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第一章 若き日々(3) 父の死後 悲嘆にくれた私は当分クレヨンをとる気にもなりませんでした。ドアイヤンがときどき家に来てくれました。彼はお父さんの一番の親友でしたから、大変慰めになりました。もう一度私が大好きな仕事をするように勧めてくれたのは彼です。実際、これが唯一の慰めになりました。私が実物を描き始めたのはこの時です。パステルと油で肖像画も上達しました。実物や絵を見ながらスケッチしました。ランプのもとで親友になったマドモアゼル・ボケ(Rosalie Filleul, n醇Pe Anne-Rosalie Boquet, 1753 – 1794)と一緒に練習しました。夜サン・ドニ通りも彼女の家に行きました。ここで彼女のお父さんは骨董品の店を開いていました。わが家はド・クエリュ通りのリュベール邸の向かい側にありました。ですから、出かけるときはお母さんがいつもつきそうと言ったものです。マドモアゼル・ボケと私は画家のブリアール(Gabriel Briard, ?- 1777)のアトリエに通いました。この人は彼のエッチングや古典的な胸像を見せてくれました。ブリアールは画家としては平凡でしたが、ちょっと風変わりな天井画を描きました。ですが、彼の素描はすばらしく、それで習いにくる若い人がいたのです。アトリエはルーブルにありました。私たちは交互に食事のバスケットを持参しました。なにしろ一日がかりでしたから。 マドモアゼル・ボケは15歳で私は14歳でした。私たち容姿を競い合っていました。私はすっかり容姿が変わり、きれいになっていました。彼女の芸術的天分は相当なものでした。私の進歩ははやく、まもなく話題になりました。その結果ありがたいことにジョゼフ・ヴェルネ(Claude-Joseph Vernet (1714 – 1789)の知遇を得ました。この高名な画家は心からの激励と価値ある忠告をしてくれました。フランス・アカデミーのアルノール神父(Fran醇Mois Arnaud, abb醇P de Grandchamp 1721 - 17842).とも知り合いました。想像力豊かな人物であり、文学と芸術に情熱をもっていました。彼の会話により、言うなれば私のアイデアは豊かになりました。彼は音楽と絵画について非常な熱意で語りました。神父はグルック(Christoph Willibald (von) Gluck, 1714 - 1787))の熱心な支持者でした。後にこの偉大な作曲家に私を紹介してくれました。私も音楽が大好きでしたので。 お母さんは私の容姿に自信を持つようになりました。私はふっくらして若さの特権である新鮮な容姿になりました。日曜日にはテュイルリー宮殿につれて行ってくれました。お母さん自身まだきれいでしたが、次第に私も自由にものがいえるようになりました。二人で歩いていると、あとからついて来る男たちの作法が、私には嬉しいというより、迷惑でした。悲惨な喪失が癒しがたいのを見てとり、お母さんは絵を見せることでなんとか治せると考えたのでしょう。こうして二人でリュクサンブール宮殿に行きました。ここのギャラリーにはルーベンス (Peter Paul Rubens, 1577 - 1640)の傑作があるのと大画家の作品が数多くあるからです。現在では現代フランス画の絵画しか展示されていません。私はそのクラスで展示されていない唯一の画家です。昔の大家たちはその後ルーブル (Mus醇Pe du Louvre)に移されてしまいました。このためにルーベンスはその良さを失ってしまったのです。照明の違いで絵が違ってしまうのは、音楽が演奏で違ってくるようなものです。 個人所有の絵を見ましたが、摂政殿下ルイ・フィリップ (Louis Philippe II Joseph, duc de Chartres, puis duc d'Orl醇Pans, 1747- 1793)のパレ・ロワイヤル (Palais Royal)に匹敵するものはありませんでした。ここには昔のイタリアの大家が大変多かったのです。ここのギャラリーに入ると、私は大家たちの絵をながめてうっとりすると同時に、ためになる知識を集めて回るミツバチのようになりました。さらに、私の腕を磨くために、ルーベンスの絵、 (Rembrandt Harmensz. van Rijn、1606- 1669)、ヴァン・ダイク (Anthony van Dyck, 1599 - 1641)の肖像画を模写したが、グルーズ (Jean-Baptiste Greuze, 1725 - 1805)の少女の肖像画も模写しました。それは微妙な肌の彩色のぼかしが勉強になると思ったからです。ヴァン・ダイクにもそれがありますが、さらに見事でした。ここでの勉強のおかげで、顔の出た部分の光りの度合いを変化させていくための重要な知識が得られました。これを実に見事に仕上げているのはラファエロ (Raffaello Santi, 1483 - 1520)であり、彼の顔はじつにあらゆる意味で完璧なものでした。しかしそれはローマ、あの光り輝くイタリアでのみラファエロを判断できるのです。数年後、生まれ故郷を離れることのなかったラファエロを見ることが出来ましたが、ラファエロはその名声以上の素晴らしさでした。
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ルブランの回想録
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桜と日本人ですね。なぜか、三島由紀夫を思...


作曲家のグルックと言えばオーストリア人でマリー・アントワネットに音楽を教えていた人ですね。
ヴィジェ・ルブランも14歳の時に紹介で会っていたんですね。
マリー・アントワネットとも音楽の話をたくさん下かもしれませんね。
2011/3/1(火) 午後 9:05 [ ROCOCO ]
才能があっても国籍がオーストリアというのは有利ではありません。宮廷内ではグルック派と反グルックに分かれていたそうです。
ルブランは芝居やオペラが大好きでした。
マリー・アントワネットと音楽の話をしたかどうか知りません。ただアントワネットの作曲した音楽があることは確かです。最近のフェミニストは女に作曲ができないとうのは違うと主張しています。クララ・シューマンとかメンデルスゾーンのお姉さん以外にもいるぞという講演会がありましたが、出席しませんでした。マリー・アントワネットも女流作曲家だといっています。たしかCDにもなっているはずですが、お持ちですか?私は経済的理由で持っていません。
2011/3/1(火) 午後 10:26 [ fminorop34 ]
コメントありがとうございます。
唐澤まゆこさんという人が歌っているCDがあるようです。
またベルサイユのばらの作者池田理代子さんも声楽家になられマリー・アントワネットの作曲した歌を歌っていらっしゃいます。
私はどうも音楽には詳しくないのでCDは買っていません。
聞いてみたいなと思いながらも・・・。
2011/3/2(水) 午後 4:23 [ ROCOCO ]
池田理代子さんは詳しいようですね。
2011/3/2(水) 午後 6:09 [ fminorop34 ]