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アルプス越え−平和の使者(続き)
「おっ」
マガルスが短く声を上げた。
「どうした?」
「閣下、前を」
指差す方を見ると、現地の住民であろうか、草の冠を戴き、木の枝を手にした人々が現れた。平和を求める使節ということだ。
なお、このあたりの住民もアロブロゲス族の一派である。
「私が話を聞いて参りましょう」
マニアケスが駆けだした。そして、用件を手短に聞きとると、すぐに帰ってきた。
「何と申しておる」
「は。和平を求めたい、と。我らは閣下の軍勢に逆らって滅びた部族のことを耳にいたした。そのような末路は辿りたくない、人質を差し出しますゆえ、我らとの友好を約束いただきたい、そう申しております」
「ふむ…」
ハンニバルは思案する顔となった。
渡りに船ではあった。なにせ、消費する日々の兵糧は莫大。山間の行軍で補給もままならず、近隣の部族を攻めてでも兵糧確保を、と思っていた矢先だったからだ。
とはいえ、申し出に飛びつくほど軽薄ではなかった。彼の脳裏には、先の山岳民との戦いがあった。
あの山岳民たちも、部族の王ブランクスの意向に逆らい、物資欲しさに大挙押し寄せて来たからだ。その経験が、ガリア人という人種に対する不信を増幅させていた。
(…が、申し出を拒めばどうなる)
当然、すぐさま敵対勢力に変じるであろう。先の山岳民と同じく激しい戦いとなるであろう。
(それは避けたい)
先の戦闘と山越えで一万余の兵が失われている。大損害だ。これ以上の消耗は避け、なるべく兵力を温存してイタリアに入る、それが彼の、只今の念願であった。
「よろしい。ここに連れて来るがよい」
山岳民は、馬前に来て恭しくハンニバルに挨拶した。
そして、マニアケスが訳したのと同じことを述べた。
「うむ」
ハンニバルは小さく頷いた。
「有力者の子弟五十人を人質として差し出すならば、諸君の誠実を信じよう。そして、諸君が我らに協力してくれるならば、事なった暁には莫大な恩賞を授けるであろう」
使者たちは直ちに了承した。
その日、彼らは、約束通り人質を連れて来てハンニバルに引き渡すと共に、食糧を山のように陣営に運び入れた。
そして、マニアケスを通じて、こう申し述べた。
「これが我らの偽らざる誠意。なろう事ならば、閣下の軍を行軍の平易な道へと案内いたしとうございますが」
これも、ハンニバルの心くすぐる提案であった。安全な道を進むこと、これが兵糧確保以上のハンニバルの関心事だったからだ。だから、優秀な案内人を、喉から手が出るほどに欲していた。
(うーむ、どうしたものか)
注意深い彼も悩みに悩んだ。もし、彼らが企みを抱いているのならば、死地に導かれることになる。とはいえ、
(ここで疑う態度を見せるのは、いずれにしろ良くない)
そう考えると、また小さく頷いた。
「よろしい。諸君に道の案内を頼もう」
ボイイ族の案内人マガルスと彼らを並べることとした。
そして、マガルスには、こう言い含めておいた。
「案内人に怪しい節あればすぐに知らせよ」と。
さらに弟のマゴーネを呼び、
「そなたは兵糧部隊と象軍及び騎兵隊を率い先頭を進め」と命じた。
これは、敵の奇襲があっても兵糧を守り、虎の子の象軍・騎兵隊に損害が及ばないように、との配慮からであった。
ハンニバル自身は精鋭の直属部隊を従え、中軍にあって、人質を厳しく監視することにした。
山岳民が案内人に立って三日間。何事もなくハンニバル軍は進んでいく。
あたりの地形は、川岸に平坦な道が続き、人馬の行き交いも難しくない。そのため、大軍の行軍には好都合であった。兵が並んで歩くことができる訳で、全軍がより長距離を進むことができることになる。また、隊が横に広がれば、当然、敵の攻撃に対する備えが分厚くなる。
この頃、ハンニバルは、人質となった山岳民らと談笑するようになっていた。
無論、マニアケスの通訳を介して、であるが。
そのマニアケス、少し懸念したものであろう。
「総司令」
「なにか」
「そのようにお心を許してしまってよろしいものでしょうか」
「ふ」
ハンニバル、唇の端を僅かに上げた。
「心配いらぬ」
「なぜ、そのようにいえまする」
「彼らの顔を見ていれば分かる」
「どういうことで?」
「何かあれば彼らの顔色が変わって来るであろうよ」
ハンニバルは、前を向いたまま瞳だけを動かし、人質たちを指した。
人質とはいえ、建前は友邦の賓客という扱いであるから、至って和やかな空気の中に雑談などして歩いている。
マニアケスは腑に落ちないのか、首をかしげた。
「ふふ。そのうち分かる。ともかく、険しい地勢に差し掛かった折には、彼らの様子をよく観察しておけ」
「かしこまりました」
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