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ハンニバルその後−野原に散る(続き)
その頃、ハンニバルは北の山路を目指して逃げていた。
ミルトが女中に扮し口実をかこつけている隙に、屋敷に戻り、秘密の地下道を抜け、脱出して来たもの。その地下道は幾筋にも分かれ、その一つ、山路に通ずる地点に出られるようになっていた。
鉱山開発の得意なバルカ家の出、そこいらの技術には通じていたに違いない。
直前、屋敷にて逃亡の準備を整えるハンニバルは、そのミルトと落ち延び先について、口早に話し合っていた。
「そなたに命じた人は、行き先を示していたか」
「は。ボスホロス王国がよかろうと仰せでした」
「ボスポロス王国…さすが目の付け所がいいな」
ボスポロス王国。クリミア半島とその周囲地域を支配していたギリシア系の王国。
ポントス海(黒海)の北岸要衝を支配し、交易が盛んであった。また、ここは地味の豊かな土地(黒土地帯)で農業も盛んであった。
この国の歴史は今ひとつ判然としないが、クリミアに入植したギリシア人の植民都市が連合し、やがてトラキア系の人物が王位に推戴され王国となったようである。個々の都市(ポリス)の自立、ギリシア人としての血脈を重視するギリシア人都市としては異例の経過である。
が、半島に接する大陸には大遊牧勢力スキタイの本拠があり、またクリミア半島内にも非ギリシア人の部族勢力があった。彼らとの対抗上、強力な指導者が求められ、それが王権成立となったものであろう。
この王国は、一応ギリシア世界にくくられるが、これまでギリシア本土で覇権を握ったアテネ、スパルタ、テバイ、マケドニアの支配に服したことはなかった。強力な独立自治を保って来た。この頃(紀元前183年)には往事の勢威を失っていたが、ローマの世界秩序に服さない数少ない国家の一つだ。
「船を用意しておりますれば、それにてお向かい遊ばしますよう」
ミルトが勧めた。それは海路プロポンティス海(現マルマラ海)を経てポントス海に出る航路である。
だが、ハンニバル、これに頷かなかった。
「よい。そなたはもう帰れ」
「え…しかし。それでは…」
彼女に命じた人は、ハンニバルが無事亡命を遂げるまで見届けよと指図していた。
ハンニバルは隻眼に穏やかな微笑を浮かべた。
「そなたはローマに生活するローマの女。ここまでで充分過ぎるほどだ」
逃走を共にすると、どんな危険に遭うかも知れない。そして、何よりもミルトを送り込んでくれた人に迷惑をかけるかも知れない、そのことを危惧した。
「ありがとう。ミルト」
ハンニバルは彼女の手を親しく取った。
「閣下…」
「そなたも余の運命に振り回された一人」
そう。ミルトはギリシア人奴隷でマニアケスに買われ、その配下で隠密活動に携わった。その後、カプア陥落を機に脱走してローマに走った。
「そのそなたが、こうして最後まで余のことを助けてくれる。感謝せずにはいられない」
この言葉は、ミルトの背後にいる人にも向けられたものであろう。
「スキピオ殿、そなたの夫ラエリウス殿にも、呉々も感謝申し上げておいてくれ。ハンニバル、終生、恩義を忘れることはない、と」
ハンニバルとマニアケスは、この瀬戸際に笑顔を並べていた。
(なんと穏やかな…)
ミルトには、二人が、まるで長年連れ添った夫婦のように見えた。
「分かりました。それではこれにて失礼いたします。どうか、くれぐれもご注意を」
それは、これが今生の別であることを意識したもの。
マニアケスが近寄ると、女二人、急に感情が込み上がって来たものであろう、さめざめと何か語り合った。思えば、不思議な縁に結ばれた人々。その感情は想像もつかない。
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