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バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭の報告でおなじみのニューヨーク・タイムス紙のクラシック音楽部門の編集主任アンソニー・トマシーニがバイロイトでも活躍したソプラノのアストリッド・ヴァルナイの追悼記事を書いている。遅れない内にと思って訳したが、私自身あまり彼女のことをしらない。ニューヨークに縁の深い彼女、トマシーニ記者によれば、ヴァルナイはフラグスタート、ニルソンとならぶ三大ワグナー・ソプラノである。皆さんはどう思われるだろう。カイルベルト指揮の「指輪」のライブ録音は、テンスタメント・レーベルからすでに二部CDで出ているが、今年中に全部でそろうとのことである。彼女のブリュンヒルデを聴いてみたい気がする。
ドラマティック・ソプラノのアストリッド・ヴァルナイ死去 88歳
アンソニー・トマシーニ記者
ニューヨーク・タイムス 9月6日
ドラマティック・ソプラノのカリスマであったアストリッド・ヴァルナイが月曜日ミュンヘンで死亡した。その輝かしい55年のキャリアは22歳でメトロポリタン・オペラでデビューしたに時に始まる。彼女はワグナーの「ワルキューレ」のジークリンデ役をいや気がさしたロッテ・レーマンに土壇場になって代わったのである。
死因は長期の病気の末の心膜感染であると彼女の自伝“Fifty-Five Years in Five Acts: My Life in Opera” (2000, Northeastern University Press)の協力者である作家ドナルド・アーサーが述べた。
ワグナー・ソプラノとしては、彼女の崇拝する恩師キルステン・フラグスタートや彼女の親友であり、彼女と同じスエーデンでしかも彼女と同じ生年の1918年に生まれたビルギット・ニルソンほど広範囲な評価は得られなかった。しかしオペラ・マニアや通の間ではミズ・ヴァルナイは二人に匹敵する歌手であった。
彼女の声は、クライマックスの鋼のような光沢からリリカルなフレーズの暗い甘さまで音色の幅が広かった。彼女は悲劇的な威厳と激しさをともに伝えることのできる魅惑的な女性であると同時にナチュラルな演技者であった。
彼女の歌唱は、テスタメント・レーベルがワグナーの「指輪」全曲のうち最初の二曲分を発売したことでふたたび注目を浴びるようになった。この「指輪」は1955年のバイロイト音楽祭のライブ録音である。ミズ・ヴァルナイは「ワルキューレ」と「ジークフリート」でブリュンヒルデ役である。彼女はきらめくような激しさと鋭い劇的洞察力で歌いきっている。昨日の電話インタビューでジェイムス・レヴァインはミズ・ヴァルナイを真に個性的な歌手の一人であると言った。1979年に一緒に仕事をした時のことを回想している。そのとき彼女は61歳で、ワイル・ブレヒトのオペラ「マハゴニー市の興亡」の不屈の後家ビグビックを演じた。ジョン・デキスターが大胆な演出をしている。
「全体的に見て、彼女が見せた理解力を持ちあわせる人はちょっと思いつかないね」とレヴァイン氏は言っている。さらに「彼女は内にあるものから歌っている」とも言った。「曲全体を彼女は理解しており、臨場感、劇がつねに音楽とバラスがとれていた。」
オペラ一家に生まれたが、ミズ・ヴァルナイが歌いはじめるのは早い方ではなかった。イボリカ・アストリド・ヴァルナイ1918年4月25日にストックホルムに生まれた。両親はハンガリー人だった。当時母親のマリア・ヤボールは有名なコロラチュラ・ソプラノであり、父親のアレクサンダー・ヴァルナイはテノールであり、後にストックホルムの王立スエーデン・オペラの演出・監督であった。
晩年ミズ・ヴァルナイが好んで語った話しでは、ヴェルディの『仮面舞踏会』の公演中、母親は鏡台の下の引き出しを赤ん坊の仮のベビー・ベッドにしていた。この鏡台はオペラ団のプリマ・ドンナであるフラグスタートのものであり、フラグスタートが赤ちゃんをみていた。
アストリドが4歳の時、見込みのある仕事を求めてブエノス・アイレスそれからニューヨークへと移住した。父親はマンハッタン・オペラ・ハウスの演出の仕事をしていたが、1924年突然死亡した。母親はイタリア人のテノール歌手と結婚してジャージー市に落ち着き、ミズ・ヴァルナイはそこで育った。
彼女ははじめピアニストになるつもりだった。しかし声楽の才能が優っていたので、20歳で本格的なトレイニングに入った。メッツの指導者で副指揮者であったハーマン・ウィーガートの個人指導を受けた。彼女がメッツの総支配人のエドワード・ジョンソンのオーディションを受けたとき、22歳のミズ・ヴァルナイがすざまじいソプラノ役を13も習得したとは信じられなかった。
1941年12月6日の土曜日、マティネー放送がはじまる寸前になって、「ワルキューレ」のジークリンデが必要になって、ミズ・ヴァルナイにふった。彼女は舞台稽古すら一度もしたことがなかった。かかる芸術的ニュースは翌日のパール・ハーバー攻撃のニュースで吹っ飛んでしまった。それでもオペラ界は注目した。
ニューヨーク・タイムスの論評で「きわめて魅力的なスエーデン生まれのアメリカ人が品位と技量で演じた。この品位と技量は生まれつきの才能を持った人物のみにあるものである。」
6日後ヘレン・トローベルは「ワルキューレ」でブリュンヒルデを歌う予定であったが、病気になり、もういちど最後の十分間の代役でこの役をやり、ニューヨークの聴衆と批評家を熱狂させた。
1944年彼女の指導係ウィーガート氏と結婚した。彼は1955年に死亡したので、ミズ・ヴァルナイには直接の遺族はいない。1940年代にイタリアのレパートリーも手がけたけれど、メッツではワグナーの役で知られている。メッツのオペラ団で約200回歌っている。
だが彼女は、1950年にメッツの総支配人になったルドルフ・リングと意見が合わず、ヨーロッパでキャリアを積むことになる。ベルリン、ミュンヘン、ウィーンの歌劇団を支えたのは彼女である。彼女はリヒアルト・ワグナーの孫にあたるヴィーラント・ワグナーに気に入られた。彼はバイロイト音楽祭を取り仕切り、彼の過激な抽象的かつ簡素な演出でミズ・ヴァルナイを演技させた。
1960年代後半になり、彼女の重いドラマティック・ソプラノのレパートリーを断念した。たとえば、シュトラウスのエレクトラのようなぞっとするような役である。そして彼女が言うところの第二のキャリアに入った。メゾソプラノ役か個性派の脇役を受けもつようになった。レバイン氏によれば、ミズ・ヴァルナイに彼女の歌手生活最後の時期に彼女に尋ねたそうである。マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」のマンマ・リチアのような脇役をなぜやるのかと。彼女は「私は舞台に立ちたいだけ。若い人達の演技を間近にみていたいのよ」と答えた。
写真はニューヨークのメトロポリタン歌劇場である。
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