JFAの記録捏造 & 極悪ウィキ執筆者Athletaの釜本デマ

代表記録捏造とウィキペディアのデマは酷過ぎる。日本人は協会幹部とAthleta(Ath02)の悪行を知り早く永久追放すべし。

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【写真解説】
ケルン2冠達成(1978年) 記念写真。中段右から2人目が奥寺康彦。その隣(右端)が2年連続リーグ得点王、ユーロ1976年大会得点王のディーター・ミュラー。中段左から2人目がMFクルマン、後段右端MFフローエ、   2人はボランチでW杯1974年優勝メンバーだった。中段左端がMFノイマン。彼は引退したオベラートに代わる 新司令塔。前列左端がベルギー代表FWロジャー・ファン・グール。GKがドイツ代表、シューマッハ(W杯1986で 大会最優秀選手、次点)。前列右端CBシュトラック。以上が主力で、
リーグ最多得点 86得点(34試合)、欧州最高得点率 2.5点(欧州5大リーグ、全94チーム中、1位)
で優勝した。
他国の得点率1位との比較は、ケルン、ボルシアMG(2.5)、レアル・マドリード(2.3)、モナコ(2.1)、   エバートン(1.8)、ビチェンツァ(1.5)。

私はウィキペディアで3回も全削除された。packingu(超馬鹿男)、プーヤンら利用者が妨害した。 奥寺のウィキペディアは信用できないと考えて下さい。話は変わりますが、ブログで「日本サッカー協会の不正」を紹介中です。http://rulli.livedoor.blog/archives/17118096.html

奥寺康彦、日本史上最高のサッカー選手日本がW杯に出る20年前、既に世界トップレベルに居た

奥寺康彦。  1952年、秋田県出身。

【所属チーム】
1970-1977 古河電工
1977-1980 ケルン (70年代後半は強豪。ドイツ代表スターが5、6人居た。ドイツはW杯1974年優勝していた)
1980-1981 ヘルタ・ベルリン
1981-1986 ブレーメン (80年代は強豪。欧州最高の攻撃力を持ち、バイエルンと2強の1つ)

奥寺康彦は欧州プロリーグに挑戦した2人目のアジア人である。
(注:一番最初は1920年代、バルセロナで大活躍したフィリンピン人、パウリーノ・アルカンタラ
しかし、彼はフィリピン生まれだが父親がスペイン人で、3才で既にバルセロナに移住し育った。アジア人初だが、中身はスペイン人だった。だから私は、実質的にアジア最初の挑戦者・成功者は奥寺であると思う)。

日本馬鹿マスコミが「アジア選手が世界に遅れていて徐々に進歩した」と語る歴史観は大間違いで嘘である。
奥寺は欧州最強リーグ1位や2位チームでずっと助っ人で、韓国人FWチャ・ボングンはその最強リーグで    外国人最多得点記録(98得点)[2001年まで12年も破られなかった]を作った。アジア人は1970年代後半に50年振りに日本と韓国の2人が欧州挑戦し簡単に大活躍した。、約10年もの長い間、活躍した。しかし、1990年代 から急激なレベル低下が始まった。中田英寿、小野伸二、中村俊輔、アリ・ダエイなど2流選手、「黄金世代」と いう大嘘・低レベル世代が登場し、1980年代の日韓2人と違い欧州最上レベルで通用しなくなった。


【奥寺の評価 & 記録

奥寺康彦は、2014年、アジア・サッカー連盟が創設した 『アジアの殿堂』 に
日本人で最初に選ばれた。 日本からは奥寺と澤穂希の2人。
また2014年、ブンデス・リーガから 『史上最高、日本人助っ人』 に選ばれた。                  

奥寺康彦は、(欧州最強リーグ時代)ブンデス・リーガで、優勝1回、2位3回。     ドイツ杯は、優勝1回、準優勝1回、ベスト4が1回、という傑出した成績だ。
(リーグ2位3回のうち、2回、勝ち点は1位だった。得失点差で2回優勝を逃した)


奥寺は欧州時代9年中、3年は欧州一の攻撃力を持つチームに居た。
その攻撃陣の1人だった。 凄過ぎる話だ
(ケルン1978年、ブレーメン1985、1986年)。  
 
奥寺が在籍した、1980年のヘルタ・ベルリンは 「123得点(42試合)」を挙げ
「ブンデス2部史上、シーズン最多得点」記録を作った(2019年現在、未だ1位)。 凄い。
(ちなみに「123得点」もしたが、ヘルタは「2部3位で、1部昇格できませんでした」。
珍しい話です。しかし、ドイツ杯では2部チームでしたが、準決勝進出し、
皆を驚かせました。昇格失敗しましたが、この年のヘルタが、優れたチームだった事は確かです)

奥寺は、優勝争いのライバル、ビッグ・クラブ、バイエルン・ミュンヘン戦、 6勝3分3敗 (リーグ戦)      大きく勝ち越した。 

UEFAリーグ・ランキングで、1976〜1984年迄、ブンデス・リーガが欧州1位だった。               (注:1985年は欧州3位、1986年は2位だった)。
この期間は奥寺康彦の居た頃と丁度、重なり、彼はそこで1位、2位強豪チームで外国人助っ人だった  
欧州は1980年代、外国人枠2人だったが、奥寺は強豪チームで長い間、活躍した(1985年、86年はドイツ最高齢助っ人だった)。中田、香川、パク・チソンらは外国人2枠なら上位チーム在籍は無理で、欧州移籍すら不可能だったろう。当時、たった2枠の為、ブラジル、アルゼンチンでは代表主力のみが欧州移籍できた。残りの代表 選手は国内に居た。だから「欧州で助っ人」だった時点で奥寺は相当 凄かった訳たが、日本人はそこを理解していない。
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【写真解説】 国内リーグとドイツ杯優勝、2冠達成(1978年)を祝う、奥寺康彦。
ケルンは14年振りのリーグ優勝だった。奥寺の活躍以来、ケルンは40年以上リーグ優勝していない(2018年 現在)。 ケルンでは未だにこの2冠優勝は歴史上、最高の出来事とされている。
この時代、2冠達成は難しくて珍しい事で今より偉業とされた。ドイツ史上、2冠達成した3つ目のチームで、  歴史的チームとされている(2冠達成は1937年のシャルケ、1969年のバイエルンに次ぎ3チーム目だった。 20世紀中ではあと1986年のバイエルンのみで僅か4チーム)。現在まで2冠達成チームはリーグ史、83年で 15チームある(2018年現在)。しかし、2000年以降の18年で11チームも生まれた。                  奥寺は、「ケルン史上最強」 と評されるチームのメンバーだった。

ヘネス・バイスバイラー監督奥寺は優勝を果たす為に、最も重要なゴールを決めてくれた。サッカー選手は    サッカー選手です。日本でもドイツでもどこでも才能は生まれるものです。奥寺は素晴らしい才能があり、    彼を使うことができて幸せです」と優勝当時、述べた。
彼は祝勝パーティーで、優勝を決める活躍をした奥寺に向かって敬礼したそうだ。
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【写真解説】 右が、ケルン史上最高の監督名将ヘネス・バイスバイラー(当時、世界屈指で、ケルンの前は バルセロナ監督を務めた)。左がボランチ、ハインツ・フローエ(W杯1974年優勝メンバー)。2冠優勝を祝う2人。

【奥寺がリーグ残り3節、3試合連続ゴールを決め、優勝をもたらす大活躍をした内容は以下である】
1977-78シーズン、第32節アウェー、カイザースラウテルン戦でケルンが1ー0でリードしていた後半37分、    右CKを得た。これをゴール前中央、奥寺がヘディングで決めた。ケルンは2-0で勝利した。
第33節ホーム、シュツットガルト戦で1対1の同点の時、後半35分、奥寺が決勝ゴールを挙げた。これでケルンは2−1で勝利した。この決勝ゴールは右サイド後方からの味方のクロスを相手CBがヘディングで跳ね返した。  そのボールをペナルティー・エリア中央、奥寺がダイレクトで左足でシュートして決めた。               この得点はケルン優勝の為に非常に大きかった。
最終節アウェー、ザンクトパウリ戦で、ケルンは5−0で勝利した。この試合、奥寺は後半15分と41分に      ヘディングで2ゴール決めた。後半15分、右CKをニアでヘディング、後半41分はクロスを左サイドで決めた    (これは2014年、「ケルン歴代ゴール第2位」 & ブンデス・リーガから、「リーグ史上最高のヘディング・ゴール」に選ばれた。当時、月間ベストゴール)。奥寺は優勝に貢献するゴールを3試合連続で決めた。
ケルンはボルシアMGと、同勝ち点でリーグ終了したが、得失点差で3点上回り優勝した。

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【写真解説】 ケルン時代、ウィングでヘルタ・ベルリンと戦う奥寺康彦。両足を使えるので両ウィングをこなす事ができた。

【私が考える奥寺康彦の凄いポイントを8つ紹介】
まず最初は、世界の一流選手になれる環境で育っていないが、それを実現した事だ。当時の日本は遅れていて、しかも奥寺は中学からサッカーを始めた。

2つ目は、奥寺は1985年、86年、2年連続で、欧州5大リーグで「高齢、外国人助っ人 3位」(ドイツ最高齢
1986年順位 1位、デリオ・オニス 38才(フランスで得点王5回)。2位、ウバルト・フィジョール 36才。名GK。  3位が奥寺康彦、34才(3月12日生)。 4位は同い年、ハリルホジッチ 5月15日生。 
5位、オズワルド・アルディレス 名MF。 8月3日生。 
奥寺は1980年代、欧州で最も長く活躍した外人助っ人の一人だった。

奥寺の凄い点3つ目は、欧州9年間でイエローカードがたった7枚 (313試合出場)。退場ゼロ。        奥寺は「ファウルせずにボール奪取できる達人」(欧州で、長谷部51枚、稲本33枚、長友29枚、内田19枚  [内田は奥寺の半分の試合数])。奥寺は「僕はボール奪うのがうまかったから。警告が少なかった」と語っている       だからレーハーゲル監督は欧州最高の選手、ルンメニゲのマークを任せた(奥寺は5勝1分1敗で圧勝)。    さすが世界超一流の守備能力、「世界のオク」だ(警告枚数の少なさはMF、DFでサッカー史上最少レベルだ)。

奥寺の凄い点4つ目は数多くのポジションを務められる事だ。 超ユーティリティー選手だ。
中田英寿、本田圭佑、香川真司は強豪クラブに移籍すると補欠だったが、奥寺はこの優れた特徴により
欧州最強リーグでも先発で活躍し続けた。この長所は他の日本選手と格の違いを示した。
奥寺はFW、MF、DF全てこなせる事ができた。更に両足が器用なので、左右両サイドのポジションでプレイするのが可能だった。奥寺はグラウンドの前から後ろ、左右まで数多くのポジションをこなせるとても珍しいタイプの選手だった。だから通用した。
ケルン時代は両ウィング、左サイドハーフ。ヘルタ・ベルリン時代はボランチと右SB。ブレーメン時代は左サイド  ハーフ、両SB、更にCB、CFで起用された試合まであった。
ブレーメン監督、名将オットー・レーハーゲルは「奥寺はどんなポジションでも起用すれば、すぐに自分のモノにしてしまう。奥寺一人で選手3人分の役割をこなしてくれるという訳だ。監督にしてみれば理想的な選手だよ」と称賛していた。レーハーゲルは対戦相手に応じて、奥寺を起用するポジションを幅広く変える事ができた。
またレーハーゲル監督は奥寺が左サイドハーフでサイドの攻撃、守備に貢献する事に加え、中盤でチームの  バランサーとしても働き、豊富な運動量で色々な役割をこなして広くプレイする特徴を「奥寺を得たら3人選手が居るのと同じ。奥寺は3人分の仕事ができる名手」とも称賛していた。
また当時、「奥寺は本当に頼りになる選手なんだ。私は今まで奥寺ほど頭脳的なハードワーカーの選手を戦力に持った事がない。チーム全員が奥寺の貢献度を高く評価している。奥寺は技術とスピードを兼ね備えた選手だが、チームの為に率先してハードワークをする選手なんだ。私はそこを一番評価している」と語っていた。
2013年のNHKの取材では「奥寺を獲得したら予想通り素晴らしい選手だった。奥寺はどこのポジションでもこなせる事ができた。奥寺は闘争心があり、怪我の恐れをもろともしないで戦うタイプで、申し分のない選手だった」と語った。
ブレーメン時代の奥寺は対人守備がとても強く、そして戦況の読みに優れた攻撃参加を得意とするMFでした。 また、奥寺はクロスのセンスがあり、ヘディングを武器にゴールを狙う CF と相性の良い選手でした。
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【写真解説】 1987-88シーズン優勝トロフィーを持つブレーメン史上最高の監督名将オットー・レーハーゲル「ブンデスリーガ最多試合、指揮記録830試合」を持つ。彼は1981年から1995年迄、14年間もブレーメン監督を務めた。奥寺は1986年、ブレーメン退団した(奥寺在籍中は、2位が3回で優勝できなかった)。           2年後、1988年、レーハーゲルは初優勝した(注:クラブ史では1964年以来、2度目)。彼は再び1992-93シーズンにリーグ優勝した。ドイツ杯では1991年、1994年に優勝。また1992年、欧州カップ・ウィナーズ・カップ優勝、初の国際タイトルをもたらした。彼はこの後、1998年にカイザースラウテルン監督で、リーグ優勝した。            その後、ギリシャ代表監督としてユーロ2004年に優勝した。

奥寺の凄い点5つ目は、最後まで欧州で一流だった事だ。
中田英寿、香川真司は欧州移籍直後に活躍して、その後は大きく下回る活躍しかできない一発屋だったが、   奥寺は衰えず34才でもブンデス2位チームで主力だった。一流と二流の違いだ。奥寺こそ真の一流選手と呼ぶべきだろう。奥寺は最後まで通用したまま、日本に帰国した。

奥寺の凄い点6つ目は、欧州チャンピオンズ・カップでアジア人初ゴール(しかも準決勝で)を決めた事だ。


奥寺の凄い点7つ目は「ブレーメンの外国人選手の試合出場(リーグ戦)、歴史上2位(当時)」159試合   を作った事だ。 毎年30試合前後、先発した(2018年現在、奥寺は9位。32年過ぎてもまだベスト10内だ)。
退団時(1986年)、これを上回るのは1970年代に活躍したデンマーク代表主将、CBペル・ロントゥベッドしかいなかった(彼は7年在籍、194試合[現在4位]。1970年代、デンマーク代表、最多出場[75試合]も作った名手)。    奥寺は契約延長オファーを拒否したが、ドイツに残れば当時「ブレーメン外国人出場記録1位」を作れた。   この件は少し残念な話だ。
奥寺は1899年創設の長い歴史を持つクラブで当時、歴代助っ人ベスト3に入る地位を築き、日本に帰国した。奥寺はケルン、ブレーメン、2つのクラブで名を残した選手だ。

奥寺の凄い点最後は、日本復帰直後1986年、古河電工(現在のジェフ千葉)の一員としてアジア・クラブ選手権(ACLの前身でアジア王者を決める大会)に参加し、日本初のアジア王者になった事だ[サウジアラビアの首都 リヤドでアル・ヒラル(サウジアラビア)、アル・タラバ(イラク)、遼寧FC(中国)と決勝リーグで対戦し3連勝した]。
奥寺はアル・ヒラル(準優勝チーム)戦に4−3で勝利した際、34才でハットトリックの大活躍をした。      アウェー・中東クラブ戦でハットトリックした日本人は未だに奥寺だけで、アジア人で決勝でハットトリックした選手は未だに奥寺だけだ。多分、日本人で決勝でハットトリックする選手は永遠に出て来ないだろう。          日本代表がアジア・カップ優勝できず、アジアで一番になれない弱い時代、日本のアジア・クラブ初王者が奥寺の大活躍によってもたらされた。奥寺は「余力のあるうちに日本サッカーに貢献したい」と言って契約延長オファーを断って日本復帰したが、その言葉通り、偉業を成し遂げた。
日本サッカーでは欧州のパイオニアも、アジアでのパイオニア(開拓者)も奥寺康彦だったという事だ。
ちなみに奥寺は日本復帰後、日本代表の最高齢得点記録も作った。35才187日(現在は2位。1位はラモス)。[ あと代表では24才の時、ムルデカ大会(アジアの国際大会)で7得点(7試合)で得点王になり、準優勝した]。

【奥寺康彦、ケルン入団の経緯】  
奥寺(25才)は世界的名将、ヘネス・バイスバイラーにしつこく勧誘されて欧州へ渡った。既に世界レベルの 能力を有していたのだ。
バイスバイラーは最強リーグ、ブンデスリーガで既に3回優勝し、ドイツ杯は2回優勝、UEFAカップでは優勝1回、準優勝1回していた。当時、世界のサッカー・ファンは誰でも知ってる名将だった。彼はボルシアMG監督時代、 W杯、ユーロで優勝したドイツ代表スターと仕事をして優勝した。ネッツァー(後に、レアルでも司令塔)、     ハインケス、フォックツ、ボンホフ等だ。その後、バイスバイラーはバルセロナ監督を1年務めた(リーグ戦2位)。その時の所属外国人は欧州史上最高の選手と評されたヨハン・クライフだった。他にヨハン・ニースケンス   (オランダ代表、W杯準優勝)らが居た。彼はそのような超一流選手とずっと仕事をして来た監督だ(バイスバイラーはスーパー・スター、クライフと揉めた為、僅か1年でバルセロナを去った)。その後、彼はケルン監督に就任した。そして就任1年目でケルンをドイツ杯優勝に導いた。
会社勤務の奥寺はこの様な経歴を持つ世界の超一流監督から電話で直々に「レギュラーで起用したい」とまで説得された末、欧州挑戦を決意した(奥寺は日本代表遠征でケルンの練習に参加した際、バイスバイラー監督に 評価され勧誘された[奥寺は驚き、足が震えたそうだ]。しかし、回答を保留し日本帰国していた)。
奥寺のケルン入団が決まった背景には当時のケルンのチーム事情も関係していた。
ケルン就任2年目、バイスバイラー監督は攻撃が駒不足の状況に陥り、選手を探していた。この年、W杯1974年優勝チームのドイツ代表司令塔でもあったヴォルフガング・オベラートがドイツ杯優勝し、有終の美を飾り引退しチームを去った。またウィングの名手、ハーネス・レア(35才)が引退間近でその後釜を探していた。       レアはケルンのクラブ最多得点記録166得点(プロリーグ化以降。現在も1位)を作った(166得点は当時リーグ史上4位、2018年現在で11位。彼は1968年、27得点で得点王、ドイツ代表ではW杯1970年で3位)。
そして、ケルンには既に外国人助っ人のデンマーク代表FW、プレーベンエルケア(後にバロンドールという欧州 最優秀選手賞で2位と3位に選ばれた世界的名選手)が居た。彼は度々、規律違反を起こしていた。それで厳格な性格のバイスバイラー監督は怒ってチーム構想外扱いにし、新外国人選手を探している状況でもあった。
そんな時、日本から訪れてケルンの練習に参加したウィングの奥寺康彦の存在がバイスバイラーの目に留まったのだ。奥寺は丁度、レアと同じウィングの選手で、外国人助っ人も探していた監督にとって適材の選手だった。この様なチーム事情が背景にあり、アジア・サッカーの歴史に残る奥寺の移籍は決まった。
開幕2カ月後に加入した奥寺は即、先発の座を掴んだ。その後、奥寺はリーグ終盤3試合連続ゴールの大活躍をし、2位ボルシアMG(ユップ・ハインケスとアラン・シモンセンが居た)を振り切り、優勝決定の立役者になった。これでバイスバイラーは自身4度目の国内リーグ優勝を達成した。
この年、ケルンはドイツ杯2連覇も達成した(奥寺は決勝で先発した)。
当時、ブンデス・リーガは欧州最強リーグだった。 故に、ケルンは世界有数の強豪チームだった。

【1970年代後半、ケルンは一流選手が揃うスター軍団】
ケルンには若きMFベルント・シュスターが現れ、1980年のバロンドールで2位となった(彼は後にバルセロナ、  レアル・マドリード、アトレチコ・マドリードのスペイン3大クラブ全てで司令塔を務めた。1980年代を代表する名手の一人だ)。19才シュスターは既に強豪ケルンで司令塔だった。他にもW杯優勝、準優勝やユーロ優勝した  名選手がゴロゴロ居た。ドイツ代表正GK、ハラルト・シューマッハ、ボランチのフローエクルマン(W杯1974年 優勝メンバー)。FWディーター・ミュラー(1976-77、1977-78年、2シーズン連続得点王)が居た。また攻撃的MFピエール・リトバルスキーが現れた。更にイングランド代表FW、トニー・ウッドコックまで加入した。        当時のケルンはスター軍団でドイツ代表選手が5、6人居た。そこで奥寺は外国人助っ人として活躍した。
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写真解説】 ケルンのボランチ、ベルント・シュスター。20才でバロンドール2位、天才MF。(ドイツ代表で既に主力だった)。ボランチのシュスターがゲームを作り、ウィングとサイドハーフを務めた奥寺は彼のパスを受けて攻撃していた。ケルンは他にもフローエ、クルマン、リトバルスキーなど世界一流MFを擁していた。

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【写真解説】 ケルンの当時最大のスター、元ドイツ代表ウィング、名手ハーネス・レア
ケルンに14年間もエースとして在籍した。リーグ史上歴代4位(当時)通算166得点の記録を残して引退した。奥寺はこの選手の後釜に期待されて入団した。奥寺はシーズン終盤に大活躍してケルンを優勝させた。     レアは2冠優勝シーズンの序盤は先発していたが、奥寺が開幕2カ月後から加入した為にレギュラーを奪われ、それ以降はずっと控えとなり先発出場がゼロになった。そしてこの年に引退した。

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【写真解説】 
ケルンのエース・ストライカー、ディーター・ミュラー。1970年代後半、2年連続リーグ得点王に輝いた。      この時代、欧州屈指のCFだった。彼はリーグ通算177得点 歴代4位で引退した(2018年現在でまだ歴代8位)。       ドイツ代表ではユーロ1976年で得点王に輝いた(ドイツは準優勝した)。W杯1978年大会では4試合2得点。   ドイツ代表で通算12試合9得点。ユーロ1976年で得点王になり得点率も高かったが代表活動期間は3年間だけで短かった。奥寺はウィングでミュラーと攻撃陣を形成し、アシストをした。

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【写真解説】 
奥寺のケルン時代のチームメイトの写真。一番左がCFディーター・ミュラー。一番右がベルギー代表ウィング、   ロジャー・ファン・グール。中央がボランチのハインツ・フローエ。フローエはドイツ代表でW杯1974年優勝、 ユーロ1976年で準優勝した。W杯1978年開催時、ベッケンバウアーは「フローエはドイツで一番優れた選手だ」と称賛した。奥寺は当時、ドイツ最高の選手とチームメイトだった。

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【写真解説】
 これはハインツ・フローエの銅像である。フローエはスタジアム前に唯一銅像が立てられる程、人気と実力のあった選手だ。写真一番左は、クラブ副会長(2018年現在)、名GKだったハラルト・シューマッハ。
余談であるがケルンではハンス・シェーファー、ハーネス・レア、ヴォルフガング・オベラート、ハインツ・フローエの4人はクラブの歴史上、最もサポーターから慕われたヒーローである。現在、シェーファーの銅像を作るべきだという声も上がっている。

奥寺はケルン加入当時について「ケルンの選手と力の差をほとんど感じなかった。彼らはテクニックやパスのうまさを持っていたけど、僕は彼らにないスピードを持っていた。彼らのパスを受けてウィングでゴール・チャンスを 作るのが自分の仕事だった。彼らとチームにおける役割が違っていて重ならなかった」と語っている。
身体能力が高かった奥寺は世界のスター軍団であったケルンのメンバーになっても他の選手とそれ程、力量の差を感じていなかった。そして自分の持ち味であるスピードがチームのスタイルに適合した。

【当時のケルンは外国人助っ人も一流】
当時、ケルンにはベルギー代表、ロジャー・ファン・グールが居た。彼は1975-76シーズンUEFAカップ準優勝したクラブ・ブルージュのFWで、ケルンが外国人選手のドイツ史上最高移籍金額で獲得した(1970年代、ケルンは財力があった)。ファン・グールは加入一年目でドイツ杯1977年優勝に貢献した。他に前述のエルケアも居たが、彼はチーム構想外状態だった為、翌1977-78年シーズン開幕2カ月後の奥寺加入に伴い、年明け1月で退団した。ケルン2冠優勝シーズンは奥寺とファン・グールが先発した。
そして2冠優勝の1年後、ケルンはこの年の欧州CCで優勝したノッティンガム・フォレストのFWイングランド代表、トニー・ウッドコックを獲得した(ドイツクラブ史上最高額の移籍金で獲得した)。この後、外国人3人で試合出場競争が起きた末、助っ人(2枠)は奥寺とウッドコックになった。ファン・グールは負けて退団した。          ウッドコックは高い移籍金に沿う活躍をし、ケルンでバロンドール15位。(ちなみに彼はケルン退団後、    アーセナルのエースFWとなり3年連続でチーム得点王になった。アーセナルではレジェンドの一人だ)。     この様にケルン時代の奥寺は、「欧州CC優勝し、イングランド代表だった一流ストライカー」と、外国人2枠を 占めて欧州で戦うという、当時のアジア人では考えられない活躍をしていた。
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【写真解説】 1980年、ケルン外国人助っ人3人の集合写真。(試合出場は2人のみ)
一番右(選手)イングランド代表FW、ウッドコック。イングランド代表42試合16得点。ケルンで130試合39得点。アーセナルで131試合56得点。中央がスイス代表主将、司令塔MF、ボッテロン。左が奥寺だ。世界の一流選手と奥寺は共闘し、そして先発出場の競争をしていた。一番右はヘダゴット監督。

2冠優勝の翌1978-79シーズン、ケルンは欧州チャンピオンス・カップに参戦した(現在の欧州CL前身で、欧州一を決める大会)。そしてケルンは準決勝まで進み、イングランドのノッティンガム・フォレストと対戦したが惜しくも敗れた。合前、この対戦は事実上の決勝戦と言われていた。
奥寺は準決勝第1戦のアウェー戦で、3−3の同点に追いつくゴールをカウンターから決めた。         イングランド代表、伝説的名GKピーター・シルトンから得点した。これはアジア人が欧州CCで決めた初ゴールだ。
ケルンは第1戦を引き分けて有利な状況で第2戦を迎えた。しかし、第2戦(ホーム)で0−1で敗戦した。
この試合に勝利したノッティンガムはこの年、優勝した(決勝戦の相手はスウェーデンのマルメで、この当時、  かなり格下と評価されていた)。奥寺は今でも「準決勝を勝てば、決勝の相手はマルメだったので欧州王者に  なれる可能性は高かった」と悔やむコメントをしている。  この年、リーグ戦は6位だった。
翌1979-80シーズン、ケルンは不調でリーグ戦5位だったが、ドイツ杯ではスター軍団の意地を見せ、再び決勝に進出した。しかし、格下のデュッセルドルフに1−2で敗れて予想外の準優勝に終わった。この試合、奥寺は後半20分から左サイド・ハーフで出場した(既に監督がヘダゴットだったので先発を外された)。

1980年、奥寺はバイスバイラー監督の後任のカール・ハインツ・ヘダゴット新監督から構想外の扱いを受けた(ヘダゴットは奥寺よりスイス代表MF、レネ・ボッテロンの先発起用を選んだ)。奥寺は昨シーズン33試合も先発出場したが、監督交代により突如、控えとなった。その為、奥寺は何より試合に出る事が大事と考え、開幕2カ月で2部のヘルタ・ベルリンへの移籍を決断した(この後、ヘダゴットは僅か20試合で解任された。ボッテロンは 奥寺に遙かに及ばない成績でドイツを去った。だから奥寺を外したのは間違いだったのだろう)。         奥寺は、ヘルタで右SBで25試合8得点の活躍で、チームは2部3位で終了した。またドイツ杯で2部チームだが準決勝進出の驚きの快進撃をした。奥寺の活躍は目を引き、翌シーズン、1部のブレーメンへ移籍した。    ブレーメンでも世界の一流選手と共に戦った。
オーストリア代表CB、ブルーノ・ペッツァイ、CBクラウス・フィヒテル(W杯1970 3位)、FWウーベ・ラインダース (W杯1982準優勝)、ドイツ代表エース・ストライカー、ルディー・フェラー(W杯1986準優勝、W杯1990優勝)、  MFノルベルト・マイヤー(ユーロ1984年、ドイツ代表10番の司令塔)、そして、ドイツ最後の年は、リーグ得点数歴代4位(213得点)の名FWマンフレート・ブルグスミュラー、名DM、ミルコ・ボタバ(ユーロ1980優勝、ブンデス試合出場数、歴代5位、546試合)と共に戦った。
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【写真解説】 1984-85シーズンのブレーメン。順位は2位だった。
主力メンバーは前列左端、奥寺康彦(33才)。その隣、FWラインダース。前列左から3番目 司令塔MFマイヤー前列左から5番目がボランチのメルマン。前列左から6番目、GKブルデンスキー。後列左から2番目(選手)FW  ノイバート。3番目CBペッツァイ、5番目CBグルバー。後列右から2番目(選手)ドイツ代表エースFW、フェラー。後列右端はレーハーゲル監督。
ブレーメンは1984-85、1985-86シーズン、2年連続リーグ最多得点で、2年連続「リーグ戦1試合の平均得点率」欧州最高(2.6点、2.4点)で、欧州最高の攻撃成績だった( 欧州5大リーグ全チーム[94チーム]中、1位)    この1985年は、87得点(34試合)で得点率2.6、バイエルン(2.3)、バルセロナ(2.0)、レアル・マドリード(1.6)、   リバプール(1.6)より上。 当時ドイツは人材豊富で、スペイン強豪クラブより攻撃力があった。
 
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【写真解説】 
左は、ドイツ代表FW、ルディー・フェラー。右が奥寺康彦。ブレーメン試合後の写真。奥寺は日本復帰1986年迄彼と4年間共に戦い、ブレーメンを強豪に変えた。フェラーは137試合97得点(1982-87年の僅か5年在籍)を 挙げ、当時、クラブ最多得点記録を作った。フェラーはブレーメン史上最高の選手だ。                奥寺は左サイドからクロスを上げ、フェラーの得点王(1982-83シーズン)に助力した。
(現在クラブ得点1位はペルー人、クラウディオ・ピサーロ、204試合104得点)
フェラーは1980年代中頃からドイツ代表エース・ストライカーとして10年以上もの長い間、活躍し90試合47得点(当時、ドイツ歴代2位)を記録した。彼は当時、ドイツ一番の人気選手だった

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【写真解説】 1980年代、ブレーメン守備の要、オーストリア史上最高CBブルーノ・ペッツァイ。身長188センチで空中戦に強い。バロンドールで11位、12位、14位になった(欧州ベスト3に入るCB)、世界選抜で先発した。  彼は存在感が大きく、チームに冷静さを与える事ができる、他と格の違う選手だった。ペッツァイと奥寺は外国人2枠を占拠した。彼はW杯1978、1982年で活躍した。またフランクフルト在籍時にUEFA杯1980年に優勝した。

【1980年代のブレーメンは強豪チーム】
フェラー、奥寺、ペッツァイらが主力で優勝争いする強豪となり、奥寺の在籍中、リーグ2位に3回もなった
しかし優勝チームとほぼ互角レベルの実力を有していた

1981-82シーズン、ブレーメンは5位だった(2部昇格1年目、いきなり5位になった)。
ドイツ杯では準々決勝でバイエルン(この大会、優勝)と戦い、延長戦までもつれた末、1−2で敗れた。     名手、パウル・ブライトナーの2得点で負けた。
この年、ブレーメンの外国人選手は奥寺一人だけだった(翌シーズンからペッツァイが加入した)。
奥寺はこのシーズン、右SBだったが、有望株SBトーマス・シャーフがデビューし、その為、ポジション変更を頼まれ、翌シーズンから左サイドハーフになった。

1982-83シーズン、ブレーメンはハンブルガーSV(同じ北ドイツ最大のライバル)と勝ち点1位で並び終了したが、     得失点差[ 8差]で負け2位に終わったハンブルガーはこの年、欧州CC優勝、国内リーグ優勝で、2冠達成 (ハンブルガーは国内2連覇も達成した)。この頃、ハンブルガーは欧州最強チームだった
この年、ブレーメンは26節で2位になり、最後までハンブルガーと争い、32節、33節、最終節と残り3節は勝ち点が全く同じ惜しくも得失点差で敗れた(ちなみに奥寺はハンブルガーと直接対決 [ 北ドイツダービー] では 通算5勝3分2敗で大きく勝ち越した)。

1983-84シーズン、ブレーメンは優勝したシュトゥットガルトに勝ち点わずか3差で、5位だった。
この年は勝ち点3差の間に上位5チームが入り終了したという歴史的混戦の優勝争いが起きた。

【1980年代中頃、ブンデスリーガはブレーメンとバイエルンの2強時代】
1984-85シーズン、ブレーメンは欧州最高得点率(2.6点)で最強の攻撃力だったが、バイエルンとの競争に敗れ、勝ち点4差、リーグ戦2位で終えた。

翌1985-86シーズン、ブレーメン(再び欧州最高得点率2.4で1位 [レアルと同率1位] )は、またもバイエルンと   熾烈なリーグ優勝争いをした。
この年、ブレーメンは第14節からずっと首位を走ったが、最終節で敗戦してバイエルンに逆転優勝された
(勝ち点は1位だったが得失点差 [ 9差]で負け、再び3年前と同じく得失点差で負け、2位で終った)。
首位のブレーメンは、シーズン終盤、第33節(残り2節)で2位バイエルンとホームで直接対決をした
この試合は0−0で進み、試合終了間際ロスタイム、ブレーメンはPKを得た。しかしこのPKをDFクツォップが外してしまい優勝を逃した。あれが決まっていれば奥寺にとって2度目のリーグ優勝であった。             次の最終節で敗戦してしまったブレーメンはバイエルンと勝ち点で並ばれて得失点差で負け、逆転優勝された    (この年、バイエルンはドイツ杯も優勝し歴史的2冠を達成した。翌シーズンは欧州CCで準優勝した)。
しかし、奥寺はブレーメン時代、バイエルンとの直接対決は、4勝3分2敗(リーグ戦)で勝ち越した
この様に奥寺は、強豪リーグで熾烈な優勝争いを毎年していた世界の一流選手だった。

奥寺はブレーメン時代、UEFAカップに4回出場したが国際大会の成績は良くなかった(昔のUEFA杯はリーグ2位〜5位チーム参加だったので今より遙かにレベルが高かった)。ベスト16が1回が最高で、2回戦で1度敗退、  1回戦で2度も敗退した。ダンディー・ユナイテッド、ライプツィヒ、オデッサ、アンデルレヒトに敗れた。ブレーメンは欧州最高の得点率で、バイエルンにも勝ち越し、ドイツで2位3回の強豪だったが国際大会では格下に足を掬われ毎年、予想外の敗退を繰り返した。私は奥寺の試合を幾つか見たが及第点で、得点機を演出していた。  チーム成績は悪かったがさすが助っ人と思う内容だった。
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【 1980年代、ドイツ2強、外国人助っ人紹介】
1980年代中頃、ブンデス2強、ブレーメンとバイエルン両チームの外国人助っ人計4人の顔触れは、ブレーメンは奥寺ペッツァイだ。
一方バイエルンはW杯1986年ベスト11 & 世界最優秀GK賞(1987年)のベルギー代表、ジャン・マリー・パフ。バロンドールで最高6位。
もう一人がデンマーク代表MF、セーレン・レアビー。バロンドール12位、13位。彼は欧州最高レベルのボランチで欧州CC1979-80シーズンで得点王の経験もあった。他の3人は凄い顔触れだが、そこに奥寺が居た凄さを  日本人は分かっていない。ドイツ2強の助っ人は世界の超一流選手だった。
ちなみに奥寺はブレーメン時代のバイエルンとの対戦成績は4勝3分2敗(リーグ戦)で勝ち越した。

そして奥寺は1985-1986年シーズン後、日本に帰国した。
代わりに入団した新外国人は、現在でもノルウェー史上最高選手と評されるCBルネ・ブラツェットだ。       彼はバロンドールで最高15位。当時ブレーメンは強豪で、助っ人レベルは高かった。奥寺はアジア人なので  当時、バロンドール選考対象ではなかったが、ケルン、ブレーメンの外国人レベルがこれ程、高いならば、長年、そこで活躍した奥寺も同様に高い。しかし、日本人は奥寺の活躍した位置が分かっているかと疑問に思わざるを得ない。

【奥寺、世界のスターと対戦】
奥寺の時代、ブンデスリーガは個人賞の面でも一番だった。
1980年前後はブンデス所属の選手がバロンドールを最も受賞した(現在と違い、ドイツ人もバロンドール受賞していた)。 ノミネート候補30人中の約3分の1がブンデス所属選手という年が数回あり、最も候補者の多いリーグでもあった。1980年前後は、ドイツ人選手のレベルが高く、一番華やかな時代だった(ブンデスリーガ通算得点 1位〜4位までは未だにこの時代の選手達だ[2018年現在])。また1970〜80年代のドイツ代表はW杯、ユーロで優勝、準優勝をよくして非常に強かった。
当時、ゲルト・ミュラー(リーグ得点王、史上最多7回)とカール・ハインツ・ルンメニゲ(リーグ得点王3回)が   バイエルンのエースで君臨していた(彼ら2人はドイツ代表でもエースで活躍した)。
奥寺はケルン時代にFWで、この2人が居たチームと対戦し、2-0で勝利しました(奥寺は得点できませんでしたが試合は勝ちました)。そしてこの年は優勝しました。
一方ブレーメン時代は監督から「ルンメニゲをマークしろ」と特別にCB出場した試合まであり、守りで戦いました(奥寺はルンメニゲに、通算5勝1分1敗で圧勝しました)。
またW杯1974年に優勝し、バロンドールも2回受賞した皇帝フランツ・ベッケンバウアーと、ハンブルガーSVとの「北ドイツ・ダービー」で対戦しました。奥寺は「ベッケンバウアーは晩年(36才)で体のキレがあまり良くなかった」と語っています。この試合は奥寺のブレーメンが3−2で勝利しました。
全盛期ではなかったといえ公式戦でベッケンバウアーに勝利した事がある日本人は奥寺だけです
またバロンドール2年連続受賞して全盛期のイングランド代表エース、ゲビン・キーガン(ハンブルガー)や、同じく受賞者のアラン・シモンセン(ボルシアMG)ともリーグ戦で対戦していました。
他にもW杯1990年で優勝し、バロンドールを受賞したロータ・マテウス(ボルシアMG、バイエルン所属)と対戦し、奥寺は通算4勝3分3敗で勝ち越した。またユルゲン・クリンスマンとの対戦も3勝1敗で勝ち越した。
奥寺はカイザースラウテルン以外の、全てのドイツ・チームに勝ち越した。これは当たり前です。
なぜなら奥寺は1位や2位チームでずっと外国人助っ人だったからです。だからドイツ代表のエース格が居た 強豪チームにも勝ち越しの成績で終わりました。この様に奥寺は欧州最強リーグで、欧州最高の選手と戦っていました。
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【写真解説】 
右がドイツ史上最高FW、ゲルト・ミュラー(当時W杯最多得点記録14点を作り、リーグ得点王史上最多7回。  バロンドール受賞1回)。左がカール・ハインツ・ルンメニゲ(得点王3回、バロンドール受賞2回)。         1970年代後半、バイエルンはドイツ史上最強FWコンビを有した。奥寺はこの2人が居たバイエルンと優勝争いをした。ちなみにミュラーはケルンが優勝した年に7回目の得点王になった。

「奥寺康彦、歴史 第2」のリンクです→ https://blogs.yahoo.co.jp/fluminense1984brasil/67093775.html 

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奥寺の良さはわかりましたが、現在のサッカーと今のサッカーを簡単に比較できるものなのかはわかりません。
ここで言うサッカーとは、トレーニングや戦術などです。
また、南米選手が多い少ないの話を上記コメントでしていましたが、それは全体の何パーセントほどなのか教えて欲しいです。 削除

2019/3/7(木) 午前 4:46 [ サッカウイイ ] 返信する

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> サッカウイイさん
現在のサッカーと昔のサッカーは簡単に比較できますよ。
日本のサッカー雑誌は、雑誌を売る為に「世の中が進歩している」、「世の中が変化している」と主張して読者を刺激させて、金稼いでいるだけですよ。それが彼らの戦略なんです。イタリア代表の
キエッリーニ、元代表のカンナバーロは、「1990年代のDFの方が
レベルが高かった」と負けを認めています。
南米選手については、あなたが自分で調べれば良いんじゃないですか?
全体の何パーセントなんて細かい部分は調べないと分かりません。
しかし、1980年代は南米から欧州に来る選手は代表主力クラスでしたよ。
W杯1982、W杯1986のブラジル、アルゼンチン選手の所属クラブを
見れば分かる事です。マラドーナ、ジーコ、ファルカン、ソクラテスなど超一流は欧州に居ましたが、残りの代表選手は、国内に居ました。外国人2枠しかないんだから、移籍しようにも空きがなかったんですよ。余程、うまくないと相手にされない時代ですよ。

2019/3/7(木) 午前 8:20 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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> 日本記録捏造とウィキ執筆者デマさん
勉強になりました。
私もサッカーファンとしてもっと学んでいけたらと思います。
返信ありがとうございました。 削除

2019/3/8(金) 午前 1:11 [ サッカーウイイ ] 返信する

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奥寺康彦の時代のサッカーはレベル高いですよ。
そもそも日本人は昔のサッカーを否定しますし、
「戦術が違う」、「時代が違う」などと妄言を吐いてますが、
奥寺の監督だったレーハーゲルは、2004年にギリシア代表監督として
ユーロ優勝しています。
レーハーゲルは1980年代前半から活躍していた監督ですが、
「時代が違う」、「戦術が違う」と言い切るなら、
なんでそんな古参の監督が優勝できるのか?
あのチームの戦術は特に目新しいモノはなかったですよ。
別にサッカーというのは、「新しい戦術」が強い訳ではないです。
「新しい戦術」しか通用しない訳でもないし、覇権を握れる訳でもないです。ハインケスのバイエルンを見れば分かる事です。ハインケスも古参の監督でしたが通用していました。彼の戦術も特に目新しモノはないです。彼が1990年代前半に指揮していたチームとスタイルは変わっていません。だから、日本人がおかしいんですよ。海外の新聞はろくに読まず、進歩ばかりを語る。サッカーはそもそもそういうスポーツではないです。「古い戦術でも勝てる競技」です。

2019/4/20(土) 午前 9:37 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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特に「ナンバー」という雑誌は本当に酷いですね。
あれ程、海外の新聞、評論家の意見で、昔のサッカーのレベルの高さを述べている部分を敢えて載せず、進歩を強調し、日本人をだまして
金を稼ぐ悪徳雑誌はないです。
恐らく、彼らは「1990年代のイタリアの守備レベルが、
現代サッカーより優れていた」というカンナバーロ、キエッリーニの意見を目にしても、絶対に載せませんね。
それをすると雑誌が売れなくなるからです。

2019/4/20(土) 午前 9:37 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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日本人は「日本のサッカー雑誌に洗脳を受けています」。
1980年代も、1990年代もサッカーのレベルは高いですよ。

【ブンデスリーガ歴代得点ランキング [2018年10月現在]】
()内は得点率。*奥寺の時代の選手

1位ゲルト・ミュラー 365点(0.85) * (奥寺の対戦相手)
2位クラウス・フィッシャー 268点(0.5)* (奥寺の対戦相手)
3位ユップ・ハインケス 220点(0.6)* (奥寺の対戦相手)
4位マンフレート・ブルグスミュラー 213点(0.48)
*:奥寺のチームメイト
5位クラウディオ・ピサーロ 192点(0.43) <現役選手>
6位レバンドフスキー 184点(0.7) <現役選手>
7位ウルフ・キルステン 182点(0.52)
8位ステファン・クンツ 179点(0.4)
9位ディーター・ミュラー 177点(0.58)
* :奥寺のチームメイト
9位クラウス・アロフス 177点(0.42)
11位ハーネス・レアー 166点(0.44)* :奥寺のチームメイト

2019/4/20(土) 午前 9:58 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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ブンデスリーガの歴代得点ランキングは、
「11位中、6人」が、奥寺の時代の選手です。
これで、なんで奥寺の時代がレベルが低いと言うんですか?
と私は思いますね。今の方がレベルが低いですよ。
今の方がタレントが出てないですよ。
ピサーロとレバンドフスキしか、居ません。
この順位表を見れば分かりますが、奥寺の時代が支配的です。
それなのに、日本では「昔はレベル低い」、
「奥寺康彦の時代の選手はレベルが低い」等、
アホな事を言っています。
彼らはこういう記録を一度も見た事がないんですよ。
よく知らないので、勝手な事を言っているんです。

2019/4/20(土) 午前 9:59 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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奥寺康彦の時代のサッカーを否定しにかかる人間は、
昔のサッカーの事情を理解していない人間がほとんどです。
昔は勝ち点が、「勝利が2」で、「引き分けが1」でした。
だから、試合によっては、「勝てなくても引き分け」で及第点、
「引き分け狙いで戦うチーム」も多かった訳です。
そういう試合は、前からガツガツ当たりに行かず、
落ち着いた試合展開で、じっくり守る事を優先します。
そういう昔の試合を見ると、今の日本人は「勝ち点3」で、
攻撃を促される時代の試合ばかり見ているので、
「昔の試合はスローだ、プレスが緩い」とか、アホな事を言う訳です。これらは全く試合の「背景」を理解していない為です。
アウェーの大事な試合(特に欧州の国際大会等)では、
敢えて「守り」に力を入れて、つまらない試合を意図的にする事も普通でした。

2019/4/20(土) 午前 10:17 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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日本人が馬鹿なのは、「奥寺康彦が海外で有名でない」と
する事です。
当時の、世界のテレビ事情を全く分かっていません。
2018年に欧州CLで「レアル・マドリード 対 リバプール」
が行われました。
それで1981年以来、同じ対戦カードとして注目されました。
それで1981年決勝進出したリバプールの選手のコメントが
イギリスの新聞で紹介されてました。
「当時、レアルの選手の名前を半分以上、知らなかった」
と述べていました。
それぐらい当時は、衛星テレビ放送が普及してないので、
外国のリーグについて当のプロ選手ですら、知識が不足していた訳です。

2019/4/21(日) 午後 7:42 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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欧州で衛星放送が普及したのは1980年代後半です。
ユーロ・スポーツなどの衛星放送が開始されました。
丁度、奥寺康彦が日本に帰国した頃から、
衛星放送が普及し出した訳です。
だから、奥寺の知名度が欧州で、「ドイツ以外で低い」というのは
仕方ない事です。
それで、「中田、香川の方が有名だ」とするのは、
「中田、香川が、衛星放送開始後の時代を生き、
欧州で他の国の人が試合を見られる時代になった」
というだけの話です。日本人の多くは、そこを理解していません。

2019/4/21(日) 午後 7:43 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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日本人が「中田がフィジカルで外国人を圧倒した」と言っていますが、奥寺康彦はヘディングが強くて、MFでゴール前に行くと、
大体、外国人にヘディングは勝っていましたよ。
多分、日本人であんなにヘディングが強くて、外国人に勝てる選手は
奥寺以外はいないと思いますね。
奥寺も自分よりかなり背の高い人には、そりゃ負けますけど。
とにかく、日本人は奥寺に関して知識不足だと思います。
奥寺はMFで、ブレーメンは4バックだったのに、
日本ではブレーメンは3−5ー2システムで、奥寺はサイド・バック
、ウィング・バックだったという大嘘がまかり通っているんですから、本当に驚きです。オッテンという左SBが居て、奥寺はその前でプレイしていました。日本人は本当にアホです。ウィキペディアにも堂々と「3−5−2」、「ウィングバック」という大ウソが20年近く書いてあります。

2019/4/21(日) 午後 10:01 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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これを見れば、奥寺康彦がいかに凄かったかが分かると思います。
当時の外国人助っ人で、長く活躍したのは超一流だらけでした。
「外国人枠が2枠」ですから、そもそも一流選手だらけだったんです。

【1985年時の、欧州5大リーグ、高齢外国人助っ人順位】
(注: 翌1986年も、顔触れは全く同じで、誰も帰国せず、
年齢だけ全員、1つ増えただけでした)

1位 デリオ・オニス(トゥーロン)
38才 フランスで得点王最多、5回

2位 フィジョール(A. マドリード)
36才 W杯1978優勝、GK

3位 奥寺康彦(ブレーメン)
34才 3月12日生

4位 ハリルホジッチ(パリSG)
34才 5月15日生。フランスで得点王2回

5位 アルディレス(トッテナム)
34才 8月3日生。 W杯1978優勝、MF。

6位 ダニエル・パサレラ(インテル)
33才 W杯1978優勝、 CB。

以降は
33才、ファルカン(ローマ)ブラジル代表、MF等。

2019/4/21(日) 午後 10:19 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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杉山茂樹というバカが、「サッカーは現在がいつもレベルが高い」
と言っているが、「ナンバー」を始め、
日本の雑誌制作している連中が、ろくに海外新聞を読まず、
海外コラムを読まないアホが仕事して、この価値観で記事を作り
売っている。
それで、日本人がその価値観を踏襲してアホを述べていると
思いますね。そのやり方で「最新の戦術」だのなんだのと書いて
不安がらせるのが一番、儲かるのでそれがこいつらには骨の髄まで
沁みついてるだけです。

2019/4/25(木) 午後 8:47 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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私はサッカーの歴史を書きました。
興味のある方は読んで下さい。
恐らく日本の雑誌以上の知識を得られるでしょう。
以下が、リンクです。
https://matome.naver.jp/odai/2155126594868561001

2019/4/25(木) 午後 10:09 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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私はサッカーの歴史を書きました。
興味のある方は読んで下さい。
恐らく日本の雑誌以上の知識を得られるでしょう。
以下が、リンクです。
https://matome.naver.jp/odai/2155607814393565601

2019/4/27(土) 午前 11:55 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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日本のマスコミが作った、「黄金世代」という酷いウソ。
これを読んで、日本人は頭をきちんとさせて下さい。
日本人のバカさは、本当に酷過ぎます。
http://rulli.livedoor.blog/archives/17231565.html

2019/4/28(日) 午後 9:41 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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このヤフー・ブログというモノが、「今年の12月で終了」という
話を聞きました。
それで、この奥寺康彦さんについて書いたモノを、
そのまま他のブログに移す事に決めました。
これが新サイトです。
この現在のページの内容に関心がある方はここが無くなっても、
引き続き、こちらのサイトで読めます。
一応リンクを貼っておきます。
http://rulli.livedoor.blog/archives/16679491.html

2019/5/4(土) 午前 3:31 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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意外と知らない?
「釜本が作った『日本代表史上最多連敗』したチームについて知ろう」。リンクです。
https://matome.naver.jp/odai/2152076255076754601

2019/5/4(土) 午後 5:14 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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フットボリスタというバカ雑誌は、「戦術が急速に進歩している」とウソを書き、雑誌を売っている。「ワールド・サッカー・ダイジェスト」等、全部そうです。彼らにとってそうでないと雑誌が売れないからです。昨日と今日で同じではなく、「急激な変化が起きている」と脅かし、洗脳しないと雑誌が売れないからです。フットボリスタを見れば分かりますが、結城康平というアホが毎回、コラムの冒頭に、
「サッカー戦術の最前線は近年急激なスピードで進化している」と
いう文句を載せてから、書いてますが、これが彼らにとって生命線なんです。読者が「サッカーの戦術なんて、そんな種類はたくさんないし、別に昔の戦術でも勝てるし、優勝もできる」と思われたらまずい訳です。

2019/6/18(火) 午後 8:34 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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(承前)日本人が「強迫的に新しい戦術なんて学習する必要はないし、新しい戦術が時代を制する訳ではない。サッカーとはそういうスポーツではない」という本質に気づかれたら困る訳です。
海外では、日本のように「最新の戦術」と連呼し、
コラムを書くようなバカは居ませんよ。歴史がありますから、新しいモノに対しても鷹揚に構えてますし、「昔の戦術でも勝てるし、強いチームは強い」というのを知っているからです。日本人は、こういう「詐欺師・ジャーナリスト」にいい加減、だまされないて欲しいですね。
こういう詐欺師バカ・ジャーナリストのせいで、
日本のサッカー・ファンは「時代」で語る人間だらけになりました。
「その選手は今の時代では通用しない」等、すぐ切り捨てる人間だらけです。
21世紀に活躍したイタリア人の名DF達が、
「1990年代の方が守備力が上だった」と話してますが、
日本の雑誌の洗脳を受け、オウムのように「現代が最も進歩している」と主張するアホ日本人達には、これは理解できない話でしょうね。

2019/6/18(火) 午後 8:39 [ 日本記録捏造とウィキ執筆者デマ ] 返信する

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