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イフィクラテス対スキピオ
「そこの船止まれ!」
アテネ軍は停船を命じた。船縁には、弓を番えた兵がずらりと並んでいる。
やむなくメッシーナの軍船が止まると、アテネの軍船がたちまち包囲した。
アテネの軍船の船縁に、あの男が姿を現した。
「わしはケルキュラ駐留アテネ軍司令官イフィクラテスだ!そこの船、取り調べることがある!責任者は前に出よ!」
メッシーナの軍船は、思わぬ大敵の出現に騒然となった。
「アリストメネス殿」
スキピオは彼を物陰に呼んだ。
「私はイフィクラテスと面識がある。見つかれば、やつのこと。我らの行き先を看破するであろう。悪いが、貴公がイフィクラテスに会い、事情を説明してくれ」
「どのように説明すれば?」
「こう説明されよ」
といって、アリストメネスの耳元で囁いた。
「分かりました。やってみます」
アリストメネスは、物陰から出ると、前に進み、
「私がこの隊の指揮官アリストメネスだ!」と叫んだ。
その姿を認めたイフィクラテスは、
「不審なことがあるゆえに取り調べる!こちらに参れ!」と叫んだ。
「我らは先を急ぐ!ここで答えよう!」
「命令を聞かねば、敵対するとものみなし攻撃するぞ!」
アテネの軍船の上の弓兵はくんと弦を引き、重装歩兵は抜刀し、戦闘態勢を見せて威嚇した。
アリストメネス、やむを得ず
「分かった。そちらに行こう」と答えた。
彼の傍にいた兄アリストデモスが、心配そうな眼差しで、
「おい、大丈夫か」と声をかけると、
アリストメネスはにっこりと笑った。
「心配ありませんよ。話をつけてきます」
アリストメネスはアテネ軍の寄越した小船に乗り込み、イフィクラテスの艦に向かった。
イフィクラテスの船に乗り込んだアリストメネスは、アテネ兵に囲まれて、イフィクラテスの前に連れられて来た。
「汝の名は?」
「アリストメネス。メッシーナから参った」
「メッシーナ…」
イフィクラテスの目が鋭く光った。
「どこへ参る」
「ナウパクトスに向かう」
ナウパクトスとは、コリントス湾北岸の町である。ここにも、多くのメッセニア難民が流れ込んでいた。
「何しにいく」
「わが同胞が、北隣のアイトリア人と争っている。その救援に向かう途中だ」
「ナウパクトスとアイトリア人が…。そんな話は聞いたことがない。偽りを申すな」
「偽りではない」
「本当のことを申せ。メッセニアに向かうのであろう」
「真実ナウパクトスに行くのだ。それ以外に答えようがない」
しばらく、押し問答のようなやり取りが続いた。
イフィクラテスは苛立った。
「強情な奴だの。そのような態度をとり続けるのならば、わしにも考えがあるぞ」
「どうするつもりだ」
「汝を拷問にかけ、真実を吐かせる」
イフィクラテスは残酷な笑みを浮かべた。拷問により、何人もの猛者の音を上げさせてきた。彼には、絶対、真実を吐かせる自信があった。
が、アリストメネスは、表情一つ変えず、僅かに唇の端をゆがめた。
「そんな理不尽な仕打ちを受ける理由はない。私は、歴乎としたメッシーナ市民。他国の市民に、理由なく監禁・拷問されることはない」
「そのようなこと知ったことか」
イフィクラテスは鼻で笑った。
「このイフィクラテス様を舐めた者は、何人といえども容赦せぬ。それ!この者を縛れ!」
わらわらと兵がアリストメネスを取り囲み、
「神妙にいたせ」と縄をかけようとした。
その様子はメッシーナの軍船らも望まれ、当然、激しい罵声にも似た声が上がった。
「われらが大将に何をする!」「理不尽な振る舞いよ!」
その時である。
轟音にも似た矢唸りがアテネ兵の頭上を襲った。
「わっ!」「げぇっ」
アテネ兵は思わず首をすくめた。
帆柱に太い矢がずんと突き立っていた。
「何奴!」
イフィクラテスが、きっとなってメッシーナの軍船の方を見やると、一人、弓をもった将が睨みつけていた。
スキピオだった。
スキピオは、強弓に仰天しているメッシーナ人の間を悠然と歩き、船縁に進んだ。
イフィクラテスは、冷ややかな笑みを浮かべた。
「スキピオ…。やはりテバイの味方であったな…」
「イフィクラテス!」
スキピオは大音声で叫んだ。
「アリストメネスを速やかに解放し、ここを通せ!」
イフィクラテスは、ふんと鼻で笑い、
「そうはいかんな」と答えた。
「なぜだ!アテネは、我らテバイと同盟関係にあるではないか!」
そう。テバイは、表向きはまだアテネ海上同盟の一員である。従って、両国は同盟関係にある。
ただ、レウクトラの戦い以後の、テバイの国威の急激な伸張により、有名無実なものになっていたが。
「ははは。わしにそんな綺麗ごとは通用せぬ」
言いながら、イフィクラテスは、頭の中で、次第に考えがまとまってきていた。
(こやつらを捕らえれば、スパルタの勝利は間違いない。…となれば、スパルタもわが国に恩義を感じよう。北隣のテバイがこれ以上大国になるのは我が国にとって好ましくないしな)
「我らは先の和平会議でスパルタと同盟することに決した。よって、汝らは、もはや敵だ。速やかに投降せよ。ならば、多少の温情をかけてやらんでもないぞ、ははは」
イフィクラテスがあざ笑うが如くに言い放つと、アテネ兵もどっと笑った。
メッシーナ兵は、地団駄踏んで憤慨した。
「おのれ…」「言わせておけば」
兄アリストデモスも大いに怒り、スキピオの許に駆け寄ってきた。
「スキピオ殿!あのような理不尽な…」といいかけたが、言葉を呑みこんだ。
スキピオが、また太い矢を番えていたからだ。
きりきりと引き絞られた矢は、ぶんと放たれた。
あざ笑っていたイフィクラテス、その表情が瞬時に凍りついた。避ける間もない。
どおんという轟音が、彼の頬をかすめ、背後の帆を張る綱を断ち切った。
ために、帆は、ばさと甲板に落下した。
「ああっ!」「おおっ!」
アテネ兵は仰天した。そして、イフィクラテスの周囲に駆け寄ってきた。
「閣下!大丈夫ですか!」
さすがのイフィクラテスも顔面蒼白となっていた。
「うろたえるな!静まれ!」
周囲の喧騒をたしなめたが、実のところ、はなはだ狼狽していた。
(ダイファントスから剣の腕は立つと聞いていたが、かほどの弓の使い手であったとは…)
元来、ギリシア人は、弓というものを軽視していた。戦士たる者は、楯を左手に、槍を右手に握って突進することこそ本分とされていたのだ。それゆえ、弓兵を必要とするときは、スキタイ人やトラキア人などの異民族を雇い入れることが多かった。
「イフィクラテス!」
スキピオは再び怒鳴った。
「どうしても我らの行く手を邪魔するというならば、次は容赦せぬ!汝を討ち、汝の手下どもを悉くこの海の藻屑にしてくれん!」
「なにをいうか」
うそぶいたイフィクラテスであったが、内心は違った。
(ちっ、あなどって僅かな手勢だけでやって来たのは手抜かりであった。あの凄まじい腕では、この程度の兵では太刀打ちできぬ)
そう。彼は、常に、冷静に戦況を読むことができる。戦闘の専門家。間違っても、一時の激情に流され、敵の実力を読み誤ることはなかった。
咳一つ憚れる沈黙がしばらく続いた。
やがてイフィクラテスは口を開き、
「離してやれ」と、一言命じた。
アリストメネスを取り囲んでいた兵は、その囲みを解き、道を開けた。
アリストメネスは、イフィクラテスに向かって微笑を浮かべ、心持ち頭を下げた。
「イフィクラテス殿、御機嫌よう」
そういうと、小船に乗ってメッシーナの軍船に帰っていった。
アリストメネスを沸き立つ歓声で迎えたメッシーナの軍船は、やがて動き出し、アテネ艦隊の間を通って、南の海に漕ぎ出していった。
(くそっ)
イフィクラテスは、苦虫を噛み潰したようになって、その様子を黙ってみていた。
平静を装ってはいたが、憤懣をこらえて、拳をぐっと握り締めていた。
「閣下、このまま逃がしてよいのですか。兵力は我らの方が多数。一斉に攻めかかれば…」
アウトクレスが不満を露にすると、イフィクラテスは苛立ちをぶちまけるように、
「馬鹿野郎!」と怒鳴りつけた。
「お前には分からんのか!」と、切れた帆綱を指差した。
「迂闊に攻め寄せてみよ。俺とお前、そして、この船に乗っている兵は、全員討たれてしまうわ!」
彼の鋭い眼光に睨まれると、猛獣の如き屈強な男どもも、犬のように恐懼してしまう。
アウトクレスも青白い顔のまま押し黙ってしまった。
「戦いの展開如何で、良い機会はまた巡ってこよう。こんな所で死んでは犬死よ」
イフィクラテスは、吐き捨てるようにいうと、ケルキュラへと退却していった。
スキピオとメッシーナ義勇兵たちは、こうして虎口を脱したのであった。
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