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忘れられた丘
紀元前362年。ギリシア世界を二分する戦いがあった。
マンティネイアの戦いである。
この一大決戦が、ギリシア世界の秩序を決し得なかったのは、ギリシアの人々にとって大いなる不幸であった。勝利を収めたテバイも、英雄エパミノンダスの死によって、覇権を維持することはかなわず、滅亡を辛うじて免れたアテネやスパルタも、もはや昔日の勢いを取り戻すことはできなかった。
しかし、人々は英雄の名を記憶にとどめた。
名将と人格高潔の誉れは、エパミノンダスに捧げられた。スパルタを愛しテバイを憎悪するクセノフォンですら、彼を讃える一文をとどめている。
「先見性と豪胆さに関する限り、この人物に足りぬものは何もない」
そして、スパルタ国家のため生命を燃焼し尽くしたアゲシラオス王。テッサリア・マケドニアに威望を轟かせたペロピダス。スパルタ、そしてテバイと、時の覇者と戦い続けた海戦の名将ティモテオス。
彼らの名は、しっかと刻み付けられた。
カブリアスやイフィクラテスの傭兵隊長たちも、戦上手として記録を残した。
マンティネイアで獅子奮迅の働きを見せた、ダイファントスとイオライダスの名も、エパミノンダスが後継者に指名した人物として、辛うじて記録がとどめられている。
が、時を経て、美しい彫像が砂と消えるように、多くの名が人々の記憶から忘れ去られた。エパミノンダスを援けた異国の勇者がいたことや、その勇者と戦った勇猛なスパルタ戦士がいたことなどは、その名前も存在も歴史から失われていった。
マンティネイアの戦後、歴史家クセノフォンの記しているとおり、ギリシアの混乱と騒乱は、ますます大きなものとなり、文字通り混沌を極めた。
間もなく台頭してきたのがマケドニア王国である。
国王フィリッポス二世の改革により、強力な軍隊を組織すると、四方に領土を拡張し始めた。やがて、強大となったマケドニアは、ギリシア世界への干渉を開始した。
それまで、マケドニアを、北方の蛮国と侮っていたギリシアの人々。ここにきて、ようやく新たな強敵の出現に気付いた。
「ギリシア諸国は団結して、マケドニアと対決すべきである」
アテネの政治家デモステネスは訴えた。
粘り強く連帯を説く彼の努力は実り、犬猿のアテネとテバイがついに手を結んだ。
そして、紀元前338年。
ギリシア連合軍は、テバイ北方のカイロネイアでマケドニア軍と激突した。
序盤、テバイの精鋭、神聖隊の活躍もあり、ギリシア連合軍は優勢に戦った。
が、フィリッポス王の巧みな用兵、王子アレクサンドロスの果敢な突撃により、まずアテネ軍の一翼が崩れ、包囲されたテバイの軍勢も壊滅した。
結果、マケドニアが全ギリシアの覇権を握り、ギリシア諸国はフィリッポスの足下にひれ伏すことになった。
ギリシアは自由と独立を失った。
アテネ、スパルタ、テバイという諸国が築いた一時代は終焉を迎えたのであった。
歴史は、積み重なる地層の如く、旧き記憶は埋もれ、忘れ去られてゆく。
フィリッポス二世の子アレクサンドロス三世は、父の覇業を継承するや、東方に攻め込み、瞬く間にペルシア帝国全土を征服し、遥かインドにまで歩を進めた。そのあまりのまばゆさに、以前の歴史は、あたかも塵芥の如くに色褪せてしまった。
しかし、アレクサンドロスの帝国も永遠ではなかった。彼の死後、帝国はたちまち解体され、領土は分割された。彼の血統を継承するマケドニア王家も、部下の野心の犠牲となり、根絶やしにされてしまった。
時は流れて百有余年。
紀元前223年。
ここギリシアのテバイ、カドメイアの丘。
二人の人影が、遺跡の上に立っていた。
「アッティクスよ」
少年が振り返った。
そこには、穏やかな笑みをたたえた初老の男が立っていた。
「はい、御曹司」
「本当にここなのか。神話の昔に英雄カドモスが建国し、その後、エパミノンダスとペロピダスの指導のもと、ギリシア世界に覇を唱えたテバイが栄えた地というのは」
「はい。ここにございます」
「見渡せば、部落が点在するのみ。ここにそんな大国があったとは信じられぬ」
「御曹司」
アッティクスは、優しい眉を見せた。
「かのトゥキュディデスも申しております。その遺跡を見ただけでは、その地に大国があったとは信じられぬこともあろう、と」
トゥキュディデスとは、アテネの歴史家・政治家である。
彼は、アテネとスパルタがギリシア世界の覇権を争い勃発した、ペロポネソス戦争の歴史を著すのに半生を捧げた。自らも将軍として従軍したその戦争の、紀元前431年から411年までの二十年間の戦いや出来事を、克明に記録した。
その彼は、歴史家が胸に刻むべき、示唆に富んだ言葉を残している。
『後代、スパルタが荒廃し、その建造物の礎石だけを見た人々は、スパルタの往時の名声を信じ難く思うであろう』
トウキュディデスの言葉は、今日、正しいものと裏付けられている。
現代、ギリシアの田舎町に過ぎないスパルタ。そのアクロポリスの遺跡に僅かに残る礎石を見れば、ここにギリシア世界を席巻した大国があったとは到底思えない。ましてや、あの絢爛豪華なアクロポリスの遺跡を持つアテネを、降伏せしめたことがあるとは信じられぬであろう。
「ふーん」
まだあどけなさの残る少年は、子どもの抱く好奇心が十分に満たされないのか、足元の小石をこつんと蹴とばした。
「でも…アッティクス」
「はい」
「まだ百五十年だぞ。アテネは、覇権を失った後も、パルテノン神殿やアゴラの見事な建築を今に残している。ラケダイモン(スパルタ)も、衰えたりとはいえ、国を存続させている。なのに、テバイの、この衰微ぶりはどういうわけだ?」
「それは、テバイは、マケドニア王国に対し、先頭に立って敵対し続けてまいりました。ために、かのアレクサンドロス大王の手によって徹底的に破壊され、瓦礫の山と化してしまったのです」
「ふーん」
少年は、また石を蹴とばした。
「あれは本当なのかな」
「あれ、とは?」
「父上がおっしゃっていた。我がスキピオ家の祖先に、このテバイの地に渡り、名を轟かせた武人がいたという…」
「ルキウス様のことでしょう」
「そう。弟と同じ名をもつ…」
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