|
https://novel.blogmura.com/novel_historical/ にほんブログ村
↑
ランキングに参加しています。お越しの際には応援の1クリックをお願いいたします(1日1回有効)
人の心を統御す(続き)
「そなたの神託通りに事は運んだ。どうだ。いっそ、巫女に宗旨替えしては」
それは上機嫌なハンニバルの、ごく軽い冗談であった。
だが、どうした訳か、マニアケスは笑うことなくうつむいてしまった。
「このような罪深い者が巫女など…」
「まだそんなことを申しているのか」
ハンニバル、呆れたような語気になった。
(こういうところは女だな)
そんな風に思った。時折ひどく感傷的になり、手を煩わせるところなどは。
「されど…」
愛する総督ハシュドゥルバルを殺めたことは、心の深い傷として残っていた。いや、消えるものではなかった。
何かの拍子でその傷が疼き出し、所構わず発症するのであろう。今もそうだ。
(一つ願いが叶うならば、総督様を甦らせてほしい)
そんなことを強く思うばかりであった。
ハンニバルは、己の罪に煩悶する女の容子を凝視していた。
(働き詰めで、心身共に疲れているのやも知れんな…)
「そなたの罪など、もう誰も問わぬ。帳消しじゃ。義兄も夢の中でそう言っていた」
マニアケスには、これからも自身の手足として働いてもらわねばならない。
(ここらでその鬱を払っておこう)
ハンニバルは思った。それができるのは、亡き総督の義弟であり、大志の継承者である自分以外になかった。
「ほんとうですか」
マニアケス、大きな瞳となった。
「そうだとも。夢の中に現れ、『こらっ、ハンニバル』と叱るから、いきなり何事ですかと訊ねた」
「それで…」
夢の中に現れる総督ですら、彼女にとっては恋い焦がれる対象であった。
「そなたは我がバルカ家並びにカルタゴ国家に多大な貢献をなした、だから、もう許してやれと仰せであった」
「して、閣下は何と?」
「私は、義兄上がそう仰せなら別段構いませぬ、と答えておいた」
「総督様は?」
「『そうかよしよし』と、私を子どものように褒めておった。私にとっては、いつまでも頭の上がらぬ義兄だから仕方ない」
ハンニバル、苦笑して見せた。
「…そうですか」
マニアケス、ほっと息を吐いた。
「ありがとうございます。そのように仰せ頂き、嬉しゅうございます」
彼女は素直にそう言った、だが、と続けて
「弟君たちのお心が…」といった。
次弟ハシュドゥルバル、末弟マゴーネの心情を慮ってのことであろう。
「マゴーネは、とうにお前を許しているさ。ハシュドゥルバルも直情な奴だが、気の悪い奴ではない。お前の働きを知れば、寛大な心になろう。そういう弟だ。この長兄ハンニバルが言うのだから間違いない」
ハンニバル、なにゆえか、マニアケスを許してやることに熱がこもった。
(どうしたことだろう…)
自分でも不思議に思った。
一時は、いつ成敗してくれようか、そんなことすら思っていた憎い女の筈であった。
だが、そういうものなのであろう。罪人が罪を自覚し、罪を必死にあがなうその姿を見れば、あたかも氷結した憎しみとて、いずれは溶解するものであることを。
人の心とは、そういう大きな慈悲をも具えているものなのだ。
「罪悪感を覚える暇があれば、もっと仕事に励め。ならば、そなたの夢の中にも義兄が現れよう。よいか」
「は、はい。ありがたきお言葉…」
マニアケス、涙ぐんでいた。
「まだまだローマの勢力は強大。戦いは続く。そなたの任務は重い。頼むぞ」
「はい。必ずや、必ずや、し遂げてみせます」
「よし。ならば、そなたのおびき寄せたタラス人を大いにその気にさせてやれ」
「はい。段取りは整っております」
「では、そのタラスの若者と面会するとしようか。…ソシュロス先生、今のやり取りも、ひょっとして全部記録されたのか」
ハンニバル、近頃は存在を忘れることすらある記録官ソシュロスの方を振り向いた。
その記録官は、にこやかにこう答えた。
「はい全て。これで、御大将が敵に苛烈に振る舞うだけが能の武将でないことが、後世の人々に知れるでしょう」
「はは。ありがたいことだな」
ハンニバル、快活に笑った。
|