
守備的MFをポルトガル語の『ボランチ』 と言い、同じMFの10番をポルトガル語で呼んでないのも
おかしな話だ。これまでが異常だった。
これからは、『10番』 は、『ポンタ・ジ・ランサ』 と呼ぼう。みんな、分かったか、『ポンタ・ジ・ランサ』 だぞ。
子供達には、『ポンタ・ジ・ランサ』で教育しよう」
とやり始めても、終いには、
「10番の事、『ポンタ・ジ・ランサ』って呼ぶの面倒臭いなー。これ長いんだよ」
と皆が、思い始め、最終的には、
「おい、ポンタ。お前のポジション、ポンタな」
という事で、皆、『ポンタ』 と縮めて呼び始め、『ポン太』みたいな、漫画チックな、「バカの子」 みたいな感じに
なるので皆、嫌がり、
日本で「ポンタ・ジ・ランサ」 という呼び名は普及しないだろう。
「日本の10番」 と言えば格好良いが、「日本のポン太」と言うと、バカな子供みたいである。
だから、私は、これは頑張っても普及しないと予測する。

ブラジル以外の南米国で、ボランチの事は「ボランテ・セントラル」 (真ん中のMF)と呼ばれている。
[ 南米のスペイン語圏では「ボランチ」ではなく「ボランテ」となる。単語の発音が、ポルトガル語と少し変わる]。
日本人のように「ボランチ」 とだけは言わない。
南米(ブラジルを除く、スペイン語使用国)では、サイドのMFなどは、
「ボランテ・デレチョ(右MF)」、「ボランテ・イスケルド」(左MF)と呼ぶのである。
それで日本人が指すボランチは「ボランテ・セントラル(真ん中のMF)」と呼んでいる。
「ボランチ」などと言えば、MF全体を指す言葉になり、不十分で、「は?」 という状態である。
アルゼンチンでは、10番は「エンガンチェ」 と呼ばれている。 ブラジルとかなり違う呼び方である。
エンガンチェとは、英語でフックという意味だ。つまり「引っ掛ける、つなぐ」という意味だ。
エンガンチェとは「ロープでつなぐ」とか、そういう時に使う言葉だそうだ。
つまり、「中盤とFW [前線]の間に入り、繋ぐ人」 という意味である。
日本人は、とても不思議な民族で、「ボランチ」 とポルトガル語を使い、南米のマネをし、
ポジションを呼んでいるが、他の中盤のポジションには、一切、南米語を使用しない。
守備的MFだけ、なぜかブラジルと同じポジション名を使用する事にし、
Jリーグ誕生以降、ずっとそれを続けている。
(他のポジションは、フォワード、ミッドフィルダー、ディフェンダー、サイドバック、センターバック、
ゴールキーパーと、ほぼ100%、英語でポジションを呼んでいるが、守備的MFだけ、
突然、「ポルトガル語使用」 という変わった事をしている。
しかし、誰も「突然、ポルトガル語使うなよ。オジサン、急な展開にびっくりおったまげだよ。
ボランチって何だよ。突然、そこで気取りたいのか? 何かイタリア料理みたいな名前をちょっと入れて
お洒落気分を演出したいのか? ボランチって「操縦桿」 (そうじゅうかん)って意味だぞ。
本当はお洒落でも何でもないぞ」
というツッコミを入れ、批判する日本人は私以外、誰も居ないようである) 
当時、東京ベルディーというブラジルから強い影響を受けたチームが強く、影響力を持っており、
更にJリーグにブラジル人助っ人がたくさん居たせいなのか知らないが、
日本人は守備的MFのポジションだけは「ボランチ」 といきなりポルトガル語で呼んでいる。
恐らく「守備的MF」 と呼ぶのが長いし、言いにくく、面倒なので、
「ボランチ」 と呼ぶ方が言い易い為、定着してしまったのだろう。
話は脱線したが、つまり、オラルティコエチェアは、
南米(ブラジルを除く)で言う所の「ボランテ・ミクスト」 (ボランチ・ミックス)と呼ばれる
プレイ・スタイルの選手だった)

更に、オラルティコエチェアは、
マラドーナが、「オラルティコエチェアには、何番のユニフォームを渡しても大丈夫だ」 と言っていた
ユーティリティ性があった選手だ。彼と奥寺氏は似ている。
2人共、運動量があり、守備が強く、クロスを上げる。そしてMFとDF、両方をこなせるタイプだった。
しかし、オラルティコエチェアはゴール前へ飛び出す攻撃参加のセンスはなかったが
奥寺氏は、オラルティにない攻撃参加のセンスがあった。
現代サッカーはレベル低下している為、奥寺氏やオラルティコエチェアのような選手は、本当に見かけない。
選手が下手クソ過ぎて、そういうプレイ・スタイルをもはや誰もできないのだろう。
サッカー・センスが無さ過ぎるのだと思う。
現在、南米人に「オラルティみたいな選手、今、居る?」 と尋ねたら、
「誰も居ない」 と答えるだろう。
ハビエル・マスチェラーノ(アルゼンチン代表、MF)、ガリー・メデル(チリ代表、MF& DF)が、
ボランチとセンターバックをこなしている。
マスチェラーノは、アルゼンチン代表でボランチをこなし、バルセロナではセンターバックをこなしていた。
メデルは、南米時代はボランチで、チリ代表では、センターバックをこなす事が多い。
この2人は、2人共小柄であるが、両者共になぜかセンターバックをこなしていたという珍しいタイプの選手達だ。
そして、2人共、ボランチとCBという2つの同じポジションをこなすユーティリティ性を持っていた。
この2人はとても似ている。
しかし、この2人とて、サイドのMFはできない。
奥寺康彦、オラルティコエチェアは、ボランチとDFもできるが、サイドのMFもできたのである
(奥寺氏に至っては、元々センターフォーワード、ウィングだったので、FWまでできた)。
だから、現在のサッカー界で、奥寺康彦、フリオ・オラルティコエチェアに匹敵するユーティリティ性を持つ
選手は、1人も居ないという事だ。

21世紀以降の選手で、奥寺氏と似ているのは、「サイドのMFというポジション」 と 「チームでの役割」を
考慮すると
クラウディオ・マルキジオ(イタリア代表、ユベントス)、ダニエレ・デ・ロッシ(イタリア代表、ローマ)、
ジェレミ・ヌジタップ(カメルーン代表、レアル・マドリード)等が、挙がると思う。
しかし、3人共、「体格・体型、風貌」 が奥寺氏と大きく違う。
また彼ら3人に、奥寺康彦、フリオ・オラルティコエチェア程のユーティリティ性があったか? 
というとない。(ジェレミはサイドバックもできたので、ユーティリティ性は高い方だと思うが)
という訳で、オラルティが奥寺氏と一番、似ていると思う。
今思い返すと、ジェレミは「ボランテ・ミクスト」 と呼んでいいプレイぶりだったなと思う。
黒人特有のフィジカルの強さがあり、エネルギッシュで攻撃、守備両方で貢献していた。


ケルン時代の奥寺氏は誰に似ているか? と考えると、
2000年代に活躍した、ネルソン・クエバス(パラグアイ代表、FW)が一番、似ているなと思う。
2人は「体の動き」 が似ていると思う。 どちらもスピードが売りのFWだった。
奥寺氏の方がクエバスより、遙かに屈強で、体も一回りデカいが、
2人は、「ボールを持った時の体の動き」 が似ている。

「2010年代以降のFWだと、誰に似ているか?」 と考えたが、正直、思い浮かばない。
奥寺氏とクエバスに似た感じのドリブラーは、たくさん居そうで、実はあまり居ないという事ではないかと思う。



【閑話休題】   奥寺さん在籍時、ブレーメンの布陣紹介。

[ブレーメン、1985−86] 欧州最高得点率 2.44 (83得点34試合)
                                      (レアル・マドリードと並んで1位)
                                
                                         (実は、かなり高齢者チームだった)
                                      (先発レギュラーの平均年齢は、29.3才だった)
 

 4−3−1−2 システム

                 ノイバート               ブルグスミュラー(フェラー)
                  
                           ボルタ―

           奥寺康彦(34才)                マイヤー

                           ボタバ


      オッテン      ペッツァイ             クツォップ       シャーフ
      (ルーランダー)
                          ブルデンスキー


1985−86シーズン、奥寺は34才と高齢だったが、「リーグ戦、34試合中、30試合に先発」 した。
途中出場が3試合あり、合計すると、奥寺は「全34試合中、33試合に出場した」。
彼は、CB、ミヒャエル・クツォップ(31才)、「全試合先発出場」 に次いで、チーム2位の試合出場数だった。
同じく外国人助っ人のCB、ブルーノ・ペッツァイ(オーストリア代表、31才)も奥寺と同じ33試合に出場しており、
助っ人2人は、チーム2位の試合出場数だった。
しかし、ペッツァイは33試合先発しており(途中出場はなし)、奥寺より3試合先発が多かった。
先発回数では上回っていた。
だから、奥寺氏はクツォップ、ペッツァイに次いで、この年、チーム3位の試合出場をした訳だ。
彼が、34才で、「試合出場、チーム3位」 だったのは凄い。

次に、当時のブレーメンの「年齢構成」 について説明をします。
1986年時、奥寺氏(34才) はブレーメンで3番目に高齢だった。
FW、マンフレート・ブルグスミュラー(36才: ブンデスリーガ、得点数、歴代4位[213得点] の名FW),
GK、ディーター・ブルデンスキー  (35才: ブンデスリーガ、試合出場数、歴代15位 478試合の名GK)
に次いで、チームで3番目にベテランだった。
FW、ブルグスミュラーはルディー・フェラーの控えで、開幕14試合過ぎても試合出場ゼロだった。
しかし、フェラー故障離脱により、出場機会が巡って来て、第15節から初先発すると、
35才でチーム最高齢だったが、最終節まで20試合連続で先発し、途中交代はゼロだった。
そして13得点(20試合)を挙げ、大活躍した。
彼は、2トップでコンビを組んだFW、フランク・ノイバート20得点(32試合)に次いで、
チーム2位のゴール数だった。
この年のブレーメンは、先発レギュラー11人の内、6人が30才以上でした。
30才以上のレギュラー選手は、
MF、奥寺康彦(34才)、GK、ブルグスミュラー(36才)、FW、ブルデンスキー(35才)、CB、ペッツァイ(31才)、
CB、クツォップ(31才)、MF、ジドゥカ(31才)、MF、ボタバ(30才)でした。

他のレギュラー・クラス選手の年齢は、MF、マイヤー(28才)、DF、シャーフ(25才)、DF、オッテン(25才)、
MF、ボルター(23才)、FW、ノイバート(24才)、FW、フェラー(26才)、DF、ルーランダー(22才)でした。
あと準レギュラー、MF、ヘアマン(26才)、FW、オルデネビッツ(21才)の2人も途中出場を含め、
20試合ぐらい試合出場をしました。
若い選手が、左サイドバックの控え選手22才、ルーランダーと、控えFW、21才のオルデネビッツしか居ません。
中々、ここまで「高齢者チーム」 というのも珍しいのではないかと思います。
とにかく、奥寺は34才と高齢でしたが、ドイツ最後のシーズンでも、計33試合も出場し、余裕で通用していた。
更に、所属チームのブレーメンは他にもベテラン選手が多く、「高齢者チーム」 でしたが、
「欧州最高得点率」 を達成したという事です。
現在、高齢者の多い日本にとって「希望のチーム、希望の湧く話」 ですね。
日本人は1985−86シーズンのブレーメンを見習って頂きたいと思います。
特にブルグスミュラーね。35才で、13得点(20試合)は凄いね。
この年、ブルグスミュラーは得点ランキングは12位でした。
得点王は、ステファン・クンツ(ボーフム所属)、22得点(34試合)でした。
得点率は、ブルグスミュラー0.65。 クンツ、0.647です。
得点率は、ブルグスミュラーが上回っていました。
イメージ 2
【写真解説】 「高齢者の希望」 こと、1986年、ブレーメンFWマンフレート・ブルグスミュラー(当時、35才)。
日本代表の岡崎慎司もブルグスミュラーぐらいしぶとかったらまだブンデスリーガで活躍できましたね。
とても残念です。大迫勇也が、ブレーメンのフロントに「岡崎を獲れ」 と言わなかったのが原因だと思います。
大迫は本当に薄情ですね。インテルのサネッティみたいにインテルにアルゼンチン人ばかりを呼んで、
「アルゼンチン軍団」 にするぐらいの気概を持って欲しかったですね。
ブレーメンは、奥寺さんの古巣なんですから、大迫は「プチ日本人軍団」化を目指すべきです。
大迫君、「ケイスケ・ホンダ」 が浪人状態だから、あの「『仮想通貨好き』のカンボジア代表、アルバイト監督」
を勧誘してくれるのを期待しているよ。

1985−86シーズン、ブレーメンは、主力2人(FW、ルディー・フェラー と 左SB、ジョニー・オッテン)が、
長期離脱したにも関わらず、「欧州最高得点率のチーム」 となった。凄い。
ブレーメンは、昨シーズン、1984−85シーズンも「欧州最高得点率チーム」 だった。
しかも得点率2.6で断トツで1位だった。
つまり、ブレーメンは、この年、2人が故障してなければ、
「断トツで2年連続で欧州最高得点率のチーム」 となっただろう。
レアル・マドリードと並んで1位になるという事などなかった。
ちなみに当時のレアル・マドリードには、
FW、ウーゴ・サンチェス (メキシコ代表)、FW、ホルヘ・バルダーノ(アルゼンチン代表)、
FW、エミリオ・ブトラゲーニョ (スペイン代表)、FW、サンティジャーナ(スペイン代表)、
MF、マルティン・バスケス (スペイン代表)、MF、ミチェル (スペイン代表)等が居た。
1986年の「UEFAリーグ・ランキング」 は、
ブンデスリーガは2位で、スペイン・リーガ・エスパニョーラは、欧州5位のリーグだった。
前年、1985年ランキングはブンデスは3位で、スペイン・リーグはなんと欧州8位でした。
1980年代中頃、スペイン・リーグはレベルが低いリーグでした。
奥寺さんの居たドイツの方が、遥かにレベルが高いリーグだったんですが、
日本人はそこを分かっていません。
ちなみに総括して書くと、
1985年の欧州1位リーグは、イングランド   2位、セリエA         3位、 ブンデスリーガ
1986年の欧州1位リーグは、セリエA        2位、ブンデスリーガ    3位、 ロシア・リーグ
でした。
イングランド・リーグは、1985年1位でしたが、翌1986年は一気に6位まで落ちました。
欧州の国際大会での成績が悪いと順位は落ちます
(イングランドは、1985年に「ヘイゼルの悲劇」 と呼ばれる、スタジアム暴力死亡事件を起こした事により、
翌1986シーズンから5年間、国際大会への参加が禁止となりました。
国際大会に参加できなくなった為、ポイントが付かず、一気に順位が落ちた訳です)。

ブレーメンは、エース・ストライカーのルディー・フェラーを長期間、失うトラブルに見舞われたが、
「欧州1位の得点率」(欧州5大リーグ、全94チーム中、1位)になった。これは、かなり凄い話だと思う。
ブレーメンは、バイエルンを僅か1点差上回り、リーグ最多得点となり、「欧州最高得点率」 を達成した。
しかし、ルディー・フェラーが怪我してなければ、ブレーメンの得点数は更に10点以上は増えていただろう
と思う。
ブレーメンの攻撃力は、本当はバイエルンより数段上で、
本来、1985−86シーズンは優勝できたはずだった。
このシーズン、ブレーメンはバイエルン・ミュンヘンとの優勝争いに敗れ、「リーグ戦、2位」 でシーズンを終えた。
この「2位」 が更に悔しく思わされるのは、エース・ストライカーのルディー・フェラーは第16節で、
なんとライバル・バイエルン戦で、敵CB、アウンゲンターラーのファウルにより負傷したのだ。
5カ月間も戦列を離脱し、16試合連続欠場した。
本当に、ルディー・フェラーの負傷は、残念な話である。
ブレーメンは、ライバル・チームにエースを潰され、優勝を逃したという訳である。
もう一人の長期離脱者、左サイドバックのジョニー・オッテンは、故障によりシーズン開幕に間に合わず、    前半戦は「全欠場」 し、後半戦開始、第20節(1986年1月25日)からようやく戦列に復帰した。
1985−86シーズン、ブレーメンは、この様に主力2人を長期間、欠いたにも関わらず、優勝争いをし、
最終的に「リーグ戦、2位」 で終えたが、奥寺氏とブレーメン・サポーターにとっては、
理不尽さを感じさせられるシーズンだったろうと思う。

ブレーメンは、勝ち点は1位だったが、バイエルンに得失点差、9差上回られ、2位で終えた。
ブレーメンは、第14節(1985年11月4日)に1位に躍り出て、
最終節、第34節(1986年4月26日)までずっと勝ち点は1位だった。


[ 1985−86シーズン、ドイツ・ブンデスリーガ、上位チームの順位 ]
ブレーメンは、「勝ち点、49」 で1位バイエルンと同じであったが、
得失点差で9差上回られ、2位に終わった。
当時、「勝ち点は、勝利が2、引き分けが1、敗戦が0」 でした。

                    勝ち点                       得点  失点
1位 バイエルン・ミュンヘン   49    34試合: 21勝 7分 6敗    82  31
2位 ブレーメン             49     34試合: 20勝 9分 5敗    83  41
3位 ユルティンゲン        45    34試合: 19勝 7分 8敗    63  60
4位 ボルシアMG         42    34試合: 15勝12分 7敗    65  51
5位 シュツットガルト       41    34試合: 17勝 7分10敗    69  45


奥寺康彦は、当時34才だったが、
「34才で欧州最高得点率を叩き出すような、素晴らしい攻撃力を持つチームに居た」 訳だ。
本当に凄いと思う。
奥寺は、主にFW陣にクロスを供給し、得点増に貢献していた。

イメージ 3
【写真解説】  1983年5月28日。
         1982−83シーズン、第33節、「フランクフルト 対 ブレーメン」戦。
         シュートを撃つ、ルディー・フェラー、23才 (写真、右) 
         左は CB、チャーリー・カーベル (フランクフルト所属、28才)
            カーベルは、「ブンデスリーガ試合出場数、歴代1位 602試合」 を持つ。
         彼が1991年に引退し、28年経つが、未だに破られていない (2019年現在)。
         試合は、ブレーメンが前半30分、FW、ラインダースがゴールを決め1−0で勝利した。
                   この年、ブレーメンは2位で終えた。
         (勝ち点は1位だが、ハンブルガーに得失点差で負け、2位だった)。
         私は単にルディー・フェラーの写真を紹介したかったのでアップしました。
         
【おまけコーナー。奥寺さんのドイツ時代のシーズンごとの布陣を紹介します】


[ケルン  1978−79](欧州チャンピオンズ・カップ、ベスト4

4ー2−3−1 システム

                      ミュラー

     ファン・グール        ノイマン         グロバツ(奥寺康彦、27才)
              
               シュスター(フローエ) クルマン
 
 コノプカ         シュトラック       ゲルバー   ツィマーマン

                     シューマッハ

【解説】 奥寺氏は、MF、ユルゲン・グロバツとのポジション争いに敗れ、
      欧州チャンピオンズ・カップ出場機会を大きく失った。 
      しかし、なぜかシーズン終了後、グロバツは放出された。

     奥寺氏は、1978−79シーズンは、国内リーグでは34試合中、23試合に先発した。
     昨年、2冠達成シーズンで、奥寺氏はレギュラーで活躍したが、出場機会が減った。
     理由は、この年、加入した右サイドハーフ(右ウィングもできる)、
     MFユルゲン・グロバツ(27才。奥寺氏と同い年)とポジションを争いをする事になったからで    
     ある。
      グロバツは、リーグ戦では奥寺氏と同じく23試合に先発した。
     しかし、ヘネス・バイスバイラー監督は、
     欧州チャンピオンズ・カップでは、グロバツだけを先発起用し、奥寺氏を控えにした。
     その結果、欧州チャンピオンズ・カップで、奥寺氏は先発ゼロで、途中出場2回で終った。
     しかし、準決勝で1ゴールを決めた(アジア人、初ゴール)。
     バイスバイラー監督の意図は分からない。
     グロバツの方がよりMFタイプで、奥寺氏の方がFW的である。
     奥寺氏の方が得点能力が高い。
     グロバツはリーグ戦で計29試合(途中出場6試合)で、たった2得点のみだった。
     欧州チャンピオンズ・カップという大会の特性から、グロバツの方を起用したのか、
     何が理由で、グロバツが選ばれたのか分からない。
     とにかくバイスバイラーはリーグ戦と違い、欧州CCでは、グロバツだけを先発で起用し、
     奥寺氏は最後まで控えでした。
     そして、これから先、更に意味不明なのは、
     バイスバイラーはグロバツを奥寺氏より重宝したにも関わらず、
     このシーズン後、彼を放出したのである。
     グロバツは、レバークーゼンへ移籍した。
     グロバツを奥寺氏より評価していたならば、普通、放出されるのは奥寺氏の方だろう。
     そして、この2人は同い年なのだ。奥寺氏がグロバツよりかなり若くて将来性が大きいという    
     訳ではなかったのである。
     しかし、グロバツは、ケルンより格下のレバークーゼンへ放出された。
     意味が分からない。
     その後、グロバツは、レバークーゼンでそれ程、活躍できず、
     3年後、30才で引退をした。


[ケルン、  1979−80](得点率、欧州5位、2.1)、(ドイツ杯、準優勝)
                                  (リーグ戦、順位5位)

4−4−2 システム

             ウッドコック (ノイマン)   ミュラー

             奥寺康彦(28才)     リトバルスキー

             シュスター          クルマン

 ツィマーマン    プレスティン         シュトラック      コノプカ
                   
                      シューマッハ   

【解説】      このシーズンのケルンは、凄いメンバーだと思いますね。
          奥寺氏は「リーグ戦34試合中、28試合に先発しました」
          完全にレギュラーと呼んで良い成績だったと思います。
          リーグ戦は5位でしたが、メンバーが凄いせいか得点率は「2.2」で、
          欧州5大リーグで、得点率5位でした(全94チーム中、5位)


[ブレーメン、1981−82] (得点率、欧州11位、1.8)、(国内リーグ戦、5位)


  4−3−1−2 システム


           コステデ                   ラインダース
            
                       マイヤー
                     
            ブラーツ                 カンプ
                                      
                            メルマン
 
   オッテン    グルーバー              フィヒテル        奥寺康彦(30才)
 
                      ブルデンスキー

 【解説】  奥寺氏は、前年、2部ヘルタ・ベルリンで、ボランチ、右サイドバックを務め、
        守備のポジションも務める選手となった。
        そして、新チーム、ブレーメン1年目では、右サイドバックを務めた。


[ ブレーメン、1982−83 ] (得点率、欧州4位、2.2)、(リーグ戦、順位2位)

3−5−2 システムの場合。

              フェラー                  ラインダース
                        マイヤー  

  オッテン        奥寺康彦(31才)      メルマン       ジドゥカ (シャーフ)

            グルーバー    フィヒテル      シグマン

                       ブルデンスキー


4ー4―2 システムの場合。

                フェラー               ラインダース

                       マイヤー
            ブラーツ                   カンプ
              
                      メルマン(グルーバー)

  奥寺康彦(31才)  フィヒテル            シグマン      オッテン
    
                      ブルデンスキー


[ブレーメン、1983−84] (得点率、欧州3位、2.3)(リーグ戦、順位5位)


4−3−2−1システム

            フェラー                    ラインダース

                         マイヤー

           奥寺康彦(32才)                ジドゥカ

                         メルマン

  オッテン      グルーバー                ペッツァイ      シャーフ

                       ブルデンスキー

 【解説】   この年から、奥寺氏は、完全に左サイドハーフに戻って来たなと思います。

「奥寺康彦、歴史 5」 へ進む。→ https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/67116770.html

「奥寺康彦、ヒストリー 3」 に戻る場合→ https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/67113280.html

「奥寺康彦、ヒストリー 1」に戻る場合→ https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/66700964.html

「奥寺康彦、ヒストリー 2」に戻る場合→ https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/67093775.html


「名選手、名鑑」です。

「10代で得点王になった天才選手」。 久保建英より凄い10代、まとめ。


ブラジル代表、歴代10番  https://matome.naver.jp/odai/2156001524382112001

2014年ブラジルW杯、金儲けの為に試合開始を午後10時(現地)にした、金の亡者、日本人。

サッカー史上、最もゴールを決めた男、ヨーゼフ・ビカン

小クラブを優勝させる天才、 オットー・レーハーゲル監督。 

スペイン・リーグ史上最高FW、ド下手メッシより遙かに得点能力が高い男、  イシドロ・ランガラ

世界最高ドリブラーの歴史。 https://matome.naver.jp/odai/2155633540866813001

世界最高ボランチの歴史。  https://matome.naver.jp/odai/2155620829332449401

世界最高センターバックの歴史。 https://matome.naver.jp/odai/2155600480470601501

世界最高10番の歴史。 https://matome.naver.jp/odai/2155607814393565601

世界最高FWの歴史 (簡略版)。https://matome.naver.jp/odai/2155312617766955901

世界最強クラブ・チームの歴史。https://matome.naver.jp/odai/2155435270953889601

2011年、アジアカップでのキ・ソンヨンの猿パフォーマンスの解説。

日本人が勝手に作った「JFA基準」の酷さを解説。
 
リーベルプレートというチームを「リバープレート」と嘘の名前で放送する日本テレビという馬鹿会社の解説。https://matome.naver.jp/odai/2146055300976480701

テレビ朝日と日本人の異常性が分かる解説。https://matome.naver.jp/odai/2148594966089833601

アジア史上最高選手、チャ・ボングンの経歴。https://matome.naver.jp/odai/2152042081873689301


【 レアル・マドリード、バルセロナより、攻撃力のあるチームに居た、奥寺康彦 】

奥寺は欧州時代9年中3年は、欧州一の攻撃力を持つチームに居た。
その攻撃陣の1人だった。 凄過ぎる話だ
(ケルン1978年、ブレーメン1985、1986年)。  
ケルン時代は、右ウィング。 ブレーメン時代は、左サイドハーフで活躍した。
奥寺の時代、外国人枠はたったの2人だった。
だからかなり凄い。
日本は奥寺以降、欧州の最上レベルで通用するMFを輩出していない。
長いですけど、読んで下さい。下の方に凄いデータがあります。


【日本人が知らない、外国人2枠時代の厳しさ & えっ、こんな小クラブに、こんな名選手が!?】

「久保建英がレアル・マドリードでデビューした」 と日本人は騒いでいるが、
現在、外国人枠が2人もしくは3人だったら、久保はレアル・マドリードに入団できないと思う。
1980年代まで、欧州は外国人枠が少なかった為、
南米では代表主力クラスのみに、「助っ人」契約のチャンスがあった。
(代表主力じゃなくても助っ人やってた選手も居たが、大体、代表主力クラスばかりだった)。
故に、当時は、助っ人のレベルが非常に高かった。
奥寺は、そんな外国人枠2人の時代に、9年も欧州で活躍した。

1980年代、欧州5大リーグの外国人枠は、2〜3人だった。
イタリア、ドイツは外国人枠が2人 [注: イタリアは1988年、ドイツは1992年から3人になった]
イングランド、スペイン、フランスは外国人枠は3人だった。
(現在、EU圏内の欧州選手は、外国人扱いされないが、昔はそんな優遇措置はなかった。
2〜3人枠を、全ての外国人で争っていた
(注: イタリアは、1965年に外国人助っ人を禁止した。
当時、居た助っ人は、その後も在籍できたが、新規外国人の入団を禁止した。
その後、1980年から再び解禁し、各チーム2人まで入団を認めた。                    つまり、イタリアは1965〜80年迄、15年間、「外国人助っ人禁止政策」 を採っていた)。

奥寺は、1985年、1986年は、2年連続で、「欧州5大リーグで高齢助っ人3位」 だった。
「ブンデスリーガでは、最高齢外国人助っ人」 だった。
久保は、時代でかなり得をしていると思う。
奥寺の時代ならば、久保は中堅・下位チームの助っ人か、
もしくは欧州でプレイできず、日本で現役を終えるタイプだと思う。
1980年代と同様に、スペインが外国人枠が3人ならば、
レアル・マドリードは
FW、カリム・ベンゼマ(元フランス代表)、MF、ルカ・モドリッチ(クロアチア代表)、
MF、トニー・クロース(ドイツ代表)辺りが外国人助っ人で、
久保は、入団拒否される選手となるだろう。
恐らく、奥寺の時代ならば、レアルではなく、テネリフェとか、ラス・パルマス辺りに入団できれば
「人生幸い」というレベルだと思う。彼は、生まれた時代がたまたま外国人枠が多くて得している。
いや、1980年代なら、久保はテネリフェ、ラス・パルマス辺りに入団するのも無理だろう。
1980年頃、ラス・パルマスには、アルゼンチン代表MF、ミゲル・ブリンディシが居た。
彼は、アルゼンチン・リーグ史上、最も得点数の多いMF(194得点)で、
2015年には、アルゼンチン・サッカー協会から「アルゼンチン代表、歴代ベスト11」に
選ばれた。それ程の名手だ(彼は、ディエゴ・マラドーナ、ガブリエル・バティストゥータ、
リオネル・メッシ、マリオ・ケンペスらと共にアルゼンチン代表、歴代ベスト11に選ばれた)。
しかし、それ程の名手でも外国人3枠時代だと、助っ人枠が少な過ぎて、
レアル・マドリード、バルセロナ等には入団できず、小クラブ、ラス・パルマスに入団していたのだ。
1970年代、「ウルグアイ・リーグで、6年連続得点王(1973−78)」 に輝いた、
ウルグアイ代表エースFW、フェルナンド・モレナは、6年連続得点王の後、
1979年、スペイン・マドリードの小クラブ、ラーヨ・バジェカーノに入団した。
これも、外国人3枠だった為に起きた訳である。
現代なら彼は、同じマドリードでも、レアル・マドリードか、                            もしくはアトレチコ・マドリードに入団しているだろう。
ちなみに1979年頃、レアル・マドリードの外国人助っ人は
エンリケ・ウォルフ(アルゼンチン代表、右サイドバック)、ウリ・シュティーリケ(ドイツ代表、CB)等。
アトレチコ・マドリードの外国人助っ人は、
レイビーニャ(ブラジル代表、FW)、ルイス・ぺレイラ(ブラジル代表、CB)
ルーベン・アジャラ(アルゼンチン代表、FW) 等。
バルセロナの外国人助っ人は
ホベルト・ジナミッチ(ブラジル代表、エースFW)、
アラン・シモンセン(デンマーク代表、FW。 1977年、バロンドール[欧州最優秀選手賞] 受賞者)
等だった。
つまり、久保は、1970〜1980年代のように外国人3枠ならレアル・マドリード、バルセロナに
入団するのは無理で、そして奥寺が活躍した当時の外国人2枠だったケルン等にも
決して入団できないだろう。
それ程に現代は、外国人枠が増えて、助っ人選手にとって強豪クラブ入団のチャンスが
大きく広がっているのだ。
中田英寿も奥寺の時代と同じ外国人2枠ならば、セリエAで優勝していない。
ローマは、FW、ガブエリエル・バティストゥータ(アルゼンチン代表)、
       DF、カフー(ブラジル代表)辺りが外国人助っ人で、入団拒否される。
そして、中堅・下位チームに所属するのも厳しかっただろう。
外国人2枠時代は、ビッグ・クラブに入団できなかった外国人助っ人が小クラブへ流れて来る為、
中堅・下位クラブでも入団競争はとても厳しい。
1980年代、奥寺の時代のセリエAは、経済力が一番強かったので、
中堅・下位チームには、
MF、ディエゴ・マラドーナ(ナポリ)、MF、ジーコ(ウディネーゼ)、
DF、ダニエル・パサレラ(フィオレンティーナ)、
FW、ペレ―ベン・エルケア(ベローナ)
[奥寺と入れ替わりでケルンを退団した。その後、ベローナに入団し、
バロンドール(欧州最優秀選手賞)で、2位(1984年) と3位(1985年) になった]

などの大スター選手が居た程である。

故に、1990年代のセリエAが、1980年代から引き続き、外国人2枠だったら、
中田は中堅・下位チームでも所属できなかっただろう。彼は日本でキャリアを終えていた。
つまり、中田英寿が欧州に居た時代より、
奥寺の時代の方が遥かに外国人助っ人の平均レベルは高かった為、

欧州で助っ人として活躍するチャンスを得るのは難しかった。

また助っ人で契約できても、2枠の為、
助っ人同士の競争がし烈で、長く活躍し、欧州に残るのは難しかったという訳です。
そんな中、奥寺は生き残り、34才まで活躍した。 「ブンデスリーガで最高齢助っ人」 になった。
1980年代のブンデスリーガは、
セリエAより「ビッグ・ネームの外国人助っ人」 は少なかったとは言え、
助っ人が長く活躍するのは難しい時代だった事には変わりはない。
奥寺が34才まで通用したのは、凄い話である。
(1970年代のブンデスリーガでも、W杯1974で、アルゼンチン代表の司令塔を務めた
MF、カルロス・バビントン(25才)が、
ブンデスリーガ2部のバッテンシャイトという小クラブに居た(1974〜78年在籍)。
W杯1974で活躍し、大会後、欧州移籍した訳である。 しかも2部に居た。
彼は、結局、1部昇格できず、アルゼンチンに帰国した。[彼の予定では、すぐ1部昇格だったろう]
外国人2枠時代は、ドイツでも一流選手が、あり得ないような小クラブに在籍していたのだ。            [W杯1978は、アルゼンチンにとって地元開催の大会だった。
アルゼンチンは優勝する為、代表選手の連係を万全にしたいと考え、
招集するのが大変な海外組をFWマリオ・ケンペス (スペイン、バレンシア所属)以外、全員外し
国内選手のみでチームを編成する方針にした。
ケンペスは、1977、78年と2年連続でスペイン・リーグ得点王に輝いていた。
恐らく、セサール・メノッティ監督は全員、国内組にしたかったが、ケンペスの成績が凄過ぎたので、
例外的に彼だけ代表チームに呼んだのだろう。
この方針の為、当時、同じく海外組だったバビントンは、
「ケンペス程は凄くない選手だ」 という評価を下されたのか、代表から外され、
代表出場数も13試合と少ない成績でサッカー人生を終えた。
しかし、実力的には、当時、彼は、アルゼンチンで1、2を争うMFだった。
上述のミゲル・ブリンディシとバビントンのどちらかがアルゼンチンでナンバー・ワンMFだったと思う。
ちなみに、W杯1978当時、ミゲル・ブリンディシもスペイン・ラスパルマスに居た為、
同じく代表から外された。
また上述の、レアル・マドリードに所属していた右サイドバック、エンリケ・ウォルフ、
アトレチコ・マドリードに居た、FW、ルーベン・アジャラも海外組という事で代表から外された。
彼等は、当時、世界で一流レベルだった。
アルゼンチン代表は、バビントン、ブリンディシという極めて優秀なMF2人、
更にレアル・マドリードに居た、エンリケ・ウォルフらを代表に呼ばずに、
W杯優勝してしまったのだから凄い(注: 当時、他にもまだ海外組の選手は居た)。
「代表に呼ばない」 という判断がはっきり言って、「クレイジー、常軌を逸した決定」 にすら思える。
アルゼンチン人というのは、不可解な事をするなと思う。
バビントンの話に戻るが、
彼は、アルゼンチン・リーグで通算126得点も決めている。
バビントンは欧州に4年間、居たが、あのままアルゼンチン・リーグに居たら、
ブリンディシ194得点に近いぐらいの成績は確実に残せた。
同じく得点能力が高かったが、欧州に移籍したMFで、
しかも若い年齢(21才)で母国を離れた選手に、マラドーナが居る。
故に、バビントンは、マラドーナ、ブリンディシの次ぐらい、
「アルゼンチン史上、ベスト5に入るぐらい得点能力が高いミッドフィルダーの選手」 だと思う。
それ程の名選手でも、外国人2枠時代は、バッテンシャイトという小クラブに在籍していたのだ)


【奥寺のブレーメン時代の本職は、サイドバックではなく、サイドハーフである】
(27才までの本職はウィングである)

 「奥寺康彦、ウィキペディア」に、「奥寺はブレーメンでサイドバックになった」
と20年近く、書いてある。 これは嘘ではないが不正確である。
奥寺氏は、ブレーメン入団、最初の2年ぐらいまではサイドバックで起用される場合が多かったが、
段々とSB出場が減って行き、再びMFとなった。
つまり、「1年目だけ右サイドバックで、その後4年は、(主に)左サイドハーフで、攻撃の選手」
 だった。
日本人とは、それ程に奥寺について知らない。
しかし、日本人はウィキペディアで知識を固めるので、
日本人の100%近くは、ブレーメン時代、奥寺はDFだったと思っている。
「日本代表、歴代ベスト11」などの議論があると皆、決まって奥寺を「サイドバック」 に置いている。
彼らはウィキペディアを読み、「ウソを叩き込まれた可哀想なサッカー・ファン」 である。
奥寺の本職はサイドバックではない。
そもそもブレーメンには、
左SB、ジョニー・オッテン。右SB、トーマス・シャーフ。 という2人が居た。
彼らは、ブレーメンのレジェンドである。
同クラブでの試合出場数は、
オッテンが349試合(1979年から12年在籍)。シャーフが281試合(1978年から17年在籍)である。
奥寺と同時代に、これ程、長年在籍し、活躍した名サイドバックが居たが
日本人は、「奥寺は、ブレーメンでサイドバックだった」 と話すのである。
本当におかしな民族である。
奥寺は、ブレーメン入団2年目以降でもサイドバック出場が多くなったシーズンはあるが、
「ブレーメンで奥寺はサイドバックが本職」 というのは明らかに間違い。
本職は左サイドハーフだった。
またウィキペディアで、「ブレーメンは3−5−2システムのチームだ」 と説明されているのも
不正確だ。 
奥寺在籍時、ブレーメンは基本的に4バックのチームだった。
4−3−1−2システムだった。
しかし、3−5−2システムで多く試合をしたシーズンもあった。
(1982−83、1983−84シーズンなど)
故に、
奥寺氏が居たブレーメンを「3−5−2システムのチーム」 とだけ紹介し、説明するのは、おかしい。     「不正確」 と言って良いレベルだろう。
恐らく書いた人間は、試合をろくに見ていない。

奥寺康彦は欧州で戦った日本人の中で、最も攻撃力のあるチームに居た選手である。

奥寺は1978年、ケルンでリーグ優勝した(1977−78シーズン優勝)。
その時、チームはリーグ最多得点、86得点(34試合)で優勝した。
このチームの得点率は欧州最高だった(1試合当たり得点率2.5。ボルシアMG と 同率1位)。
(欧州5大リーグ全チーム[94チーム]中、最高)
他国の1位との比較は、以下だ。

1978年。
ケルンボルシアMG (2.5)。
レアル・マドリード(2.3)、モナコ(2.1)、 エバートン(1.8)、 ビチェンツァ(1.5)より上。
ちなみに、この年、バルセロは(1.4)だった。

そして奥寺、ブレーメン在籍最後の2年間(1985年、1986年)、チームは「得点率、欧州1位」だった。
1984ー85シーズンは、87得点(34試合)を挙げ、得点率は2.6
1985−86シーズンは、83得点(34試合)を挙げ、得点率は2.44


ブレーメンは「1984-85、1985-86年シーズン、2年連続でブンデスリーガ最多得点チーム」で
「2年連続でリーグ戦1試合当たりの得点率が欧州1位」 だった。

(欧州5大リーグ全チーム[94チーム]中、最高)
だから奥寺は
欧州挑戦9年中3年。つまり、3分の1は欧州で最も攻撃力があるチームでシーズンを過ごした
凄過ぎる話だ。

ブレーメン最後の2年間の具体的な成績は以下だ。
1985年。
ブレーメン(2.6)。
バイエルン(2.3)、エバートン(2.1)、バルセロナ(2.0)、ボルドー(1.8)、ユベントス、レアル・マドリード(1.6)より上。

(1985年のスペインの「UEFAリーグ・ランキング」、欧州8位ですよ。本当、低レベルです。

レアルの得点率は1.6で、ブレーメンが遥かに上です)


1986年。(注: ブレーメンは、レアル・マドリードと並び、欧州1位だった)
ブレーメン、レアル・マドリード(2.44)。
バイエルン(2.4)、リバプール(2.1)、パリSG(1.7)、 ローマ(1.7)より上
ちなみに、バルセロナは(1.8)だった。

1985-86シーズン、ブレーメンは、本来ならば前年同様、「断トツで得点率、欧州1位」 になれた。
エースFW、ルディー・フェラー故障という問題が起き、単独1位になれなかった。
1985年11月23日、エースFW、ルディー・フェラーは、リーグ前半戦の最後から2試合目、
「第16節、敵地バイエルン戦(優勝争いの最大のライバル)」 で
敵CB、クラウス・アウゲンターラーからファウルを受け、前半28分で負傷退場した。
(ちなみに、試合は、ブレーメンが1−3で敗れた)。
フェラーの怪我は重く、彼はシーズン後半はほぼ全て欠場した。
彼は、ファウルにより、内転筋を引き裂き、この後、2回も手術した。
フェラーは、16試合連続で欠場し、
シーズン残り2試合となった優勝のかかった1986年4月22日、第33節(再び、バイエルン戦)で、復帰した。
つまり、この年のブレーメンは、チームのエースを欠いたにも関わらず、
「得点率、欧州1位」 となったのだ。
いかに、この頃のブレーメンが凄かったかが分かる
奥寺は、この年、リーグ優勝を逃したが、フェラーがライバルの「バイエルン・ミュンヘン」 から
ファウルにより、潰されてなかったら、恐らくリーグ優勝できただろう。
本当に残念である。
日本のマスコミは、「奥寺がブレーメン最後の年は、優勝まであと1歩だった」 と、
それはよく伝えるが、
「エース・ストライカーのルディー・フェラーがライバル・チーム(バイエルン)に壊された」、
「ルディー・フェラーが健在ならば、恐らく100%優勝していた」
という話は、決して伝えないので、本当に不思議で仕方ない。
とにかく、この時代のブレーメンにとって、レアル・マドリードの攻撃力、得点能力なんて
格上でも何でもなく、同チームは、それを軽く上回るだけの破壊力を有していたという事だ。

余談だが、ルディー・フェラーはシーズン終了後、W杯1986に出場した。
ドイツは準優勝した。
フェラーは、ドイツ代表でもエースFWだった。
しかし、怪我明けでしかも長期離脱をしていた為、本調子でなく、
グループ・リーグでは先発していたが、大会途中から控え選手になった。
またもう一人のエースFW、カール・ハインツ・ルンメニゲは怪我を抱え、無理をして大会に参加し、
通常からは遠い出来だった。
フェラーは3得点、ルンメニゲはたった1得点に終わった。
エース2人が怪我の影響で不調だったが、それでもドイツはW杯で準優勝してしまった。凄い。
(決勝戦は、「ドイツ 対 アルゼンチン」で、ドイツは2−3で敗れました)。
しかし、もし、フェラーとルンメニゲが怪我してなければ、
ディエゴ・マラドーナの居たアルゼンチンは、優勝できたのだろうか?
と思ってしまった。
「『マラドーナ伝説』  はもしかして生まれてなかった可能性が非常に高かったのではないか?」
と思った。

(1980年代は、イングランド1部リーグは年間42試合で、ブンデスリーガは34試合でした。
イングランドは試合数が8試合も多かった。
しかし、1985年は試合数が少ないにも関わらず、「得点数」、「得点率」 共に
ブレーメンが欧州1位でした。
翌1986年は得点数はリバプールが欧州1位でしたが、
得点率はブレーメンが上で、レアルと同率で1位でした)。

イメージ 2

【写真解説】 1985年11月23日、「ブンデスリーガ、第16節、バイエルン 対 ブレーメン戦」の写真。
中央、ルディー・フェラー(ブレーメンFW)。 一番左、クラウス・アウゲンターラー(バイエルンDF、ドイツ代表)。
前半28分、アウゲンターラーが、ルディー・フェラーにファウルをした瞬間の場面。
このファウルにより、フェラーは内転筋を裂き、負傷退場した。
フェラーは、この後、2回手術し、5カ月間、戦列から離脱した。
ブレーメンは、このシーズン、エース・ストライカー、フェラーを失ったにも関わらず、
「得点率、欧州1位」 を達成した。その結果、「2年連続、得点率、欧州1位」 を達成した。

ブレーメンの攻撃力の高さは、ルディー・フェラーの存在が理由である。
現在、バルセロナだのメッシだのと攻撃力をもてはやしているが、
1980年代中頃、欧州で一番、攻撃力のあったブレーメンのエース、フェラーに対する、
日本人の関心の低さは何なんだ? あと奥寺氏が一緒に4年も活動したが、なんでこんなに2人に関心が
ないのか、疑問でしかない。 久保建英がレアル・マドリードに入団し、欧州最高の攻撃力チームで、
アシストをしたって、そんな事は、40年近く前に、奥寺氏が既にやって済ましていた事である。
日本人は、理解力がゼロなんだろう。

1980年代中頃、ブンデス・リーガは現在より強豪リーグだった。
その中で、ブレーメンは最も攻撃力が高く、「攻撃の成績」は欧州最高だった。
 ドイツは1984年まで欧州1位リーグで、強豪チームは強く、スペインより上だった
(ドイツは欧州のカップ戦で最も好成績を残し、欧州リーグ・ランキングは
1976〜1984年までずっと1位だった。1985年は3位、1986年は2位でした。
スペイン・リーグのリーグ・ランキングは1985年はなんと欧州8位、1986年は5位でした。
奥寺さんの居たドイツより遥かに低レベル・リーグでした)。
当時、ブンデスリーガは、ドイツ人選手のレベルが高かった為、攻撃力は他国を上回っていた。
現在、攻撃力では、日本人はスペインが一番でレアル・マドリード、バルセロナが
頭に浮かぶだろうが、1970〜1980年代は違った。


日本人は、久保建英がレアル・マドリードに入団したと騒いでいるが、
1980年代に、既に、日本人・奥寺康彦は、レアル・マドリード、バルセロナを上回る
「欧州一の攻撃力を持っていた、魅力的なチームの攻撃陣の1人」 だった。
しかし、日本人はとてもアホな為、それを理解できない。
こんなアホな民族が世界に他に居るのだろうか? 

イメージ 1

【写真解説】  写真は、ブレーメン時代の奥寺康彦。
         奥寺は、ブレーメン時代、左サイドハーフで活躍した。
         欧州最高の攻撃陣の1人だった。
         彼は、左サイドからクロスを上げ、ブレーメンの得点増に貢献した。
         奥寺の居たブレーメンは、
         「1985年、1986年と2年続けて、欧州最高の攻撃成績」 だった。
         (欧州5大リーグ、全94チーム中1位)
         しかし、何十年経っても、それが理解されず、日本人はそれを知らない。
         マスコミは決して放送しない。なぜだろう? 不思議で仕方ない。
         サッカー専門誌ですら、それを日本人に伝えない。
         本当に不思議である。
         中田英寿より奥寺はアシストしていたと思うが、
         それも伝えない。本当に変な国である。


【奥寺康彦、現役時代、「大量得点試合」 を数多く経験した】


ブレーメンが1位だった2年間は、
 1984-85シーズン、18勝(34試合)で、5勝が5得点以上。
 1985-86シーズン、20勝(34試合)で、5勝が5得点以上。
で、『5点以上の大量得点勝利』 が全勝利の4分の1以上だ。 凄い破壊力だ。

という訳で日本人には意外な事実だろうが、奥寺の在籍したチームは、
今まで、欧州挑戦したどの日本人選手が居たチームよりもより得点率は高く、遙かに大量得点勝利が多い。
私独自の定義で 「5得点以上を大量得点勝利」 とすると以下が、
奥寺が出場した大量得点試合である。総計26試合もある。
以下の全試合に奥寺康彦は出場した。

【ケルン 1977-78】 (3試合)〔注:この年、ケルンは 「計6試合の5得点以上勝利の試合」 があった。
奥寺が出なかった試合で他に3試合、5点以上得点した〕

25d.   6−1  ハンブルガー
29d.   5−2  デュイスブルク
34d.   5−0  ザンクトパウリ


【ケルン 1978-79】 (2試合)
15d.   5−2  ボーフム 
24d.   5−0  ドルトムント
 

【ケルン 1979-80】 (3試合)
05d.   8−0  ブラウンシュバイク
20d.   6−3  デュッセルドルフ
33d.   5−0   ブレーメン


【ブレーメン 1981-82】 (1試合)

33d. ブレーメン 5−1 デュイスブルク


【ブレーメン 1982-83】 (3試合)
28d.  6−0  ブラウンシュバイク
29d.  5−2  デュッセルドルフ
32d.  5−1  ビーレフェルト


【ブレーメン  1983-84】 (4試合)
02d.  5−2  ボーフム
15d.  8−1  オッフェンバッハ
18d.  5−0  マンハイム
28d.  5−2  ユルディンゲン

  
【ブレーメン 1984-85】 (5試合)
03d.  6−2   ケルン
09d.  5−2   ハンブルガー
13d.  7−1   カールスルーエ
17d.  6−0   ドルトムント
31d.  6−1    カイザースラウテルン 


【ブレーメン 1985-86】 (5試合)
02d.  8−2  ハノーバー
14d.  6−1  ユルディンゲン
17d.  6−0  シュツットガルト
24d.  7−3  デュッセルドルフ
30d.  5−0  レバークーゼン

以上で、終わりとする。
日本人と言うのは、目に見えるデータを具体的に示さないと、
本当に理解できないアホ民族だと思うので、私はここまで噛み砕き、詳細な試合データを提示した。
日本人の中で、奥寺に対する考えが変わった人が居るならば、幸いである。
1980年代中頃、現在のバルセロナ、レアル・マドリードのように大量得点試合を数多くし、
勝利を挙げていたのが、ブレーメンである。その攻撃陣の1人が、奥寺康彦である。

おまけとして、「奥寺の在籍チーム、その他シーズン得点率」 を紹介する。
更に、その年の「欧州最高得点率チーム成績」 を一緒に紹介する。

      [奥寺所属チーム]                      [ その年の最高得点率チーム]
1978年 ケルン   (2.5): 欧州1位
1979年 ケルン   (1.6): 欧州17位      ハンブルガー (2.3)
1980年 ケルン   (2.1): 欧州5位        ハンブルガー  (2.5) 2位はバイエルン(2.47)

1981年 ヘルタ [2部] (2.9): 欧州1位(注:欧州の2部リーグ中、1位)。
                     「ブンデス2部史上最多得点、123得点(42試合)」を記録。
                     40年近く経つが、未だに破られていない(2019年現在)。
                     奥寺、2部でも攻撃力が凄いチームに居た。

1982年 ブレーメン(1.8): 欧州11位      ハンブルガー  (2.8)  
1983年 ブレーメン(2.2): 欧州4位         シュツットガルト(2.4)  2位はハンブルガー
                                                3位はドルトムント

1984年 ブレーメン(2.3): 欧州3位       バイエルン   (2.5) 2位はボルシアMG(2.4)
1985年  ブレーメン (2.6) : 欧州1位
1986年  ブレーメン(2.44): 欧州1位 (ちなみに、奥寺、34才)

この時代、ブンデスリーガが欧州最強リーグだったので、
「得点率、1位チーム」 は、毎年、ドイツのチームだった。
それに加え、得点率上位チームは、ほとんどドイツのチームばかりだった。
現在、「ブンデスリーガ、レベル低下時代」 が、30年ぐらい続いている為、
日本人にとって、
「ドイツ・チームがスペインやイングランドのビッグ・クラブより攻撃力が上なんて想像できない」
という想いがあるようだ。
だから、「奥寺がブンデスリーガで活躍した」 と説明されても、
日本人は、元々、
「ブンデスリーガは欧州ではスペイン、イングランドより下で、簡単だ」 という強い固定観念がある為、
何十年経っても、「当時、ブンデスリーガは一番レベルが高く、攻撃力は凄かった」、
「奥寺はそんな凄いリーグで活躍していた」  という話を、「素直に凄い」 と呑み込めないのである。
奥寺の居たチームは、得点率が欧州1位になった年以外でも、
「欧州3位、4位、5位の年がそれぞれ1回ずつ」 あった。
つまり、奥寺は、
欧州9年中6年は、『欧州5大リーグ、94チーム中、5位以内の得点率のチーム』 に居た」訳だ。
凄い。
彼ほど、攻撃力のあるチームに長く居た選手は、そういないだろう。
世界の一流選手でないと無理だ。
奥寺は、このように「高い攻撃力のあるチーム」 の「攻撃陣の1人」 として活躍していた訳だが、
日本人はなぜか奥寺をDFとばかり思い、奥寺のFW、MFとしての能力をよく分かっていない。
本当に日本人というのは、おかしな連中だなと思う。
私が幾ら、奥寺について説明しても、理解する人間はまるで居ない。
彼らとの間に、「バカの壁」 が在り、
私は頑張っているが、それを叩き壊し、理解させる事ができない。


【奥寺康彦、在籍2チームの布陣】
ケルン2冠達成チームは、CFディーター・ミュラー、ウィングが奥寺康彦とファン・グール。
MFは、10番がノイマン。ボランチがフローエとクルマン。
DF陣は右SBコノプカ、CBがゲルバー、シュトラック、左SBツィマーマン。
そしてGKがシューマッハ。
ドイツ代表は、D.ミュラー、フローエ、クルマン、シューマッハの4人。


[ ケルン 1977-78 ](2冠達成、欧州最高得点率、2.5)

                     ミュラー

    ファン・グール        ノイマン         奥寺康彦(26才)

               クルマン      フローエ

 ツィマーマン      シュトラック     ゲルバー      コノプカ

                     シューマッハ 


[ 次は、ブレーメンのフォーメーション ]

ブレーメンは、FWフェラー、ラインダース(ノイバート)。
MF10番マイヤー、右ジドゥカ、左に奥寺、ボランチがメルマン(ボタバ)。
DF陣は、右SBシャーフ、CBペッツアイ(フィヒテル)、クツォップ(グルーバー)、左SBオッテン、
GKブルデンスキー。

[ ブレーメン 1984−85 ](欧州最高得点率、2.6)

 4ー3−1−2 システム

              フェラー              ラインダース(ノイバート)
                      
                       マイヤー

        奥寺康彦(33才)                 ジドゥカ
 
                       メルマン

    オッテン    クツォプ            ペッツァイ        シャーフ    
             
                      ブルデンスキー

 
 3−5−2 システムの場合。
 
          フェラー                   ラインダース(ノイバート)
 
                       マイヤー        
 
  ヘアマン       メルマン             ジドゥカ         シャーフ
 
          奥寺康彦(33才)  ペッツァイ      オッテン    
 
                       ブルデンスキー
 

1980年代中頃、ブレーメンは、3−5−2システムで戦う際、
奥寺氏は、センターバックを務める事があった。 バイエルンとの大一番で、務めた事もあった
(1984−85シーズン、第19節など。3バックの1人を務め、4−2で大勝した)。  

奥寺氏は「監督から急に依頼され、CBを務める事が多かった。監督はいつも急に言うので困った」
と述べている。レーハーゲル監督の意図は分からないが、奥寺氏に対し、
「奥寺ならCBを頼んでも、うまくこなしてくれる」 という思いがあり、
守備センス、サッカー・センスの高さに全幅の信頼を置いていたのだろう。
こんなハイ・レベルな世界で、センターバックもやり通用していたので、
日本史上最高のセンターバックは、奥寺康彦だろう。
吉田麻耶、冨安健洋、井原正巳では、届かない世界最高峰でセンターバックをやり、
戦っていたのが、奥寺康彦である。
日本史上最高のサイドバックも、奥寺康彦だろう。
日本史上最高のサイドハーフも、勿論、奥寺康彦だろう。


奥寺康彦、歴史4へ進む。→ https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/67114111.html
               歴史5へ進む → https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/67116770.html

「奥寺、ヒストリー 2」 に戻る→ https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/67093775.html

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