ヘ短調作品34

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ヨハネス・ブラームス

ヘルツォーゲンベルク書簡集

序 ― II

この優雅な人柄の逃れがたい魔力に、痩せて背の高い青年が屈した。彼は1862年に生まれ故郷のグラーツを後にして、宮廷オペラ楽団指揮者、音楽院の教授、フィルハーモニック・コンサートの指揮者オットー・デソッフについて音楽を学ぶためにウィーンにやってきた。彼の最高目標は芸術であったから、以前に志した法律家という職業では、彼の野心を満足させられなかった。男爵ハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクは ― 彼の家族名(Picot de Peccaduc)フランス語の翻訳である ― 1846年グラーツで死去した帝国収入役、アウグスト・ピーター・フォン・ヘルツォーゲンベルクの息子であり、オーストリアに移民したカトリックのフランス貴族の末裔であり、家系図に関してはシュトックハウゼン家に比肩する。

エリーザベト・フォン・シュトックハウゼン同様に、多方面に天分があり、ただちに修得してその領域を極めることができた。現代のルネッサンス人ともいうべき彼は、もし彼の強い愛着のある音楽の領域にとどまる決心をしていなかったら、画 家、建築家、学者、あるいは詩人になっていたであろう。彼の究極の目的に適合する限りにおいて、彼のその他の豊かな可能性を吸収し、没頭したのである。彼の才能の多面性は、ロマン派のロベルト・シューマンや「未来の芸術作品」の創始者であるリヒァルト・ワーグナーがこの少年に与えた影響で明らかである。この影響は、最初にセバスティアン・バッハの楽派で育った音楽家や人物は意識して避けようとするものである。

しかしながら、カトリック教徒であり、教区教会のイエズス会の学校の生徒であった彼の前には、バッハがプロテスタント教会音楽の偉大かつ重要な創造にかかわった彼の音楽が登場することはほとんどなく、 彼の血に注がれ、腐敗発酵する新ドイツ楽派の素材から解放されるのは困難であった。彼はその弱点を知っており、気づいたときには冷静なたゆまぬ意思の力 で、内を武装した不屈の信念でそれと闘ったのである。すくなからぬものが、己の生産力を測定する慧眼から逃れただけ、彼が苦労して獲得した認識は、素朴さという優れた素質を犠牲にしたのである。湧き出る霊感の純粋さに疑念を抱くや、己の才能の自然な霊感に疑問を感じ、彼は熱狂の酒に水を注ぎ、極端を避けんがために反対の方に向かい、酔うよりは、冷えて乾燥した、味気ないのを好むように見えた。彼の想像力は厳格な評論家的几帳面さに病んでおり、あらゆる形式の音楽芸術において、技術的・理論的成果は、純粋な音楽的見解の唱道者や先駆者が巧みに作品を仕上げるための前提条件ではあるものの、彼はこれに不釣合いに偏る危険性があった。ブラームスが脱帽して叫んだ。「ヘルツォーゲンベルクはわれわれ全員合わせたよりも達者だ」

ヘルツォーゲンベルクは、1862年にハンブルクからウィーンに来て、そこに定住した10歳年上のブラームスに自身の芸術的理想を見出し、以後、彼と張り合い、ワーグナーの対極となる作品に傾倒し、これを人生の目標と課題とすることになる。ブラームスはデソッフの家(彼はそこで食事をしていた)に出入りしていたので、二人は1863年から1864年ぐらいには知り合っていた。デソッフの弟子が北ドイツの若き巨匠の性格から受けた深い印象は長く残り、ヘルツォーゲンベルクは1897年3月26日の死の床に就いたブラームスにあてた最後の手紙でこの思い出を書いている。34年 前と同じように、ハインリッヒは作曲について自問している。「彼(ブラームス)はどう言うだろうか」

ヘルツォーゲンベルクは彼と知り合った最初のとき同様に巨匠に恩義を感じていたのである。彼をスイスの出版社リーター・ビーダーマンに紹介したのはブラームスであった。ブラームスは1864年3月26日 にウィーンからヴィンターテュールに宛てて書いた。「ここに青年がいます。ヘル・ハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクは宮廷楽長オットー・デソッ フの弟子であり、私は彼から品の良い歌曲を見つけました。本人は出版を強く願っております。言うまでもなく、貴社にたいして大いなる尊敬の念を抱いており、私の紹介を願っております。謝礼に関しては何の要求も持っておりませんが、あなたが最初の曲にはいい条件を提示される方であることを言い聞かせまし た。ある程度の部数を引き渡すとか、仕事を継続させるとかでよろしかろうと存じます。いかなる条件で作品1番を受け入れてくださるか一言お手紙をいただければ幸いです。私は歌曲にいくつか目を通しました。作品の価値にばらつきはあるものの、多くはかなり巧みに仕上げられており、飾り気のない表現の作品もかなり見受けられます。私はたまたま関心を持ちましたが、あなたのご感想をお伺いするしだいであります」

ウィーンの最初のコンサートでは、作曲家というよりはピアニスト・ブラームスの印象が聴衆には強かったが、新人がピアノの教授を振り出しに出発する限りにおいて は、これは好都合であった。当時ブラームスが主に頼れる収入はウィーンのジング・アカデミーの監督の報酬であり、彼の生活を維持するには少なく、時々出版された彼の作品の謝礼の穴埋めにもならないものであった。ポルブスツキーの家で出会ったフォン・シュトックハウゼン男爵が、娘のエリーザベトの音楽の修行 を監督する話を持ち出したのを幸運と思い、直ちに受け入れたのである。不思議なことにこの雇用はすぐに終わったのである。数回訪問した後で、この寡黙で、 はにかみ屋で、内気な先生は、授業をやめると宣言した。「不利な扱いを受けているエプシュタインが気に病んで、侮辱されたと感ずるのは当然だ」

年上の娘のユーリエを教えているエプシュタインには練習時間を増やすとか、すべて望みどおりにするから、なんなりと要求してくれと言われたが無駄だった。エプシュ タインは、崇拝するブラームスからはいかなる面でも障害を取り除きたいと考えていたので、従来どおり高潔かつ犠牲的精神で、弟子は巨匠に譲る、こころからそれを望んでいることであるといった。さらに彼女の病気に気づいてはいなかったのに、エリーザベトを断念するとはっきり誓った。しかしながら、ブラームスは自分の決定に固執し、沈黙し、退いたのである。エリーザベト・フォン・シュトックハウゼンとの交流は二人の共通の友との偶然の出会いまで待つことになる。


写真はヘインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク。アカデミー会員の服装である。

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