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パシオン親子の葛藤
スキピオたちを見送ると、ティモテオスは、政府の財務官の許に赴いた。
遠征には莫大な資金が必要となる。その資金を国庫から出して貰わなければならない。
財務官は、ティモテオスの顔を見ると、申し訳なさそうに恐縮して出迎えた。
「これはこれはティモテオス閣下。大変申し上げにくいことなのですが…」
「いかがいたしたのだ?」
「はい。連年の戦続きのため、国庫に遠征費用に充てる資金がありませぬ」
「な、なんだと!民会でケルキュラ攻めが正式に承認されておるのだぞ!」
彼は愕然とした。
既に、テバイに対して出兵を約束しているのである。金がないから出兵できぬなどといえば、海上同盟の盟主アテネは天下のもの笑いになろう。
「申し訳ございませぬ。何分、ここ最近、神殿の補修など出費がかさみましたもので…」
「むむむ…」
ティモテオスは頭を抱えた。
戦費は市民に対する臨時の課税などでまかなわれる。しかし、今回の民会決議では、課税決議は付されていない。それは、今回の遠征が、同盟国テバイの危機を助けることに主眼があるためであった。
なのに、俄かに課税すれば市民の反発を買うのは必定。ケルキュラ遠征自体が頓挫してしまうであろう。
ティモテオスは、悩んだ挙句、ピレウスに向かった。
ピレウスの港。ここには、貿易商人や両替商が軒を連ねていた。
とりわけ、賑わっていたのはパシオンの銀行であった。彼の事業は拡大し、地中海の名だたる商人や王族の預金を受付け、まさしく巨大銀行になっていた。
「なに、ティモテオス殿がお見えになられたと!」
パシオンは由々しき来客に驚いた。
「はい」
取次に来た番頭のキットスも青くなっていた。
「粗相のないよう丁重に御案内いたせ。ええっと、最高級のぶどう酒をお出ししてな」
「かしこまりました」
パシオンは衣服を替えながら、あれこれ考えていた。
(これは千載一遇の好機が来たのやもしれんぞ)
彼は十分すぎるほどの資産を蓄えていた。その彼の願いは唯一つ。アテネ市民権を得ることであった。
彼は、ざまざまな夢を脳裏に描きながら応接間に赴いた。
「これはティモテオス閣下。ようこそいらっしゃました」
「おお、これはパシオン殿。お忙しいところ相すまぬ」
「なんの。閣下の御来光を得ましたこと、我が家の名誉にございます。喜びに堪えませぬ。して、本日お越しになられたのは…」
「実はだな…」
ティモテオスは、政府の国庫に金がないことを打ち明け、そのため遠征費用を用立ててもらいたいと率直に要請した。
「して、いかほど用立てれば?」
「十タラントンだ」
今日で言えば数百億円になろうか。
さすがにパシオンは考えた。
(本来ならば、担保(借金のかた)を取るところであるが…)
ティモテオス家は隠れなきアテネの名家。担保となる土地はいくらでもある。
(しかし、担保を取れば恩を売ったことにはならぬ。それぐらいの金ならば、仮に取りはぐれても店の屋台骨が揺らぐことはない。ここは腹をくくって…)
「よろしゅうございましょう。他ならぬ閣下のお頼みです。直ちに用立てましょう」
「おお、かたじけない。して、担保だが…」
「いえいえ滅相もございませぬ。国家の大事。また、閣下から、そのようなものをいただくわけには参りませぬ」
太っ腹な申出に、さすがのティモテオスも目を丸くした。
「しかし、そなたも商売があろう。無担保というわけには…」
「その代わりと申しては何ですが…」
「おう、わしにできることならば、何なりというがよい」
優握な表情のティモテオスの様子に、パシオンは、いっそここでお願いしようという気持ちになった。
「は。まことに厚かましゅうございますが…」
「遠慮なく申されよ」
「私の生涯の念願は、このアテネの市民になること。もし、閣下の御助力があればと」
ティモテオスは、一瞬眉をひそめた。が、目の前のパシオンは、誠実ながらも、脂ぎった顔に精一杯の愛想を浮かべて自分を見ている。
市民権付与は民会で決めること。いかにストラテゴスの最高官位にあるとはいえ、ティモテオスの一存でどうなるものでもない。
(むう。しかし、今はこの者の財力が必要だ)
ティモテオスはにこと笑った。
「よいであろう。無事、遠征から帰国することができた暁には、そなたの功労を賞して、市民権付与の議案を評議会に諮ろう」
「ほ、本当でございますか!」
「うむ。遠征費用を無担保で提供するなどご奇特な申出、国家に対しての功も大といえよう。約束いたそう」
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
パシオンは踊りださんばかりに喜んだ。
「これ、何をボーっとしておる!閣下に御馳走じゃ。ありったけの珍味を出せ。タソス島から取り寄せたぶどう酒も出せ!」
店の者に喚くように命じ始めた。
「へ、へい!」
番頭のキットスは飛び上がった。
ティモテオスは慌てた。のんびり飲み食いしている暇は彼にはない。
「あ、そのような気遣いは無用に願いたい。急ぎアテネに戻り、遠征の準備をしなければならぬのじゃ」
「左様でございますか。それは残念でございます」
パシオン、心底残念そうであった。
「気持ちだけ、ありがたくいただくよ」
資金の受け渡しの日時の取り決め等を交わすと、ティモテオスは、去っていった。
パシオンがホクホク顔で店の奥に戻ると、息子のアポロドロスが待っていた。
「父上」
なぜか、アポロドロスは、苦渋を呑んだような顔をして立っていた。
「おう。息子よ、来ていたのか」
「新将軍ティモテオス様がお越しになられていたとか」
「喜べ。そのティモテオス様は、遠征費用を無担保で用立てる代わりに、我らの市民権付与に御尽力してくださると約束して下さったぞ!」
パシオンは手放しで喜んでいた。
「はい、知っております。陰から聞いておりましたゆえ」
「ならば、もっと喜べ。これで我らもアテネ市民になれるのだ。市民であるというだけのごろつきに、メトイコイ(居留外国人)と蔑まれずに済むのだ。なんだ、その仏頂面は」
彼が、幼少の奴隷の頃から身を粉にして働いてきたのは、まさにこの時のため。奴隷から解放され、人がましく結婚して子を儲け、事業を受け継ぎ、富を築き、その最後の目標がアテネ市民権の取得であった。小躍りするのも無理もない。
しかし、子のアポロドロスは違った。
(市民たる者、その行いに後ろめたいことがあってはならぬ。徳を積み、功を立ててこそアテネ市民たるにふさわしい)
アカデメイアでプラトン哲学の教育を受けたことが、彼の立ち居振る舞いを潔癖にしていた。そのため、自然と、父の金に飽かせての猪突猛進ぶりに眉をひそめてしまうのだ。
自然と、この親子は、たびたび衝突することになる。
「仏頂面にもなります。あのような厚かましいお願いをなされて…」
「なんだと」
パシオンはぎろりと睨んだ。
「わたくしは恥ずかしゅうございました。アテネの市民権は、市民たるにふさわしい者に与えられる名誉あるもの。しかるに、あたかも金で市民権を買うようなお振る舞い…」
「だ、黙れっ!」
パシオンは真っ赤になって怒鳴った。
彼にも言い分はある。奴隷だった自分が人間らしく生きるために、さらに、家族を幸せにするために、こうやって這い上がるしかないのだということを切々と伝えたかった。
が、計算や貴金属計量という特異な才能に恵まれた彼も、弁論の素養には欠けていた。従って、言いたいことの一部を、生の感情をぶちまけることでしか表現できなかった。
「少しアカデメイアで学問を積んだからといって、偉そうに親に意見をするな!」
「私は、父上のこと、我が家の名誉を慮って申し上げているのですぞ」
「くどい!下がれ!」
この時代、父親の力は絶対。パシオン家も例外ではない。
アポロドロスは、一礼して部屋を退出した。
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理想と現実、世代と世代のぶつかりあいですね(>_<)
これはどこででもあることですよね....
2009/4/7(火) 午後 6:09
らんらんさん、ありがとうございます
おそらく、古今東西を問わない普遍的なテーマですよ
歴史書を開くと、まあ、出てくる出てくる、という感じですから
王家だろうと、庶民の家だろうと
2009/4/7(火) 午後 7:02