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凶星(続き)
幕舎に戻ると、マニアケスは既に平伏していた。よほど、道中難渋したのか、装備は所々ほつれ、深紅のマントは泥にまみれたままであった。
「顔を上げよ」
「は…」
答えたものの、マニアケスは顔を上げない。
「どうした…何かあったのか」
ハンニバル、そう訊いたときには、既に何が起きたか半ば悟っていた。
「申し訳ございませぬ」
彼女、額をこすりつけるようにして詫びると共に、事の次第を報告した。
そして、メタウルス河畔で合戦に及んだこと、優勢に戦いを進めた後、背後からネロのの逆襲を受けて味方が潰滅したこと、最後に、ハシュドゥルバルが正々堂々最期を遂げたことを簡潔に一気に報告した。
幕舎の内は、しんとなった。
それは大きな望みが断たれたことを意味したからだ。イベリア・ガリアの戦力と一つとなり、再びローマに押し寄せるという希望が見事に断ち切られた格好だ。
「お…お前」
ボミルカルの子ハンノンが、よろよろとマニアケスの許に近寄ると、突然、その胸ぐらを掴んだ。
「なぜ、弟君を助け出さなんだ。なぜ、貴様一人で逃げて来た」
「その弟君の命令だ」
「なんだと」
「汝はこのことを告げよとお命じになられた。汝は兄の許で最後まで働け…と」
堪えきれなくなったのか、マニアケスの両の瞳からも、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ち来た。
「そなたに責められなくとも分かっている。なぜ助けることが出来なんだのか、と。そんなことは分かっているのだ」
恐らく、道々、強烈なる悔悟の念が、自身を苛んで来たに違いない。気丈な彼女が涙をこぼし続けている。
誰もがここに理解した。
マニアケスが単身逃れ得た来たこと、それ自体戦いの苛烈さを物語って余りあるし、そもそもハシュドゥルバル救助など望むべくも無かったのだということを。
ハンノンの掴む手がふっと緩んだ。
そして、崩れ落ちると、地を叩いて彼も嘆き始めた。
その時、幕舎の外が急に騒然となった。
「む、何事だ」
と、そこに衛兵が飛び込んで来た。
「総司令!大変です!」
「何があった」
「は。敵の騎兵が陣門近くにまで駆けて来て、袋に包まれたものを我が陣中に放り投げ、駆け去っていきました」
「何を投げつけて来たか」
「は…それが…あのう…」
途端に、しどろもどろになった。
「はっきり申せ!」
叱ったのはハンノン。
「はっ、弟君ハシュドゥルバル様のお首にございます」
「なに…」
さしものハンニバルも絶句した。
そう。執政官ネロは、メタウルスの会戦に勝利した後、急いでハンニバルのあるアプリアに駆け戻って来た。そして、勝利の証として、騎兵に命じ、ハシュドゥルバルの首を敵陣の中に投じさせたのである。
しかも、彼の首は剥製にされていた。ネロのハシュドゥルバルに対する憎悪がこれほどはっきり窺えるものはないであろう。
『黒岩』の屈辱が、彼をしてこういう振る舞いに及ばせたものだ。
「ざまあみろ」
ということなのであろう。
だが、ハンニバルが、敵将を倒すたびに丁重に弔い、将の礼を尽くしたことを思えば、これは名のある将の振る舞いとはいえない。勝利に思い上がった、と評されてもやむを得ないであろう。
ハシュドゥルバルの首は、箱に収められてから、ハンニバルの許に運ばれた。
ハンニバル、変わり果てた弟の首を取り出した。そして、しみじみと眺めた後にこう言った。
「ご苦労であったな、弟よ。聞いたぞ。そなたは見事な最期を遂げたそうな。父上に堂々報告せよ。バルカ家の名を辱めず最後まで戦いました、とな」
そう語りかけるハンニバルの隻眼に、一粒の涙が光っていた。
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