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↑アフロディーテ(ヴィーナス)の彫像です。
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神託
ここタラス。
カラーブリア最大の港湾都市であり、夕暮れになっても多くの人が行き交い、喧噪途絶えることはなかった。そう。この国は、ローマに降伏した後も繁栄は極めていたのだ。
近頃、この街に、奇妙な噂がまことしやかに流れていた。
「おい。聞いたか」
「ああ。アフロディーテ神殿での不思議な現象のことであろう」
それは、美の女神アフロディーテ(ラテン名ヴィーナス)を祀る神殿の内で誓願立てると、神殿の奥から麗しい音曲鳴り響き、嫋かな声で預言めいた言葉が聞こえて来るというものであった。
もっとも、この噂を訝しむ声も少なくなかった。
「まさか…そんなことある訳ない」
「予言を授けることができるのは、デルフィのアポロンの巫女ぐらいであろう」
「いやいや」
耳聡い人はこう講釈して見せた。
「どうやら、デルフィの巫女の一人がこちらに来たという話だ」
「それは本当か」
「だから、神託を授かることができるというのは、あながちでたらめではないぞ」
この当時、神の声を聴こうと思えば、ギリシア本土デルフィのアポロン神殿、またはドドナのゼウス神殿に参詣するのが普通であった。神殿に仕える巫女が、一種の陶酔状態になり、神の言葉である神託−極めて曖昧な言葉であったらしい−を伝える訳だ。
とりわけ、デルフィの神託は地中海世界に名声轟き、ギリシア世界以外の人々も神の言葉を求め、高価な寄進を捧げ、多数参詣した。
ちなみに、著名な予言として、以下のようなものがある。
ペルシアの攻勢に危機に瀕していたリュディア王国のクロイソス王に与えられた予言。
『ギリシア最強の国と同盟すれば、敵を破り国は大いに栄えよう』
王は、そのためスパルタとの同盟を望んだが、スパルタ王の拒絶により果たせず、結局ペルシアの大軍の前にリュディアは滅亡した。
また、哲学者ソクラテスは以下の言葉を授かった。
『ソクラテス以上に賢い者はいない』
ソクラテスは、この言葉を確かめるべく、著名な学者たちに論戦を挑んだ。結果、自分が最も賢いか否かは分からなかったが、自分より賢い者を見出すことはできなかったと語っている。
そう。理性の生き物である筈の学者ですら、この神託というものに重きを置いていたという訳である。
ローマにまつわるものとしては、
『母に真っ先に口づけした者は、最高の支配権を得ることができよう』
というものがあった。
この母という言葉を大地(ガイア)と理解したブルートゥスは、すぐさま地に口づけした。彼は、帰国後、王制を打倒し、共和制ローマ初代の執政官に就任した。
このとおり、デルフィの神託については、エピソードに事欠かないのだ。
それが、このタラスのアフロディーテ神殿で授かることができるとあっては、人々が興奮するのも当然であった。
この噂は、いわゆる指導階層の人々にも広がっていった。
「一度行ってみるか」
そういったのは、狩猟好きで知られた名家の子弟フィレメノス。
アフロディーテ神殿に、ということだ。
「何か捧げる必要があるのではなかろうか」
応じたのは、彼の親友ニコン。
「昨日仕留めた猪がある。それを捧げよう」
「フィレメノスよ…何を授かりたいのだ?」
そう訊いたのは、同じく親友のトラギスコス。
「知れたこと。この国の行く末のことだ」
「ふーむ。…お前、まだ憤っておるのか」
「当たり前だ。我らはローマの奴隷ではない。なのに我が国の使節が無残に処刑され、黙っておられるか」
三人は、夜々こうやって集まり、酒席にこと寄せて様々な鬱憤を言い合っていた。
そう。フィレアス処刑の知らせは、この通り、多くの人々を憤激させていたのだ。
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