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私たち世代がよく知っている古き良き時代のハリウッドの女優が一人いなくなった。
MGMの「お嫁さんにしたい女優」ジューン・アリスン死去 88歳
アルジーン・ハーメッツ
ニューヨーク・タイムス紙7月11日
ジューン・アリスン、彼女のきびきびとした健全な魅力で、1940年代のMGMのミュージカル・シリーズでは最高のガール・フレンドになり、1950年代ではスクリーンの最高の奥さんであった。カリフォルニア州オハイの自宅で死去した。彼女は88歳であった。
彼女の死去は昨日娘のパメラ・アリスン・パウエルにより公表された。死因は肺呼吸器疾患と気管支炎であると、AP通信社に告げた。
陽気で、ハスキー・ヴォイスの小柄の金髪娘のアリスンがコーラス・ガールから映画スターになったのは、1944年制作の''Two Girls and a Sailor''「姉妹と水兵」でヴァン・ジョンスンの腕に抱かれたときである。その後十年間、アリスンとジョンスンはロマンティック・コンビになり、''High Barbaree'' (1947), ''The Bride Goes Wild'' 「逃げた花嫁」(1948), ''Too Young to Kiss'' (1951)と ''Remains to Be Seen'' (1953)で共演した。
彼女はロバート・ウォーカーの相手役として''Her Highness and the Bellboy'' (1945) と ''The Sailor Takes a Wife'' (1946)にも出演した。
1950年までにはアリスンはすてきなガールフレンドから献身的な妻へと役柄を変えていった。ブロードウェイのコーラスから出発したが、1951年のインタビューで「わたしは踊りは下手で、それにね、歌もうまく歌えないのだけど、なんとかやり過ごしてきたの。リチャード・ロジャースがわたしが首にならないようにいつも骨折ってくれたの。」
彼女は''The Stratton Story'' 「よみがえる熱球」(1949)でジェイムス・スチュワートの片足の野球選手のしっかり者の妻になり、''The Glenn Miller Story''「グレン・ミラー物語」 (1953)ではバンド・リーダーのジェイムス・スチュワートの未亡人になった。''Strategic Air Command''「 戦略空軍命令」 ( (1955)では戦時勤務に召喚された野球選手スチュワートを気遣う妻を演じ、''The McConnell Story「マコーネル物語」( 1955)ではジェット・パイロットのアラン・ラッドを失った、思いやりのある妻を演じた。
''Executive Suite''「重役室」 (1954)では、the Tredway Corporationの社長の座を競っていた、ウィリアム・ホールデン演じる夫を励ました。「あなた、あなたが本当に願っていることなら、わたしにも大事なことなのよ。」
アリスンはスターとしての素質にかんしては謙遜していた。「女性はわたしに共感するのね」と1986年のインタビューで述べている。「男性はシド・チャリッシが好きなんだけど、お母さんに紹介したいのはわたしなのよ。」
アリスンはピーター・パンの枠と甘ったるい役から出ようとして、''The Shrike'' (1955)では、亭主(ホセ・ファーラー)を神経衰弱に追い込むいやな女を演じた。演技はほめられたが、観客には不評で映画は興行的には失敗した。
ジューン・アリスンは1917年10月7日ブロンクスに生まれ、名前はエラ・ギーズマンであった。アルコール中毒の父は彼女が生後6ヶ月の時家を出ていった。彼女が8歳のとき、自転車に乗っていて木が倒れてきて下敷きになった。4年間コルセットをはめ、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース映画を見ながらダンスを練習した。
傷害をなおす金のかかる治療で、ギースマン家は普通の貧乏からどん底に突き落とされた。1982年の自伝「ジューン・アリスン」では、彼女と母親は何度引っ越ししたかおぼえていないという。一番いい月は母親がレストランの仕事があった時であったと書いている。「なぜなら家に食べ物を持って帰れることがあるから。」
傷害から立ち直り、1938年のブロードウェイ・レビュー''Sing Out the News''のコーラスの仕事をもらった。芸名をジューン(月の名前)アリスンとした。1938年から1941年の間、アリスンはブロードウェイ・ショーで歌い、踊ったことがある、ショーは''Very Warm for May,'' ''Higher and Higher'' それに ''Panama Hattie.''等である。 ''Panama Hattie''の主演のベティ・ハットンの代役としてハットンが風疹で倒れたとき、5回代役をつとめた。このMGM向きの筋書きのミュージカル、プロジューサーのジョージ・アボットが彼女の演技を見て、次のミュージカル''Best Foot Forward.''でちょっとした役の話を持ちかけた。MGMはこのミュージカルの映画化の権利を買い、アリスンはハリウッドに呼ばれ、スクリーン上で演技した。彼女はMGMに11年間所属して、25本の映画に出演した。
「スタジオはまるで私の親みたいでした」と1972年に言っている。「スターになるや、いつも誰かがついてわたしをガードしていました。タバコを持っているところを、飲み物を持っているところを写されないように。一杯のコーヒーも、水だってだめだったの、アルコール飲料と思う人がいるかもしれないでしょう。結婚して二人の子供がいたけど、スタジオを出るとき、生まれてはじめて家を出る子供のように寂しい気がしました。」
空の星の数よりも多くのスターを抱えていると豪語するスタジオで、二線級のスターであるアリスンはスタジオのボスであるルイス・B・マイヤーにただ一度だけ反抗した。彼女は結婚している映画俳優ディック・パウエルと恋に落ちた。マイヤーは反対したが、パウエルは女優のジョーン・ブロンデルと離婚し、1945年にアリスンと結婚した。この結婚はうまくはいかず、アリスンは離婚訴訟を起こしたことがあるが、この結婚は1963年にパウエルが58歳でガンで死亡するまで続いた。自伝では、パウエルの死後、アルコール中毒と闘ったことに触れている。
アリスンとパウエルは1950年代に二本の平凡な映画''The Reformer and the Redhead'' と ''Right Cross''で共演している。アリスンの想い出では、子供の頃の事故で、子供を産めないといわれた。そこで夫婦は1948年に乳児のパメラを養女にした。二年後には男の子リチャードを出産した。
パメラ・アリスン・パウエルはカリフォルニア州サンタ・モニカにいる。遺族としてはロサンジェルスのリチャードと1976年に結婚した彼女の夫デイビット・アシュローがいる。パウエルが死亡した1963年にパウエルのヘア・ドレッサーだったグレン・マックスウェルと結婚したが、離婚している。
アリスンの映画キャリアは1950年代後半にデビッド・ニーブンの相手役で出演した''My Man Godfrey '' (1957)のリメイクと泡のごときロス・ハンター・メロドラマ''A Stranger in My Arms'' (1959)で終わっている。1959年から1961年にはCBSの名作映画集''The DuPont Show With June Allyson''のホスト役として時には主演した。ブロードウェイの「40カラット」のスター、ジュリー・ハリスと交代し、''No, No Nanette''のリバイバルで一年間巡業した後、彼女は1972年スクリーンにカムバックし、MGMに復帰した。''They Only Kill Their Masters''でレスビアンの殺人犯を演じた。彼女は''Love Boat,'' ''Murder, She Wrote''その他テレビ・ショーにも登場している。
彼女は1985年には、失禁症の成人用おむつ Depend の広告に出ている。彼女のトレード・マークのページボーイの髪型で、テレビのコマーシャルのタブーを破って、全国の居間に心地よいとは言い難い話題を持ち込んだのである。
ニューヨーク・タイムス紙でジャネット・マスリンはアリスンの自伝についてこう書いている。「アリスンはスクリーン上の彼女と同じように、明るく活発な女性として自分自身を書いている。彼女の人生の難局 ― 夫ディック・パウエルの死去とその後のアルコール中毒症の発作 ― も比較的陽気に書かれている。」マスリンはさらに「アリスンはスクリーン上の神話の創作を助けるべく登場した人物のようである。」
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