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ニューヨークがクリムトで沸いているとき、私の大好きなクレーの絵の展覧会がワシントンで開催中である。私がもしローダーのような成金であったら、クレーを買い集めたであろう。クレーはアメリカのマネーに色目を使わなかった。結果アメリカ人は一部の例外をのぞいてこの孤高の画家に対して冷淡であった。ただ最近クレーの絵も値上がりしているそうである。値上がりによってようやくアメリカで受け入れられるようになったのであろう。どうも美術品は収集する資格のない連中によって収集されるものであるらしい。まあ貧乏人がひがんでも仕方がないか。以下はアメリカ人のじくじたる気持ちを代弁するような、弁解めいた記事で面白いと言えば面白い。
遅ればせながらポール・クレーに注目
ジェシカ・ドーソン(ワシントン・ポスト紙 6月18日)
アメリカでポール・クレーの展覧会を開くと決まって質問が出る。ポール・クレーの絵って誰の絵に似ているの。
われわれアメリカ人はたぶんわからないだろう。スイス生まれの画家の名声はヨーロッパでは早くから上がっていた。ヨーロッパで彼の才能は皮膚硬化症で1940年に死亡するまでの数十年間にヨーロッパで開花した。大西洋を隔てて、われわれはクレーの才能とその影響を分類し、箇条書きにすることができなかったのである。
たぶんクレーがアメリカ旅行をしなかったこと、またまったく望まなかったせいもある。アメリカ人はクレーの神経質な線、不協和な色彩の構造と子供じみた超現実主義を好きにはなれなかったろう。孤高の思想家という評判もあって注目を浴びなかったのだろう。
フィリップス・コレクションで公開中の「クレーとアメリカ」は、わが国のこの風変わりな画家へのおくればせながら関心を物語っている。わが国は彼の死後の抱擁であったが、結局はこの画家を受け入れたのである。
ナチの干渉によって、彼のヨーロッパでの評判が厳しくなってきたとき、彼の画家としての人生の最後の頃に、アメリカ美術市場での彼の評価ははじめて上向きに転じたのである。1930年初期、アメリカを飛び出したアメリカ人のディーラーが彼の作品をアメリカに送ろうとし努力し、彼はこの強力な援助に助けられた。30年代の半ばには、彼の才能を認め、迫害に同情するアメリカ人が現れたのである。
20世紀後半には彼の影響力は明白であった。しかしアメリカ人が大きなクレーの展示会を見てからすでに20年経過している。一枚のクレーを思いおこそうと努力をすれば、われわれの忘れっぽさも許してもらえるかもしれない。
「クレーとアメリカ」の80点はほとんどヒューストンのメニル・コレクションのものであり、かれの生存中のわが国での作品への意識のバロメーターである。ただこれだけの絵とスケッチがアメリカに上陸し、今展示されているのである。
アメリカ人が購入した絵で、クレーと合衆国との関係を追跡するのは、学者には興味があるが、学芸員の仕事としても珍しいものである。美術館にとって緊急の課題がある。クレーの絵は誰の絵に似ているかを示すことである。
「クレーとアメリカ」は総合的な展示会ではないと言うことである。アメリカ人が所有するのはクレーの作品の10パーセントにすぎない。この展覧会はほんの一部の収集家の趣味を記録するにすぎない。ただ展覧会カタログは315ページのとてつもない本で、印刷は豪華で、展示品については徹底的に研究されており、クレーの大西洋越しの取引の話ややアメリカに持ち込んだ20世紀初頭の流行の先端を行こうとした人の詳細な話も書き込んである。
このカタログで知ったことは、カサリン・S・ドライアーについてである。彼女はマルセル・デュシャンとマン・レイと共同でソシエテ・アノニム(Societe Anonyme)を創設し、1924年にはクレーの個展を合衆国で企画した。また、それから6年後になるが、アルフレッド・バー(この人物の評価をこれ以上飾る必要はない)はヨーロッパの外で、MOMAで大規模な個展を開催したのである。クレーは生存中にMOMAで個展が開かれたヨーロッパで最初の画家である。さらにカタログによれば、クレーはこれ以後彼の作品がナチ・ドイツの手に落ちるまでアメリカでは注目されなかった。
詳細についてはカタログを開く必要があろう。フィリップ展覧会はありがたいことに学者ぶった話がない。「クレーとアメリカ」はただご覧くさいというのみである。1920−30年代のすばらしい絵を楽しめる。
クレーの作品の多くは人生の大半を過ごしたドイツで制作された。20世紀になるころにミュンヘンに移り、(彼は生涯バイオリンを弾いたが)コンサート・バイオリニストのキャリアを放棄し、絵の勉強を始めた。クレーと経歴を変えたばかりのカンディンスキーは一緒に絵の先生についた。先生は後期シンボリズムとアール・ヌーボの薄気味悪い絵をかく画家フランツ・ヴォン・シュトゥックである。
カンディンスキーとクレーは絵画の精神性と深い人間的衝動の表出であるという信念では一致していた。だが、フィリップ展にある1929年作の水彩画「変化、赤―緑(朱色)」のように抽象画を描いたものの、カンディンスキーのように派手な色彩と規模に接近することはなかった。クレーの色彩と構図の手法はカンディンスキーより内に秘められ、抑制的である。この展覧会でのクレーの作品はほとんどハガキかノートの大きさである。最晩年に大きくなったのもある。多くの場合、その分悪くなっている。
クレーはドイツに住んでいたが、彼の絵にはフランスのシュール・レアリズムの痕跡が見られる。1920年代からのクレーの作品の神経質な線と不思議な生き物は、フランス人が彼をダダの父の一人とみなすゆえんである。フィリップ展で、デュシャン風の「さえずり機械」が展示されているが、なぜかフロイド的な「少女と人形の乳母車(Girl With Doll's Pram)」も展示されている。幼い少女の胸は飛行船ヒンデンブルグなみのサイズである。
1920年代、クレーはバウハウスで教鞭をとっていたが、のちにデュッセルドルフの美術学校に移ったが、彼のドイツ時代の最後は悲劇的であった。彼の教育は個人主義を強調した。ナチは彼の授業に嫌疑を掛け、1933年デュッセルドルフの教授ポストから追放した。数年後、ドイツは子供が描いたような彼の作品を「退廃芸術家展」で展示した。クレーは晩年をスイスで亡命生活を送った。
クレーのヨーロッパでの人生にかげりが出始めたので、アメリカ人には彼を獲得する機会があったのである。「クレーとアメリカ」展で、プロブナンスの詳細をかいた壁のラベルはまるで小さな社交界の名札のようであった。「城の平面図」と呼ばれる絵が(浮かんでいる多面体の形而上的作品)が1928年から1961年までフィリップ・ジョンソンが所有していたのは、建築家フィリップの趣味からして驚きではない。ジョンソンは子供の絵のような1928年作のインキ素描画「心無きにあらず」も手に入れた。ここではクレーは無邪気な平行四辺形でダックスフントを仕上げている。これもジョンソンの性格から来ているように見える。.
クレーを入手した重要人物としてはダンカン・フィリップがいる。この「クレーとアメリカ」の入場者には特別のおもてなしがある。この美術館の建物の二回にある部屋、以前縫製室だった所で、クレーの部屋を復元している。フィリップが1948年から40年近く維持してきたものである。13点のクレーが肩を寄せ合ってつるされ、入場者を喜ばせた。ケネス・ノーランドとマーク・ロスコもその中にいた。ここの小さな画像はおそらく「クレーとアメリカ」展のもっとも魅力ある一群であり、クレーの面白さと特別な魅力を思い出させることだろう。
美術館はクレーの部屋を「クレーとアメリカ」が終わった後も、クレーの部屋を復元する予定である。この計画の時期と場所は未定である。でも当分の間、ここを訪問するチャンスはあるのである。
後記:今月の27日死後66年のクレーの作品はアメリカの著作権法ではPDに入っていない。Wikipedia にも記事はあるものの、彼の絵はのっていない。かろうじて彼の写真がある。彼の風貌は彼の絵にマッチしているので拝借した。
cjackson のウェッブ・ミュージアムからもずされた形跡があるが、なぜかオルガのミュージアムにはのっていた。私にはこの著作権とやらがどうしてもわからないが、下に紹介しておく。
http://www.abcgallery.com/K/klee/klee.html
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