|
さてバジールのアトリエ群像の2番目がひときわ背の高いバジールであり、この群像画の作者である。彼自身の肖像に関しては彼の筆にあるものではないという話がある。ゴッホの肖像画に関連して書いたが、人間は自分自身を見ることができない。したがって鏡に映った自分か写真に写った自分しか見ることが出来ない。
上の絵は彼の自画像である。ゴッホの場合と同様鏡像である。これで見る限り彼は右手でパレットを持ち、左手で絵筆をもっているようにみえるが、彼が右利きであることはルノアールが描いたバジールの肖像画が証言してくれている。
http://www.abcgallery.com/R/renoir/renoir7.html
彼の代表作になった「一族の再会」について私は7月20日「バジールという画家」と題して投稿した。
http://blogs.yahoo.co.jp/fminorop34/39435611.html
この絵は八ヶ月かけて丹念にスケッチして描き上げたものだが、写真屋を呼んで撮影されたという説は、一般に受け入れられている。たしかに記念写真的である。
一方バジールのアトリエの群像写真であるが、これは写真屋を呼んだものではない。だがバジール自身がいる。画家が群像に入っているのは19世紀以前の大家たちの絵にはよくあることだが、本来自分の眼で見たものしか描かないという印象派のリアリズムの理念には反する。実は彼の死後マネが描き込んだものということになっている。マネは女流画家ベルテ・モリソの絵に修正をしてずいぶん恨まれた前科のある人物である。
1870年11月28日ボーヌ・ド・ラ・ローラン(オルレアンの近く)の両軍にとってたいして意味のない戦闘でバジールは戦死した。父親はとんでいき、8日間探し回ったあげく、すでに埋められていた息子の遺体を見つけた。身長のせいで彼が戦死した可能性は大いにあるが、その身長のせいで遺体も特定しやすかったのかもしれない。父親は御者を雇い南フランスのモンペリエまで遺体を運んだ。彼が無言の帰郷をしたのは12月14日であり、彼のアトリエの群像写真を描き終わってから約一年後のことである。
したがってユダヤ人ドレフュスが敵国ドイツ人に軍事情報を漏らしたとされる事件にたいして、バジールが自分の意見を表明する機会はなかった訳である。もし彼が無事生還していたらという歴史シミュレーションはナンセンスである。
それを承知の上で憶測してみるのだが、彼の人柄と戦争体験、宗教的信条からするとドレフュスを擁護したのではないかと思われる。あるいは私自身がそう思いたいのかもしれない。
そもそもユダヤ人の冤罪事件の背景には、貴族出身の将校からなる軍部とフランス人の日常生活全般を支配していたカトリック教会がある。両者はともに反ユダヤ的である。バジールは戦闘に軍部に対して不信感をつのらせてきた。また彼の家はフランスでは少数派のプロテスタントである。なによりもドレフュス擁護派のリーダーであるゾラと非常に近い関係にある。
ただ簡単に人柄や環境だけでは判断できないのがユダヤ人問題である。
|