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その後アラトス-下(続き)
「陛下」
この時、アラトス五十五歳。
荒ぶる年月を経て、重厚な大樹の如き落ち着きを見せていた。
「クレタには険しい山々が聳え、ボイオティアにも要害が控え、アカルナニア地方にも驚くほどの険難な地形があります。しかるに、どれもが自ら進んで陛下に服しております。それは、陛下の武威に服しているのではなく、陛下の徳に服しているのでございます」
「…」
フィリッポス、何も答えない。
「今、その徳を捨てては、いかにアクロコリントスとイトマタスを手に入れても、陛下の大業の前途は危ういものといわざるを得ません」
全くの正論であろう。力だけでは、政治はできないのである。反論の余地はない。
「こちらへ来たまえ。同じ道を歩もう」
フィリッポスは、アラトスの手を取り、今来た道を下り始めた。
王は、アラトスの意見を容れ、メッセニアから手を引いたのであった。
しかし、次第に、フィリッポスの性格は、病変を来し始めていた。
独裁権力を手にする者のかかる、嫉妬と猜疑という病だ。
その病状の進行とともに、次第に、アラトスを疎ましく感じるようになっていた。アラトスあってのフィリッポス、そういう評価が定着していたからだ。
(やつがいては、ギリシア世界において、余はいつまでも軽んじられるばかり)
既に、彼の野心は途方もなく膨れ上がっていた。
それは、アレクサンドロス大王の後継者たらんとの野望だ。マケドニア・エジプト・シリア三カ国で東方世界の争覇を繰り返す時代に終止符を打ち、自ら新たな帝国の支配者になろう、その大野望だ。
そんな彼にとって、足元のギリシア人の騒動に忙殺されることは我慢ならなかった。
(直接支配すれば、このような馬鹿げたことは起こらんのだ)
彼は、腹心でペロポネソス総督のタウリオンを呼びつけた。
「陛下、お呼びにございますか」
「そなたはアラトスとは親しいのであろう」
「はい。親しく交友しておりますが…」
タウリオンは怪訝な表情を浮かべた。
職務柄、アカイア同盟とは交渉を頻繁に持っていた。当然、その指導者アラトスとの信頼関係が不可欠であり、自然と友情も深まった。
「それをアラトスに与えよ」
王は、侍臣に命じ、小瓶を彼に渡した。
「なんでございますか。これは?」
「妙薬じゃ。アラトスも年であろう。これを日々服用して精をつけよと申してやれ」
そういって、フィリッポスは、妖しい笑みを見せた。
(そうか…陛下はアラトスを亡き者にしようと…)
タウリオンの背筋に寒いものが走った。
アラトスを救う方途を思い浮かべてみた。それは、ありのままを伝えることであろう。
が、こんな大事を外に漏らせば、彼が毒殺されてしまう。毒殺はマケドニア王家の十八番なのだ。
タウリオンは、命令に従い、薬をアラトスに渡した。
「陛下は、閣下のお体をいたくご心配なされ、王家秘蔵の妙薬を服用あるようにとの仰せにございます」
アラトス、その小瓶をじっと見詰めていたが、やがて恭しく受け取った。
「勿体無いお言葉。アラトス、喜んで服用し続けることでしょう」
それは、どこか奇妙な物言いであった。
彼は、素直に、薬を日々服用し始めた。
が、どうしたことか、彼の体は、次第に衰弱し始めた。まず風邪の症状にも似た咳が出始め、やがて血を吐き、ついには病の床についた。
あるとき、彼の友人が見舞いに訪れ、その異状を察した。
「一体どうしたのだ。もしや、その薬は…」
語尾を濁し、あることを示唆して、服用をやめるよう勧めた。
アラトスは首を振り、寂しそうに笑った。
「これが、王の私に対する褒美なのだ」
彼も、事ここに至って、マケドニアの後ろ盾を得てギリシア世界の秩序を回復するという自身の志が、大きな挫折を見たことを知ったであろう。
しかし、もう手遅れであった。彼は、もはや自身の肉体すら守ることのできない境遇となっていた。だからこそ、彼は大人しく、毒薬を呑み続けたのだ。
(クレオメネスよ…。この有様を見たら、それ見たことかと、さぞ笑うであろうな…)
彼は、病床にあって、蒼白い顔に笑みを浮かべ、かつての宿敵の面影を思った。
間もなくして、アラトスは死去した。
紀元前213年、享年五十八歳であった。
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