新しいギリシア・ローマの物語2

179年、暴君フィリッポス、悪業の報いを存分に被り、死去

序章−ある王国の物語

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 スキピオ家のろば
 紀元前三世紀後半のこの時代、スキピオ家は、ローマきっての名家となっていた。
 ただ、スキピオ家の源流は判然としない。
 ローマの歴史を著した学者は数多くいる。が、ローマ人たちが、本格的に歴史を著し始めたのは、紀元前三世紀も後半に入ってからのことである。
 だから、ローマの興隆期に当たる紀元前四世紀は、伝承と歴史が混在する薄靄がかった時代であり、歴史家たちの記述には不明な点が多い。
 紀元前390年(387年との説もあり)にケルト人が襲来しローマが占領・破壊された事件、同367年の平民の執政官就任を可能にしたリキニウス法の成立など、著名な事件を除けば、その歴史はようとして分からない。そういって差し支えないだろう。


 明らかな事実として、スキピオ家は、紀元前四世紀後半には名家として知られるようになっていた。
 まず、著名な人物として、ルキウス・コルネリウス・スキピオ・バルバトゥスを挙げられよう。彼は、イタリア半島中部に勢力を振るっていた山岳部族サムニウム人との戦いで名を上げた人物である。
 近世、スキピオ家の墓所が発見され、それと共に彼の石棺が発見されると、最も古く遡れるスキピオ家の人物の棺として、バチカンの美術館に保存されている。彼以来、スキピオ家の男たちは、この墓所に葬られたから、その存在と業績はおおよそ明らかとなる。石棺に、何をなしたかが刻まれているからだ。
 バルバトゥスの石棺にはこう刻まれている。一部を抜粋すると、
『ルキウス・コルネリウス・スキピオ・バルバトゥス…彼は汝たちの執政官、監察官、按察官にして、タウラシア、キサウナ、サムニウムを攻略せし者、ルカニア人を従へ捕虜を解放せし者なり』とある。
このルキウスは、勿論、先に登場した「ルキウス」とは別人である。


 そして、次に登場するのが、グナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシーナである。バルバトゥスの甥(息子とも)である。
 この人物の頃になると、もう完全に歴史の世界となる。
 ちなみに、「アシーナ」とは、「ろば」の意であり、要は「のろま」や「ばか」ということである。著名なローマ人には、こうしたあだ名や尊称が本来の名前に添えられる。
 それにしても、ひどいあだ名をつけられたものであるが、これには理由があった。
 この人物については、この物語の舞台を知る上でも、やや詳しく紹介しておく必要があろう。というのも、この人物は、この物語の主人公の大伯父、即ち、祖父の兄にあたるからである。


 グナエウスが歴史上登場するのは、ローマとカルタゴの戦争において、である。
この戦争は、紀元前265年に勃発した、ローマ・カルタゴ両国の、西地中海の覇権を賭けての大戦であった。
 この戦争は、この物語の主題であるため、後に詳しく叙述するが、グナエウスにかかわるエピソードを簡単に紹介しよう。


 当時、カルタゴは、地中海世界最強の海軍を保有していた。これに勝利するためには、当然、海戦に勝ち抜くこと、つまり海軍が必須となる。
 ところが、この海上帝国と全面戦争になったというのに、ローマには海軍がなかった。
 それまで、ローマの敵がイタリア半島の内にいたため、海軍戦力を必要としなかったためである。が、相手が、海の彼方に聳えるカルタゴでは、そうはいかない。
 戦争の序盤は、陸上戦が主だったため、野戦の得意なローマ軍はカルタゴ軍に立て続けに勝利した。が、カルタゴは、それに懲り、以降会戦には応じず、海沿いの都市や拠点に籠城し、もって海軍をローマ軍の手薄な地点に上陸させ、兵站を脅かす作戦に転じた。
 こうなると、カルタゴ海軍の独擅場となっていく。

忘れられた丘-序章1


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 忘れられた丘
 紀元前362年。ギリシア世界を二分する戦いがあった。
 マンティネイアの戦いである。
 この一大決戦が、ギリシア世界の秩序を決し得なかったのは、ギリシアの人々にとって大いなる不幸であった。勝利を収めたテバイも、英雄エパミノンダスの死によって、覇権を維持することはかなわず、滅亡を辛うじて免れたアテネやスパルタも、もはや昔日の勢いを取り戻すことはできなかった。
 しかし、人々は英雄の名を記憶にとどめた。
 名将と人格高潔の誉れは、エパミノンダスに捧げられた。スパルタを愛しテバイを憎悪するクセノフォンですら、彼を讃える一文をとどめている。
「先見性と豪胆さに関する限り、この人物に足りぬものは何もない」
 そして、スパルタ国家のため生命を燃焼し尽くしたアゲシラオス王。テッサリア・マケドニアに威望を轟かせたペロピダス。スパルタ、そしてテバイと、時の覇者と戦い続けた海戦の名将ティモテオス。
 彼らの名は、しっかと刻み付けられた。
 カブリアスやイフィクラテスの傭兵隊長たちも、戦上手として記録を残した。
 マンティネイアで獅子奮迅の働きを見せた、ダイファントスとイオライダスの名も、エパミノンダスが後継者に指名した人物として、辛うじて記録がとどめられている。
 が、時を経て、美しい彫像が砂と消えるように、多くの名が人々の記憶から忘れ去られた。エパミノンダスを援けた異国の勇者がいたことや、その勇者と戦った勇猛なスパルタ戦士がいたことなどは、その名前も存在も歴史から失われていった。


 マンティネイアの戦後、歴史家クセノフォンの記しているとおり、ギリシアの混乱と騒乱は、ますます大きなものとなり、文字通り混沌を極めた。
 間もなく台頭してきたのがマケドニア王国である。
 国王フィリッポス二世の改革により、強力な軍隊を組織すると、四方に領土を拡張し始めた。やがて、強大となったマケドニアは、ギリシア世界への干渉を開始した。
 それまで、マケドニアを、北方の蛮国と侮っていたギリシアの人々。ここにきて、ようやく新たな強敵の出現に気付いた。
「ギリシア諸国は団結して、マケドニアと対決すべきである」
 アテネの政治家デモステネスは訴えた。
 粘り強く連帯を説く彼の努力は実り、犬猿のアテネとテバイがついに手を結んだ。
 そして、紀元前338年。
 ギリシア連合軍は、テバイ北方のカイロネイアでマケドニア軍と激突した。
 序盤、テバイの精鋭、神聖隊の活躍もあり、ギリシア連合軍は優勢に戦った。
 が、フィリッポス王の巧みな用兵、王子アレクサンドロスの果敢な突撃により、まずアテネ軍の一翼が崩れ、包囲されたテバイの軍勢も壊滅した。
 結果、マケドニアが全ギリシアの覇権を握り、ギリシア諸国はフィリッポスの足下にひれ伏すことになった。
 ギリシアは自由と独立を失った。
 アテネ、スパルタ、テバイという諸国が築いた一時代は終焉を迎えたのであった。


 歴史は、積み重なる地層の如く、旧き記憶は埋もれ、忘れ去られてゆく。
 フィリッポス二世の子アレクサンドロス三世は、父の覇業を継承するや、東方に攻め込み、瞬く間にペルシア帝国全土を征服し、遥かインドにまで歩を進めた。そのあまりのまばゆさに、以前の歴史は、あたかも塵芥の如くに色褪せてしまった。
 しかし、アレクサンドロスの帝国も永遠ではなかった。彼の死後、帝国はたちまち解体され、領土は分割された。彼の血統を継承するマケドニア王家も、部下の野心の犠牲となり、根絶やしにされてしまった。



 時は流れて百有余年。
 紀元前223年。
 ここギリシアのテバイ、カドメイアの丘。
 二人の人影が、遺跡の上に立っていた。
「アッティクスよ」
 少年が振り返った。
 そこには、穏やかな笑みをたたえた初老の男が立っていた。
「はい、御曹司」
「本当にここなのか。神話の昔に英雄カドモスが建国し、その後、エパミノンダスとペロピダスの指導のもと、ギリシア世界に覇を唱えたテバイが栄えた地というのは」
「はい。ここにございます」
「見渡せば、部落が点在するのみ。ここにそんな大国があったとは信じられぬ」
「御曹司」
 アッティクスは、優しい眉を見せた。
「かのトゥキュディデスも申しております。その遺跡を見ただけでは、その地に大国があったとは信じられぬこともあろう、と」
 トゥキュディデスとは、アテネの歴史家・政治家である。
 彼は、アテネとスパルタがギリシア世界の覇権を争い勃発した、ペロポネソス戦争の歴史を著すのに半生を捧げた。自らも将軍として従軍したその戦争の、紀元前431年から411年までの二十年間の戦いや出来事を、克明に記録した。
 その彼は、歴史家が胸に刻むべき、示唆に富んだ言葉を残している。
『後代、スパルタが荒廃し、その建造物の礎石だけを見た人々は、スパルタの往時の名声を信じ難く思うであろう』
 トウキュディデスの言葉は、今日、正しいものと裏付けられている。
 現代、ギリシアの田舎町に過ぎないスパルタ。そのアクロポリスの遺跡に僅かに残る礎石を見れば、ここにギリシア世界を席巻した大国があったとは到底思えない。ましてや、あの絢爛豪華なアクロポリスの遺跡を持つアテネを、降伏せしめたことがあるとは信じられぬであろう。


「ふーん」
 まだあどけなさの残る少年は、子どもの抱く好奇心が十分に満たされないのか、足元の小石をこつんと蹴とばした。
「でも…アッティクス」
「はい」
「まだ百五十年だぞ。アテネは、覇権を失った後も、パルテノン神殿やアゴラの見事な建築を今に残している。ラケダイモン(スパルタ)も、衰えたりとはいえ、国を存続させている。なのに、テバイの、この衰微ぶりはどういうわけだ?」
「それは、テバイは、マケドニア王国に対し、先頭に立って敵対し続けてまいりました。ために、かのアレクサンドロス大王の手によって徹底的に破壊され、瓦礫の山と化してしまったのです」
「ふーん」
 少年は、また石を蹴とばした。
「あれは本当なのかな」
「あれ、とは?」
「父上がおっしゃっていた。我がスキピオ家・・・・・・・の祖先に、このテバイの地に渡り、名を轟かせた武人がいたという…」
「ルキウス様のことでしょう」
「そう。弟と同じ名をもつ…」

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