|
カンヌ映画祭での「ダヴィンチ・コード」を見た感想がニューヨーク・タイムスに投稿されている。映画も結構面白そうであるが、この批評も結構いい線をいっているような気がする。要するにハリウッド映画は見てもいいし、見なくてもいいということか。
ニューヨーク・タイムスの記者
カンヌ、フランス、5月17日
昨今は映画を公開すれば、もめ事とあれば飛びつくマスコミで、多少の文化摩擦は避けられないみたいである。ー「キリストの受難」とか「ナルニア国物語」ー とりわけ宗教が絡んだ論争が起きると商売に都合がいいみたいである。ダン・ブラウン原作の「ダヴィンチ・コード」、どうすれば英語を書かないですむかの初等読本であるが、この映画化は神学的・歴史的論争からふみだしてしまった。
この映画とその原作に関する議論は数千年も続いてきたわけではないが、そう感じさせる。コロンビア映画の巧みなマーケッティング戦略により、最後の瞬間まで誰にも映画を見させずに、論争や憶測を煽ってきた。
かくしてイエスとマグダラのマリアの婚姻前の了解からオパス・デイの秘密に関する膨大な解説記事が出てくることになり、われわれを悩ませたのである。しつこい質問が投げかけられた:
キリスト教会は陰謀団体なのか?
「ダヴィンチ・コード」は危険な反キリスト教的な悪ふざけなのか?
トム・ハンクスの髪はどうなったか?
幸いにして学がないので最初の二つの質問には答えられない。第三の質問には答えられる。彼の髪は長かったし、映画も長かった。カンヌ映画祭の幕明けとなった「ダヴィンチ・コード」は、映画化された作品としては珍しく見ている時間が読む時間を上回っている。(ハワード監督は同じような芸当を「グリンチ」でやってのけた)
監督とアキヴァ・ゴールドマン(二人は「シンデレラ・マン」と「ビューティフル・マインド」で一緒に仕事をしている)がブラウンの原作を簡略化し、うーん彼独特の散文スタイルというのであろうか、それをつとめておさえているのは手柄である。「ほとんど信じられないが、彼女が見つめていた小銃は長髪の巨きな白子の血の気のない手に握られた。」たとえばこの「ほとんど」などというお上品な言葉等は本に残るのみである。
公平に見てゴールドマンは彼一流の会話にしたといっていいであろう。「あなたの神様は殺人者をお許しにはならないわ」とオドレイ・タトゥはポール・ベタニー(彼は巨人というほどではなく、長髪でもない白子役を演じている)に向かってさけぶ。「神様に焼き滅ぼされるわよ!」
神学上の問題はさておき、この所見で記憶すべきは、「ダヴィンチ・コード」はあくまでも殺人サスペンスということである。一旦進行し始めれば、ハワード監督の映画はそれなりに面白い。二人は器用に筋書きを書き換えている。(私はここで不満を言う気はない)そのままにしたものもあるし、うまくひねくってあるのもあるし、アクションをスムースにするために筋書きにない話を持ち込んだりもしている。
ハンス・ジマーのほどよく緊張した音楽は、ポップ・ロマンチックに教会の典礼音楽がミックスしてあり、うるさくて惰性にながれるシーンをうまく運んでいってくれる。映画も上手く流れていく。しかし時には加速し、途中で急発進して道路にタイヤの跡をつけたりして、登場人物を紹介し、その役や理由をはっきりさせている。
筋書きをかいつまむと、ある老人(ジャン・ピエール・マリエル)がフードをかぶった殺人者により、信じがたいことに、ルーブル閉館後に腹部を撃たれて殺される。、一方、ハーバード大学宗教シンボル学の教授、ロバート・ラングドン(トム・ハンクス)は講演し、ファンが持ってきた本にサインをしていた。フランスの警察官ベズ・ファーシュ(ジャン・レノ)は彼を殺害現場に呼び出した。警察官は不機嫌そうであった。多分彼が所属する課がシェービング・クリームの予算を削減したせいであろう。
間もなくソフィー・ヌブと警察官ベズ・ファーシュが現れる。彼女は警察の暗号解読の専門家であり、被害者の孫娘でもある。お祖父さんは何か重要な秘密を知っていたらしい。これが暴かれると、西欧のキリスト教、とくにろローマ・カソリック教会を根底から揺るがしかねない秘密である。恰幅のいいカトリック教会の司教アリンガローサ(アルフレッド・モリーナ)はこの瞬間に飛行機に乗っていた。一方、白子の修道僧、その名をシラというが、彼は映画史上始めて携帯電話でラテン語を話し、自らをむち打ち、教会の床を打ち壊し、尼僧を殺す人物である。
アメリカの警察官さながらにベズはチェイスする。パリの夜の街からついに翌朝にはロンドンにまで飛ぶ。途中フランスの田園地帯にある、ローマ時代の城郭とシャトウにも立ち寄る。道中で、映画は立ち止まっていろんなな装飾品や芸術品を鑑賞する。ぼかして回想シーンを取る場面もある。(ラングドンは井戸に落ち、ソフィーの両親は自動車事故で死亡する。シラは虐待する父を刺す)
さらに歴史上の場面もでてくる。コンスタンチン大帝の回心、テンプラー騎士団の弾圧、粉を振りかけたカツラをつけて歩く時代のロンドン。
ハンクスもタトゥも困った顔をしてただつっ立っているだけで、魅力をしまい込んだままである。ハンクスは口をゆがめるが、彼の職業からくる懐疑精神の表現であるらしい。さもなくば控えめで温厚な感じでのんびりやっている。タトゥは彼女の名前がインターネットで「お転婆」のキーワードで検索されても彼女が出てこないようにしたいのか、心配でやつれたふりをしている。
(本よりはかなり少ないが)女性神、カリス、剣、性的結合の霊的力に関するお喋りにもかかわらず、二大スターにはまったくエロティシズムが点滅することはない。多分それでいいのだろう。暗号解読者とシンボル学者がいい感じになったとしても、涙で終わるのが普通である。
しかし、イアン・マクレランを選んでくれたおかげで、「ダヴィンチ・コード」に刺激を与えてくれた。彼はリー・ティービングという裕福でエクセントリックなイギリスの学者を演じている。(原作者ブラウンをほめていい。彼はネイミングが上手い。私に双子かフレンチ・プードルが2匹いたら、ベズとティービングと呼ぶことにしよう。
二本の杖をつき、召使いレミ(ジャン・イブベルテルー)を怒鳴りながらも、ティービングはときに敏捷で、優しく、次の瞬間狂ったように吠える。サー・イアンはイタリア絵画や中世の彫像についておしゃべりしながら、人生の時を過ごしているようである。映画製作者を、もっと面白いものを制作すべきだと非難するときには非常に元気になるようである。
タンタン漫画を経由してイギリスの探偵物からやってきたティービングは恐ろしく非常識な男である。アメリカ映画で不遇だったイギリス俳優の通例どうり、サー・イアンは高い信念と高い階級とは不可分という演技をしている。もう少しこのばかばかしさがあったら、「ダヴィンチ・コード」は旧式でお上品なユーロ・スリラーになっていたろう。
もちろんこの種の映画はイエスの神性や聖盃物語を扱うことはまれである。この種の話題はモンティー・パイソンに任せられる。ハワード監督とゴルドマンは細心の注意を払ってブラウンの原作の挑発的とされる部分を扱っている。信仰と歴史に関する結論には、ありふれた金言をつけてまったく無難な結論で締めくくっている。
したがってこの騒々しく、見え見えで、人畜無害の映画のボイコットする気にも、擁護する気にも私はなれない。見に行くことをとくにお薦めはしないということである。
「ダヴィンチ・コード」は PG-13 (保護者許可指定)である。乱暴な殺人と冒神場面がある。
明日世界で公開
|
どこかの国では18歳以下は禁止になっていましたね。全てが意図的に思えます。映画会社のプロモーションと宗教側のパブリックリレーションのしのぎあいです。両者の活動に有効でしょうね。
2006/5/21(日) 午後 2:49
その国はカトリック教国でしょうかね。教会に配慮したのでしょうか。ハリウッド映画ですから、見に行く必要はないのでしょうけど。上の訳がどこまで間違っているかたしかめるために行くかもしれません。もう読まなくてもいいような文章しか訳せない齢になったことを確認する意味で行くことになるのでしょうか。それはともかく、聖母マリアからマグダラのマリアに人気が移っているみたいです。その辺は社会現象として興味があります。
2006/5/21(日) 午後 3:49 [ fminorop34 ]
「ダヴィンチ・コード」はまだ本を読んでいません。映画を見るかDVDになったときに観るかです。キリスト教に反発よりバチカンの宗教行為に批判されているのですね。
2006/6/1(木) 午前 0:34 [ Rボーダー(´・ω・`)つ ]
私も読んではいませんが、噂はだいぶ前から聞いていました。キリストとマグだラのマリアについては以前から言われてました。宗教的にはそれほど新しい物ではなく、スリラー小説に仕立てたのが面白かったのでしょう。映画の評判は芳しくないようですね。
2006/6/1(木) 午前 9:28 [ fminorop34 ]