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暇人の私は偶然テニスンの「春」という詩に出会い、訳をして投稿した。この詩がサリヴァンとテニスンによる新作の歌曲集の一編であったことを後で知った。サリヴァンやテニスンの自筆原稿の所有者でもない限り、また初版本の所有者でもない限り、現在も今後も重要とは思われない「春」という作品である。この「春」という本が出版される過程を紹介するのは、物好きといわれても仕方がない。だがポール・ホワース(Paul Howarth)なる人物が「窓の背景」と題して解説記事を書いている。それを読んでしまったので、ブログねたとして少し端折って紹介することにしよう。初版本の収集家には参考にはなるかもしれない。またヴィクトリア朝の音楽産業や出版産業を垣間見ることができるかもしれない。私が紹介した「春」の作者テニスンは高齢ではあったが、愚作を傑作と思い込むほど耄碌していなかったのである。 *************************** 「窓」の背景 サリヴァンの友人であるジョージ・グローブは、テニスンとサリヴァンに新作歌曲集の出版計画を提案した。彼の念頭にあるのはシューベルトの「美しき水車小屋の娘」のような歌曲集であった。グローブはテニスンにハイネの詩などを送っている。さらにミレイの挿絵をいれる計画であった。 テニスンの詩をシューベルトやシューマンの様式で作曲するという企画に若いサリヴァンは乗り気であり、テニスンも最初は興奮した。グローブとサリヴァンはワイト島のテニスン宅を訪問している。1866年10月17日のグローブの日記によれば 「私は[テニスンに]歌曲集を書き、サリヴァンに作曲、ミレイに挿絵を依頼したいという提案をし、サリヴァンは了承し、テニスン夫妻は大喜びだった。夜には一同音程が外れた、チンチン音を立てるピアノで音楽を楽しんだ。その後屋敷の三階にある彼の書斎へ行き、彼は三篇の詩と長編のバラードなどを朗読した。二時まで上機嫌で一同いずれ行くことになる ― 死とあの世、神と人間等について語り合った」。 時々テニスンはクレイヴァートンのサリヴァン宅を訪問しプロジェクトについて話した。サリヴァンは後年回想している。 「テニスンが最初に我が家を訪問したとき、長年家族同様になっていた住み込みのメイドがドアを開いて、客の身なりに驚いた。彼はいつも深い幅広のフェルト帽をかぶり、黒か短いマントを着ていたのでイタリアかスペインの劇に出てくる悪役のようであった。晩餐の同席者は、テニスン、ミレイ、フランシス・ビング(スタッフォード伯)、私と母ともう一人女性である。会合をもったのは、後に『窓』あるいは『ミソサザイの愛』という題で出版された合作の打ち合わせであった。メイドのケイトが『アーサー様、あの方が大詩人ですか?』(私は30歳ぐらいだった)『そうさ、服を着ているだろう』、『はいそれはもう』『詩人は服を着ているし、それに』『彼が桂冠詩人ということを忘れたね』と付け加えた。彼女は忘れたのではなく、知らなかったのである。しばらく黙った後に彼女はつくづく『奇妙な制服ですね!』と言ったものである。彼女はテニスンが制服を着た旅団の一員と思ったらしい。」 1867年2月5日テニスン夫人から次の日曜日にサリヴァンとグローブに招待の手紙が届いた。この時までにテニスンはこのプロジェクトへの自身の貢献を疑い始めていたようである。サリヴァンはテニスンの家からこのときの様子を手紙に書いている。 「私が着いてお茶を飲み、晩餐までテニスンとタバコを吸った。彼は詩(12編)を朗読した。大変愛らしかったが、彼の原稿を得るのは難しそうだと思った。非常に軽くて、名声に傷が付くと思っている。この件につき明日返事します」。 サリヴァンは原稿を手にいれたが、まだテニスンは出版を渋っていた。遅れに遅れて、テニスンはついに承諾し、1870年の11月6日にストラハン社に書き送っている。 「『隣人に誓いを立て、裏切らなかった』方に− 私の好みや判断に背くものですが、歌集の出版に同意し、その時期も貴社の要望に応じます。さらに私の好みや判断に背くものですが、クリスマスの時期に出版することにも同意します。ただし条件があります。昨日申し上げたように、四年前に書いたという事実、出版するのは貴社であるという事実を序文で書かれること、挿絵はミレイに限ることです」。 ところがミレイは挿絵を散逸させてしまう。結局1871年の新年にたった一枚のミレイの挿絵とテニスンの序文で本は出版された。 「 序文 すでに4年が経つが、サリヴァン氏が彼の芸術の幅を広げたいので、ドイツ風の連作詩集を書いてくれないかと依頼してきた。氏は「オルフェウスの竪琴」の付曲で成功を収めてきた。私は彼の依頼に応えて「操り人形」に古風な衣装を着せた。この人形の取り柄といえば、サリヴァン氏の曲に合わせて踊るくらいのものである。昨今の暗い日々に、私の四歳になる人形を舞台に登場させるのは残念であるが、音楽は完成したし、私にははたすべき約束があったのである。 1870年 12月 A. テニスン 」 「昨今の暗い日々」とは普仏戦争を意味するだろう。 この本は緑とえび茶の布表紙で金の型押で金縁という立派な製本であった。テニスンは12の詩を書き、そのうち11をサリヴァンが付曲し、詩と楽譜は別々に印刷されている。 サリヴァンはこの序文に驚き、抗議している。テニスンからの返事は: 「私はすでに『ミソサザイの歌』の序文を読んだ友人に序文の印象を訊いていたので返事が遅れました。どう読んでもあなたに失礼なことは言っていない、出版時期に遺憾の意を表し、さらにはあなたの音楽に相応しくないとさえ言っている、というのが全員の一致した意見でした」。 「これ以外の印象を読者に与えるのは私の本意ではないことを確信してください。なんでしたら早速馬車を拾われてクラブのお友達に、私の自筆で封印した手紙を見せてください」 これでテニスンとサリヴァンは仲直りした。 テニスンの死後1900年にはもう少し地味な版がジェイムス・ウィリアムスから出版された。新判の特徴はウィリー・カストナーのドイツ語訳が追加されたことである。テニスンの序文とミレイの挿絵は無かったが、サリヴァンの注記がある。 「この歌曲集は私の要請で故テニスン卿が詩を書き、私が1869年から1870年にかけて付曲したものである。故ジョン・ミレイ卿が挿絵を書く予定であり、詩と絵画と音楽の総合になるはずであった。事情があって、挿絵は完成せず、詩と音楽だけがアルバムとして1871年に出版された。 ポール・ホワース
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テニスン
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桜と日本人ですね。なぜか、三島由紀夫を思...



サリヴァンの歌を少し聴いてみたいです。
テニスンはアーノルドと同時期で、アーノルドより長く生きていたのですね。
2009/2/27(金) 午後 9:31 [ otheR wind ]
そうですか。 otheR wind さんは音感がいいから。サリヴァンといえば「ミカド」の舞台写真を見ただけです。最近イギリスではこの当時の忘れられた音楽の録音が出始めたという話です。私としてはBBCの放送予定を注意深く見て、もしあればブログで紹介します。
ルーズで生没年を落としています。今後気を付けます。その当時、ワーズワス、ブラウニング、アーノルドという番付だったそうです。明治時代の日本の評価は高かったそうですが、私はずれているのでしょうか、そんな作家が好きです。
2009/2/27(金) 午後 10:20 [ fminorop34 ]