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人の織りなす綾
紀元前216年7月30日。
総指揮権を取り戻したパウルスは、アウフィドゥス川東岸に三分の一の兵力を残すと、三分の二の兵力を西岸に渡した。そして、いずれにも強固な陣を構築し、ハンニバルが容易に手出しできないよう施した。
「敵の騎兵戦力を縦横に働かせないためには、川を盾にするのが得策」
パウルスは、諸将にそう説明した。
「また、これはただの待機戦術ではない。敵が西岸に渡って来るのを迎え撃つ策」
そう言い含めた。従来の持久戦術とは違うことを強調したものだ。
「なにゆえ…西岸において待つのです?そのような迂遠な策を取る必要がありますか」
テレンティウスが訝しげな表情で訊いた。
昨日、突如としてパウルスとの葛藤を表面化させた彼、もはや主戦論者であることを隠そうともしなかった。
「西岸で睨み合えば何が起こるかを考えるとよい」
パウルスは穏やかにそう言った。
「それは…どういうことですかな?」
ゲミヌスが訊いた。
「敵は兵糧を東岸のカンネーに備蓄してある。補給のため兵を送り、運んで来る必要がある。陣から離れた小部隊を、東岸に残した兵力で撃つことが出来る。また、補給に窮した敵の主力が東岸へ退却する時には、それを追撃し、撃滅することもできる」
パウルスは語気を強めた。
よく考えられていた。見た目は、ハンニバルの攻撃に備える防御に徹した陣形であったが、次の攻撃を睨んだものであると、そう訴えかけた訳だ。
諸将は大いに感銘し頷き合っていた。
「なるほど。それは良い策だ」
「これならば、ハンニバルを討つことも出来るぞ」
幕舎内は、やんやとパウルスを讃える空気で充満した。
さしものテレンティウスも、ここは沈黙せざるを得なかった。事実、攻撃を考えても、理に適った作戦でもあったからだ。
こちら、アウフィドゥス川東岸、ハンニバルの本陣。
「…そうか。敵は、西岸に主力を置く布陣を取ったか」
「はい。三分の二の兵力、約五万の兵を西岸に、約二万の兵を東岸に置いております」
「ふーむ」
ハンニバル、隻眼を僅かに細めた。
「マニアケス、そなたどう思う」
近頃、この女密偵の意見を重んじるようになっていた。なんといっても、彼女こそが敵の最も深奥に分け入り、機密を探知し、敵情に一番近く接していたからであろう。
「ただの防御の策ではない、と推察いたします」
「ほう…どうしてそう思う?」
「パウルスは、先年のファビウスとは違い、もともと攻撃を得意とする人物。あの険しい山並み連なるイリュリアを半月ほどで平定してしまったほどにございます」
マニアケスら密偵たちは、敵将の過去の事績、その性格や気性、本国での政治基盤などを詳細に調べ上げていた。
「そのような人物であるならば、防御と思わせ、我らをおびき寄せ、ここぞと打って出ることも充分に考えられます」
遠征の初めから従軍し、偵察のため先頭に立って敵中に潜入して来た彼女。ハンニバルの戦略の要諦も理解し、今や参謀の一人の風格を見せていた。
「なるほどの」
ハンニバルは素直に頷いたが、「ただ」と付け加えた。
「逆にこうも言えるの」
「は?」
「味方に攻撃の布陣といって得心させ、その実、防御を固める策だとも」
「あ…なるほど。確かに」
この頃、早くも、マニアケスらカルタゴ側の密偵たちは、パウルスとテレンティウス、二人の執政官の不和を嗅ぎ取っていた。
「仰せの通り。パウルスが、もう一人の執政官テレンティウスを抑えるためには、攻撃の姿勢を強調しなければなりませんな」
「ということは、その通りに動いてやりさえすれば、会戦に持ち込むことが出来る、ということになるな」
ハンニバル、僅かに唇の端を上げた。
「え、その通り…とは?」
「敵が我らを攻撃するとすれば、どのような局面を予想していると思うか」
「それは…敵の待ち構える戦場に我らがやって来た時…」
「それだけでは足りるまい。敵の前で、我らが慌てる何かが必要であろうが」
「あ…」
彼女は、改めて主人の凄みを見た思いがした。
(我が主は、敵の筋立てを、ほぼ見透かしておられる…)
「ふふ。そなたも勘付いたか」
「は…恐らくは」
とはいったものの、マニアケス、おぼろげな展開が見えるに過ぎなかった。
「まずは、大挙して西岸に移らねばならん」
「なるほど!」
ここで、マニアケス、思わず手を叩いた。ようやく腑に落ちたようだ。
「それを見たテレンティウスは、逆に東岸へと兵力を渡らせまするな!」
「そういうことだ。我が兵糧は、何せ東岸のカンネーにあるのだからな」
「その時に…」
「そう。我らも東岸に戻る。慌てて追いかけるかの如き体でな」
「ということは…素早く戻れるように手配しておくことが肝要」
「そうだ。早速、軍議を開く。諸将を集めよ」
その夜。ハンニバルの幕舎では、夜更けまで、作戦行動の詳細の詰めがなされた。
ハンニバル、地図の上で、繰り返し繰り返し、あり得べき展開とその際に取るべき行動を示して見せ、諸将の頭に徹底的に叩き込んだ。
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