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「今日の詩」はイェーツの「ラピス・ラズリ」である。古代にはアフガニスタンでしか取れなかった宝石、富と権力の象徴であるラピス・ラズリ。この題名から私は虚栄が題材かと思ったら、違っていた。 芸術の歴史の上で最も人気のある「悲劇」の表と裏を書いたものである。最初の方は、当たり前と言えば当たり前である。悲劇の王子ハムレットも幕が降りた後、なりやまぬ拍手に上機嫌で満場の客に会釈するものである。 だが最後に登場しているラピス・ラズリに彫られた支那人に関する彼の解釈は、興味深かったが、東洋人である私には少し抵抗がある。哀愁に満ちた風景と音楽を楽しんでいる文人は演技しているのだろうか。 Lapis Lazuli I have heard that hysterical women say They are sick of the palette and fiddle-bow. Of poets that are always gay, For everybody knows or else should know That if nothing drastic is done Aeroplane and Zeppelin will come out. Pitch like King Billy bomb-balls in Until the town lie beaten flat. All perform their tragic play, There struts Hamlet, there is Lear, That's Ophelia, that Cordelia; Yet they, should the last scene be there, The great stage curtain about to drop, If worthy their prominent part in the play, Do not break up their lines to weep. They know that Hamlet and Lear are gay; Gaiety transfiguring all that dread. All men have aimed at, found and lost; Black out; Heaven blazing into the head: Tragedy wrought to its uttermost. Though Hamlet rambles and Lear rages, And all the drop-scenes drop at once Upon a hundred thousand stages, It cannot grow by an inch or an ounce. On their own feet they came, or On shipboard,' Camel-back; horse-back, ass-back, mule-back, Old civilisations put to the sword. Then they and their wisdom went to rack: No handiwork of Callimachus, Who handled marble as if it were bronze, Made draperies that seemed to rise When sea-wind swept the corner, stands; His long lamp-chimney shaped like the stem Of a slender palm, stood but a day; All things fall and are built again, And those that build them again are gay. Two Chinamen, behind them a third, Are carved in lapis lazuli, Over them flies a long-legged bird, A symbol of longevity; The third, doubtless a serving-man, Carries a musical instrument. Every discoloration of the stone, Every accidental crack or dent, Seems a water-course or an avalanche, Or lofty slope where it still snows Though doubtless plum or cherry-branch Sweetens the little half-way house Those Chinamen climb towards, and I Delight to imagine them seated there; There, on the mountain and the sky, On all the tragic scene they stare. One asks for mournful melodies; Accomplished fingers begin to play. Their eyes mid many wrinkles, their eyes, Their ancient, glittering eyes, are gay. William Butler Yeats ラピス・ラズリ 私は女たちが絵画や音楽にはうんざりと ヒステリックに話すのを聞いたことがある。 いつも明るい詩人については 誰でも知っているし、知っておくべきは それまでに過激なことがなければ 飛行機やツェッペリンが必ず襲来する。 キング・ビリー式に町が跡形もなくなるまで 爆弾は落下してくるものである。 全員が悲劇を演じている あそこに歩くハムレット、あれはリア あそこにオフェリア、あれはコーデリア。 さらに終幕があり 舞台の幕は今や降りる 劇の主役に値するとなれば 連中は途切れることなく泣いて見せる。 みなハムレットもリアも明るいのは承知の上。 恐怖を変容させる明るさ。 全員がそれを目指し、見いだし、見失い 暗転。突如空は燃え上がる。 入念に仕組まれた悲劇。 ハムレットが独白し、リアが激怒しても 幕切れのシーンが直ちに来るのは どの舞台でも同じであり これからも変わることはあり得ない。 連中は徒歩か、舟に乗って ラクダ、馬、ロバ、ラバといった すでに崩壊した文明の利器で登場する。 その結果、連中と連中の知性は破滅する。 まるで青銅を扱うように大理石を彫り 舞台の隅から吹く海風に膨らむ 布を作ったカリマコスの仕掛けはない。 棕櫚の茎のようなランプの長いガラスも 一日として保ったことはない。 すべて崩壊し、また作り直され 作り直す連中は再び明るい。 二人の支那人と後ろの一人が ラピス・ラズリに彫られ 上空を飛ぶ足の長い鳥 長寿の象徴。 明らかに召使いである 三番目の男は楽器を持っている。 石の退色はどれも 偶然のひびや凹みさえも 水の流れか山崩れ、あるいは 雪が降り続く急峻な断崖に見える。 たしかに梅や桜の枝が 支那人が向かう途中の小さな家を 飾っており、彼らが住人であると 想像してみるのは楽しい。 彼らは山や空や悲劇的な光景 すべてを凝視している。 一人が悲しげな節を頼む。 名人が指で奏で始める。 彼らの目と皺、彼らの目 彼らの光る老いた目は明るい。 イェーツ この訳詩で、第一詩節の「キング・ビリー」であるが、ウィキペディアによれば、イギリスでは通常、血を一滴も流さずに「名誉革命」を達成したオレンジ公ウィリアムを指している。王位についた彼は、スコットランドの反乱を「不名誉な」大虐殺で対応し、ある村を消滅させた。イェーツはこの事件に触れている。 さらに私は「支那人」という現在では「差別用語」とされている言葉を使った。ここはイェーツの原作の Chinamen を尊重した。当時としては、Chinamen は特に不適切な表現とされていなかったと思う。私は意図的な差別用語を知っているが、ここでは述べない。 話者はラピス・ラズリに魅せられた訳ではない。内容と多少とも類似点がある、廬山観瀑図、清初期、石濤、泉屋博古館所蔵をウィキペディアからお借りした。それ以上の検索は断念した。イェーツと親交のあったエズラ・パウンドは中国の絵画や詩に詳しいので、東洋に興味を持っていたことは考えられる。英国の大英博物館は盗品の展示場であり、清朝の混乱期に出兵したイギリス兵の土産に、この詩に書かれた物があるのだろうか。
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イェーツ
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桜と日本人ですね。なぜか、三島由紀夫を思...




以前、<青>に憑り付かれたイヴ・クラインを投稿しましたが、さらにこの詩を機に「ラピス・ラズリ」のことどもネットで知り勉強になりました。たしかにこの詩は「富と権力の象徴であるラピス・ラズリ」でなく、戦い、憎悪、悲劇、人間の救い難さ(アイルランド問題・「人生は歩きまわる影法師,あわれな役者だ」)などを神秘の<青>のうちに、はるけし歴史の彼方を思っているように読みました。ラピス・ラズリの碧玉に刻まれているのがアイルランドではなくシナの<老荘>を風景とするものであるのも、不思議の<青>産するアジアへの、東洋への、(さらには日本への)憧憬幻視と思えます。
2007/7/8(日) 午後 4:43
コメント大いに参考になりました。緑の森さんの解釈ですと「ラピス・ラズリ」という題を付けた意味が納得できます。「(西洋の)悲劇」は作為的な娯楽であるという点に注意が行きました。私はこの前置きから、支那人も「悲曲」という作為的な娯楽を楽しんであるというように解釈しました。
たしかに私の解釈では、ひび割れも凹みも風景を表現しているという彼の感想を無視したことになります。写真も含めて少し考えさせて下さい。
ツェッペリンが登場するからには彼の熟年か晩年の作品でしょう。イェーツは遍歴を重ね、晩年になってかえって深みの出てきた詩人です。
2007/7/8(日) 午後 5:57 [ fminorop34 ]