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1日ずれたが、昨日7月19日は、普仏戦争が始まって136年目になる。昨日中に投稿とおもったが、時差もあるので大目にみていただきたい。ビスマルクの巧みな挑発にのらされたというか、のらざるをえなかったナポレオン三世はプロシァに宣戦布告した。
この日はゾラの小説の主人公高級娼婦ナナが天然痘にかかって死に、醜悪な死体を残した日でもある。ナナのかっての金髪だけが燦然と光り輝いていた。ナポレオン帝政の終わりと残された建物の金箔の空しいきらめきを示唆するように。街では「ベルリンへ、ベルリンへ、ベルリンへ」という勇ましいかけ声が響いていた。この小説読みかけて止めてしまい、この最後の場面しか記憶がない。映画も見ていない。
この年はフランスにとって大きな転換期であったが、印象派の人達にも大きな影響を与えた。ピサロとモネはイギリスに逃亡した。ルノアールは無難な場所で兵役に付いた。
さて前回ご紹介したバジールであるが、このお金持ちの坊ちゃんは、半日絵の教室に通い、ほどほどにしておけばいい絵の勉強を夢中でやったものであるから、今ほど難関ではないものの、医学部で落ちこぼれても何の不思議ではない。結局親に無理をいって絵描きの道を歩むことにした。気のいいバジールはモネやルノアールに金を貸したり、絵を買い上げたりした。自分がパリにアトリエをもったときには二人を住まわせたりした。もちろん彼らのモデルにもなった。
父親は風雲ただならぬ情勢を考えて、息子の徴兵を免れるべく金を払っていた。金を払えぬ貧乏人が彼のかわりに徴兵されることになる。したがって戦争になっても召集令状はこなかった。ところが、親にはかわいくて仕方のないこの息子、彼は医学部で親の期待を裏切っただけではなく、今回もまた親の期待を裏切ったのである。すなわち、徴兵されなかったものだから志願して義勇兵になってしまった。この志願の文書はまだ残っている。
それもよりによって、アフリカ等では勇名をはせたかもしれないが、時代錯誤も甚だしい、男の中の男といえばいえるが、ズアブ兵になったのである。彼の戦争に出かけたときの制服は残っているが、モノクロなのでゴッホのズアブ兵の絵を参考にしていただきたい。
http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh27.html
この服装1888年にゴッホがアルルで出会ったズアブ兵を描いたものである。この服装は飲み屋のおねえさんたちの気を引くために着ていったものではない。実際にこの服装をして植民地等で戦ってきたのである。この派手な格好をしてバジールは近代化された戦争に「パリを守れ」と出かけたのである。
親に心配をかけたバジールだが、基本的には家族との結びつきを大事にして、一族が過ごす夏の別荘地にかならずもどっていた。上の絵は彼の代表作になったものである。彼はこの絵を8ヶ月かけて描き上げ、1868年のサロンに印象派の先輩を出し抜いて当選し、なんとかこれまでの親不孝の借りを返せたと喜んだところであった。最初に1870年という年とゾラとの結びつきは私の個人的な連想であるが、じつはバジールはゾラにこの作品でほめられたのである。いよいよ絵描きとしてこれからという時期であった。
ここで左隅にいる目立って背の高い男がバジールである。派手な服装とひときわ目立つのっぽであり、医学部で落ちこぼれたとはいっても、教育を受けていた人であったから、すぐに下士官にになってしまった。狙撃兵には撃ってくれといわんばかりの彼は、腹部に2発打ち込まれ死亡した。1870年11月28日である。
この人が生きていたらどんな画家になっていただろうかという質問はしてもしょうがないが、つい考えてしまう。
いずれにしても財政的・人格的にモネとルノアールを大画家にしたことはたしかであり、数枚の絵は印象派を代表する傑作であることは間違いない。
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