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私は1970年7月19日にナポレオン三世がプロシアに宣戦布告し、やがて私の好きなバジールという初期印象派の画家が義勇兵として参加し、印象派の画家としては唯一の犠牲者になったことを書いた。印象派の勝利を見届けることなく、29歳の若さで戦死した。
http://blogs.yahoo.co.jp/fminorop34/39435611.html
普仏戦争はナポレオン三世自身が捕虜になるというセダンの屈辱的大敗で、戦争の帰趨はけっしていた。ここで講和となれば、「僕は絶対に死ぬものか、僕にはしなければいけないことがいっぱいある」とメモしていたバジールも捕虜になり、帰還できたはずである。だがナポレオン三世のあとに登場した政権は、徹底抗戦を主張して戦いは継続された。その結果「ロバに率いられた獅子達」の一人バジールは戦死した。
その後パリ・コミューンを印象派の画家たちは体験する。ムッシュー・ルノアールMonsieur Renoirは市民ルノアールle citoyen Renoirとなった。やがてパリ・コミューンは崩壊し、市民ルノアールはムッシュー・ルノアールにもどった。事実印象派の人達で一番に貧困から抜け出したのは貧乏人の小せがれで、陶器の絵付け工から画家を目指したルノアールであった。次ぎにモネであろうか。
本来印象派というのは、共産党宣言のようなマニフェストを掲げた未来派とか超現実主義者とはちがう。仲良しグループである。それも差別と貧困を共有することにより成立していた友情である。抜け駆けして裕福になる連中がいるとたちまちこのグループは危機にさらされる。ましてバジールというきわめて善良な人物を失ったのである。
決定的なのは1894年のドレフュース事件であった。フランス人はユダヤ人ドレフュスの冤罪事件で完全に二派にわかれた。この事件で、印象派の人達がどう動いたかは事件の推移にはマイナーなことである。芸術と思想は本来無関係である。たんなる好奇心で詮索するのは良くないように思われる。ただフランスのユダヤ人問題は、エリザベト・シュワルツコップの死亡記事で取り上げたナチ党員問題と共通する。私達には分かりにくいユダヤ人問題であるが、私達も同様のことをし、されているのかもしれない。
くだらないことばかり知っていると思われるかもしれあいが、ウェッブではのっていない。1894年に生きていた画家で私がいずれの派に属していたか記憶しているのは、ルノアール、モネ、ドガ、ピサロ、メアリー・カサットそれに印象派ではないがロダンである。
今日は戦死してドレフュス事件を体験しなかったバジールが描いた彼のアトリエ風景から初期印象派の人達を紹介することにしよう。バジールが戦死する一年前に取り組んだ絵である。オルセー美術館所蔵である。
左手に腰を下ろしているのは、小説家ゾラ、階段の上から彼に話しかけているのはルノアール、キャンバスを後ろから見ているのはモネ、キャンバスに直接向かっているのはマネ、次ぎにひときわ長身の男がバジール、右でピアノを弾いているのはバジールの親友であるメートルである。これは印象派の人達の群像としてはピサロもシスレーもいないと言うことで不完全ではあるが、私が好きなバジールが描いた、彼の好きな人たちの肖像である。
もう少しリアルな群像をみたい方にはファンタン・ラトゥールの絵がある。
http://www.abcgallery.com/F/fantin-latour/fantin-latour4.html
こちらの方がリアルで人数も多いが、絵を描いているのがモネであり、背の高い男がバジールである。あとはいずれ紹介する。
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