新しいギリシア・ローマの物語2

179年、暴君フィリッポス、悪業の報いを存分に被り、死去

第9章ヒスパニアの章

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 凶星(続き)
 幕舎に戻ると、マニアケスは既に平伏していた。よほど、道中難渋したのか、装備は所々ほつれ、深紅のマントは泥にまみれたままであった。
「顔を上げよ」
「は…」
 答えたものの、マニアケスは顔を上げない。
「どうした…何かあったのか」
 ハンニバル、そう訊いたときには、既に何が起きたか半ば悟っていた。
「申し訳ございませぬ」
 彼女、額をこすりつけるようにして詫びると共に、事の次第を報告した。
 そして、メタウルス河畔で合戦に及んだこと、優勢に戦いを進めた後、背後からネロのの逆襲を受けて味方が潰滅したこと、最後に、ハシュドゥルバルが正々堂々最期を遂げたことを簡潔に一気に報告した。
 幕舎の内は、しんとなった。
 それは大きな望みが断たれたことを意味したからだ。イベリア・ガリアの戦力と一つとなり、再びローマに押し寄せるという希望が見事に断ち切られた格好だ。




「お…お前」
 ボミルカルの子ハンノンが、よろよろとマニアケスの許に近寄ると、突然、その胸ぐらを掴んだ。
「なぜ、弟君を助け出さなんだ。なぜ、貴様一人で逃げて来た」
「その弟君の命令だ」
「なんだと」
「汝はこのことを告げよとお命じになられた。汝は兄の許で最後まで働け…と」
 堪えきれなくなったのか、マニアケスの両の瞳からも、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ち来た。
「そなたに責められなくとも分かっている。なぜ助けることが出来なんだのか、と。そんなことは分かっているのだ」
 恐らく、道々、強烈なる悔悟の念が、自身を苛んで来たに違いない。気丈な彼女が涙をこぼし続けている。
 誰もがここに理解した。
 マニアケスが単身逃れ得た来たこと、それ自体戦いの苛烈さを物語って余りあるし、そもそもハシュドゥルバル救助など望むべくも無かったのだということを。
 ハンノンの掴む手がふっと緩んだ。
 そして、崩れ落ちると、地を叩いて彼も嘆き始めた。




 その時、幕舎の外が急に騒然となった。
「む、何事だ」
 と、そこに衛兵が飛び込んで来た。
「総司令!大変です!」
「何があった」
「は。敵の騎兵が陣門近くにまで駆けて来て、袋に包まれたものを我が陣中に放り投げ、駆け去っていきました」
「何を投げつけて来たか」
「は…それが…あのう…」
 途端に、しどろもどろになった。
「はっきり申せ!」
 叱ったのはハンノン。
「はっ、弟君ハシュドゥルバル様のお首にございます」
「なに…」
 さしものハンニバルも絶句した。




 そう。執政官ネロは、メタウルスの会戦に勝利した後、急いでハンニバルのあるアプリアに駆け戻って来た。そして、勝利の証として、騎兵に命じ、ハシュドゥルバルの首を敵陣の中に投じさせたのである。
 しかも、彼の首は剥製にされていた。ネロのハシュドゥルバルに対する憎悪がこれほどはっきり窺えるものはないであろう。
 『黒岩』の屈辱が、彼をしてこういう振る舞いに及ばせたものだ。
「ざまあみろ」
 ということなのであろう。
 だが、ハンニバルが、敵将を倒すたびに丁重に弔い、将の礼を尽くしたことを思えば、これは名のある将の振る舞いとはいえない。勝利に思い上がった、と評されてもやむを得ないであろう。




 ハシュドゥルバルの首は、箱に収められてから、ハンニバルの許に運ばれた。
 ハンニバル、変わり果てた弟の首を取り出した。そして、しみじみと眺めた後にこう言った。
「ご苦労であったな、弟よ。聞いたぞ。そなたは見事な最期を遂げたそうな。父上に堂々報告せよ。バルカ家の名を辱めず最後まで戦いました、とな」
 そう語りかけるハンニバルの隻眼に、一粒の涙が光っていた。


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 凶星 
 紀元前207年七月初め。
 この頃、ハンニバルの軍勢は、メタポントゥムを出て北上し、アプリア地方のカヌシウムの地に到達していた。何も知らぬハンニバル、当初の予定通りにブルッティウム地方を出て、弟ハシュドゥルバルとの合流を目指していた。




「ふーむ」
 記録官ソシュロスは夜空を眺め唸っていた。
 星の動きから様々なことを読み解こうとしたのは、同時代の中国(秦)の人々と同じである。地中海世界でも、天体研究はソクラテス、プラトンの頃より盛んであった。
(これは…不吉な兆しが北方から)
 ソシュロスも歴史学者であるのと同時に、当時のギリシア人学者の大多数同様、哲学者でもある。当時の哲学は、政治・法律という人文科学だけでなく、数学や物理学など自然科学も包含する。だから、ソシュロスも、当然、天文に心得があった。




 そこに人影が近づいて来た。
「どうなされた記録官殿」
 ハンニバルである。
「お、これは総司令」
「何か兆しがありましたか」
 草を踏みしめ、ざっざっと近づいて来る。
 この時、ハンニバル、四十歳。
 遠征開始から、早十二年。風雪に耐え、幾多の難敵を倒し、なおかつ勝利の後に訪れる油断を戒めた。その彼の断固たる統率に、互いに言語も解さぬ将兵たちは結束乱さず、繰り返し押し寄せるローマの挑戦を退けて来た。
 戦局は、只今劣勢とはいえ、時運の転変はいつ起きるとも限らぬ。その時に備え、彼とその軍団は忍耐強く行動して来た。
 今回、ようやく反転攻勢の機会を掴むべく、ようよう進撃して来たものだ。




「あ…いや、格別何も…」
 ソシュロス、言葉にうろたえを見せた。
「ふふ」
 ハンニバル、隻眼を細めた。
「記録官殿は、人を欺くのが苦手と見える」
 その語気には親しみがこもっていた。なにせ、この十数年、労苦をずっと共にして来たのだ。もはや家族同然。いや、生死をくぐり抜けた戦友。家族以上であろう。
「天文に良からぬ兆しがあったものでしょう。予め凶兆を知るは吉とか。凶兆ならば、なおさら聞きたいもの」
「は…そういうことでしたら」
 ソシュロスは、北の天空を指差し、
「北方に不吉の兆しあり。恐らくは、凶報が間もなく届くのではあるまいかと」
「北方…」
 北といえば、弟がまさに南下を始めようとしているところ。
 急に胸騒ぎがして来た。




 その時である。
「総司令!」
 ボミルカルの子ハンノンがやって来た。紅顔の将であった彼も、壮年の年齢に差し掛かっていた。
「どうした」
 ハンニバル、空を見上げたまま訊いた。
「マニアケスがやって参りました」
「なに…」
 ハンニバル、振り向くと、隻眼を光らせた。
「弟と行動を共にしていると聞いていたが…」
 そう。ヒスパニアのジスコーネから使いがやって来て、彼女をイタリア遠征に出たハシュドゥルバルに付けたとの連絡があったからだ。




「一人か」
「はい…」
「むうう」
 先に、彼女がハシュドゥルバルに従ったと聞いた時、ほっと安堵するものを感じたハンニバルであった。彼女の機敏と思慮があれば、弟の遠征も安全になると思ったからだ。
 それが、単身ここに来たというではないか。先ほどの凶兆の話と合わせ、否応なく胸騒ぎが大きくなる。
「とにかく幕舎で話を聞こう」
 ハンニバル、歩き始めた。だが、心の騒々しさが急かせるのか、早足になり、ついには駆け始めた。ハンノンとソシュロスが、その主に駆け足で続いた。


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 メタウルス河畔の戦い−正装(さらに続き)
「閣下…」
 マニアケス、呆然とした面持ちで見詰めるばかり。
「感謝しておるのだ」
 ハシュドゥルバル、この死地にあって微笑んだ。
「我が義兄と同様にな。だから行け。そなたはここで死んではならぬ。兄のために最後の日まで尽くし、ローマを倒すのだ。それが余の願い」
「閣下…」
 なおもマニアケス、見詰めていたが、大粒の涙を溢れさせると、
「御免!」
 馬首を巡らせ、鞭打って、馬を飛ばしていった。




「これでよし」
 ハシュドゥルバルは、安心の色を瞳に浮かべると、離れずに従う近侍の者に命じた。
「礼装を出せ」
「ははっ」
 大きな箱から取り出したのは、公の儀式などで着用する、カルタゴの将軍たることを示す豪奢な礼服である。
 ハシュドゥルバル、彼に手伝わせ、その正装に身を包んだ。
 そして、再び馬上の人となると、剣をすらりと抜き放った。
「諸君!」
 周囲には、彼と運命を共にすること覚悟したカルタゴ人将校たちが集まっていた。
「運命極まれり。この上は、最期まで奮戦し、名を後世に残すのだ!」
「おおおっ」
「行くぞ!」
 ハシュドゥルバル以下、数十騎の騎兵が火の玉のようになって敵に突入していく。




 ハシュドゥルバル、馬を駆り、群がる敵勢に高々と名乗りを上げた。
「我こそ、誉れ高きハミルカルの次男にしてハンニバルの弟ハシュドゥルバルぞ!ローマの雑兵どもよ、かかって参れ!」
「なにっ!」「敵将ハシュドゥルバルとな!」
 ローマ兵は、一斉にその方を向いた。
 そして、第一の功名を得んと殺到した。
「はは。死出の道連れになりたい輩は向かって来い!」
 ハシュドゥルバル、自慢の剛剣をぶうんと振り払った。
「わっ」「ぎゃっ」
 一気に数人のローマ兵がなぎ倒される。そう。ハシュドゥルバルは、人も恐れる猛将なのだ。その彼が死を覚悟して突っ込んで来ている。並の者が敵う筈もない。
 功名を焦ったローマ兵が次々真っ二つにされていく。




 だが、この頃、カルタゴ軍は潰滅状態であった。なおも生き残る兵はローマ兵の槍に突き伏せられ、あるいは四散していった。
 ローマ全軍の兵馬は、既に、この敵将を真ん中に分厚く取り囲んでいた。
 やがて、一人、二人倒れ、ついにハシュドゥルバル一人になった。なおも獅子奮迅に剣を振るっていたが、その彼も、無数の穂先にかかり、ついに大地に崩れ落ちた。
 こうして、ハミルカルの次男、ハンニバルの弟ハシュドゥルバルは、このメタウルス河畔にて壮絶な最期を遂げたのであった。




 彼の死に様を、ある歴史家が絶賛している。
『名将の多くは勝利における振る舞いは立派であるが、敗北のことには思いをいたさぬ者が多い。それゆえ、敗北の折、惨めなほどにうろたえを見せる』
 そう述べた後、こう続けた。
『ハシュドゥルバルは、勝利の見込みある間、己の生命に配慮し全力を尽くした。そして、全ての希望が閉ざされた後、己の名誉のために潔く最期を遂げた。これこそ名のある将のあるべき振る舞いである』


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 メタウルス河畔の戦い−正装(続き)
 ネロ率いる騎兵二千は、丘を迂回してメタウルス川に出ると、川沿いの際を転落しそうになるのを堪えて駆け抜けると、ハシュドゥルバル隊の背後に出た。
「さあ、諸君!ここからは運試しぞ!勝てば無上の栄光!負ければ死!」
 そう。勝たねば、川に追い落とされ溺れるしかない。
「それっ!敵の背後に突っ込め!」
「おおおっ!」
 ローマ騎兵二千は、火の玉の如くになって突撃した。
「あっ!敵襲だ!」「敵の騎兵隊だ!」
 全く警戒していない方角から、騎兵の突撃を受け、ハシュドゥルバル隊の後方はどっと崩れた。
 そこをさらに深く突き進み、ネロ以下、ローマ騎兵は暴れ回った。
 後方の乱れに、それまで勇猛に戦っていたイベリア兵やリュビア兵も、途端に腰砕けになってしまった。
 ために、サリナトル隊も俄然勇気を取り戻し、押し返して来た。
 前後からの攻撃に、ハシュドゥルバル隊は、急激に崩れたった。




「うむむ」
 ハシュドゥルバルは、追い詰められた猛獣の如く、唸り声を上げていた。
 この頃、左翼のガリア部隊も敗走に転じていた。象も制御不能となり、ローマ兵の投げ槍を雨あられと浴び、地響き立てて倒れていく。中央の丘も、ローマ軍の旗が高々と掲げられていた。
 圧倒的優勢が、僅かな間に、たちまち敗色一色に塗り潰されつつあった。




「閣下!」
 マニアケスも、今は敵との格闘に大わらわになっていた。ようやく難敵を倒し、駆けつけて来た。
「我らが支えている隙にお逃げください!」
 だが、ハシュドゥルバルは首を振った。
「もはやこれまで」
「閣下!」
 マニアケス、目を剥いた。
「兄ハンニバルに伝えよ。弟ハシュドゥルバルは、この地で見事果てたと」
「何を仰せになるのです!」




「行け!」
 ハシュドゥルバルは眦を決し命じた。
「これは命令だ!そなたは、兄のため、その最後まで働くのだ!それが我らバルカ家に従った最初からの約束!」
 ピュレネの麓での出来事が、二人の脳裏に明滅する。
 マニアケスは、義兄ハシュドゥルバルの命を賭けた愛に報いるため、命を捨てて、バルカ家のために働きたいと申し出て来た。兄ハンニバルはそれを容れた。それに対し、ハシュドゥルバルは激しく反対し、成敗するべきだと息巻いた。
 その二人が、今は、こうして信頼で結ばれた君臣となっている。


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 メタウルス河畔の戦い−正装
 こちら、ハシュドゥルバル隊。
「それっ、あと一息ぞ!一気に押し込むのだ!」
 今が戦機と、後方の兵力も全て前方へ投じ、一気呵成に押し込んで来た。
 サリナトル隊は、敵の圧倒的攻勢にずるずる退がり始めていた。
「ええい!退くなっ!敵は烏合の寄せ集めぞ!」
 執政官サリナトルも、ここを一期と、隊列の前面に出て味方を鼓舞し続けていた。
「コンスル閣下!」
 悲鳴にも似た声が上がった。
「どうした!」
「敵が丘から攻め下ってまいりますぞ!」
「なにっ!」
 そう。丘の上のアロブロゲス族の一隊は、ネロ隊の攻撃を退け、以降来襲がないと見るや、一散に駆け下り、サリナトル隊の側面を衝いて出たのだ。
 ために、さしもの重厚なサリナトル隊の隊列もどっと乱れたった。




「ええいっ、右翼のネロ隊は何をしておるのか!」
 サリナトルは怒った。
 こちらの味方が窮地に陥れば、救援に駆けつけるとの約束だ。だが、右翼のネロ隊は隊列を保ち動かぬまま。
 この間、サリナトル隊は三方より取り囲まれる格好となり、勇敢な重装歩兵も腰が引けて来た。
 サリナトル隊の抵抗の線は破られる寸前となっていた。
(くっ、退却するほかないか…)
 サリナトル、きりりと歯噛みした。
 が、この時この瞬間、歴史を刻む時は、大きく動き始めていた。




「マニアケス、勝ったぞ」
 ハシュドゥルバルは目を輝かせた。
「はいっ」
 マニアケスも美貌を輝かせた。
「我らも前進するぞ」
 とどめを刺そうというのだ。彼の周囲には、まだ直属の精鋭が分厚く控えている。
 だが、その時であった。右斜め後方が俄にどっと崩れたった。
「む。何があった?」
 後方は、昨晩来の豪雨で増水しているメタウルス川。だから、敵の攻撃で追い落とされることは警戒しても、その方面からの攻撃は全く警戒していなかったのだ。
「閣下!大変です!」
「どうした」
「敵です!敵のネロ隊が斬り込んできました!」
「なにっ!」
 ハシュドゥルバルは目の色を変えた。


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