|
https://novel.blogmura.com/novel_historical/ にほんブログ村
↑
ランキングに参加しています。お越しの際には応援の1クリックをお願いいたします(1日1回有効)
姉と語り合う
ここカルタゴ本市。今、ここは息詰まる戦時下にあった。
兵役を免除される市民は、ローマとの戦時中もずっと普段通りの生活を送って来た。
だが、スキピオのアフリカ上陸、コルネリア要塞建設からはその生活はまさに一変。
しかも、先にウティカの戦いに敗れたジスコーネの軍勢が敗走して来ると、街全体を沈鬱な空気が支配した。
「あの傭兵の乱と同じになって来たぞ」
「市外は全て敵。我らどうすればよい」
古老はかつての大乱の記憶に怯えを呼び覚まし、若者は嵐に漂う小舟の上にある如き不安におののいた。
元老院も動揺の例外でなはなかった。
元老院は、和平が白紙となってから独自の作戦に出ていた。海上からコルネリウス要塞を包囲し、かつ陸上の途を封じ、スキピオ軍の補給を断つ作戦だ。
「これならばスキピオも音を上げよう」
あのボミルカルの子ハンノン主導による作戦だった。
だが、ウティカの大敗により企ては見事に頓挫した。
「これから一体どうすればよいのか」
「いっそハンニバル殿を呼び返すか」
バルカ党は、この頃から『ハンニバル帰還』を切り札の一つに思うようになっていた。それは困った時の神頼みにも似ていた。それは、カルタゴ本国における人材不足を、如実に物語っていた。
「いや…ハンニバル閣下の帰還はまずい」
ボミルカルの子ハンノンが言った。
彼は、今や本国バルカ党の代表の座にある。だから、ジスコーネの勢力に対し、主導権を握るにはハンニバル帰還は望ましい筈であったが、その彼が首を振った。
「今、ハンニバル閣下を招き寄せれば、イタリア全土がローマに平定されてしまう。ローマは、ハンニバル閣下に向けていた兵力を、全てこちらに向けて来るに違いない」
この頃、ハンニバルの弟マゴーネの艦隊が、リグリア上陸を果たしていた。そして、リグリア人の協力の下、アペニン山脈を越えエトルリアないしウンブリアを窺っていた。
即ち、南北よりローマを牽制する作戦だ。
恐らく、ハンノンの許に、ハンニバルとマゴーネの意向が伝わっていたに違いない。
それゆえ、ハンノンはこう判断するしかなかった。
「ここは、ジスコーネ殿に再度出馬を仰ぎ、マサエシュリと共にローマ軍に当たってもらう他ない」
バルカ党の意思即ちカルタゴ元老院の意思。
元老院はジスコーネを司令官とする軍勢を出陣させることを決議した。
その頃、帰還したジスコーネは、とある人物としみじみ語り合っていた。
それはマゴーネの妻エリッサである。ジスコーネの姉でもある。
「左様でござるか…。マゴーネ殿は、無事リグリアに上陸なされたか」
「ええ。先日ようやく便りがありまして」
マゴーネは、ヒスパニアを喪失してガデスを海上へと退去してから、バレアレス諸島やカルタゴ人の拠点イビサ島を巡り、兵や軍船を集めながら東へ進んだ。
そして、途中で妻子をカルタゴ本国に送ると、自分はそのままリグリアに向かった。
「再びイタリアに上陸し、兄ハンニバルと共に、南北からローマを攻め立てる」
即ち、メタウロスに倒れたハシュドゥルバルの果たせなかった事業を引き受ける覚悟であったのだ。
「わたくしは同行をお願いしたのですが…」
エリッサの面には、寂しげな影が一筋差していた。
が、夫マゴーネはこういって許さなかったという。
「そなたは息子を連れカルタゴに帰れ。余はそれを心の寄る辺に奮闘するつもりだ」
夫は甲板の上で、日焼けした顔を綻ばせた。
それは、かつてハンニバルが妻イミリケに言い渡したのと同じ言葉。
ジスコーネは頷いた。
「やむを得ますまい。マゴーネ殿の思いやり」
「思いやりなら、一緒に来い、そう言ってほしかった…」
姉の苦情に、弟は苦笑した。
「夫が妻子の安全を祈るのは当然の事ではありませぬか」
「いいえ」
エリッサは首を振った。
「夫婦とは共に生きてこそ。イミリケ殿を間近に見て、その念を強くいたしました」
「イミリケ殿…」
イベリア総督の妻、大司令官ハンニバルの妃と重んじられていても、ハンニバルのイタリア遠征の間、夫と暮らすことは全く叶わず、彼女はずっと孤独に耐えて生きていた。
「イミリケ殿は本当にお気の毒。それに対して、我ら夫婦、対ローマ戦の逆境の年月が長く続く中を暮らしましたが…。とても幸せでした」
エリッサは、しみじみそう言うのだ。
(そういうものか…)
男は名誉と富を得る。そして、女は男の妻となりその名誉と富に与る。それが、この時代の普通の感覚としての、幸福の概念であった。
(だが、違うらしい)
ジスコーネ、男の思う幸福と女の思う幸福の違うことを、この時実感した。
「なるほど…。男と女は、穏やかに夫婦として生きるのが最上なのやも知れませんな」
そう言葉を紡ぎながら、自分も、かつて戦いを回避するため奔走したのも、結局はこれが理由だったのだと思い起こしていた。それ全て、知友との対決を回避し、穏やかな日々を守るため。
それは叶わず、今、スキピオやマシニッサを敵に回していた。
カルタゴ軍司令官と人々に仰がれる身ながら、ずっとどこか居心地の悪い思いがするのも、こういうことなのだと腑に落ちた。
(そうか…こういうことなのだ…)
それは、淡い悔いにも似た、甚だ苦い味のする真実であった。
|