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第一章 若き日々(5) 革命前の行楽地 さて紳士方に話を戻しましょう。この方たちが色目を使おうとしているのに気づくと私の方でなく他の方を見ているように描きました。瞳がちょっとでも動くと「目を描いているところですよ」と言ったものでした。これでこの方たちはちょっぴり腹を立てたみたいです。お母さんはいつもその場にいました。私はお母さんにはこの秘密を打ち明けていました。ですからお母さんも愉快そうでした。 ある日曜日、聖人の日でもありましたが、歌ミサに出たあと、お母さんと継父は私をパレ・ロワイヤルに散歩に連れ出しました。ここの庭園は当時広々としてきれいでした。現在とは比べものになりません。今では周囲の家に囲まれて窒息しそうです。左手には広い通りがあり、大きな木のアーチがあり、そのために太陽光線も通らないほどでした。そこに上流階級の人々が身繕いして集まりました。オペラ・ハウスは宮殿のすぐ近くにありました。夏の公演は8時半に終わりました。上品な人々はオペラが終わる前に出て庭を散歩しました。女性は大きな花束を持って歩くのが流行でした。それに香りのよい粉を髪の毛に振りかけていましたから、空気が芳しくなります。革命以前ですが、あとで私は朝の二時まで続いたことを知りました。月明かりでの野外音楽も演奏されました。演奏家と愛好家が歌をうたい、ハープやギターの演奏もありました。有名なサン・ジョルジュもバイオリンを演奏しました。皆がそこに集まってきました。 マドモアゼル・ボケと私がこの通りにはいるとかならず注目されますから、ここには入りませんでした。私たちは16歳と17歳でした。マドモアゼル・ボケはすごい美人でした。19歳の時、彼女は天然痘にかかったときには、あらゆる階層の人達が心配したものです。いつも家の前には馬車の行列が出来たほどです。彼女は優れた才能がありながら、ムッシュウ・フィユールとの結婚を機会に絵を描くのを止めました。女王が彼女をラ・ムエット城(Château de la Muette)の案内係にしたのです。この愛らしい女性を話題にするとき、彼女の恐ろしい最後を思い出してしまいます。私が恐怖の予感がしてフランスを出る前の晩のことです。はっきりとおぼえていますが、マダム・フィユールはこういいました。「出ていくのは間違いよ。私はここに残るわ。革命で私たちは幸せになれると信じているもの」でも革命で彼女は断頭台に上ることになったのです。彼女がラ・ムエット城を出る前に恐怖政治が始まったのです。ジョゼフ・ヴェルネの娘であり、マダム・フィユールの親友であるマダム・シャルグラン(Mme Chalgrin, -1789)がお城にやってきて彼女の娘の結婚を祝いました。もちろん控えめな式でした。それでも次の日ジャコバンがマダム・フィユールとマダム・シャルグランを逮捕しました。連中は、国家のロウソクを浪費したというのです。数日後には二人ともギロチンで処刑されました。 テンプル・ブールバール(Boulevard du Temple)も人気のある散歩道でした。毎日、とくに木曜日ですが、何百台もの乗り物が道路に集まりました。カフェや見せ物はまだあるようですが。馬に乗った若者たちが馬車のまわりを回りました。ロンシャンでやったように。ロンシャンはすでにありましたし、もっときれいでした。歩道は大勢の歩行者で一杯でした。馬車に乗っている盛装の貴婦人の品定めをしては楽しんだものです。現在カフェ・チュルク(Jardin Turc?)がある場所です。皆が大笑いする見物がありました。マレイ地区の老婦人が一列椅子に腰掛けていました。ほお紅を真っ赤に塗り立ててまるで人形のようでした。当時ほお紅は上流階級にしか認められませんでしたから、彼女たちは精一杯この権利を行使したのです。私の友人の一人が彼女たちのことをよく知っていました。彼女たちの家での仕事といえば、朝から晩まで賭け事をすることでした。彼がある日言ったものです。彼がヴェルサイユから帰ってきたときのことです。彼女たちから何かニュースはないのかと聞かれました。彼が、ムッシュー・ド・ラ・ペルーズが世界を一周したと話すと、女主人が言ったそうです。「まあ!なんて暇な人だろうね。」 結婚してずっと後になってからのことであるが、この大通りで軽いショーを見ました。いつも決まって見に行ったのがカルロ・ペリコの「ファントッチーニ」(Fantoccini)でした。これは大変愉快でした。マリオネットは上手く作ってあり、仕草も自然ですから、つい錯覚してしまいます。私の娘はもうすぐ6歳になるところでしたが、人形が生きているものと信じておりました。そこで本当のことを教えました。まもなくコメディ・フランセーズ(Comédie Française)に娘を連れて行きました。ボックスが舞台から離れていました。娘は「お母さん、あの人たちもお人形?」私にたずねました。 コリゼー(Colisée)も流行の行楽地でした。これはシャンゼリゼの大きな広場に円形状に建てられました。中央にはきれいな湖があり、ボート・レースがありました。砂利が敷かれた通りがあり、ベンチが並んでいました。夕暮れには庭園からホールに向かいます。ここにはオーケストラがすばらしい音楽を流していました。この当時、テンプル・ブールバール(Boulevard du Temple)には「夏のヴォウオール」(Vauxhall d'ete)と呼ばれた場所がありました。ここの庭には直接入れました。その境には上流階級のために設けられた段になった席がありました。暑い日には暗くなる前に人々が集まります。一日は花火で締めくくられました。これらの場所は現在のティヴォリ(Jardin de Tivoli)よりずっと人出がありました。テゥィルリーやリュクサンブールしか行けないパリジャンがこれらの行楽地を放棄してしまったのは驚くべきことです。これらの行楽地は半ば都会的で半ば田園的でしたので、夜になると空気を吸いに、氷を食べに出かけたものです。
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ルブランの回想録
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桜と日本人ですね。なぜか、三島由紀夫を思...




ルブランの友人のマダム・フィユールはマリー・アントワネットによってラ・ムエット城の案内係になったんですね。
マリー・アントワネットも会ったことがありそうですね。
しかし、革命によって断頭台に上ったとは。
しかもジョセフ・ヴェルネの娘と一緒に処刑されたんですね。
ヴィジェ・ルブランにとっては悲しい出来事でしたね。
2011/3/1(火) 午後 9:21 [ ROCOCO ]
今晩は。彼女の自画像を見ていただけたでしょうか。マリー・アントワネットは政治に興味がなく、自分のお友達(女性)を周囲に集めていました。ルブランもその一人ですが、マダム・フィユールもお気に入りだったのではと私は推察します。
革命を支持しながら、ささいなことで処刑されました。こんな例は数多くあります。
2011/3/1(火) 午後 9:59 [ fminorop34 ]
フランス革命の「裏」話。国家のロウソクを浪費したカドで逮捕処刑ですか。凄惨な時代だったんですね。
2011/3/3(木) 午後 7:42 [ ノーやん ]
革命に好意的だったとはいえ、彼女はジロンド派程度でしょう。彼女は貴族ではないですが、プチ・ブルの娘です。マリー・アントアネットの寵をうけたことがありますから、不利な証言がいっぱいでてきたのではないでしょうか。たしかに凄いです。
2011/3/3(木) 午後 8:08 [ fminorop34 ]
ルブランの回想録の全訳は Blogger で試してみました。波乱万丈の回想録をお楽しみ下さい。訳者より
http://lebrunmemoire.blogspot.com/
2018/6/15(金) 午後 1:49 [ fminorop34 ]