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バイロイト第三日
ピットを覗く
アンソニー・トマシーニ
ニューヨーク・タイムス 7月29日
バイロイト ― ワグナーは劇場の設計にあたり、バイロイトのオペラ劇場のオーケストラ・ピットを覆ってしまう変わったアイディアを採用した。ワグナーは当初、視覚的な効果を考えてのことであった。オーケストラを聴衆から見えないようにしたかったのである。ピットからの光で舞台上のイメージを損ないたくなかったのである。オーケストラがそこにあることを聴衆が忘れ、どこからともなく聞こえてくる音に浸らせたかったのである。同時にピットからの音が音響的に素晴らしくなることを思いついた。彼が期待した以上に音響は素晴らしかった。
皆さんはピットを見ていないとでしょう。これが今日の主要な話題である。私は幸運であった。職業的関心から、音楽祭の不思議なピットを見たいと申し出た。そして新演出のワグナーの「指輪」の先頭をきる「ラインの黄金」の演奏の前に見学させてもらった。私を案内してくれたのは、報道関係の女性でであり、ここのオーケストラに明るい女性で7人のハープ奏者の一人であった。
ピットでは確かにまごついてしまう。ワグナーは舞台の奥深くに潜り込ませたかった。普通は半円で演奏するかわりに、巨大な階段のように、6段に段差がついた列で演奏する。弦は最上段、ブラスと打楽器は最下段である。ワグナーの偉大な独創的な発明は傾斜したピットを完全に演奏者を遮蔽し、音を舞台に戻すことである。これにより歌手は容易にワグナーの最大音量をだすオーケストラ以上に発声することが出来る。ソプラノがブリュンヒルデでなかったら、その歌手は役をまったく果たしていないのである。
たしかに、このアイディアは素晴らしい、音響効果もすごいとしよう。ではピットではどうやって演奏するのか?階段を上り下りするのは危なっかしい。組合に入っているアメリカのオーケストラの演奏家だったら、損害賠償の文書一式を楽器のケースに入れていることと皆さんはお思いでしょうが。祝典劇場には空調はないから、湿気の高い7月の夜、ピットで演奏する演奏家はまるで「鴨神の黄昏」の最後のクライマックスでヴァルハラ城と神々とともに焼身自殺を遂げる気分かもしれない。
私を案内してくれたこの親切なハープ奏者は光栄にも、オーケストラの一員になったのだが、演奏するには怖い環境であると打ち明けた。後ろの低い段の人は、他の楽器の音は非常に聞きにくいですよと、彼女は言った。フォルティシモで音が集まると、すごい音になりうる。演奏者を見下ろす席に座り、一番高い出っ張りの真下にいる指揮者でさえ、調整しなければいけないと彼女は説明してくれた。指揮者に聞こえるおとではなく、すべての音がどう劇場に響き渡るかを感じ取ってバランスを取らなくてはいけない。
この調整をしない指揮者もいる。音楽祭の歴史の本で、フレデリック・シュポッツはゲオルク・ショルティの言葉を引用している。「音楽学校在学中に、何も聞こえなく、演奏者がまったく見えないところにいることになるかもしれないよと言っていたら、私は医者になっていただろう。」しかし、ショルティは大編成の、新鮮で、力強いオーケストラの音、とりわけワグナーを好んでいる。バイロイトのワグナーの曲は、しかるべき指揮者が選ばれれば、豊かで、暖かみのある、光り輝く、よく通る音を無理なく演奏される。
ドイツのトップクラスのオーケストラから選ばれた音楽祭の演奏者にも対抗手段がまったくないわけではない。誰も演奏者をみないから、バイロイトのピットでは毎晩がカジュアル・フライデイ(普段着の金曜日)である。
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