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マネの自画像があるが、もう一度バジールの絵を見よう。
バジールのアトリエの群像画で右から三番目に出てくるのはマネである。彼はいわゆる印象派の画家ではない。
印象派と呼ばれるにはいくつかの要件がある。まずこのバジールのアトリエの近くにある「カフェ・ゲルボ」で芸術を語っていた連中である。マネはこの店の常連であり、中心人物であった。ほかの常連はマネ、ルノアール、バジール、シスレーであった。
もう一つの要件は「印象派展」への出品である。印象派の画家は画壇から認められず、物笑いの種になり、独自に「印象派展」を開いていたのである。マネは決してこの展覧会には出品していなかった。彼は彼らと行動をともにしたが、画風も違うし、一線を画していた。
またマネは無名の画家ではなかった。彼は前衛画家である。前衛とは世間から非難されなければいけない。展覧会にきた紳士からはののしりを受け、淑女は目をそむける絵を描いた人物である。その前衛性が印象派の画家に与えた影響はおおきい。マネとは違い、印象派の画家は無視され続けたのである。
19世紀フランスでは節目節目で非難ごうごうの絵が登場し、後世に影響を与えた。ドラクロアは1827年から28年にかけて「サルダナパールの死」で殺される裸の女を描いた。この人は印象派の画家達に感動を与えたが、直接の交流はなかった。
http://www.abcgallery.com/D/delacroix/delacroix39.html
クールベは1849年から50年にかけて故郷「オルナンの埋葬」を描いた。埋葬されるのは高貴な人物でもなければ、キリスト教の信仰のために殉教した聖人でもない。画壇に受け入れられるはずはない。クールベは印象派の画家に影響を与え、交流もあった。
http://cgfa.floridaimaging.com/courbet/p-courbet6.htm
さてマネは「オランピア」を描いて非難を受けた。今から見ればなんということはない裸の女であるが、裸の女が許されるのは、遠い昔の女、できれば神話に登場する女神である。もう一つは異教の国の女奴隷の裸である。オランピアは現実にパリにいる女、それも高級娼婦を描いている。これは許し難いテーマである。黒人のメイドが彼女の客からの花束を受け取っている。さらに許しがちのはこの絵はルネッサンスの画家ティツィアーノのパロディである。これは絵画における二重の冒涜行為である。
http://www.abcgallery.com/M/manet/manet7.html
ティツィアーノの絵はここにある。
http://www.abcgallery.com/T/titian/titian82.html
この三人はいずれも1894年のユダヤ人問題が起きる前に死んでいる。
マネは生きていれば1984年で64歳である。生きていてもおかしくはない年齢である。おそらくゾラとの関係や反体制的な態度から、ドレフュス事件には親ドレフュスであったろう。
彼は学校の成績にとくに優れたところがなく、高級官僚の父が船舶関係の職業につかせようとした。16歳のときアルゼンチンに初航海に出た。この選択は間違いだった。親もこんこんと言って聞かせたとおもうが、船乗り文化の通過儀礼であろうか、彼は梅毒になって帰ってきた。クラブの一気飲みである。しかも不治の病にかかる確率は一気飲みの比ではない。マネの死因は梅毒の進行によるものであり、壊疽で片足を切断した後死亡している。
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