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スキピオその後−リテルノ
紀元前183年初秋。ここカンパニアの小都市リテルノ。
その郊外の一角に広壮な邸宅があった。
「ごほ、ごほ」
一人の男が背を曲げ咳き込んでいた。
「あなた、水をお飲みになって」
男は妻の持って来た水差しを口に含むと、ごくごくと飲んでいく。
「ふーっ。少し落ち着いた」
男はスキピオ・アフリカヌス。この時、五十三歳。
ここはスキピオ家の別荘。首都ローマでスキピオに対する弾劾の動きがなお窺われたため、一部の口さがない民衆はその矛先を回避するためと噂した。
だが、彼の健康は、真実、政治的圧迫にすら耐えられない状態になりつつあった。
「余も人間に過ぎぬということだな」
スキピオは苦笑した。
幼少から青年に至る頃には、まるで世界が無限に手招きしているような感覚に囚われたこともある。何でも出来る、永遠に活躍出来る、そんな錯覚に陥ったこともある。
(だが、それは違うのだ)
人が人であることを忘れ己を神と勘違いする者は、古来多くいた。それが古代オリエントの絶対君主たち、そしてギリシア都市の独裁者たち。アレクサンドロス大王もその一人に数えられよう。あいにく彼も、三十過ぎで熱にうなされ死んでしまったが。
中国統一に得意となった秦の王嬴政(えいせい)も甚だしい勘違いをしていたようだが、その彼も若くして死んでしまった。不老長寿の妙薬として水銀を服用していたらしいから、死因は水銀中毒かも知れぬ。『始皇帝』を称し、果ては『真人』と自惚れた彼も、その程度の知見しか持ち合わせていなかったということだ。
人間であるから不摂生を重ねれば病魔に冒されるし、毒性のものを服すれば速やかに死に至る。生物共通の必然。
「そうですわ。あなたは、若い折、妙に神がかっていましたけど、やはり地上にある人間の一人でございますわ」
アエミリアは笑った。
この妻は、常に夫に直言して来た。
「うむ。病というものは、そのことをしみじみ悟らせてくれる。まこと厳しい教師だ」
だが、このスキピオは終生思い上がることはなかったといえよう。
この人物は独裁権力を思うことはなかった。後世のローマの英雄たちの常套手段となった独裁官(ディクタトル)に就任することも思わなかった。望めば、東方で王国を築くことも出来たであろう。だが、帝王へ登ることを夢想だにしなかった。
スキピオは、ローマ第一の市民、そのことに満足した。この無欲・自制こそ、彼が、世界史の主人公として活躍出来た所以であろうと思う。
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